第三十三話 告白の後に(その2)
/2.親友の気遣い。(速水龍也)
この空気は、どう表現すればいいんだろうか。
「おはよう」「おはようございます」「……おはよう」
いつもと同じ時刻、いつもと同じ場所、いつもと同じメンバー。
それはいつもと同じ朝の光景であって、だから、そこに流れているのはいつもと同じ雰囲気であるべきはずなのに。今朝の雰囲気は、とてもじゃないけれど「同じ」だなんて思えなかった。
うまく表現できないんだけど、なんというか、いい知れない緊張感が漂っているといえばいいだろうか。
そもそもまず、良の様子がおかしい。
もの凄く疲れたというか、やつれたというか、顔色がよろしくない。「おはよう」と笑う笑顔が痛々しく思えるぐらいだ。まるで、みんなに心配かけないためなのか、無理に笑っているようにも見える。まあ、それだけなら試験疲れがまだ残っているのかな、と心配するぐらいですむのだけど……でも、おかしいのは良だけじゃないのだ。
良とは対照的に、綾ちゃんは上機嫌そのものだった。
満面の笑みを浮かべているというわけじゃないけれど、軽く上気した頬に、微笑をたたえた口元は、今にも鼻歌ぐらいなら歌い出しそうな気持ちを押さえ込んでいるようにも見えた。「おはようございます」と返す声も、踊り出しそうなぐらいに、弾んでいる。良の試験がうまく行かなかったから、随分と機嫌を損ねていたのはつい先週だったのに。あ、でも、良と綾ちゃんはデートしていたはずだから、綾ちゃんが上機嫌なのは、おかしくはないのかな。
でも、良と綾ちゃんの神崎兄妹に輪をかけて、更に様子がおかしい人が別にいて。それは、
「……おはよう」
「……おはようございます」
霧子と会長さんの二人だ。おかしいというか、変というか、挙動不審というか。良たちと僕の挨拶に「おはよう」と返す声にも覇気がない。
それに二人そろって何かもの問いたげに、ちらりちらりと良の方へと視線を送っている。だけど、傍らの綾ちゃんの方へと視線を向けないように意識しているように思えた。まるで綾ちゃんのことを意識していることをばれてはいけないと、意識してしまっているようで。……傍から見ていると不自然な事この上ない。
でも、良の方はそんな二人の視線に気づいている様子はなく、上機嫌な綾ちゃんも霧子と会長さんの不自然な態度は目に入ってはいないようだった。
……って、本当に何なんだろう、この状況は。
「おはようございます」
「はい。おはようございます」
こんな状況の中、佐奈ちゃんと篠宮先輩の二人は、いつもと変わらないように見える。もっともこの二人の感情は、表情からは少し読みとりにくいので、ひょっとしたら彼女たちも普段とは違うのかもしれない。
あえていつもと比較してみるなら、心なし佐奈ちゃんは機嫌が良さそうで、篠宮先輩は少し不機嫌そうにもみえるのだけど、これは気のせいなのかもしれない。
……まあ、多分、こんな状況を考えるに、この週末に良と綾ちゃんと霧子と会長さんの四人の間で何かあったんだと思う。でも、果たして何があったんだろう。あるいは、良と綾ちゃんの間、霧子と会長さん、とか、ある組み合わせの間で何かあったのかもしれない。でも、霧子と会長さんという組み合わせはちょっと考えにくいけど……。
魔法院までの道すがら、皆の一番後ろについて、僕がそんな疑問に首をひねっていると、不意に会長さんが良に言葉を向けた。
「そういえば、良さん」
「は、はい?」
何気なさを装った会長さんの問いかけに、答える良の声はどこか強ばっているような気がした。多分、会長さんもそれに気づいただろうけれど、特に表情には出さずに彼女は言葉を続ける。
「少し顔色が悪いようだけど……大丈夫?」
「え? あ、はい。大丈夫です。少し、寝不足気味なだけで」
「そう」
「はい」
「……」
「……」
二人の間に落ちる微妙な沈黙。その空気に慌てたように、会長さんが少し勢い良く口を開いた。
「良さんっ」
「な、なんでしょう」
「……」
「……」
「……」
「……えーと、会長?」
珍しく逡巡するような表情を浮かべて言葉に詰まっている会長さんに、良も困惑の表情を浮かべた。かえって彼女を気遣うような面持ちで、良の方が会長さんに声を向ける。
「あの、会長。どうかしましたか? なんだか、様子が変ですけど」
「変って、あなたね。それは、こちらの台詞なのだけど……」
「え?」
「ともかくっ! 何か私に相談することはないかしら」
「相談ですか?」
「ええ」
「いえ、特には無いですけど……?」
そう答える良に、ちらりと会長さんと霧子が目を見合わせる。その光景に僕は思わず目を剥いた。霧子と会長さんが、なにやら意思疎通している? 僕と同じぐらいに会長さんに苦手意識をもっているはずの霧子が? ……どうして?
そんな僕の驚きを尻目に、会長さんは更に良に問いかけていた。
「えーと、何でもいいのよ? 些細な悩みでも、すっごく重要な悩みでも」
「いや、えーと、ないですよ」
「ほんとに悩みがないの?」
「ええ、まあ」
「本当に? 全く? 完全無欠に悩みがないの?」
「いや、流石にそこまで完全無欠に悩みがないって訳じゃ―――」
「「あるのね?!」」
良の言葉に、なぜか、霧子と会長さんが二人で声をハモらせる。……いや、もう本当にびっくりした。本当にどうしたんだろう。霧子と会長さんの息がここまで合うなんて。霧子が会長さんを苦手にしていたのって、気のせいだったのかな。それとももう苦手を克服したのか。あるいは……。
あるいは。苦手を感じている余裕もないぐらい、会長さんと意識を合わせなくちゃいけないような出来事があった、とか。
そう考えて、胸の奥がざわり、とざわついた。なんとく、そうなんとなーく、とても嫌な予感がしてしまったんだけど……。でも、そんな予感の中身を僕が確認するよりも早く、良と会長さんの会話に勢い良く割って入る声があった。
「もう。会長さんも、霧子さんも、いったい何なんですか。朝から兄さんを困らせないで下さい」
そう。誰あろう、朝から上機嫌の綾ちゃんだった。彼女は腰に手を当てて胸をはると、まるで宣言するように、会長さんと霧子に向かって告げた。
「そもそも、兄さんに悩みなんてありませんっ」
いや。あの。そこで断言するのはどうなんだろう。
喉まで出かかったツッコミの言葉を、僕がなんとか飲み込んでいる傍らで、しかし、会長さんはばっさりと僕がいいそうになった台詞を口にした。
「どうして、そこまで綾さんが断言できるのかしら」
「できます」
「だから、どうして?」
「だって、兄さんのことですから」
「理由になってないわよ」
謎の自信に満ちあふれた綾ちゃんの答えに、「呆れた」と呟きながら会長さんは小さく首を振った。
「そもそも、良さんに悩みがないなんて、そんな訳ないでしょう」
「会長さんこそ、どうしてそんなこと言い切れるんですか」
むっとした様子の綾ちゃんに、今度は会長さんが自信満々に「決まってるじゃない」と胸を張る。
「成績のこととか、魔力交換のこととか悩みの種ならいくらでもあるでしょう? それに私のことでも良さんの悩みはつきないはずよ」
……何といえばいいのだろうか。ともかく、自分が良を悩ませている自覚あるんですね、会長さんって。
と、僕が(多分、周りの誰もが)思わずいろんな意味で絶句してしまった会長さんの発言に、しかし綾ちゃんは動じることなく「ふふん」と不適な笑みを浮かべて更に胸を張る。
「そんなことは、些細なことですっ」
「些細ですって?」
「ええ。だって、兄さんは今、幸せの絶頂にいますから。ね、兄さん」
「いや、それはない」
「ないの?!」
自信に満ちあふれた言葉を、当の良自身に即座に否定されて、綾ちゃんは心底悲痛な声を上げた。そんな綾ちゃんに深いため息を付いてから、良は首を横に振る。
「あのな。何をどう考えたら、そんな結論に至るんだ、お前は」
「何をって、決まっているじゃない」
「決まっているって、何が」
「だから、その……もうっ」
良の問いかけに綾ちゃんは何やら言いづらそうに声のトーンを落とした。そしてややあってから、良の袖を引くと、良の耳元にこっそりと何事かを囁きかけた。
「……その。ほら、朝の……とか」
「……っ、お前、それは……っ」
果たして綾ちゃんが良に何を言ったのだろうか。ひそひそ声だったから、肝心なところは聞き取れなかったけど、良の顔が見る間に赤く染まるのをみると、どうやらかなりの爆弾発言があったらしい。良につられるように囁いた方の綾ちゃんも、顔を赤く染めている……って。
二人揃って赤くなるって……どういう……ことかな……良……?
そんな兄妹の様子に、不信感、というか焦燥感というか、危機感を感じたのは僕だけではないようで、途端に霧子と会長さんが引きつった表情で良に詰め寄った。
「ねえ、ちょっと良。どういうこと?」
「え? いや、その」
「なにかしら。今の意味深な会話は。よく聞こえなかったけど、綾さんと朝に何かあったのかしら?」
「いやいやいや、何も無いですよ?!」
霧子と会長さんに詰め寄られて、良は慌てて首を横に降った。でも、今の良の態度で「何もない」と言われても説得力はないわけで。当然、霧子は納得せずに、ずいっ、と人差し指を良の鼻先に突きつける。
「じゃあ、どうして二人揃って赤くなるのよっ」
「え? いや、赤くなんて」
「なってるじゃない。何もないならそこまで赤くなんてならないわよね?」
「だから、何もないってば」
「良さん? 本当にやましいことがないなら、白状したほうが楽よ」
「だから、やましい事なんてしてませんって!」
「そうです。私と兄さんは、やましいことなんて何もしていません」
場を何とか収めようとする良の言葉に、綾ちゃんが落ち着き払った(というか、妙に余裕にあふれた)態度で大きく頷いて、そして、言った。
「アレは『私と兄さんの間なら』、全然やましくなんてないんですから」
「「『私と兄さんの間ならっ?!』」」
「ああ、もう、お前はしばらく黙ってろっ!」
「んんーっ?!」
埒があかないとばかりに、良が、綾ちゃんの口を手で塞ぐ。そんな神崎兄妹に、更に詰め寄ろうとした霧子を、不意に会長さんが手で制した。
「……会長?」
「霧子さん。ちょっと」
「はい?」
軽く霧子に手招きした会長さんが、すこし僕達から距離をとる。そして、ひそひそと何やら霧子の耳元にささやいた。
「……ここは……あまり……追い詰めても……」
「でも……ええ……そうですね……」
「なら……後で……必要……拉致……」
「じゃあ……確認……自白……」
……一体なにを相談しているんだろう。時々、物凄く物騒な単語が漏れ聞こえてきている気がするのは、僕の気のせいなんだろうか。傍らで同じく二人の会話に耳を済ませている良の顔がひきつっているのを見ると、気のせいではないみたいだけど。
「あのね、良」
「……うん」
未だ妹さんを羽交い絞めにしつつ、同級生と先輩の怪しげな密談に冷や汗を流している親友に、僕は努めて優しい口調で声かけた。
「僕でよかったら、いつでも相談に乗るからね?」
「……ああ、ありがと。頼むな」
そう頷く良は、いつもよりずっと素直で。
だから、きっと事態は僕が思うよりも深刻になっているとの確信が持てたのだった。
/3.攻勢の裏側で(泉佐奈)
「でも、本当に朝から良先輩とキスしたの?」
「うん。頑張ってみた」
「そっか。うん、頑張ったね、綾」
「ありがと……流石に恥ずかしかったけど」
「でも、嬉しかったんでしょ?」
「うん、まあ……えへ」
授業の休み時間。教室の片隅で、私と綾はひそひそと作戦会議というか、反省会を開いていた。
反省会の内容は「ちゃんと良先輩を攻めつづけることができているか」というもの。実は、昨日の晩、良先輩に告白できたと綾から連絡を受けた私は、「そのまま攻勢をゆるめちゃだめだよ」と綾にアドバイスしたのだった。、
肝心な所では綾も良先輩に優しいから、良先輩が答えを考えている間に、攻勢を控えちゃうかもしれない。そんな危惧からの言葉だったんだけど……今朝の良先輩の様子を見ていると、流石に「やり過ぎかな」と胸がいたんだりもした。でも、良先輩には、本当に申し訳ないけれども、綾の幸せのためには、綾を炊きつけるのが私としては必要だと思ったのだった。
だって、せっかくの綾の勇気を無駄にしてほしくないから。
良先輩の綾の認識が、「妹」と「女の子」の間で大きくぐらついているはずの今こそ、頑張ってその天秤を「女の子」の方に傾かせないと。今までは、相手が綾だったら、頬にキスぐらいじゃ良先輩はそれほど動揺しなかったと思う。なのに、あんなに動揺してくれているということは、今はやっぱり好機なのだ。やりすぎると逆効果という懸念ももちろんあるけれど、それでも、ここは攻めるべき時だと思う。良先輩の理性と良識と常識の壁を打ち壊すためには、多少のリスクは覚悟しないといけないと思うから。どれだけ綾が女の子として良先輩のことを好きなのか、わかってもらうべきだと思うから。
いざとなれば、私が炊きつけたと白状すれば、綾への悪印象も抑えられるかもしれないし。ここはなんとか綾に頑張ってもらって、桐島先輩と会長さんと速水先輩に差をつけて、良先輩と結ばれて欲しいのだった。
そう思って綾と相談を続ける私だったけれど、朝の様子を思い出して、ふと気にかかることがあった。
「……ねえ、綾」
「何?」
「朝の桐島先輩と会長さんの態度、ちょっとおかしくなかった?」
「そうかな。会長さんが兄さんに絡むのはいつものことだし……」
「それはそうだけど」
普段の綾なら多分、気づいていると思うのだけど、幸せ絶頂の今の綾はやっぱり周りが目に入っていないようだった。綾には疑問形で聞いたけれど、思い起こせばやっぱり、今朝の会長さんと桐島先輩の様子はおかしかったと思う。
良先輩の様子を伺いながら、でも、綾を極力刺激しないような態度。まるで、綾が良先輩に告白したことを知っているような……。
「ひょっとしたら、綾と先輩のデート、見られたのかも」
「まさか」
小さく零した私の呟きに、綾は「そんなことないよ」、と断言した。だけど、私は考えを巡らせる。
どうだろう。昨日の綾は良先輩に告白することだけで頭が一杯だったはずで。だから、やっぱり周囲に気を配っている余裕はなかったと思う。それに会長さんが、本気で尾行しようと思えば、魔法でいくらでも隠れることはできるはず。そう思って考えこむ私に、綾は明るく笑って手を振った。
「もう。佐奈ってば考え過ぎだよ。尾行なんてされていたら、ちゃんと気づくもん、私」
「普段の綾ならそうだけど。昨日、綾は告白のことで一杯一杯だったでしょう?」
「う、それは」
「今日だってお花畑状態だし」
「……そんなことないもん」
私の指摘に一応反論する綾だったが、浮かれている自覚はあるのか、反論に勢いはなかった。
「でも、佐奈。別に見られていたっていいんじゃない?」
「え……?」
考えこむ私に、当の綾はあっさりとした口調で、そんな事を言った。
「だって、もう私は告白しちゃったんだもん。霧子さんや会長さんが、どう動いたって関係無いでしょう?」
「うーん……そうかも……しれないけど」
一応、会長さんや桐島先輩が危機感に押されて、告白に走る、という展開も考えられるから、無関係ということはないんじゃないのかな。そんな考えを思い浮かべてから、私は直ぐに綾の意図に気がついた。
そっか。綾にとっては、どうでもいいことなのかもしれない。
「兄さんは、ちゃんと考えて、答えをくれるって言ったんだから」
「……そうだね」
ちゃんと綾は自分の気持ちを渡したんだから、周囲がどう動こうと、良先輩はちゃんと気持ちを返してくれる。そんな綾が良先輩に向ける絶対の信頼が、今の綾の笑顔の源泉なんだと思う。自分のことを考えて、そしてちゃんと答えをくれるという絶対の信頼。
それはとっても眩しくて、思わず胸が詰まってしまう。
「……優しいね。良先輩」
そんな綾と良先輩の関係に触れて、心からの呟きが、私の唇から漏れた。
実の妹からの告白なんて、重すぎて、普通なら投げ出してしまうはずなのに。
自分としか魔力交換ができない相手なら、それを言い訳に受け入れてしまえるはずなのに。
そのどちらもしないで、ちゃんと受け止めて、ちゃんと悩んでくれる。それはとても不器用で、とてももどかしくて、でも、とても暖かな心の形。
そんな人だから、私は良先輩を……。
「佐奈?」
不意に黙り込んだ私に気づいて、綾が不思議そうに私の顔を覗き見る。
「あのね、綾」
「うん」
「私もそろそろ、良先輩のほっぺにちゅーぐらいはしてもいい時期かな」
「そんなのはダメですっ」
「綾のいじわる」
「そんなことありません」
私と綾の間でいつものように繰り返されるやりとり。それは私にとって、とても心地よくて、とても大切で。だから、やっぱり今はこの親友のことを一番に考えることにしよう。そう自分の心に呟いてから、私はまた綾に注意を向けるのだった。
「でも、油断は禁物だよ? 今朝も速水先輩が地味にポイントを稼いでたし」
「……本当に速水先輩が女の子じゃなくてよかったと思ってる」
「今晩もがんばってね」
「うん。ありがと」