7.現実
「ミス・カイトス! もっと腰を落とせ!」
「うわぁ!」
教官の叱咤と共に振るわれた一撃に、ケティは持っていた木刀を弾かれて尻餅をついた。
「まったく、基礎も何も出来ていない。いくらこの学校の入学試験が才能頼りとはいえ、こうも最初から後れを取っているとこれからが危険だぞ」
「はい……」
トロイアナ騎士学校の時間割は午前に座学、午後は訓練になっている。今はその訓練の真っ最中だ。
教官相手に一太刀も浴びせられなかったケティは、下位クラスとして剣術を学んでいる。そもそも騎士を目指そうという者は多少なりとも剣の心得があるのだ。何も知らないのはケティだけだった。
それが悔しくて、歯がゆくて、情けない。
奥歯を噛みしめたケティはもう一度木刀を握りしめて立ち上がった。
「まだやってるよ。あいつ、そろそろ限界じゃねえの」
「下位クラスってだけでも情けないのにな。多分うちのクラスで最下位だろ」
心無いささやきは無視するに限る。しかしそれでも耳に入ってくる言葉は容赦なくケティの心を傷つけていった。
ケティのクラスは全員で二十人。うち下位クラスになったのは彼女を含めてたったの三人だけだ。プライドの高い貴族は、それだけでも屈辱だろう。
しかしケティは「普通の貴族」とは程遠い。少なくとも己の実力不足が原因になった結果を周囲に押し付けない程度に彼女は庶民的だった。
「…………そろそろ鐘が鳴る。今日はここまで!」
「あ、ありがとう、ございます……っ!」
ボロボロの体で一礼する。かくん、と膝から力が抜けた。
受け身すら取れないケティが顔面から地面に突っ込む覚悟をした次の瞬間、ふわりと彼女の身体を誰かが受け止めた。
「大丈夫ですか」
「ありがとう……」
見上げれば作り物めいた赤い瞳とかち合う。俯いているため零れ落ちてくる紅茶色の髪がケティの頬に当たって少しくすぐったい。
先程まで広場の端でぼーっとケティの訓練を見ていたはずのレキントスが、どうやって距離を一瞬で詰められたのかは謎だ。しかしそれを追求するだけの元気はケティには無い。
「…………とても、頑張りましたね」
「何、ボロボロって言いたいの? 仕方ないよ、あたし素人だし。御前試合で優勝するためにもやらなきゃ」
「いえ、比喩でも皮肉でもなく。貴方は本当に頑張っていらっしゃる」
ぱちくりと瞬きをしたケティに、レキントスはそっと彼女の手を取った。
元々水仕事やら針仕事やらで綺麗とは言えなかった手は、木刀を握り始めたことで痛々しくなっている。マメが潰れて痕になっているため、握った感触も固い。
それでもレキントスはそんな彼女の手をまるで宝石か何かのように丁寧な所作で触れた。
「レ、レキントス?」
「貴女は入学してからずっと剣を振っている。僕ではない剣を。それは何故ですか?」
「それは、そんなの、ちゃんと剣術を身につけないと、妖精具を振るえないからに決まってるでしょ」
「…………では、マスターは僕を振るうために頑張っていると?」
「当たり前なこと聞かないでよ……妖精具の扱えない妖精騎士なんていないんだから。それに妖精騎士に強さは必要って教官も言ってたし」
民を守れるほどに強く在れ。
それが妖精騎士の存在意義で、責務だ。魔獣を倒して民衆を守ることが可能なのは、魔獣と同じかそれ以上に強力な妖精だけなのだから。
ケティの言葉をどう捉えたのか、レキントスは珍しく目を丸くした。
何か言おうとしていたらしい彼の唇は薄く開かれたままで、その色気を含んだ唇を見ているだけでケティもなんだか恥ずかしくなってしまう。
「あ、あのレキン――――」
「も、申し訳ございません……っ少々お傍を離れます……」
口を開こうとしたケティを制するかのように、レキントスがそっと後退する。まだ力が入らず地面に座りこむ羽目になったケティがぽかんとした表情で彼を見上げるが、腕で顔を隠してしまったため顔すら見えなかった。
一歩、二歩。三歩目を後ろ向きに踏み出したかと思いきや、レキントスは踵を返して一瞬で走り去っていってしまう。
「…………?」
まだ熱の残る頬をそのままに、ケティは首を傾げた。
彼女は知らない。
既に背中すら見えなくなってしまった彼の耳が、じんわりと赤くなっていたことを。
***
レキントスは夜になっても戻ってこなかった。
「…………おかしい!」
「夕食のときもいなかったからね。一体何があったんだい?」
机に向かって課題を片付けながらユーハレーラが尋ねる。あまり興味なさそうな様子だが、その声音はケティを気遣い心配するものだ。
そんなユーハレーラの質問に、ケティも課題をしながら思考を巡らせる。
考えつく可能性としては「怒らせた」が一番簡単だが、少なくともケティには彼を怒らせるような言動をしたつもりは毛頭ない。
次に思いつくのは「失望」だ。いつまでたってもケティの剣の腕が上達せず、妖精具を振るうことが出来ない。レキントスからしてみれば己を使ってもらえない、駄目な所有者だ。
「…………やっぱり、あたしよりも……」
元の持ち主であるクルキースの方が魅力的なんじゃないの。
出かけた言葉は無理矢理呑み込んだ。それを言ってしまうともう立ち直れなくなりそうだった。
彼の手合わせを見たわけではないが、上位クラスにいるのだから相応の実力を持っているのだろう。レキントスだってそれを知っているはずだ。持ち主を比べてしまうのは当然だろう。
そんなケティの様子を見かねたのか、ユーハレーラは無言で彼女の課題を取り上げた。
「え? ユラ、何するの」
「探しておいで」
「え、でも……もう、時間だって遅いのに」
消灯まであと一時間程度しかない。湯浴みすら済ませている。課題が終われば寝る気満々だったケティの前で、ユーハレーラはわずかに苛立った表情を浮かべて仁王立ちだ。
美人が怖い顔をすると威力が増すのは男女も貴賤も関係ないらしい。半ば現実逃避のようにケティは幼馴染みのカインを思い出した。あいつも怒ったら怖かったなあ、とぼんやり考えているうちにユーハレーラは窓の鍵を開け、ケティを窓の傍まで引っ張っていく。
「窓は開けておくから。消灯のときはなんとか誤魔化す。気が済むまで探しておいで」
「……わかった。ありがとう、ユラ」
「礼には及ばないよ。私はケティが沈んだ顔をしているのが見ていられないだけだから」
あまりに男前な返答に少しときめきながら、ケティは窓枠からロープを垂らして外に出た。
女子寮の裏手は短い草が生えそろっていて足跡もつかない。青白い月の光が煌々と足元を照らしているため視界もそれほど悪くなかった。
(田舎育ちがこんなとこで役に立つとはね)
自然に囲まれた故郷を思い出して目を細める。
森が多く、月明りも太陽の光も少し歩けばすぐに薄れてしまうようなド田舎だった。そんな場所で生まれ育ったせいか彼女の感覚は常人よりもいくらか優れている。
だからだろうか、風を切る音をケティの耳は拾った。
(な、何? 魔獣……ってそんなわけないか。学校は結界が張られてるし、教官たちもいるんだから)
おそるおそる歩を進める。ひゅん、ひゅん、と規則的に聞こえるそれは最近よく耳にする剣を振る音に酷似していた。
ただしここは女子寮のすぐ近くで、もう消灯前ということで出歩くような生徒はいない。ケティは自分を棚に上げて眉を寄せる。
ひゅんっとより大きく音が聞こえた。どうやら音の主は本当に女子寮の裏庭で素振りをしているらしい。
意を決したケティは大きく一歩を踏み出した。
月明りが眩しいほど降り注ぐ空間の中央で、長身の影が剣を振っている。気配に気づいたのか人影が振り返って、逆光になっていた人物の顔がはっきりと視界に映った。
そこにいたのは――――
「え……?」
「…………は?」
上半身裸で、木刀を握りしめて、クルキースが驚きに満ちた顔で立ち尽くしていた。