第三十二話 神崎家の兄妹(後編)(その2)
/2.妹の気持ち(神崎綾)
ついに。
言っちゃった。
ついに、ついに……ついに言っちゃった。言っちゃった、言っちゃった。
うわあ、うわあ、うわあ。どうしよう、どうしよう、どうしよう。
『私、兄さんのことが、好きです』
父さんと母さんの思い出の場所で、兄さんの手を握りながら、長年秘めていた想いを、とうとう兄さんに告げた。その瞬間から、私の頭の中は、もう、興奮と期待と、そして押さえきれない不安でぐちゃぐちゃになってしまっている。一瞬、視界もぼやけて、このまま気絶しちゃうんじゃないのかって思っちゃったぐらい。
告白するって、こんなに大変なことだったんだ。想像はしてたし、覚悟もしていたけれど、胸の鼓動が収まってくれなくて、頭に血がのぼっちゃって、もう、どうにかなりそうだった。
好きな人に、好きだって言うのって。大切な人に、想いを告白するのって、こんなに、こんなに大変なことだったんだ。今まで何人かの男の子に告白されてたことはあったけど、あの人達もこんな想いを我慢して、告白してくれたのかな。だったら、もっと優しくしてあげれば良かったな、なんて、とりとめもない考えが、茹だっている私の頭の片隅で浮かんで、消える。
というか、告白なんていう儀式は、いったい誰が考えたんだろう。もうちょっと、楽に気持ちをつがえる手段があってもいいはずなのに、そんな方法をどうして神様は人間に渡してくれなかったのだろう。想いを告げるだけでも、こんなに勇気を振り絞らなくちゃいけなかったのに。その直後に、こうして答えを受け取らないといけないなんて。
「……っ」
答え。その単語を意識した瞬間、ずき、って心のどこかが大きく軋んだ。
そう。言っちゃったけど。告白しちゃったけど。言っちゃった以上は、告白しちゃった以上は、何かの答えは返ってきてしまう。
兄さんは、兄さんは、なんて答えてくれるんだろう―――?
その考えに、胸が壊れてしまいそうに揺れて、泣き出しちゃいそうなくらいに目頭が熱くなって、思わず逃げ出したい衝動に駆られてしまった。
だって、私にだって、わかっているから。実の妹が、実の兄に告白するって事が世の中の常識から考えて、あり得ないことだってわかっているから。子供の頃に、肉親に抱く好意。ほとんどの人が、親や兄妹に抱くであろうその感情は、やがて異性に抱く感情とは区別されていく。それが自然だし、当たり前だし、そうでなくてはいけない。そんなこと、私にだってわかってる。だから、私が兄さんに向ける感情は、いけない感情。当たり前ではない感情。正しくないあり方で、だから間違っていて―――。
誰よりも、目の前の大切な人を、ただ困らせてしまうだけの感情だってわかってる。
だから本当は、迷ってた。佐奈に背中を押して貰っているときも、今日、この公園で兄さんとデートしている間も、ずっと……ずっと、心の奥底では迷ってた。
告白なんかしちゃったら、兄さんを困らせるだけだってわかってたから。ひょっとしたら、嫌われてしまうかもしれないって思ってたから。だから、今までずっと、兄さんに迫ってはいたけれど、本当に最後の一歩は、踏み出せないでいたのかもしれない。
でも、それでも、もう告げずには居られなかった。だって、もう我慢できなかったから。
だって、みんなが変わろうとしているから。
霧子さんと兄さんの距離が少しずつ近くなっていくのを目にして。会長さんが兄さんを名前で呼ぶようになって。なにより、兄さん自身が、美術部に入ろうとしたり、魔法の特訓をしたり、会長さんと魔力交換していたりして。みんながみんな、それぞれの関係を変えるように、頑張って、動き出しているのがわかってしまったから、だから、もう我慢ができなかった。
わたしだって、生徒会に入ってみたり、兄さんに魔法を教えてみたり、みんなより頑張って動いてきたつもりだけど……でも、私は兄さんの妹だから。少しぐらいの頑張りなんかじゃ、あっというまに追い抜かれて、置き去りにされてしまう。
だから。
兄さんを困らせて、兄さんに嫌われて、兄さんに拒絶されてしまうことは、凄く怖いけど。兄妹の恋愛なんて、気持ち悪いって思われるかも知れないけれど。
でも……でも。
嫌われてしまうより。ただ何も出来ないままで、私だけが置いて行かれてしまうことが、もっと、怖くかった。私だけが、兄さんとの関係を変えることができないまま、変えようとしても変えられないまま、ただ置き去りにされてしまうことが、ずっと、ずっと怖かった。
こんな想いは、こんな考えは、ただの甘えなのかも知れないけれど。ううん、きっと許されないぐらいの甘えなんだって、わかってるけれど。でも、私は―――。
「……綾」
「っ」
小さく、でも、はっきりと私を呼ぶ兄さんの声。その声に、私は一瞬、震えて、自分の中に沈んでいた思考を戻す。
視界の中にある兄さんの顔。生まれてからずっと一緒に居てくれて、困ったときには絶対に助けてくれる、大好きな兄さんの顔。その顔は、やっぱり強ばっていて、凄く困った表情を浮かべているのがわかった。そんな兄さんの表情に、言いようのない後悔と罪悪感が生まれて、私の胸を突き刺していく。
やっぱり、困らしちゃった。やっぱり、言わない方が良かったのかな。やっぱり、こんな妹なんて、嫌いになっちゃったかな。
そうじゃなくても、ひょっとしたら「冗談だろ」って笑われるだけで、終わっちゃうかもしれない。だって、これからを考えるのなら、それがきっと―――。
そんな不安が私を押しつぶしてしまいそうになった、その時。兄さんが、私の手を少し強く握ってくれた。
「……あ」
無言のまま、私を見つめる兄さんの表情。
ほんのりと赤くなっていて、心なし汗も浮かんでいたりして、内心の動揺がはっきりと窺い知れた。でも、その目は、逃げないで私を見つめてくれている。困っているのに、焦っているのに、でも、真っ直ぐに。優しい目で、私を見つめてくれていた。
……そうだよね。
その瞳に、思い出す。握ってくれている手の温かさに、知らされる。いつだって……いつだって、兄さんは、私のことを思ってくれているって。自惚れなんかじゃなくて、ちゃんとわかってる。その思いは家族としての思いだって、だって、わかっているけれど、でも、その思いに触れれば触れるほど、私の思いは溢れていってしまう。
だから、その思いに浸りながら、私は兄さんの手を握り返して、そして、待った。兄さんが、どんな答えを返してくれるのか、分からない。まだ、怖くて、不安で、逃げ出したいって言う思いが消えないけれど、でも―――。
兄さんが、私を思って一生懸命に返してくれようとしている答えを聞かないで逃げちゃうことだけは、絶対にできなかった。
/3.彼女たちの思い(桐島霧子)
「もう、終わった頃かしら」
「……どうでしょう」
鬱蒼と木々の茂る小道を歩きながらの会長さんの質問に、私は気の入っていない声でそう答えていた。ちらり、と後ろに視線を向ければ、目に飛び込んで来るのは小道を覆い隠そうと茂る木々の葉と、それが落とす影ばかり。良の姿もなければ、綾ちゃんの姿も見えない。当然のことながら、二人が居るであろう泉も見えないし、あの静謐な場所に満ちていた水音さえももう聞こえないでいた。
要するに綾ちゃんの告白現場から、私と会長さんはそそくさと撤退している最中だったりする。しかも、良の返事を確認しないままに、だ。
『私、兄さんのことが、好きです』
あの場所で、綾ちゃんの台詞を聞いた瞬間、心臓がはねて、血の気が引くのがわかった。反射的に駆けだして、そして「駄目っ」って声を上げそうにもなった。でも、私はすんでの所でそんな衝動を押し殺して、そして隣で硬直している(ように見えた)会長さんに、努めて小さな声で囁いたのだった。『会長。もう、行きましょう』って。
妹が兄に告白するなんて。そして、兄がその気持ちを受け入れるなんて。そんなこと認められていないから、止めなくちゃいけない。それはわかっているけれど、あの綾ちゃんの表情を見てしまったら、あの綾ちゃんの声を聞いてしまったら、今だけは邪魔をしてはいけないって、そう思ってしまった。だから、会長さんに誘われるままに尾行を続けていた私だったけど、肝心の瞬間を最後まで見届けることなく、こうしてコソコソと家路を急いでいるわけである。幸いにして会長さんの魔法によって離れた位置からのぞき見していたわけで、きっとあの二人には気付かれては居ないだろうと思う。だから、この尾行は結局、良と綾ちゃんにはばれては居ないはず。居ないはずなのだけれど……ホント、何してるんだろうなあ、私ってば。
今日の行動を振り返って軽い自己嫌悪に襲われて、そしてやっぱり告白の結果が気になって、後ろ髪を引かれる思いに溜息が零れた。そんな私に、傍らの会長さんはなんだか面白がるような微笑みを浮かべてみせた。
「ふふ。やっぱり見届けたかったのね。桐島さんは」
「本音を言えば、そうです。やっぱり気になりますから。会長こそどうなんですか?」
「それは勿論、気になるわよ」
「でも、その割にはあっさりと引いてくれましたよね?」
そうなのだ。今日の目的を台無しにするような私の提案に、会長さんは「そうね。行きましょう」って、意外なほど、あっさりと頷いてくれた。正直、あの場所で一悶着、起してしまうかも知れないって覚悟していたぐらいなのに。
でも、会長さんはどうしてあっさりと引き下がってくれたのか、分からないままだった。そもそも今日の尾行の発案者は会長さん自身であり、しかも篠宮先輩に怒られてなお、良と綾ちゃんのデートの尾行を強行したはずなのに。今までの会長さんの行動から考えると、少し彼女らしくないようにも思える。そんな疑問を口にした私に、会長さんは、小さく肩をすくめた。
「多分、桐島さんと同じ理由よ。二つともね」
「え? 二つ、ですか?」
「ええ。まず一つ目の理由は、綾さんよね。あんな綾さんの表情を見ちゃうと、ね。流石に邪魔は出来ないわよ」
そう言って会長さんは小さく息をついた。それは確かに私と同じ理由。だけど、会長さんの言葉だと、他にもう一つの理由があることになる。それは何かと、目で問い掛ける私に、会長さんは一瞬、考える様な表情を浮かべてから、やがて悪戯っぽく微笑んで言った。
「言ったでしょう? 理由は二つとも桐島さんと同じだって」
だから言わせないでね、って、笑う会長さん。そのからかうような笑みは、いつもの彼女のものであるように見えて……でも、少し違って見えた。
「珍しいですね」
「あら、何が?」
「会長が、答えを誤魔化すなんて」
「そうかしら。いつもこんな感じじゃない? 私って」
「そうかもしれません」
彼女が私や良をからかうために、答えや言葉をはぐらかしたりするのは、確かにいつものことだと思う。でも、やっぱり違うと感じて、私はなおも言葉を重ねた。
「でも、答えたくないからっていう理由で答えを誤魔化すのは、珍しいと思います」
「あら、言うじゃない。知らない間に、桐島さんは鈴に似てきてしまったのかしら」
少し挑発が過ぎたかな、と思わなくもない私の台詞に、しかし、会長さんは気を悪くした風でもなく言ってから、少し考え込むように目を伏せる。そして一拍の沈黙を挟んでから、視線を上げた彼女の目に浮かんでいたのは―――
「確かにらしくないわね。自分でもびっくりしてるのよ。実は」
本当に会長さんにしては珍しい困惑の表情だった。いつも自分の言いたいことははっきりと、かつ堂々と告げる会長さんなのに、今、私の目の前にいる会長さんは、確かに何か感情を持て余しているように見えた。
「綾さんが告白するなんてわかっていたのに。その時に何かをすべきだってわかっていたのにね。実際の所は、見届けることすら出来ずに、ここにいるなんて。本当に……なんなのかしらね?」
自分自身にとぼけるように呟きながら、会長さんは視線を背後に向ける。その視線の先にあるのは、あの二人の告白の情景のはず。ここからは見えないその光景を見つめる会長さんの表情に、私はようやく、彼女が「私と同じ」と言っていたもう一つの理由も、その理由を彼女が言いよどんでいる訳にもようやく気付くことができたのだった。
確かに、それは私と同じ。確かに綾ちゃんの邪魔をしてはいけないという想いはあるけれど、理由はそれだけじゃなくて。会長さんも私と同じように……良が答える瞬間を見ていたくないって、きっと、そう思ってしまったんだと思う。
だって、もし。そんなことは、無いって思っていても、でも万が一にでも―――良が綾ちゃんの気持ちに頷いてしまうようなことがあったら。そして、そんな光景を、こんな形で覗き見てしまったら。
そんなこと、想像するだけでも、苦しくて息が詰まる。そんな私の様子を知って知らずか、会長さんは独り言のように呟いた。
「良さんはどんな答えを返すのかしらね」
「……大丈夫です」
大丈夫? 大丈夫って何が何が大丈夫なんだろう。
言ってから、私は自分の言葉に自問していた。自分で口にした言葉の意味を考えるなんて間が抜けているような気がするけれど、それでもこぼれ落ちた言葉は、きっと私の本心だろう。
「大丈夫って、良さんが綾さんの告白を断るっていうこと?」
「それは……わかりませんけど」
少し怪訝そうに小首を傾げる会長さんの問いに、私は考えながらそんな風に答えを返した。
良のことは信じているし、良が安易に流されたりしないって思っているけれど。でも、綾ちゃんのことを、きっとなにより大切に思っているあいつのことだから、本当の所、どんな答えを考えて返すのか、想像が付かない。
良と綾ちゃんの関係。兄妹であり、そして命を繋ぐ関係。その後者の関係があまりに重すぎて。なのに綾ちゃんが良に向ける感情があまりに純粋すぎて。私が良の立場だったら、本当にどんな答えを返すのかわからない。良自身は感情と理性を秤にかけて、理性の方に重きを置く性格だと思う。でも、本当に大事なときには感情を優先させることがある。だから、良がなんて答えるのか、本当のところはわからないけれど。でも―――。
「でも、良は、きっと」
どこか抜けているところがあって、今回の試験だって失敗しちゃったりして、空回りすることだって多い奴だけど、でも、きっと。
「あいつは、多分、なんとかすると思います」
抜けていても、頼りなくても、でも、こういう時にだけは、あいつは逃げたりなんかしないから。去年の会長さんと龍也の1件だけじゃなくて、そもそも中等部時代に龍也との件だって、そうだった。だから、今度もきっと逃げずに何とかしようとしているはず。その事だけは、今、あいつを目の前に見ていなくて、確信をもって言い切れる。それが、わかっているから。だから、私も考えないといけない。私が良のために……いったい何ができるのかっていうことを。
「……そうね。私もそう思うわ」
『思う』っていうだけの無責任きわまりない筈の私の言葉に、でも、会長さんはからかうことなく素直に頷いてくれた。
「良さんって、頼りにならないくせに、変なところで頼りになる人だものね」
褒めているのか、貶しているのか、曖昧な言葉。でも、今の会長さんなら、きっと褒めているんだろうなって、そう思った。
「でも、あの場面を上手く切り抜けられるとは思わないけど。どうするのかしらね」
「切り抜けられない、ですか?」
「ええ。だって、良さんは不器用だもの。上手くいなして、その場を乗り切るなんて器用なこと、あの人には無理よ」
「……そうですね」
言われてみれば、確かに、と頷かざるを得ない。何とかしようとするし、何とかするんだろうけれど、でも優柔不断な癖に、変なところで頑固だから、きっと綺麗になんて切り抜けられないだろう。……本当、要領悪いなあ、あいつ。まあ、私もだろうけれど。
「良のこと、よく分かってるんですね。会長って」
「ふふ。だって、良さんにそんなことができるんだったら、私に振り回されたりしないでしょう?」
「振り回している自覚、あったんですか?!」
「あら、無自覚だと思ってたの?」
しれっと言い放って、会長さんは愉しげに目を細めた。その表情は、いつものように悪戯っぽい笑みを湛えていて……そして、ほんの少し、何かを慈しむような優しい色が滲んでいるような気がして。
「そんな彼だから、きっと―――」
その優しい表情のままに会長さんが呟いた言葉は、新緑の中に吹く風に紛れて、最後までは、私の耳には届かなかった。