16.男たちの水面下
ケティ出てきません。
月が中天にかかり、既に起きているものなどいない時刻。
煌々と照らす月明かりの下で、二つのうごめく影が対峙していた。
「お前、俺が言ったことを忘れたのか?」
「いいえ、忘れてなどおりませんよ」
苛立った様子を隠そうともせずに吐き捨てるのはクルキースで、それを穏やかな顔で受け流したのはレキントスだった。
呼び出したほうこそクルキースであったが、表情を見ている限り完全にどちらが優位か明白だろう。それをクルキース自身自覚している。
「なんならこの場でそらんじて見せましょうか。『勘違いするな。お前は道具で、持ち主が少し変わっているだけだ。少し人間と同じ扱いをされただけで思い上がるなよ』……間違っているでしょうか」
「……てめえ」
じろりと碧眼がレキントスを睨みつける。秋空を写し取ったような爽やかなブルーは、今は炎に絡みつかれて彩度を落としているようだ。
並大抵の人間なら二目と見ることの出来ない形相を、レキントスは平然と見返している。その余裕のある顔がさらにクルキースを煽っているのだが、気づいた様子はない。
震える拳をクルキースは残った理性で必死に押さえつけた。
己を御することは、権謀術数の渦巻く貴族社会で最低限身につけなくてはならない技術のひとつでもある。しかしそれが出来ない少女をふと思い出して、ほんの少しクルキースの体から怒りが消えた。
不思議だった。ここに彼女がいるわけでもないというのに、姿を思い出すだけで少し気分が晴れやかになるのだから。
「じゃあ、なんでケティに近づくんだ」
「仰っている意味が分かりません。僕はあの方のものです。契約まで結んでいるのですから、近くにお控えしていてもおかしくないのでは」
「そういうことじゃねえよ! お前、あいつを抱きしめていただろうが……!」
「見ていらしたのですか……」
軽く目を見開くレキントス。それすら今の彼には感情を逆撫でする道具にしかならない。
彼が二人の姿を見たのは本当に偶然だった。ケティをユーハレーラに連れて行かれて、友人に引っ張られて街に繰り出したクルキースが目を盗んで一人になったときに、目に飛び込んできたのだ。
腹立たしかった。ケティの腕が、指が、体が、レキントスに触れてしっかりと合わさっていく姿を見せつけられ、クルキースの心には黒い淀みが溜まっている。
がり、と噛んだ唇からは血の味がした。
「見たくて見たんじゃねえよ! あいつに、ケティに触れるな! あいつは俺のものだ……っ」
「失礼ですが」
感情のままに叫ぶクルキースに、想像を絶する冷ややかな声が降り注ぐ。
少しの距離を置いて立っていたはずのレキントスが、いつの間にか手を持ち上げるだけで届くほどに近くで佇んでいた。ぎょっとして思わず体をのけぞらせたクルキースだったが、がっちりと腕を掴まれて後退することも出来ない。
血を凍らせたような、冷たく暗い赤の瞳が彼を射抜いた。
「マスターは貴方のものではございません。それは貴方が一方的にわめいているだけであって、マスターは一度たりとも了承しておりません」
眉を寄せ、不快感をおおっぴらに出しながらレキントスはクルキースから離れた。いかにも不愉快なものを触ってしまったといわんばかりの動作だが、それを咎め怒るだけの余裕はクルキースから失われてしまっている。
クルキースは頭から冷水を浴びせられたような心地になっていた。
レキントスの言っていることは正しい。というより、今までクルキースの言葉にケティが反論してこなかったことが何回あるだろうか。
思い出せる彼女の表情は、大半が怒りや羞恥、呆れ、驚嘆ばかりで、彼女の笑顔などほとんど見た記憶がない。泣かせてしまったことすらある。
従順なだけの令嬢たちとは違うと、そう確信したからこそクルキースはケティに興味を惹かれたのだ。最初は彼女がどんな顔をしていようとも構わなかった。そこから生まれる反応そのものがクルキースに驚きと新鮮味を与えていたのだから。
しかしそれが、「泣いてほしくない」と考え出したのはいつだっただろう?
ただの「玩具」と同じように思っていたはずなのに、クルキースの抱える欲望は明らかに彼の言う「もの」の域を超えていた。
それに気づいて、そして言葉の意味に気づく。一瞬で頭が冷えた。
「…………そうだったな」
「はい。貴方の言っていることは子供の我がままと同じく幼稚で、とても見苦しいです。ですので」
そこまで言って、レキントスは躊躇うように口を閉ざす。
言葉にしていいものか、束の間迷った。それは明らかにクルキースの背中を押してしまうだろうから。
不審げに首を傾げる彼に、それでもレキントスは腹を括った。
「気持ちをちゃんと整理してください。貴方はマスターに特別な感情を抱いているでしょう」
それは奇しくもクルキース自身が発した言葉と同じ。
「貴方も僕と同じです。マスターに己以外が触れるのが我慢ならない。それを……独占欲と、呼んでいましたね」
「ああ……そうだな。俺は、あいつを泣かせたくないだけじゃ、ねえな」
ぼそぼそと呟くクルキースに、いつもの自信や覇気といったものはない。
大貴族という皮を剝いでしまえば、彼とてただの男だ。特に恋愛などどの貴族だって経験していないだろう。恋愛結婚より政略結婚のほうがはるかに多い世界なのだから。
(俺は、馬鹿か? 俺はあいつに何をしてやりたかった?)
目を閉じればケティの顔が浮かぶ。
剣を振るい、歯を食いしばって悔しげに顔を歪める姿がとても印象的だった。
レキントスに向けられる笑顔をこちらにも欲しいと強く願った。
自分が選んだ服を着てもらいたかった。
なにより、泣いてほしくなかった。
「俺のものになれ」なんて言葉で「誤魔化し続けていた」気持ちは一体何だというのだろう。
とっくに彼女へ抱いていた気持ちは、最初の頃とは違うものに変わっていたというのに。
「…………僕は、貴方が言っていたことを守ることはもう止めます」
「は?」
「僕も自分に……心というものがあるのだと、分かりました。貴方が言うように、僕がマスターに特別な感情を抱いていることは認めます。しかし、それを押し殺すことはもうしないことにします」
「は、お前何を言って……?」
「僕はマスターの道具です。そして共に戦っていく戦友でもあります。そう、仰っていただけました」
「……自慢か?」
真正面から正反対の色をした瞳がぶつかり合う。
レキントスの深紅の眼はわずかな優越感に輝いていて、それがクルキースの辛うじて保っていた良心とか理性とかそういった部類のものをあっさり捻じ切った。
むき出しになった衝動は、ふたりとも同じ。
「お前に、道具風情にあいつを渡すかよ。……俺は、ケティが好きだ。あいつは……俺のものにする」
「……僕はマスターの幸せを願っております。ですが、誰にも渡したくありません」
言葉にしてしまえば、驚くほどすんなり腹の中に気持ちが収まる。
獣じみた衝動と、くすぐったくなりそうな優しさが同居した不思議な感覚だった。
これをケティにぶつけることは怖くもあったが、どんな反応をされるのか興味もあって。しかしそれを伝えるためにはまず目の前にいる恋敵をなんとかしなくてはならない。
クルキースの心が騒いで、自然と口角が持ち上がった。それはレキントスも同じなのか、感情の見えない鉄面皮が少しだけ崩れて笑みのようなものを形作っていた。
ただし声音だけはどちらも恐ろしいほどに静かで、しかし奥底に隠された感情は煮えたぎっている。
お互いに抱えている気持ちは酷似していた。
ただそれがわずかに歪んで合致していることに、まだクルキースは気づけなかった。