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第三十一話 幕間 研究者達の追憶(その3)

/3.神崎蓮香

 ピシリ。不意にそんな乾いた音が蓮香の耳に届いた。その音に視線を向けると、コーヒーカップが真っ二つに割れて倒れている。

「ん?」

 その不自然さと唐突さに、蓮香は眉をしかめて辺りを見回したが、特に不審なものは見あたらない。幸いにして中身は空だったので、机や書類が汚れることはなかったが、怪訝さに首を傾げながら蓮香は割れた欠片に手を伸ばした。

「……ああ、随分と古くなっていたから、寿命なのかな」

 そう言いながら、彼女は少し淋しげに目を細めた。白い陶器のコーヒーカップ。彼女の妹が、いつかの誕生日に送ってくれたものだった。中等部に入る前の話だから、もう随分と昔のことになる。子供のお小遣いで買ったものだから安物でもあったが、蓮香がずっと好んで使い続けている品だった。

「うん、大丈夫。この程度なら」

 直せる、と割れた断面を見ながら蓮香は安堵の息を付く。粉々に砕けたのならともかく、綺麗に割れたものならば魔法で修理することはそれほど難しくない。実際、過去に不注意で落としてしまった時にも、蓮香は魔法で直したことがあった。あとで修理しておこうと頷いてから、蓮香は割れた陶器を一所に重ねた。

 カチャリ、と乾いた音が、人気のない研究室の中で響いて消える。そんな音に、一瞬だけ目を伏せてから蓮香は小さく笑ってみせた。

「しかし、美弥のカップがいきなり割れるとは何かの予兆かな。不吉な知らせじゃなければいいが」

 綾の奴、また良を困らせてるんじゃないだろうなあ、と、蓮香が冗談交じりにつぶやいたその言葉は、しかし、そう大きくは外れていなかった。なにしろ同時刻、綾は良に、つまりは実の兄に思いを告げている真っ最中だったのだから。

 しかし、まさか本当に、そんな「不吉な」事態になっているとは知らない蓮香は、良と綾から離れた場所、つまり久遠達と同様に東ユグドラシル魔法院にいた。場所は彼女自身に与えられている研究室の一室。魔法の明かりで照らされた室内で、魔法によって記録された膨大な量の記述を読み取りながら、彼女は思索を巡らせていたのだった。

「……さて」

 意識を切り替えるように呟いてから、彼女は手にした書類に意識を戻す。

 彼女が目を通しているのは、旧知の仲である紅坂カウルから送られてきた二種類の報告書だった。ひとつは、件の遊園地での事故に関する報告書。紅坂研究所が綾を診察した際のデータと、カウルなりに綾の魔力交換不全症の原因について解析した結果が記されている。そしてもう一つは、彼女がカウルに取り寄せるように頼んでいた展望台事故の記録だった。

 一つ目の報告書で、カウルが綾の病状について考察した結果は、結論から言えば「原因不明」。それは今まで、蓮香や魔法院の研究者達が下した結論と変わりない。ただ一点異なるのは、ある仮説を記述している点だろう。最も、その仮説についてはカウル自身が「現時点ではただの推測の域、あるいは空想の域を出ないものではあるが」と前置きした上で記載されている。

「空想ね」

 確かに彼自身が言うように、彼の仮説は学会に提出したのなら一笑に付される類のものに思えた。事実、蓮香自身も考察に値しないものとして読み捨てただろう。そう、もし彼女が仮説に示されている「世界樹に連なる魔法使い」が、実在すると言うことを知らなければ。

 実際の所、蓮香自身、カウルの言うように、紅坂セリアが本当に「世界樹に連なる魔法使い」と呼ばれる存在なのかどうか、確証を得てはいない。しかし、カウル自身がセリアをその類の存在だと見なしていることは知っている。だから、カウルの仮説を考察に値しないと、笑い飛ばすことは出来なかった。

 紅坂カウル。人間としてはかなりいい加減で、素直に信用することは難しい人物ではあるが、魔法使いとしての才能は突出しており、その見識を無視することは蓮香には難しかったのだ。加えて、カウルは綾の病状は、例の望遠鏡暴走事故に起因しているのではないかと推測している。この点は、実のところ蓮香が最近考え始めていた仮説と類似性があった。

「類似性、か。紅坂先輩と同じ結論にいたって光栄です、とでも言わないといけないのかな」

 そう嘯きながら、蓮香は今度はもう一つの報告書を手に取った。かつて何度も何度も読み直したはずの、彼女が最愛の妹と幼なじみを失った事故の記録。だが、今手にしている資料は、その後判明した事実、事故現場の現状など新たに判明している情報も記載されているものだった。

 魔力によって情報が記載された報告書は、厚みも重さも殆ど無い。なのに手にした感触はひどく重く、蓮香は知らず陰鬱な息をこぼす。

「……今更、またこの事故に触れることになるは思わなかったけどな」

 本音を言うのなら、蓮香はもうこの件には触れたくないと思っていた。

 神崎美弥と神崎誠司。その二人が命を落とした事故は、蓮香の心に拭いようのない傷跡を残したが、しかし、それでも蓮香の中ではその事故はもう終わったものだったからだ。

 事故が起きた理由は掴んだ。もう二度と、あの事故を起させないための仕組みも組み立てた。

 だから、もう、それで良かった。だから、もう、それで良いと自分自身を納得させた。喪った悲しみが癒えた訳じゃない。不条理への怒りが消えた訳じゃない。だけど、いつまでも、それに浸っていられなかった。あの時、奇跡的に助かった二つの命に。誠司と美弥の二人が自身を省みずに守りきった子供たちに、悲しみと怒りに溺れている姿なんて見せるわけにはいかなかったから。だから、蓮香は前を向いた。あるいは……二人の子どもがいたからこそ、前を向くことができたのかもしれない。

 そう。だから、これは終わったはずの過去。もう目にすることはないと、手を引いたはずの過去。

 なのに、蓮香が自らこの事件に関する情報を集め始めたのは、神崎良と紅坂セリアが魔力交換を行った際の出来事が切っ掛けだった。正確には、その際に良とセリアが見たという夢の光景が原因だと言うべきなのかもしれない。

 良とセリアが魔力交換の際に見たという世界樹の葉が舞い散る光景。それは世界樹の雨の光景そのものだ。この世界に住む魔法使いであるのならば、何度となく目にする光景であり、それを夢で見ることは不思議でも何でもない。だが、それが「良とセリア」との魔力交換で生じた夢だという点が蓮香にはひどく気にかかり、そして蓮香の心の端に引っかかっていた疑問を思い起こさせたのだ。

 その疑問とは、カウルと同じく二人の子供が助かった理由……では、なかった。

 確かに、あの事件にまつわる大きな疑問の一つではあったが、『死んだ二人が身を挺して二人の子供をかばったおかげ』という結論に、蓮香は異を唱えるつもりは毛頭なかった。例え感傷的と誹られても、大切なものを喪った彼女には、その説明が最も真実に近い物と思えたのだ。だからこそ、彼女は事故の発生理由の特定に全力を上げたのだ。

 故に、彼女が気に止めていたのは別の疑問だった。それは綾が世界樹の雨に対して恐怖感を抱くようになった理由についてだ。

 綾が両親を失うことになった望遠鏡暴走事故は、世界樹の雨が降った日に起こった。その事実が綾の心にトラウマとして刻まれたものだと、蓮香も綾を診断した医師も考えていた。両親を失った事故で、気を失うまでの僅かな間に世界樹の雨を目にしたからこそ、トラウマとして綾の心にその風景が刻まれたのだろう、と。だが、その考えが正しいのかどうか。実は、昔から蓮香にはひっかかる点があった。わざわざカウルから事故に関する最新の情報を取り寄せたのは、まず、その疑問を確認するためだったのだが。

「やっぱり、世界樹の雨が観測されたのは、事故の後、か」

 重い声と同時に、蓮香は深く息をついた。彼女が確認したのは、事故の当日、世界樹の雨が観測された時刻だ。

 わずか数分の差ではあるが、世界樹の雨の観測時刻は、望遠鏡事故の発生時刻よりもわずかに「遅い」。事故当時は、観測誤差の範疇だろうと考えられていたが、現在の紅坂研究所の分析技術を使用してもなお、世界樹の雨の観測は、事故よりも後だと結論づけられている。

 最も、この情報自体は、異常点における魔力の異常増幅の条件に世界樹の雨が絡んでいることに矛盾はしない。世界樹の魔力の影響が「世界樹の雨」という形で結晶化され、周囲の魔法使いに視認されるより、異常点に対して作用する方が僅かに早いためだ。故に、事故の発生に関して言えば矛盾は生じない。だが、綾のトラウマに関しては話が違ってくる。綾はあの事故の直後から、二日間の無意識状態にあった。つまり、あの事故の時、綾は世界樹の雨を実際には目にしていないことになる。事故後の聞き取りでも、綾は「世界樹の雨を見た」と証言しており、その証言とも矛盾する。

 なら、綾は「どこで」世界樹の葉を見たことになるのか。その事実を突きつけられて、蓮香は再びため息を零す。

「気にし過ぎなのかもしれないが……」

 あるいは、それは気に止める必要のないことなのかもしれない。事故の瞬間に意識はなくとも、視力だけがその光景を捉えていたのかもしれない。あるいは、世界樹の雨の魔力自体を感じ取ってしまっていたのかもしれない。後に事故が世界樹の雨の日に起きたという事実を知って苦手意識を抱くようになったという可能性もある。綾の証言についても、記憶の混乱によって引き起こされたものだと考えることはできる。実際に当時は、そのように判断されたのだ。

 だから、理由はいくらでも付けられる。だけど、もし、と蓮香は思考を巡らせた。

 もし、本当に事故の時、綾が世界樹の雨を見ていたのなら―――。

「……世界樹のある光景か」

 呟く蓮香の脳裏には、良がセリアと魔力交換した際に見たという景色が重なっていた。

 /

 神崎夫妻が命を落とした望遠鏡の暴走事故。

 魔力交換の果てに世界樹のある風景を見たという魔力交換。

 そして、そもそも「世界樹に連なる魔法使い」であるセリアに興味を抱かさせる原因となった天国への門での事故。

 そのいずれにも、一人の魔法使いが絡んでいると言うことに、神崎蓮香はもう気がついていた。

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