017 閑話1
それは、かつての日々の一幕だった。
時間は夕暮れ時の高校での出来事だ。
あちこちから部活の声だしが聞こえ、音楽室がある方面からは吹奏楽部の練習中の曲が風に乗って聞こえてくる。
廊下を歩く人間は少なく、隣のクラスからは何か談笑しているような様子だった。
橘一生と楠灯はたった二人でクラスにいた。
橘一生は、本来は学ランを着るべきなのだが、そうではなくフリースを着ていて、その下には無地のTシャツを身につけている。
一方楠灯といえば、セーラー服を着ているが、短めのスカートにしているにも関わらず、その下には赤いジャージを履いていた。
時期は4月の終わりの頃の平日であり、両者がやや着崩しているとはいえ制服を着ているのも当然のことである。
「いい加減にさ、部活に来なさいよ」
楠灯の声には苛立ちがはっきりと現れていた。
昔から彼女は機嫌が悪いとすぐに表に出るのは知っている。
それは自分にも言えることではあるが。
「……もういいって言っているだろ」
「いい訳無いでしょ」
「俺なんかに構わずに自分のことに集中しろよ」
「判っているけど、そういうわけにもいかないでしょ。みんなも先生も心配しているんだから」
「だから、俺一人がこないだけでどうにかなるわけでもない」
「そうかもしれないけど。なら、理由を言いなさいよ。何? 怪我? 病気? 違うでしょ?」
「何でもいい。とにかく、行かない」
「何? 前の変な記録のことまだ引きずっているの? あんなのただの気のせいでしょ」
「本当にそう思っているのか? お前はさ」
橘一生はため息混じりに橘灯を見返す。
彼女は、整えられた黒い長い髪をしていて、陸上部の部活中はそれをポニーテールにしている。
それが風でたなびいていく様子を見るのは嫌いではないが、最近は部活に行くこともないために、見ていない。
「気のせい、じゃないかもしれない」
楠灯はここにきて、初めて目線を泳がせて、橘一生と目をそらした。
「でも、そんなこと起こるわけ無いでしょ。気のせいだって思うしかないじゃない」
「気のせいか」
本当に気のせいならどんなに良いことだろうか。
自分のみに起きた不可解な出来事は、すでに自分自身で確認している。
決して、気のせいなどではないのだ。
自分が狂っていない限り、気のせいではない。
自分が狂っているなら、異常がそれだけで済むというのならその方がいい。
だからこそ、異常な自分が全てから拒絶されるような怖さと痛みがある。
クラスメイトは受け入れないだろう。
部活仲間は受け入れないだろう。
教師は受け入れないだろう。
両親は受け入れないだろう。
幼なじみの楠灯は受け入れないだろう。
自分自身が受け入れられていない。
理解不可能な異能に、彼は躊躇して、これまで感じたことのない不安を抱いていた。
「いいから、来なさいよ」
そういって、楠灯は橘一生の腕をつかんだ。
それでも、橘一生は動かない。
だが、楠灯はそんなことを意にも介さずに引っ張り続け、腕をすり抜けフリースの袖をグイグイと引っ張っていく。
「お前、待て待て待て、伸びるだろ! 」
「どうでもいいから、部活に来なさい! ったくもー、駄々っ子じゃないんだから」
「とりあえず待て! 伸びるだろ! 」
フリースの袖を守るために橘一生は仕方なく楠灯について移動しだしていた。
その後、隙を見て逃げるのだが、そんな日が何度か続いた。
そう、橘一生が異世界に迷い込んでしまう前日まで。




