3.お見合い話
パーティーから三日後。カイトス家に父親の絶叫が轟いた。
「ケティ! ケティやったぞ!」
見たことのない父親の興奮っぷりに内心うんざりしながら、ケティは今日も勝ち取って来た卵をテーブルに置いた。
「どうしたの?」
「ケティ、これで我がカイトス家は安泰だ!」
目を輝かせた両親に、ケティの背中には嫌な汗が浮かぶ。
父親の手に握られている便箋は薄い黄色で、鮮やかな青色の封蝋がとても目を引いた。その色彩が、先日のクルキースを連想させる。
彼女の胸の奥で、あの日に感じたむずむずした感覚とわずかに残る恐怖が再び掘り起こされた。
「やったわね貴方! 今夜はごちそうかしら!」
「そうだな! 愛娘の輝かしい未来を祝おう! 奮発するか!」
「きゃーっいいわねぇ!」
両親のテンションについて行けない。元々仲の良い夫婦が今は新婚のようにはしゃいで踊りだしそうになっている姿は、娘のケティにはどうにも受け入れがたい光景だった。無邪気で年の割に胆の据わったユシルですら反応に困った顔をしているくらいだ。近所に声が聞こえているのではないだろうか。
仮にも貴族であるカイトス家を左右する出来事など案外少ないものだ。ケティはいくつかの可能性を思い浮かべて、ごくりと喉を鳴らした。
複雑な思いを抱える彼女などお構いなしに、父親はにこにこと爆弾を落とす。
「アデスリヒト公爵家とのお見合い話が通ったぞ! 明日、早速あちらに行くからなっ!!」
それはおそらくケティが真っ先に考えて――――もっとも可能性として大きく、影響も大きいが――――無意識に忌避していた話であった。
(嘘……!?)
アデスリヒト公爵家などカイトス家からすればまさに天と地ほどの差がある。それは格式という意味でも、財力という意味でも。
それなのに何故お見合い話が通るのか。ケティの脳内で、先日のことが一瞬ちらついた。
『お前、俺のものになれ』
低く甘い、クルキースの囁きがケティの背中を撫でる。
手首を掴んでいた彼の大きな手の感触がよみがえってくる。
ぶわっと胸に沸き上がって来た感覚は大きすぎて、ケティはそれに溺れるしかない。ぐらぐらと視界が揺れる。
世間はとても厳しいのだと、ケティは遠くなる意識の片隅でぼんやりと認識した。
***
パーティーのときよりも気合を入れて着飾り、ケティは公爵家の門をくぐった。
「ようこそいらっしゃいましたケティ=カイトス様。クルキース様がお待ちです」
「あ、はい……」
出迎えの執事に案内され、開かれたドアの最奥。
上等なソファに座り立てた膝の上で行儀悪く本を読む青年が、ちらりとケティに目を向けた。
「クルキース様。カイトス嬢をお連れいたしました」
「ん、ご苦労。下がっていいぞ」
一礼した執事をケティはぼんやりと見送る。ちなみにカイトス家には執事はおろか使用人すらいない。
はっと気づいたときにはケティのすぐそばにクルキースがやって来ていた。
「あっ! あの、その、本日はお招きいただきありがとうございます!」
「そんなに固くならなくてもいいぞ?」
「え、あ、ち、近いですっ!?」
ソファに腰掛けたケティの隣に腰を下ろしてクルキースが微笑む。肩が触れ合ってしまいそうな距離に動揺して後ずさるが、ソファの上では逃げられる距離などささやかだ。
逃げ腰のケティをあっという間に捕まえたクルキースは、長い指先を彼女の髪に絡めてそっと唇を這わせた。
絶世の美男子が己の髪に触れている。その事実にケティの頭は沸騰してしまいそうだ。
「あ、あの、あの……クルキース様?」
「うん? なんだ、ケティ」
「ひうっ!?」
極上の蜂蜜のように蕩けた声が、彼女の名前を紡ぐ。全身に甘い毒を流し込まれたかのように意識が高揚した。未知の感覚に身悶えするケティを眺めて、クルキースはくすくすと堪えきれないように笑い声を漏らす。
「どうした、ケティ?」
「え、あう、なんでっ名前……」
「お前が呼べと言ったんだろう? 俺はお前の我がままを聞いただけだ」
「でもっ」
あの時は敬称がついていた。なのに今呼ばれているのは敬称なしの彼女の名前だけだ。これではまるで――――
「こ、恋人みたいじゃないですかっ! 前と違います……っ」
「なんでだ? お前は俺に求愛したじゃないか」
「はぁっ!?」
全ての感情がケティからすっぽ抜ける。驚きで動揺も高揚も消えた。
しかしクルキースはそんな彼女の驚きが理解できず、ただ不可解そうに首を傾げる。
「男に対して名前で呼べ、なんて求愛の常套手段だろう。流石にこの俺にいきなり仕掛けてくる女は初めてだったからな。興味が湧いたんだ」
「な、な、な……っ」
「お前は俺に求愛して、俺はそれに応えてる。だからこんなお見合い話が通ったんだ」
トロイアナ王国の貴族女性の間では名前は立派な道具となる。初対面の男に軽々しく名前を呼ばせないのは常識で、彼女たちは意中の男性にアピールするために名前呼びを求めるのだ。故に家族以外の男性に名前を呼び捨てにされるのは特別な関係であるという何よりの証でもある。
知らなかった事実を教えられたケティの顔色は悪い。軽率になんてことをしてしまったのだろう!
「そんな、あたし、知らなくて」
「知らないからってもう言ってしまったものは戻らない。……まあ、悪い話じゃないだろう?」
「え?」
「アデスリヒト公爵家子息と結婚。そうなればお前の父親は貴族の間で高い地位を得られる。お前だって贅沢で不自由のない生活が約束されるからな」
そう告げるクルキースの目は妙に冷めていた。純度の高い青玉のようだと思っていた瞳は、今は底知れぬ深い海のように暗く感情が読み取れない。
しかしそれよりも、乾ききった口調で落とされた言葉がケティの癇に障った。
「…………あたしが、貧乏で不自由な生活をしてるみたいな言い方止めてくれますか?」
「事実だろ」
「確かに我が家は公爵家に比べたらお金はありません。でも不自由だなんて決めつけられるのは嫌です!」
不自由なんかじゃない。少し不便だと思うことも苦しいと思うこともあるが、それだって大切な思い出のひとつだ。
そう考えるケティに、まるで意味が分からないとクルキースは怪訝そうに眉を寄せる。
「俺と結婚したらお前は何でも好きなものが買えるんだぞ? 毛皮も宝石も綺麗なドレスだって思いのままだ。女はそういったものが好きだろう」
「それが何だっていうんですか。あたしはそんなもの欲しくありません」
「…………本当に、お前は俺の予想をすぐに上回る女だな。ますます面白い」
呆れた、というよりも正体不明の生物を見るような目でクルキースはケティを見た。不躾で好奇心に満ちた視線に、今度は彼女が眉を寄せる番だった。
既にケティの中に彼に抱いていた恐怖も甘く響く感覚も無い。あるのは「馬鹿にされている」という確証と怒りだ。
その感情に突き動かされるまま、ケティは叫んだ。
「あたしは貴方に求愛したつもりはありません。貴方みたいに女を馬鹿にしたような人とお見合いなんて御免です!」