第三十四話 記憶と記録と想いと迷い(その1)
/0.追憶(神崎良)
俺と綾が両親を失った事故。
その時の事故の記憶は、正直な所、断片的なものしかない。
当時、幼かったという事もあるけれど、それ以上に、あの事故は何もかもが突然だった。だから何が起こったのか訳がわからないまま、気づいた時には全てが終わってしまっていた、というのが正直な所だ。その辺りがあの事故の記憶が断片的な原因だと思う。
でも、バラバラになった記憶は、ぼんやりと曖昧なものではなくて、はっきりと鮮明に、俺の脳裏に刻まれて、まだ薄れていない。
今でもまだ夢に見るぐらいに。
今でもまだ理由もなく思い起こすぐらいに。
でも、その内容はと言えば、ひどく現実味がない。だから、当時の大人たちが俺の証言を重要視しなかったことは当たり前といえば、当たり前だと思う。今の俺が当時の俺の言葉を聞いたとしたら、事故に巻き込まれた不幸な子供が錯乱している、としか思わないだろう。だから、ひょっとしたら俺の記憶は、本当に現実ではなくて、ただの夢なのかもしれない。
でも、俺にとってはアレは夢ではなくて現実で。
だから。
あの時、自分が何をしたのか、ということと。
あの時、自分が何をできなかったのか、ということだけは。
ずっと事実として、俺の中に刻み込まれていて、消えることはなかった。
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魔法使いたちの憂鬱
第三十四話 記憶と記録と想いと迷い。
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/1.神崎家の朝の風景。(神崎良)
「信っじられないっ!!」
早朝の神崎家の食卓には、綾の元気の良い怒声が響き渡っていた。普段の寝起きの悪さが嘘のように、勢い良く抗議の声を張り上げる妹とは対照的に、レンさんは至って落ち着いた様子でコーヒーをすすっていた。
「ん。美味しい。やはり朝はコーヒーでないとな」
「かあさんっ! 何を和んでるんですかっ! 私がっ! 娘がこーんなに、怒ってるのにっ!」
「なんだ。やっぱり怒ってるのか」
「そんなの当たり前じゃない!」
涼しい顔のレンさんに対して、綾は興奮に頬を赤くしている。あまりに対照的すぎる親子の様子だった。
「おーい、綾。ちょっと落ち着けって」
「兄さんっ!」
落ち着かせようと俺が声をかけると、綾は、ぐるん、と勢い良く顔の向きをレンさんから俺へと変える。そして興奮冷めやらぬ様子で、言葉の剣先を躊躇うことなく俺に向かって突き刺してきた。
「兄さんは、母さんの味方なの?!」
「いや、敵とか味方とかじゃなくて。とにかく朝からそんなに怒らなくても……」
「お・こ・ら・な・く・て・も?!」
なだめる俺の言葉が地雷だったのか、綾は更に目尻を釣り上げた。
「一晩、簀巻きで地下室に放り込まれていた私の気持ちが兄さんにわかるっていうの?!」
「……いや、ゴメン。それは、さっぱりわからない」
さすがにそんな経験はないので、残念ながら共感はしてやれない。というか、ようやく綾の怒りの原因が把握できた。それはまあ、確かに簀巻きで一晩放置されていれば、怒りもするだろう。……って。
「レンさん? 簀巻きって、どういうことですか……?」
「何って、簀巻きは簀巻きだよ。うん? 昨晩も同じ台詞を返した気がするが」
「確かに聞きましたけど! 本当にやったんですか?!」
あんなの冗談だって思うじゃないですか、普通。
しかし、ここまで綾が荒れ狂っている以上、恐ろしいことに嘘でも冗談でもないのだろう。そんな事実に俺が戦慄していると、レンさんは何故か、満足気な顔で一人頷いていたりした。
「いや、しかし大したものだと思うよ」
「大したものって、何のことですか?」
「まさか簀巻きのまま、自力であの地下室を脱出するとは思わなかった」
「かーあーさーんっ!」
完全に遊ばれてるなあ、綾。
「って、いやいや、というか地下室ってなんなんですか、地下室って」
「何って、地下室は地下室だよ」
「平然と言わないで下さい。俺、家に地下室があるなんて知りませんよ?」
「そうよ! 私も知らなかったもん!」
「私も使うことがないようにと願っていたんだが」
おののく俺と、猛る綾に、レンさんは嘯くように呟いて肩をすくめた。
「ま、研究部材の保管庫だよ。お前たちには、まだ危ない品もあるからね。安全のために場所を教えていなかっただけだよ」
「そんな危険な場所に、私を一晩放置したの?!」
「だって、昨晩はお前のほうが危険物だったじゃないか」
「なんで、私が危険物なのよ?!」
「いや、だって、兄に夜這いをかけようとする妹なんて危険物以外の何物でもないだろう」
「そ、そんなことしようとしてないもんっ!」
「……夜這い?」
「と、ともかくっ!」
不穏極まりない単語に、俺が口を挟むと、綾は誤魔化すように声を大きくして、その指先を俺の鼻先に突きつけた。
「大体、兄さんだって悪いんだよ?」
「俺が?」
「そうよ! なんで、兄さんとレンさんが一緒に寝てるのよ!」
「うっ」
昨晩の出来事の後、気がつけば、俺はレンさんに抱きしめられたまま、眠りに落ちてしまっていた。そんな俺の部屋に、綾が入ってきてから今まで延々と綾の怒りは続いている訳で。……まあ、綾が怒っているのは、半分は俺のせいだと言うわけだった。
「いや、でも、それは、そんなに怒らなくても」
「そうだぞ、綾。普通の親子のスキンシップに、そんなに目くじらを立てるものじゃない」
「高等部の親子が抱き合って寝るのは、普通のスキンシップとは言いません!」
俺とレンさんの反論を、綾はぴしゃりと切り捨てる。頬をふくらませて腕を組む妹は、いまだかなりご立腹のようだった。そんな綾の態度に、レンさんは小さく苦笑すると、パチン、と手を打ち合わせた。
「ともかく、朝ごはんを食べてしまおう。あと、綾はあまり良を困らせないこと」
「困らせてなんかいないもん」
「お前は良に告白したんだろう? 実の兄に、最大級の重荷を背負わせてるんだから、少しは遠慮しなさい」
「うっ……」
告白、という単語を突きつけられて綾が言葉をつまらせる。
「でも」
「でも、じゃない」
なおもあらがおうとする綾の言葉を、レンさんは少し語気を強めて遮って言った。
「綾。聞き分けがないようなら」
「ないようなら?」
レンさんに問い返す綾は、平静を装いながら、しかし、明らかに緊張の面持ちになる。そんな綾に大して、レンさんは一瞬の溜めを作ってから、こう言い放った。
「今夜こそ、私が良を寝とってしまうぞ?」
「ええっ?!」
「レンさん?!」
また過激なことを言い出したレンさんに、目に見えて綾がうろたえた。
「ほ、本気なの?!」
「冗談だよ。あくまで、綾が良い子でいてくれている間は、だけどね」
「うっ……」
言外に「脅しじゃない」との含みを持たせるレンさんに、綾が言葉をつまらせた。
「そ、そんな脅迫になんか屈しないもん!」
「ほう、随分強気だね。まあ、良に告白して、色々とふっきれているのかもしれないけど。でも、私と良の濃密な関係を知っても、そんな態度でいられるのかな」
「のっ、濃密……?!」
「ちょ、レンさん?!」
「兄さん……? どういうこと……?」
「レンさんの冗談を真に受けるなよ」
冗談じゃなくて目が怖いから。妹の視線に、軽い命の危険を感じ取ってしまう兄だった。
「ちなみに昨晩は下着はつけていなかったんだけど、気づいたか? 良」
「しれっ、と嘘をつくな!」
「失礼な。嘘なんかじゃないぞ?」
「だって、昨日はちゃんとつけているって言ったじゃないですか!」
「ああ、そっちが嘘だ。履いてなかったし、付けてなかった」
ああ、もう、この人は!
「息子に惚れ直してしまった、いけない母を許して欲しい」
「兄さん? レンさんに何したの? 何があったの? は、履いてなかったし、付けていなかったって、ホントのホントに、どういうこと……?」
「だから何もなかったって! レンさんも変なこと言わないで下さい!」
というか、実母ではないにしろ、母親と息子の関係をそう簡単に怪しむな。妹だけじゃなくて、育ての母にまで迫られたりしたら、最早、いろいろとダメすぎる。
「まあ、冗談はさておき」
「レンさん! 話はまだ終わってません!」
「冗談はさておき」
納得いかないと全身で表現している綾の抗議の意志をあっさりと、無視してレンさんは強引に話題を戻した。
「ともかく、本当に良には、少し時間を上げること。いいな? 綾。 さもないと……」
「さ、さもないと?」
「今度は裸で良に迫ることになる」
「なるか!」
思わずレンさんの頭を叩いてしまう俺だった。
むー、と唇を尖らせて、レンさんは不満気に俺を見る。その表情は綾のようで、やっぱり血のつながりを感じてしまう。
「良だって、満更でもないくせに」
「そんなことはありません」
「本当に?」
「……本当です」
「兄さん……? 今の間はなんなの……?」
「本当に、何でもないってば!」
昨日のレンさんはどこに行ってしまったんだろうか。あるいは、昨日があったからこその態度なのかもしれないけれど。
「ともかく、お前が勘ぐっているようなことは何もないってば」
「そ、そうだよね。いくら母さんでも、兄さんに裸で迫ったりしないよね。母が息子に迫るなんてありえないよね」
「勿論だ。妹が兄に裸で迫ったりするぐらいありえないことだぞ。うん」
「そ、そうだよね。ありえないよね。あはは」
「勿論だ。ありえないぞ。ふふふ」
「……」
「……」
笑顔のまま無言で見つめ合う、レンさんと綾。……なんだろうか。この居たたまれない気持ちは。
誰か神崎家に至急、倫理観の構築を。
「ともかく! 家族なんだから、裸で迫るなんてしちゃダメなんだからね! かあさん!」
「そうだね。全く同感だ。ところで綾。お前は同じ台詞を、一度、鏡に向かって言ってみるといいと思う」
「……」
「……」
「だ、大体、裸だったら!」
「裸だったら?」
「裸だったら、私の方が勝つもんっ!」
「!」
「お前は何を言ってるんだ?!」
尽くレンさんに言い負かされて錯乱したのか、いきなり過激な発言をくりだした綾に、俺は思わずツッコミを入れてしまう。が、そんな俺のツッコミはさておき、今まで余裕をたたえていたレンさんの表情に、ゆらり、と暗い影がさした。
「綾、お前……また、人の胸を見て言い放ったな?」
「別に見てないもん。母さんの気にしすぎじゃないのかな」
声を低くするレンさんに、綾は、ふふん、と笑って胸を張る。わざわざ、「これでもかっ」と胸のサイズを強調するかのように。
「いい機会だ。その「胸は大きいほど正義」というひどく短絡的な考えは、矯正してやらないといけないな」
「矯正の必要なんてありません。兄さんだって、私のほうがいいよね?」
「そんな話題を俺に振るんじゃない!」
朝の食卓で、なんつー、会話を繰り広げる気だこの母娘は。
「ともかく、ほら、いい加減、朝ごはん食べないと本当に、遅刻するぞ」
「むー。兄さんが逃げた」
「逃げたな。まあ、結論は今晩に持ち越しかな」
「持ち越さないで下さい、頼むから」
我ながら疲れた声で、そう答えながらも、少し緊張の糸がほぐれているのを感じて。いや、解れているというか……少し安堵しているような、そんな気持ち。
綾に告白されて。それをレンさんに、気づかれても。
目の前には、こうやって、いつもの食卓の風景があるっていう、その事に。
「まあ、あまり思いつめる必要はないっていうことだね」
「……わかってます」
色々と見抜かれているとはわかりながら、それでも俺はそう答えるができたのだった。