018 石鹸
風呂場は、風呂場と言っても石畳になっていて、大きな樽を半分に切ったような湯船があるだけだった。
風呂場で髪と髭をぬるま湯で洗っていく。
石けんを渡されて、久しぶりに使っていた。
石けんを使ったのはこの世界に来て初めてのことだ。
これまでは水洗い、良くて湯を使って洗うだけだった。
汚れは中々落ちきらず、髪がゴワゴワとした不快感に悩まされていた。
あの荒くれ者だらけの集団の中では、清潔にしていた方だろう。
逆に、そんなに清潔にするなんて女々しいとまで言われていたほどだ。
ちなみに、石けんで髪を洗うのは初めてのことだった。
「泡立ち、悪っ」
石けんは質が悪いのか泡立ちが悪く、何度か洗っても髪がゴワゴワとしたままだ。
風呂場には小さいながらも鏡があり、それに映る自分は一体幾つに見えるだろう。
この世界に来て何日たっているかを正確に覚えていない。
恐らくは、約二年としても自分は十七、八歳といったところだろうか。
元の世界にいたのなら、まだまだ学生生活を続けていただろう。
朝起きてはジョギングをして、日中はそれなりに真面目に授業を受け、放課後には楠灯に部活に来いと小言を言われて、時々喧嘩のようなことにもなって、それから帰ってからまたジョギングし、夕食は両親に加えて灯もいることが多く、食後にゲームやDVDを見て、その後は寝て、また朝が来る。
その繰り返しを続けていただろう。
今思えば、なんて平和で退屈な日常だっただろうか。
だが、絶望は無かった。
挫折も無かった。
葛藤も無かった。
いや、無かったと言えば嘘になるかもしれないが、この世界に来てからを考えれば無かったに等しい。
「十代には見えないかな……」
イーセイはそうつぶやき、傍らに置いた片刃のナイフを手にとって髭を剃り始める。
日本の高校生で、髭が濃いのは居ても、伸ばしているのはそうそう居ないだろう。
別に伸ばしたくて伸ばしたわけでもなく、ただ伸びたまま放置していただけであるが。
髭を整えると、ようやく十代の顔が見えてきた。
何もなければ、この顔で学校に通っていただろうか。
成績や進路を気にして、悩んでいたのだろうか。
部活のことで、灯と喧嘩をしていただろうか。
「もう過ぎたこと言ってもな」
といい加減にもしもを頭から振り払うようにゴワゴワの頭を掻きむしっていく。
とにかく、あの村から生還できて、そして地球からやってきたと思われる人間と出会えた。
つまりは、もとに世界に戻れるのかもしれない。
今の状況が好転するのかもしれない。
そう、事態は自分が思っている以上に良くなっているようなのだ。
できもしない『もし』もよりも、これからにかけるしかない。
しかし、今の今更になって元の世界に戻ったとして、日常を取り戻せるのだろうか。
再び学校に通えるのだろうか。
遅れた勉強を取り戻せるのだろうか。
あまり使っていない日本語を喋れるだろうか。
両親とはうまくやっていけるだろうか。
一度は断ち切られた友人達との関係を修復できるのだろうか。
灯とはどんな顔をして会えば良いだろうか。
自分が戻れる日常が待っているのだろうか。
過ぎたことは過ぎたことなのだが、これからどうなるのかに関して幾つもの事柄が頭に浮かんでは、あーでもないこーでもないと自問自答を繰り返していた。
「どうにかなるのかわからねぇな……」
そう、結局はどれほど頭の中で考えても、実際に戻ってみないと判らないのだ。
そして、そもそも戻れるのかどうかも判らない。
戻れたのとしても、この異世界に染まった自分は元の日常を取り戻せるのかわからない。
「本当に、あのおっさんは、何なのか……」
まずは話を聞くべきなのだろうが、あのクリストファーと名乗る男は目覚めたイーセイに対して、まずは身なりを整えろと服と石けんを渡してきた。
とりあえず、身なりを整えて話を聞くべきなのだろう。
一体、あの男は何者なのかも判らないが、おそらく傭兵団は壊滅した今となっては頼れる相手など彼以外には居なかった。
お湯を頭からかぶって、鏡を見ると、髪がべったりと自分にくっついた自分がいる。
「こっちも短くしよう」
とナイフを髪の毛に当てだした。
昨夜は目の前でダンが死に、エリカが死に、トマスが死んで、次にマリアが死んだ。
さらにその前にガルが死んだ。
その前にも後にも、大勢が死んだ。
団長がどうなったのかを彼は知らないが、おそらく死んでしまったのではないかと踏んでいる。
そもそも、生き残った傭兵など両の手の指で数えられる程度であろう。
気性は荒く、勝手なことばかり言う連中揃いだったが、自分を受け入れてくれた。
そんな彼らが壊滅した。
予想外のキメラの大群とあの謎のリンクアーマーの襲撃を受けてだ。
「本当に死んだのか……」
人の死はもっと劇的なものだと信じていた。
だが、実際に目の前で死んだというのに、随分と実感が無かった。
幾つもの思い出があるはずなのに、それらが一気に色あせていくことに焦りさえも感じない。
因果な商売をしていた以上、こうなる可能性を無意識に想定していたのだろうか。
なら、自分はなんて薄情で冷徹な人間なのだと思えるが、そうだとするなら、怒りを通り越して呆れてくる。
受け入れがたいが、反面、事実を受け入れている自分もいた。
もう二度と彼等に会うことは出来ないというのが、奇妙な不安をかき立てる。
これが喪失感というものだろうか。
そして、自分は運良く生き残った。
いや、運が良くても、本来なら間に合わずに、ランスに貫かれていた。
生き残ったのは自身の異常な能力あっての事ではあるが、その能力も実のところあまりよくわかってはいない。
「何もかも全然わからねぇ」
とイーセイは一度お湯を頭からかぶるのだった。
恐らくは生き残ったのは、自分だけだろう。
そのことに僅かながらの罪悪感を感じるのは、後ろめたさがあるからだ。
生きていることに罪悪感なんて抱く必要は無いと思いながらも、自分だけが生き残ってしまったことに戸惑いはある。
いつ死んでも可笑しくなかったし、絶望して、自ら命を絶つことも考えなかった訳ではない。
それでも、生きているのは、必死に生き続けてきたのは、何を思ってのことだろう。
本能。
理性。
欲望。
いずれか。
その答えは、なんとなくわかっていながらも、なんとなく判らない振りをして、自分をだまし、髪を短くしていった。




