8.不意打ちの遭遇
とりあえず叫ばなかったことを褒めて欲しいと思った。
「え、お前、なんで」
「…………それはこっちの台詞ですけど!?」
我に返ったケティは呆然とするクルキースを睨みつける。
女子寮の周りに男子が近づくことは禁止されているし逆も然りだ。しかも消灯間近でもっとも監視の目が厳しくなっている時間帯に、彼がこんな場所にいる方がおかしい。
「なんでここにあんたがいるの?」
「俺は寝る前に体を動かさないと熟睡出来ないんだよ。っていうかお前こそこんなところにいていいのか?」
「どういう意味よ。あたしは女子なんだからいて当然でしょ。見つかったらまずいのはそっちじゃないの」
「何故だ。俺は男だぞ」
上手くかみ合わない会話に、お互い眉を寄せる。
至極当然と言った様子で堂々と立つクルキースだが、半裸な上に女子寮の裏ということもあって傍から見れば立派な変態だ。彼自身がまばゆいばかりの美貌を持っているからこそ余計にそれが際立っている。
「ちょっと待って。……あんた、ここどこか言ってみて」
「男子寮の裏庭だろう」
さらっと答えるクルキースの瞳には欠片も疑いが無い。ケティは頭を抱えそうになった。
寮は学校の敷地内に建っている。しかも男女ともに建物のデザインは同じで、ケティも何度か間違えそうになった。
しかしもう入学して数日が経っている。少なくとも自分の教室や寮への道のりはちゃんと覚えている生徒が大半だろう。
ケティの胸の中でひとつの可能性が浮かび上がる。
「ここ、女子寮だけど」
「……本当か?」
クルキースの声音が唖然としたものになった。
ちらりとケティがクルキースを見上げると、彼はわずかに気まずそうに目を逸らす。
「もしかして、方向音痴?」
「………………うるせえ」
不自然な沈黙の間が何よりの証拠だった。
月明りで青白く見えるはずの頬がしっかりと分かるほどに赤く染まっている。
「ねえ、あんた入学式サボったって言ってたけど本当は迷って」
「う、うう、うるせえっ! それ以上言うなよ!? 実際サボりたかったから別に支障はなかったからな!」
動揺しすぎて口調が若干幼くなっていた。
その焦り具合がなんだかおかしくて、ケティは笑いを堪えきれなかった。
「ふ……ふふ、あははは!」
「笑うんじゃねえよ……。くそ、お前といると調子が狂う……」
ぐしゃりと髪を乱したクルキースがその場に座りこむ。手にしていた木刀も放り投げて、片手で顔を覆った。
そうやって取り乱している様子を見ると、不思議と彼に反発している気持ちが薄れていくような気がした。軽蔑の情にしては随分と優しい。
胸の奥に生まれる感情を上手く消化できないケティに、不意に声が掛けられた。
「ケティ」
「なに? まさか一人で帰れないの?」
「…………流石にそこまで壊滅的な方向感覚はしてねえよ。お前、どうした? 何に悩んでる?」
「は……っ!?」
真っ直ぐに投げかけられた質問は、ケティの呼吸を一瞬止めた。
剣が上達せず焦る気持ちと、未熟故に妖精具であるレキントスを扱えない事実。それはケティの心に重くのしかかっている。
「お家再興」など後付けの理由で、実質クルキースに対する反抗心だけで飛び込んだ世界だ。他の生徒のように心構えも知識も何も持っていない。
日を追うごとに、他の生徒との差を見せつけられるたびに、彼女の引け目は強く浮かび上がってくる。
そんなケティの気持ちを知る者などいないはずなのに、クルキースは悩みの存在を指摘したのだ。
俯く彼女を見て、クルキースはわずかに目を見開く。次いで発せられたのはからかいが混じった声だ。
「図星かよ? お前悩みなんてなさそうなのに」
「な……っまさか、カマかけたっ!?」
「まあな」
悪びれもせずに言うクルキースに、ケティの視界が怒りで赤く染まる。
ぶつん、と頭の中で何かが擦り切れた音がした。
「まあお前はこの学校じゃ落ちこぼれだし、悩みの一つや二つ当然か。なんなら俺がそうだ――――」
彼の言葉は、乾いた音によって強制的に終了した。
「………………てい」
「はぁ……?」
「最ッ低!!」
叩きつけるような叫び声に、クルキースの目元がわずかに引きつる。
しかしケティはそんな彼の様子など見ることなく踵を返した。
悪質なからかいだ。クルキースの性格が決して良くないことは分かっていたし、それがケティの嫌う原因でもある。
なのに、あの一瞬ケティは揺れた。
(あんな風に、あんな真剣な声を出すからっ!)
大嫌いなクルキースに相談しようとしていた己に腹が立った。
もしあと少し彼の言葉が遅ければ、ケティは抱えていた悩みを吐き出していただろう。
出会った最初から、クルキースの声はケティにとって魔法であり毒だ。たかが声なのに、ケティはそれに翻弄されている。
腹立たしい。悔しい。情けない。
様々な感情がごっちゃになってしまって、唇から溢れ出るのは意味を成さない嗚咽だけだ。
「馬鹿……」
あまりにも弱々しい罵倒は、誰に聞かせるためのものでもない。
どうして外に出たのか、その目的すら忘れてケティは窓から垂れるロープを掴んだ。
***
「何してんだ俺は……」
ケティが去ったその場所で、クルキースは頭を抱える。
その頬にはしっかりと赤い紅葉が浮かんでいて、このまま寮へ戻ればルームメイトから三日はからかいのネタにされるだろうことが目に見えていた。
「嫌われてどうすんだよ……」
欲しい人間を手に入れるのに嫌われては台無しになる。それが分かっているのに、どうしてもクルキースはケティ相手に素直になれない。
今までそんなことなど一度もなかった。生まれながらに恵まれた地位にいた彼に、予想を裏切るような人間はいなかったのだ。
だからこそ、クルキースは予想通りに動かないケティに対する態度が分からない。
ケティを手に入れるだけの行動に、今まで抱いたことのない感情が存在していることにクルキースはまだ気づかなかった。