14.感情のままに
上質な布の上に鎮座するレイピアは、そうやって飾られていることが一番正しいのではないかと勘違いしてしまいそうなほど様になっていた。
(あたしが、無暗に突っ込もうとしたから)
あのとき魔獣を追いかけなければ、クルキースに迷惑をかけることもレキントスが庇うこともなかった。
幸いレキントスは壊れていなかったが、いくら神経を尖らせても妖精具からは気配が感じられない。
「……まだそんな場所にいるのか」
「ほっといてよ。あたしの武器を心配して何が悪い」
「なんでお前は俺に対してそんなに可愛くねえんだよ。俺何もしてないぞ? ……もう門限が近い。帰るぞ」
妖精具の修復に使用されている小部屋は窓が無いため時間の感覚が麻痺しやすい。
部屋に充満しているケティの魔力を感じ取っているのか、クルキースは入口から動こうとしなかった。魔力の質が異なるものが介入して修復の経過を遅くしてしまうことを危惧しているのだろう。
その些細な気遣いに、ケティは今はまだ気づけない。
「あたしのせいで、レキントスはこうなった。なら、直るまでここにいる」
「……そいつは道具だ。打てる手は打ったし、もうお前が出来ることなんて無いぞ」
「でもこのままレキントスを置いて行けないよ!」
「なんで道具にそこまでこだわるんだよ」
ぞっとするほど冷たい声に、ケティはようやく彼を真正面から見た。
対峙するクルキースは何の表情も浮かんでいない。
青い瞳に射抜かれたケティの胸に、言いようのない感情が広がっていく。
「……あんたと違って、あたしはレキントスしかいないの。代わりなんていないんだよ……っ」
「そうやっていちいち道具が壊れたら嘆き悲しむのか? しないだろ? 妖精具だって同じだぞ」
「悲しむに決まってんでしょうがこのクソ坊ちゃんが!」
せせら笑うかのようなクルキースに、ケティは目をひん剥いて絶叫した。
公爵家の彼には分からない。ケティの家では日々の道具ひとつひとつが大切な資産だったのだ。
鍋やフライパンはどれだけ丁寧に手入れしても劣化して、箒や雑巾は手作りだからかすぐに使えなくなる。そのたびにケティの母親は彼女の頭を撫でて、礼を言って処分してきた。
全部同じだ。道具の価値で、抱く気持ちは変わらない。
それでも、妖精具だけは。レキントスだけは、ケティにとって特別な意味を持つ。
「…………レキントスは、あたしにとって道具じゃない。一緒に戦う戦友なんだ、壊れてほしくないんだよ」
視界が歪んでいく。声が震えそうになっていた。
ケティの緋色の瞳に、薄く涙の膜が揺れる。彼女の眼はおそらく本人が思っている以上に雄弁で、なにより美しい。
満足にレキントスを扱えていない。課題はたくさんあって、それでも成長していくことが楽しくて。
あまりにも順調に事が進みすぎたから、油断していた。驕っていたのだ。
戦って、あわよくば誰かの役に立てるかもしれない、なんて。
ケティの白い頬に、いくつもの透明な雫が軌跡を描く。
それを見て、クルキースは目を丸くしたまま彼女を凝視した。
気丈で、可愛げのない彼女が泣いている。
ただそれだけなのに、クルキースの心には靄がかかり始めた。
「……俺には道具としか思えねえが」
嘆息交じりの言葉。いつならそれに反論するのに、そんな元気が湧いてこない。
黙って唇を噛み、クルキースに背を向けようとしたケティは、勢いよく後ろへ引っ張られてバランスを崩した。
「な……っ!?」
感じたのは冷たい床や壁の硬い感触ではなく、ただひたすらに暖かい人の温もり。
ケティは自分の腹を見下ろして、そこに腕が巻き付いているのを理解した。
ことんとケティの頬に柔らかな髪が触れ、頬を寄せられていることに気づく。
「な、は、離し……っ」
「お前が」
耳元で囁かれて、ケティの背筋が粟立った。
彼女にとっての魔法の声。煮詰めた砂糖のように甘く、ケティを捉えて離さない。
息を呑むケティに、クルキースはほんの少し苦いものを含んだ声で呟いた。
「お前が泣いているのは、なぜか見たくねえんだよ」
いつもの彼に対する嫌悪感も反抗心もどこかに置いてきてしまったのだろう。
促されるような優しい声に、もう一度ケティの頬を透明な粒が滑り落ちていった。
***
「お前はいつまでそうやって寝ているつもりだ?」
相手を従わせることを目的とした声に叩き起こされて、彼は意識を浮上させた。
「起きろ、道具風情が」
暴言だ。こんな言葉で起きるのなら、彼にとって大切な人の声で目覚めたい。
そう思ってもう一度眠りにつこうとするが、それは叶わず大きな衝撃が彼を襲った。
「何をするんですか」
「道具が俺を無視しようとするからだろうが」
苛立った様子のクルキースがいつもの五割増しの渋面でレキントスを睨みつける。
教室に人気はない。かすかに外から喧騒が聞こえてくるため、おそらく訓練の時間だ。
レキントスを襲った衝撃の犯人は間違いなくクルキース。彼がレキントスの本体であるレイピアを無造作に机の上に放り出したせいだった。
「妖精騎士を目指そうという御方が妖精具を乱暴に扱ってもよろしいのですか」
「じゃあその妖精騎士に使われる妖精具が職務を放棄してて良いのか」
「…………」
「魔力の供給も済んで、修理もしてもらった。なのにお前はあいつの呼びかけに応えることなく寝てるのか」
クルキースの返しにレキントスは思わず沈黙してうつむく。
魔獣の攻撃が当たって人の形を保てなくなってしまった彼は、そのまま眠りについたのだ。武器に宿る妖精は、覚醒していなければ気配を断つことが出来る。魔力の消費を少しでも減らすために必要な措置だったが、それを彼の持ち主たるケティは知らなかった。
「あいつがどれだけ心配していたか、見物だったぞ。たかが道具にあれほど情を注ぐ奴もそういないだろうな」
「……マスターが……?」
「自分が無防備に突っ込んでいかなければこうはならなかった。そう言ってずっと自分を責めている」
棄てられると思っていた。
何を言っても彼は道具で、壊れた道具は、古くなった物は捨てられるのが運命だ。特に貴族はそういった傾向が強い。
妖精具は廃棄が許されないものではあったが、使用に関しては自由だ。もうケティはレキントスを見限って他の妖精具を使っているのではないかと思っていた。
今目の前にいるクルキースのように。
「契約が結ばれてることくらい分かってるだろ。それともそれすら分からないくらい鈍ったか?」
「そんなことありません」
思わず声に悔しさが滲んだ。
レキントスは意識を辿る。不可視の糸で繋がり注ぎ込まれてくるケティの魔力を感じて、ほんの少しだけ頬が緩んだ。
感じる。ケティの、陽だまりのような愛おしい魔力だ。
「……どうしてお前はそんな顔をしてるんだ?」
唐突に投げかけられた質問にレキントスの眉が寄る。対してクルキースの表情は本当に不思議そうだ。
クルキースの手がレキントスに伸びてくる。触れられる、と認識した瞬間彼はクルキースの手を払っていた。
それに動揺したのは他でもない、レキントス自身。
「……道具のくせに、他人に触られるのがそんなに嫌か? かつての持ち主でも」
「今の所有者は……貴方ではない。マスターの許可なく触るのは、無礼ではないでしょうか」
「元々は俺の家の持ち物だぞ」
「契約を結べば、所有者の財産になります。それは貴方もよく知っているでしょう、クルキース様」
「ああ、知ってる」
クルキースの表情が余裕を湛えたままなのに対して、レキントスの表情は硬い。傍から見ればいつもと変わらない無表情にしか見えないが、付き合いの長いクルキースには彼が緊張に強張った顔をしていることが分かった。
それを見て、クルキースの唇に冷笑が浮かぶ。
「まさかお前、あいつに特別な感情を抱いてるんじゃないのか?」
頭を鈍器で殴られたようだった。
目を限界まで見開いて、レキントスはクルキースを凝視する。
「…………そんなことは」
「無いとは言えねえだろ。実際、お前ケティ以外に触られたくねえんだろ? 立派な独占欲だ」
「違います。ただ、僕は……誠心誠意、お仕えしたいと思う、だけです」
「本当にそれだけか?」
クルキースの言葉が礫のようにレキントスを打つ。
己の中で、何かが蓋を少しずつ開けていくような、底知れない恐怖が彼を襲った。それは長くアデスリヒト家で妖精具として使われていたときには感じなかった、人間に対する感情のひとつ。
彼女の手で武器として扱われることは喜びであり、彼の存在理由でもある。
ただ、ケティは「戦友」と言ってくれた。あれほど「道具」であることに拘っていたのに、それをあっさり飛び越えていった彼女に何の不快感も無い。
この感情が何か分からない。
己は持ち主に対して何を抱いている?
動揺するレキントスに、容赦なくクルキースは言葉を浴びせていく。
「勘違いするな。お前は道具で、持ち主が少し変わっているだけだ。少し人間と同じ扱いをされただけで思い上がるなよ」
氷を飲み込んだように体が冷たくなる。それはかつての持ち主という引け目を除いても強制力に満ちていた。
レキントスの目がわずかに細まって、クルキースと視線が絡まる。
「……分かっています」
これほど人間の言葉に応えたくないと思ったのは初めてだった。ただ、それを表には出さない。出す方法を彼は知らなかった。
クルキースはひとつ満足そうに頷く。
「言ったな。なら、さっさとあいつの呼びかけに応えろ。それが道具としての務めだ」
「その前におひとつお聞きします。何故貴方はマスターの協力をするのですか。……自分のものにしたい、というのなら貴方には他の方法がいくらでもあるのでは?」
思わぬ反撃を食らったかのようにクルキースがぱちりと瞬く。
その間抜けな顔にレキントスの胸の辺りがスッとしたがそれはおくびにも出さず、ただじっと彼を見据えて待つ。
長い沈黙のあと、クルキースはぽつりと呟いた。
「俺は……ケティの泣いた顔を見たくねえだけなんだよ」
その欲求だけがはっきりと彼が認識出来るただ一つのもの。
脳裏に浮かぶのは、嗚咽ひとつ漏らさずに静かに泣くケティの姿。
もう彼女のあんな顔は見たくないと、心の底で何かが叫んでいたのだ。
目を伏せてひとりごちる彼を、レキントスはただじっと眺めていた。