第三十二話 神崎家の兄妹(後編)(その3)
/4.二人の気持ち(神崎良)
答えを返せないままに言葉を探して、果たして、どのぐらい時間が経ったんだろう。
情けない兄の手を握って、じっと答えを待ってくれている妹。その目を見つめて、俺はもう一度、ゆっくりと口を開いてその名前を呼んだ。
「綾」
「……うん」
緊張に乾いた俺の声に、綾が小さく震えたのがわかる。でも、俺を見つめる視線は逸らさない。そんな綾の瞳に浮かぶのは、期待と不安と、多分、両方の感情なんだと思う。
……本当に、本気で、兄に告白したんだよな、こいつは。
綾の表情から、改めてその事実を思い知らされて、俺は深々と息を吐き、絞り出すようにして胸の中の想いを言葉に変える。
「あのな、綾」
「う、うん」
何を返すことが正しいのか。どうやって応えることが賢いのか。混乱しながら、それでも懸命に考えてみたけれど、正直、それは分からないままだった。だから、せめて正直に、俺は自分の心の中の気持ちを、形にして返す。
「とりあえず……」
「と、とりあえず?」
「お前がバカだと言うことは、よくわかった」
「ば、バカ?!」
「うん。バカだ」
我ながら不躾な言葉に、綾が面食らったような声を上げた。うん、本当に不躾というか、あんまりな台詞だとは思う。告白への返事として相応しくない言葉なんだろうとは十二分に分かってはいるのだけれど、でも、綾の告白に対して俺が抱いた紛れもない正直な感想だった。
「実の兄貴に告白するような妹を、バカと言わずになんて言えば良いんだ」
「う、それは……だって」
俺の言葉に泣きそうになって、それでも、綾は気丈に何か言い返そうとする。そんな妹の言葉を遮って、俺はその手を強く引いた。
「え―――?」
戸惑う声を零しながら、手を引かれるままに綾は俺の方へと倒れ込み、そんな妹を俺は胸の中に抱き留める。
「え、あ、あれ?」
正面から二人で抱き合う形になって、綾の口からは戸惑いの声が零れた。そんな妹をあやすように、俺は胸に抱えた頭にそっと手を添えて、できるだけ優しく、でも少し強く抱きしめた。
抱き留めた体は、少し強ばっていて、そして小さく震えている。手を握っている時よりも、ずっと、綾の感情が伝わってくるような気がして、だから、綾の気持ちがより強く分かる気がして、胸が締め付けられるように軋む。そんな胸の痛みに、俺の口からはゆっくりと言葉が零れ落ちていった。
「……本当に」
こんなに緊張してるくせに、こんなに不安な癖に、こんなに怖がっている癖に。その感情を押し切って、それでも実の兄に告白するなんて。
「本当に、馬鹿だ」
「……兄さん」
告白してくれた女の子に、馬鹿だって繰り返すのはどうかしているのかもしれないけれど、でも、言葉が押さえられないでいた。優しい言葉も、穏便な台詞も、口をついてくれなくて。妹の告白に、俺は何度も「馬鹿だ」って、零してしまった。だって、他にどういえばいいのか、分からない。
兄妹の恋愛なんて、そんな事は駄目で、認められるはずなんて無い。何度も頭を巡るその考えは、わかりきったことで、当たり前のこと。そんなことは、俺だけじゃなくて、誰だって分かっていることだ。だから―――だから、綾自身がそんなこと分かっていないはずがなくて。きっと、そんなこと、嫌って言うくらいに、分かっているはずなのに。
それでも。
それでも、こいつはこうやって、その気持ちを、俺に告げてくれた。
その事実に、その想いに、どうしようもないくらいに、息が詰まる。
誰かを好きだって言う気持ち。
その気持ちがとても大切なものだってわかってる。でも、それでも、それは免罪符にはならないってわかってる。
『愛さえあれば、すべてが上手くいく』
『世間の目なんて気にしなくても、二人の気持ちが本物ならそれでいい』
例え、それが綾が求めている台詞だとしても、そんな無責任な台詞なんて言えない。言ってはいけない。
好き嫌いって言う感情とは別に、やっちゃダメなことと、やらなくちゃダメなことがあるわけで。駄目なことは駄目。悪いことは悪い。好き嫌いとは別の次元で、守らないといけないことがある。だから、本当に、妹のことが大事なら。本当に、綾の未来を思うなら。ここで綾を叩いてでも、その想いを諫めることが、きっと兄として当然の行為であって、責任だと思う。
今、傷つけることになっても。その傷はいつかは癒えるから。
今、傷つけることを恐れたら、いつかはもっと深い傷を、俺たち自身に刻んでしまうだろうから。だから、今は、綾を突き放さないといけない。
それが普通で、当たり前で、正しい行為のはずだった。それは分かってる。分かっている。分かっている筈なのに―――。
「本当に、馬鹿だな、俺たち」
「え?」
そう。
報われないって知っているのに、正しくないって分かっているはずなのに告白した綾が馬鹿なんだったら。兄として当然の行為も責任も、頭では分かっているのに、その普通で当たり前のことができない俺も、きっと同じぐらい、いや綾よりもっと馬鹿なんだろう。
「こういう時は怒らなきゃいけないんだよ、普通は」
「……兄さん」
胸の中で抱きしめられたまま、綾が小さく俺の名前を呼んだ。辛そうで、少し嬉しそうで、でも、僅かに涙のにじむ妹の声。その声に滲む微かな喜色は、やっぱり実の兄から即座の否定を突きつけられなかった事への安堵が理由だろうか。そう思うと、胸の奥がますます締め付けられて、痛んだ。当たり前と言えば、当たり前だけど、やっぱり綾も、不安で仕方なかったんだろうって、そう思ってしまうから。
……本当に、こいつは、馬鹿だ。
綾を抱きしめながら、綾を髪を撫でながら、綾の気持ちを感じながら、やっぱり、どうしようもなくそう思ってしまう。
兄に告白して受け入れられるなんて、普通に考えてありえないのに。それ以上に、俺としか魔力交換ができなくて、俺との関係がこじれたら、命に関わるかもしれないって言うのに。
そもそも綾は、命を粗末にする人間じゃない。父さんと母さんが亡くなった事故から、世界樹の葉を怖がるようになったみたいに、ちゃんと死が避けるべきものだってわかってる。そう、怖くないはずがないんだ。恋心で、命を無視できるような、そんな、そんな娘じゃない。なのに、それでも、綾は。俺の妹は、今の関係を壊すことの意味を、その危うさをわかった上で、俺に想いを告げたんだ。
それが、どれだけ勇気のいることなのか、わからない。
好きな女の子がいて、今の友達という関係から、先に進むことさえ勇気が出せていないままの俺なんかでは、想像も、できない。
『傷つくことを怖がっていない』
頭の中に、そんな言葉が浮かぶ。それは、確か佐奈ちゃんから相談を受けたときの言葉だっただろうか。考えてみれば、あの時の佐奈ちゃんはきっと綾の事を言っていたんだろう。だから、少なくともあの時には綾の俺への気持ちは、友達に漏れてしまうぐらいには形になっていたということになる。じゃあ、こいつは、一体、いつからこんな気持ちを抱えていたんだろう。
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例えば、それは、綾が生徒会に入ったばかりの頃。
『変だよ、私』
『今日だけじゃなくて、もともと、変なんだから。私』
霧子に誘われて美術部に入るといった俺に、急に怒り出した綾が言い放った言葉。
『ずっと、変で。多分、これからも変なんだから』
ひょっとして、あの時から、ずっと綾は自分の気持ちが普通じゃないって思っていたのか。普通じゃないって、わかっていて、それでも、『これからも』って言っていたのか。
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例えば、それは、遊園地の天国への門の中。
『こうしてると、なんだか……その、えーと、こ、恋人みたいだよねっ』
雲の彼方に浮かぶ塔の上で、はにかむように言った言葉は、綾の押さえきれない願望の欠片だったのか。
『兄さんは……平気? 私が誰かを好きになっても平気なの?』
塔の上、「好きな奴がいるのか」と問い掛けた俺に、そう返した綾は、どんな気持ちで。
『……いるよ。いるよ。好きな人』
あの時、こいつはどんな思いを押し殺して。
『えへへ……間違えちゃった』
医務室で唇が触れたとき、どんな想いで、俺に微笑んでいてくれたのか。
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もしそうなら、それはどれだけ辛いことだったんだろう。正直なところは、俺にはわからない。でも、想像するだけで、胸が押しつぶされそうに疼いた。綾のことを何より大事だって思っていた癖に。綾の事を守るって、そう誓っていたのに。なのに、妹が一人で悩んで、苦しんでいたことに気付いてやれなかったことが、悔しくて。
「……ごめんな」
「え?」
「今まで、気づいてやれなくて、ごめん」
謝るのは、違うのかも知れない。でも、違うって思っていても、言葉は止められなかった。
気付いてやれたら。きっとこんなに綾を苦しめなかったのに。いや、結局は苦しめる事になったのかも知れないけれど、それでも、もっと早くに、気付いてやれてたら、せめて、綾と一緒に悩んでやることぐらいは出来たのに。こんなに震えながらの告白なんて、させなくて済んだかも知れないのに。
そんな気持ちに、自然と綾を抱きしめる手に力がこもってしまったのかも知れない。胸の中で綾が少し身じろぎして、額で軽く俺の胸を叩いた。
「兄さん、ちょっと苦しいよ」
「ごめん」
「もう、兄さんは……ふふ」
苦しいって言いながら、でも甘えるような声で笑って。そして、次第に滲む涙を隠すように、綾は俺の背中に回した手に力を込めて、強く胸に顔を埋めた。
「やっぱり、兄さんは優しいね……大好き」
「馬鹿。だから、そういう事を言っちゃ駄目なんだぞ」
「そんなの知らない。だって、馬鹿だもん。私」
冗談めかした言葉と、胸を伝わる涙と吐息。それを感じて、俺は胸の中で、「ごめん」って繰り返してしまう。鈍感でごめんって。そして、駄目な兄貴で、ごめん、って。
諫めないといけない。
否定しないといけない。
突き放さないといけない。
怒って、叱って、ちゃんと正さないといけない。そんなこと、分かってる。頭では、理性では、ちゃんと、分かってる。
でも、だけど、感情が言うことを聞いてくれない。
いけない事だって、辛い事だって、不毛なことだってわかりきっていたはずなのに。そんな想いを、一人で、ずっと、ずっと抱えて、そして積み重ねてくれた綾が―――。
どうしようもなく、愛しいって、そう思ってしまう。
そんな自分の感情を自覚して、胸の中にあふれる感情の渦に息が出来なくなる。
妹の気持ちに、応えてはいけないっていう事実が、苦しくて。
そんな綾の気持ちに気付いてやれなかったことが、悔しくて。
なのに、そんな綾の気持ちが、どうしようもないくらいに、やっぱり愛しくて。
そんな気持ちの奔流に押し流されながら、でも、俺は何とか綾に向かって、言葉を絞り出す。
「あのな、綾」
「……うん」
「ちゃんと、今の気持ち、言うから。聞いてくれるか?」
「うん……」
そう前置きして、抱きしめていた腕の力を弱めた。ひょっとしたら、顔は上げてくれないかと思っていたけれど、でも綾は涙の後を軽く指で誤魔化して、そして俺の方を見上げてくれた。
息のかかる距離にある綾の顔。涙と、不安と、期待に揺れている瞳を見据えて、一度、息を吸い、そして俺は自分の中の想いをゆっくりと言葉にしていく。
正直、まだ気持の整理がつかない。
なら、言うべきじゃないのかもしれない。でも、何も言わないことだけは、してはいけない。そう思ったから、言葉を上手く選べないかもしれないけれど、俺は言葉を振り絞る。ぐるぐると巡る思考の中で、ぐらぐらと揺れる感情の中で、これだけは伝えたいと思った気持ちを、拾い上げて言葉に変えた。
「あのな、綾の気持ちは、その、すごく驚いたけど……嬉しかったよ」
「っ!」
その言葉に、綾の表情が目に見えて輝いて、一瞬、その体が跳ねた。
「ほ、本当?! い、嫌じゃ、ないの……?」
「嫌じゃない」
声を喜色に震わせながら、それでも信じられない様子で俺を見つめる綾に、俺はそう応えて頷いた。
そもそも嫌だったらこんなに困ってない。いや、まあ嫌だったら、嫌だったで、また違う悩みがあるんだろうけれど。どちらかと言えば、それは健全な悩みであって、妹の本気な告白に「嬉しい」なんて本音を返してしまう兄貴よりも、非常にまっとうな悩みだと思う。
というか、今の返事で目を輝かせる妹を見て、可愛いとか思っている自分は心底どうかしているんだろう。本当……、何やってんだろうな、俺は。
散々、ブラコンだ、シスコンだって、揶揄されてきたけど。嫌って言うほど、思い知らされる。綾の泣き顔を見るぐらいなら、禁忌の一線を踏み越えても構わないという自分が、確かに自分の中にいるのかもしれない。
「じゃ、じゃあ……」
「だから、凄く困ってる」
「え?」
「綾に好きって言われて嬉しいけど。でも、その気持ちがなんなのか、まだよくわからない」
「……そう、なんだ」
喜びから一転して露骨に沈み込む綾の表情に、ずきりとした痛みが、胸の奥に突き刺さる。
でも、それが俺の素直な気持ちだった。
綾に告白されて嬉しいという気持ちが、綾に抱いた愛しさが、それが、異性に対するものなのか、正直、わからない。少なくとも、綾に向けるこの感情が、好きな女の子に……霧子に向ける感情と同じ種類のものなのか、と言われれば、違うような気もする。でも、だからといって、どちらの感情が大事か、と言われても、きっと俺は答えられない。佐奈ちゃんに答えた事があるけれど、家族としての感情が、恋人に向ける感情よりも小さいものだなんて、思えないから。
でもその感情はやっぱり、どこかで区別しないといけない。
それに、もし本当に俺が綾に異性としての好意を抱いていたとしても―――それは、あいつに抱いている好意よりも大きいのか、わからなくて。だから、今はまだ綾に答えを返せない。
「それに、告白されたなんて初めてだから、今、冷静になれなくてさ。だから、月並みな返事になっちゃうけど……その、考える時間が欲しい」
「冷静に考える時間が欲しいってこと……?」
「うん、まあ、そういうこと」
「……やだ」
「え?」
短く、でもはっきりとした拒絶に、俺は思わず戸惑いの声を零す。多分、きょとんとした表情を浮かべている俺に、綾は少し頬を膨らませて、首を左右に振った。
「やだ。そんな時間なんてあげない」
「いや、やだって」
「だって!」
強く言ってから、綾は躊躇いがちに目を伏せて、そしてどこか拗ねるような口調で呟いた。
「だって、冷静になったら、兄さん、ちゃんと答えをだしちゃうもん」
「あのな」
「お願いっ。冷静になんてならなくてもいいから、間違ってもいいから……」
泣きそうな声で、俺に縋る綾をみて、少し、心が揺れる。頼むから、そういうのは止めて欲しい。今、俺は冷静じゃないっていっているのに、そういう表情を見せられると、押し切られそうになってしまう。
「嘘でも……良いから、答えが、欲しいよ……兄さん」
「……綾」
泣くような、甘えるような綾の懇願。そんな畳みかけるような妹の懇願に、思わず頷いてしまいそうになる感情を押しとどめて、俺はその願いをなんとか拒絶した。
「駄目だ」
「兄さんっ」
「お前のことで、ちゃんと答えを出さなかったら、俺は一生後悔する」
「……」
妹の告白に驚いて、戸惑って。あげく、嬉しいなんて言ってしまう兄だけど。頼りなくて、優柔不断って言われる俺だけど。でも、そこだけは、絶対に譲ってはいけない。綾がずっと抱えてくれた想いに、その場しのぎの返事なんて返せない。だから、酷いかも知れないけど、今はまだ……ちゃんとした答えを渡せない。
「だから、頼む。少しだけ……待って欲しい」
「でも……」
「あのな、綾」
俺の頼みに少し口籠もって、綾はそれでもまだ反論しようとする。そんな綾を諭すように、俺はそっと綾の髪を撫でた。そして、綾の気持ちを完全に分かるなんて言えないけれど、少しでも綾の不安が消えるようにって願いながら言葉を続けた。
「絶対に、独りぼっちになんかさせないから」
「あ……」
「どんな答えを出しても……絶対、お前の傍にいるから」
「……そんなの、保証、無いじゃない」
「あるよ」
拗ねるような、縋るような綾の呟きに、俺はその瞳を見つめて、強く言い切った。
「俺は絶対に、お前の前から居なくなったり、しない」
あの日から。
もう二度と、父さんと母さんに会えないんだってわかった、あの日から。
ずっとこの胸に抱いていた誓いを、父さんと母さんが結ばれたって言うこの場所で、俺は言葉に変える。
綾の告白に、悩んで答えを返せない俺だけど。
この先、俺が綾の告白を受け入れても、拒絶しても。そして例え、綾が俺のことを嫌いなっても。
今、この場で誓った想いだけは、変わらない。
「だから、少しだけ待って欲しい」
「……うん。わかった」
その思いがどこまで通じたのかはわからない。でも、しばらくの間を置いて、綾はゆっくりと口を開いて、そして頷いてくれた。
「わかった……じゃあ、待つね」
「……うん。ありがとう」
「でも、そんなに長いことなんて、待ってあげないからね」
「わかった」
「答えがなかったら、その……告白は成功したって見なすからね?」
「……普通は逆じゃないのか、それは」
「成・功・し・た・っ・て・見・な・す・か・ら・ね」
「はいはい。わかりました」
「よろしい」
俺の返事に、そう言って綾は、笑ってくれた。どこか嬉しげで、どこか寂しげで、無理をしている笑顔だったけど。でも……笑ってくれた。
その笑顔に、胸が疼く。
その胸のうずきの理由をはっきりさせることが、きっと俺の答えになるんだと思う。そして、それが綾にちゃんと笑顔でいてもらえるために必要なことなんだって、思う。
「じゃあ、帰ろうか。綾」
「うん……でも、もう少しだけ、このままでいたいな」
「……そっか」
「いいの?」
「いいよ」
「ん、ありがとう。兄さん……ごめんね」
「……俺こそ、ありがとう」
「……うん」
そんな言葉を交わして、俺たちはしばらく、両親の思い出の場所で、二人抱き合った。
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想いを伝えてくれた妹に、答えを返すことが出来ないまま。
それでも、綾を守りたいという思いだけは、綾の傍にいたいという気持ちだけは、心の底からの本心だって確かめながら。
神崎家の兄妹にとっての長い一日は、こうして一応の、終りを告げたのだった。