10.公爵、対面
アデスリヒト公爵家は、初等学校の教本にも載っている歴史ある貴族のひとつだ。
トロイアナ王国が建国されたとき、アデスリヒト家を含んで五つの家が存在していたという。それらは王国のために尽くし、最初の貴族として歴史に名を残している――――はずだった。
しかし現在残っている資料の中で、建国当時から存在すると証拠があるのはアデスリヒト公爵家のみ。
不思議なことに、四つの家は影すらなく失われてしまっているのだ。
故にアデスリヒト公爵家はその屋敷もはるか昔を感じさせる風格を備えていた。
「お待ちしておりました、ケティ=カイトス様」
優雅に一礼する執事につられてケティも頭を下げる。
そんな彼女に執事はほんの一瞬だけ目を丸くして、すぐに業務用の笑みを貼りつけた。
「旦那様がお部屋でお待ちです。こちらへ」
「はい。あの……レキントスは」
「…………そちらの男性は、妖精具ですね。では同行を許可します。申し訳ありませんがクルキース様は別室へ」
「分かってる」
クルキースの返事に、ケティはうすら寒いものを覚える。
会話としてあるべきはずのものが一切感じられない。感情や意味というものが欠落したような声音は、少し前まで会話していたケティが一度も聞いたことのないものだった。
急に彼がまったく知らない人間に思えて、ケティはまじまじとクルキースを凝視してしまう。
「なんだ? 俺と離れるのが寂しいのか? 可愛いな」
「な……っば、馬鹿じゃないの! 誰が、いつ、寂しいって!?」
いつものように噛みついたところで、ここがどこか思い出してケティは慌てて口を閉じる。
ちらりとクルキースを窺うが、既に彼は彼女に背を向けて歩き出していた。
「ではカイトス嬢。こちらでございます」
先程の二人のやり取りにも動じず、執事はケティの荷物を持つとゆっくり歩を進める。
それについて行きながら、ケティはきょろきょろと周りを見渡してしまう。
意外なことに、スケールこそ違うが内装はカイトス家の屋敷とそれほど変わらなかった。ただ、あくまで目に見える範囲での話だ。おそらく材質は桁違いだろう。
そんな風に考えていたため、ケティは前の執事が足を止めたことに気づかなかった。レキントスが咄嗟に肩を引いてくれたことで、なんとかケティは無様を晒さずに立つ。
「旦那様。カイトス嬢をお連れいたしました」
白鳥の彫刻が施された大きなドアをノックした執事がそう声をかける。返事はケティには聞こえなかったが、どうやら許可が下りたらしい。
ギイ、と少し軋んだ音を立ててドアが開かれた。太陽の向きだろうか、部屋が廊下よりも明るい。
導かれるように部屋の中に入ると、後ろでドアがいきなり閉ざされた。はっとしてケティが振り返るも物音ひとつ聞こえない。
「大丈夫だ。少し人払いはしたけれど、君に危害を加えるようなことはしない」
落ち着いた声がケティの鼓膜を震わせる。クルキースよりも幾らか低く、人生の経験がそのまま声になっているかのような、聞く者の背筋を知らず正させる威圧感を含んでいた。
窓際で豪奢な椅子に座り、ひじ掛けにもたれながらケティを真っ直ぐに見つめている男性が穏やかに微笑む。
「待っていたよ、カイトス嬢」
人並み外れた容姿を持つクルキースの父親らしく、彼もまた相当に優れた美貌の持ち主だった。長めに整えられた金髪はクルキースのものよりもやや暗く、切れ長の瞳は秋の青空ではなく夕暮れ寸前の紫がかった藍色だ。ケティの父親とそれほど年齢は離れていないはずなのに妙に若々しく見える。
クルキースの父親――――つまりアデスリヒト公爵だ。
(あれ……?)
何かがケティの心に引っかかる。
しかしそれは雨の一滴のようにすぐに他の思考に溶けて消えた。
***
公爵はケティの話を聞きたがった。
だからケティも、つられるように学校での生活を次々と話していく。
外観も内装も豪華すぎて学校とは思えなかったこと。食堂の食事が家のものよりも豪華でたくさんあったこと。ルームメイトのユーハレーラが妖精騎士の名門の娘だったこと。そして自分の実力がまだ妖精具を扱うには未熟すぎること。
最後には自虐になっていた彼女の話を、公爵は紅茶のカップを傾けながら静かに聞いていた。
「学校生活は楽しいかい?」
「はい。学校に通ったこともありましたけど、貴族がたくさんいるなんて初めてで……すごく新鮮です」
「まるで自分は庶民のような言い方をするね。カイトス男爵家のご令嬢というのに、君にはその自覚が薄いのか」
責められているような口調に、ケティの眉が下がる。
カイトス家の没落はケティが生まれる少し前。生活だけでも苦しい状況で、ケティは初等学校しか行かせてもらえなかった。初等学校は王国全土にあるが、地方の初等学校はほとんどが庶民のための教育機関になっている。ケティの他に貴族などほとんどいなかったし、遊び相手はいつも庶民だった。
「まあ君が楽しんでいるのなら口出しは止そう。ただ、仮にも妖精騎士を目指しているのなら少なからず貴族としての振る舞いや考え方も必要になる。小さなことに驚きや喜びを見つけるのは美点だろうが、あまりそれを表に出してはいけない」
「…………はい」
そう言われて、食堂で出てきた夕食に驚いて硬直していたところを笑われたことを思い出す。
神妙な顔になったケティに公爵はくすりと笑みを漏らして、すいと彼女の背後に目を向けた。
「それから……そっちの青年は妖精具だろう?」
「はい……あ、そっか。元々所有していたんですよね、レキントスのこと知ってますよね」
「……君は妖精具に名前をつけているのか?」
心底驚いたというような声音だった。ケティが頷けば、今度こそ目を丸くしてまじまじとレキントスを眺め始める。
彫像のようにぴくりとも表情を変えず、レキントスはケティの座るソファの斜め後ろに佇んでいる。その目は伏せられていてどこを見ているのかも判断がつかなかったが、不躾な視線を注がれて戸惑っているのがなんとなく感じられた。
公爵が不意に笑いだす。唐突過ぎてびくりと肩を揺らしてしまった。
「君は本当に面白いな! クルキースが懐くのも納得だ!」
「な、懐いてなんてないでしょうあれは! あたしを面白がってるだけです!」
「たかが道具に名前など……君はつくづく妖精騎士に向いていないな! 滑稽で、面白い」
「は……?」
一瞬何を言われたのか理解できなかった。
向いていないと言われたのは初めてではない。騎士学校の同級生たちが陰で囁いているのを聞いてしまったことなど数知れず、「辞めろ」と言われたことすらある。
それでもケティはずっと頑張ってきた。有象無象の他人に言われたところで訓練に影響は出ない。そう信じて、奮い立たせて、ケティは必死に木刀を振るってきた。
その努力を、信念を水泡に帰す発言が恩人から発せられるとは思っていなかった。
愕然とするケティに、公爵は先程とまったく変わらない温度の視線を向けてくる。そして空になったカップを置いて姿勢を正すと、貴族らしい優雅な笑顔を浮かべて言い放った。
「確信したよ。君に妖精騎士は向いていない。だから、クルキースと結婚してもらう」