第三十一話 神崎家の兄妹(中編)(その3)
/5.追憶の場所で(神崎良)
果たして、綾はどこまで行くつもりなんだろう。うっすらと地肌が見える獣道のような小道を辿り、突き進むことしばし。辺りをキョロキョロと見回しながら進む様子から、綾自身もはっきりとした場所はわかっていないように見えた。
ひょっとしたら、道に迷ったのかも知れない。そんな不安に、そろそろ俺が声を上げようとした刹那、立ち並ぶ木々の隙間から差し込む光がにわかに明るくなった。
「何だ?」
木々の先に何があるのか。それを確かめようと目を細める俺の傍ら、綾が歩みを止めて、「……あった」と呟きを零す。
「綾? 着いたのか?」
「うん。多分……ううん、きっとここ」
興奮しているのか、僅かに頬を紅く染めて、そして喜色に声を揺らしながら綾は一気にかけ出した。
「綾! 走るな、足下、危ないって!」
「大丈夫! それより、兄さん、早く!」
「あ、こら。ちょっと落ち付けって、綾!」
足下の悪さや茂る木々の枝にも気を止めず、綾は俺の制止を無視して一目散に駆けだしている。そんな妹に遅れないようにと、慌てて俺も後を追った。そして木々の茂みを抜けたその先。
「……っ、あった!」
「綾。あったって何が……って、なんだ、ここ?」
不意に視界が開けると、眩しいくらいの光と共に目に飛び込んできたのは白く水面をきらめかせる池だった。青々と茂った森の中、まるで箱庭のような空間が、その池を中心にして忽然と姿を見せたのだ。魔法院の教室よりも一回り小さいぐらいの広さしかないけれど、奇妙な静謐さに満ちていて、しばし、俺はこの光景に見とれてしまう。
最初は沼なのかとも思ったけれど、こうして箱庭の端から眺めていてもまるで濁っている様子はない。透明度が高いのかとも思ったけれど、日差しの所為か、水面が輝いていて水面下の様子はよくわからない。というか、どうしてこんなに輝いて見えるんだろう。確かに拓けた場所なので、日の光は差し込んでいるけれど……それにしたって。
「ほんとに……」
「綾?」
「ほんとに……、あったんだ」
「綾も来たこと無かったのか? この池」
「池じゃなくて、泉です」
「どう違うんだっけ?」
「泉の方が詩的です」
左様ですか。そう心の中で突っ込みを入れたけれど、でも口には出さなかった。この場所がどういう場所なのかは知らないけれど、綾が感動に浸っているのだから、水を差す言葉は必要ないだろう。
そう俺が納得していると綾はゆっくりと泉の方へと歩み寄っていく。
「ここ、魔法の泉なんだって」
「ああ。だから、こんなに明るいのか」
やけに明るく見えると思ったけど、この泉は水面自身が仄かに光を放っているのだ。要するに「光る泉」。夜に見れば、一層幻想的な趣なのだろう。
「確かに、これはとっておきの場所だな」
「……」
「綾? 滑らないように気をつけろよ」
素直な感想を零す俺に綾は答えないで、そのまま、ゆっくりとした足取りで泉の縁へと脚を進めていた。そして綾は池、もとい泉の縁にしゃがみ込むと、その静かな水面にそっと指先を浸す。触れた指先を起点にして、鏡のような水面に静かな波紋が広がっていく。日の光と、泉自身が放つ光。それらが混じり合って、揺らめく波面に不思議な光の絵を描いていく。もし、白銀の糸だけで織られたレリーフがあるのなら、あるいはこんな風に見えるのかも知れない。そんな風な思いを抱いている自分に気付いて、俺は内心で手を打った。なるほど、確かに、この場所は詩的な場所なのかも知れない。
「あのね、兄さん」
「何だ?」
どのぐらい、光と水の絵画に見惚れていたのだろうか。独り言のように零された言葉に、俺は意識を呼び戻されて綾の方へと目を向けた。綾の方は相変わらず泉に指先を遊ばしたまま。
「デートして、って言ったとき、どうして迷ったの?」
「ん?」
水面を渡る波紋に視線を落としたままの問い掛けに、俺は何のことかと首を捻る。
「覚えてない? 私が今日のことお願いしたときのことだけど」
「……あー。あれか」
一瞬なんのことかって思ったけれど、確かに綾が試験のお礼に「デートして欲しい」って言ったときには、口籠もったかも知れない。
「あれは……そうだな。デートっていう言葉に気圧されたのかな。そういうのは慣れてないから」
「ふーん」
俺の答えに、綾は釈然としない、というように声を漏らしながら立ち上がった。
「それって、意識しちゃったってことかな。私のこと」
「いや、免疫がないだけ」
「もう。素直じゃないなあ」
妹と出かけるのに普通は「意識」なんてしない。客観的にみて、俺と綾は仲のよい兄妹だって思うけど、でも抱いている感情は「そういう感情」とは、また違う。……違うはずだよな。うん。正直に言えば、綾は俺にとって特別な存在だけど。でも、だからこそ、そういう対象としては見てはいけないはずだった。
綾のことは大切にしたい。でも、だからこそ、離れていく準備はしないといけない。だったら、少なくとも俺が綾をつなぎ止める枷になってしまうのだけは、駄目だから。
そういえば、佐奈ちゃんに相談されたことがあった。兄弟を好きな女の子の事をどう思うかって。綾なら、そんな事態をどう思うんだろう。家族としての感情と、異性としての感情と。その二つは果たして両立できるものなのだろうか。勿論、それを両立させたものが夫婦になる訳だけど……兄妹である以上、夫婦っていう関係には決してなれない。それがわかっているから、佐奈ちゃんの質問に、俺はあの時「兄妹の恋愛は受け入れない」と答えを返した。あれから、時々考えて見たけれど、やっぱり、誰もが傷つかない綺麗な答えなんて出てこない。
でも、綾ならなんて答えるのだろう。佐奈ちゃんなら、きっと俺よりも先に綾に相談しただろうから、綾もなんらかの答えを返したんじゃないだろうか。なら、その答えはなんだろう。一瞬、綾にその答えを聞いてみようか、なんて気持ちが浮かぶ。
「兄さん?」
「……なんでもない」
だけど、そんな考えを俺は慌てて打ち消した。なんだか、それは取り返しのつかない出来事の引き金を引きかねないから。
「それより綾、よくこんな場所知ってたな」
「凄いでしょ」
変えた話題に、綾は素直に食い付いて、そして誇らしげに胸を張った。
「でもね、実は兄さんはこの場所には来たことがあるんだよ?」
「へ?」
言われて俺は思わず気の抜けた声を零す。そして、慌てて辺りを見回して、記憶と照合するけれど……やっぱり、記憶のどこにもこんな景色の思い出はなくて。戸惑う俺を綾はしばらくおかしそうに見ていたけれど、やがて小さく微笑みながら種明かしをしてくれた。
「ふふふ。答えは兄さんがまだおなかの中に居るときのことでした」
「おなかの中って……あ、そういうことか」
「うん。まだお母さんのおなかの中に居るときに、来ている筈なんだって」
それなら確かに記憶に残っているはずはない。納得して頷く俺をみて、綾は満足そうに微笑むと大きく手を広げた。
「ここってね。お父さんとお母さんのお気に入りのデートの場所なの」
「……そう、なのか」
「うん」
どうして知っているのか、と思ったけれど、口にはしなかった。きっとレンさんに聞いたんだろう。そう納得して、でも今度は別の疑問が口をついた。
「なんでレンさんは、そんなことお前にだけ教えたんだ?」
「私が教えてって、ねだったから」
俺の疑問にあっさりと答えて、そして綾は俺の目を真っ直ぐに見つめる。
「兄さんは、そう言うこと聞かないよね」
「そんなことはないけど」
反射的にそんな言葉が口をついたけど、でも、よく考えればそうなのかもしれない。「そんなこと」とはきっと、父さんと母さんの事だろう。遠い記憶の中の、二人の笑顔。それを綾の顔に重ねて、俺は綾の目から僅かに視線を外す。その笑顔に顔向けできるような自信がまだなかったから。
でも、そういう態度が隙になったのかもしれない。あるいは、この場所の意味合いをちゃんとレンさんから聞いておくべきだったのかも知れない。
「……ねえ、兄さん」
「ん?」
「手、握って欲しい」
「? 良いけど……」
頷いて差し出された綾の右手を左手で取る。と、その次の瞬間に、綾が左手を伸ばして俺の右手を取った。
「綾?」
「えへ。捕まえた」
お互いの右手と左手をつないで、自然と向き合う形になる。だから、綾は俺の顔を正面から見つめて、少しだけ照れくさそうに微笑んだ。でも、はにかむ笑顔のその奥に、隠しきれない決意の色が覗いている。
「綾。お前」
「ねえ、兄さん」
何をするつもりかという俺の言葉を、遮って綾が続けた。優しい声なのに、どこか固く聞こえる。いい知れない予感に、掌に汗を感じたけれど、果たしてそれは俺の汗なんだろうか、それとも綾の汗なんだろうか。
「どうして、ここがお父さんとお母さんのお気に入りのデートの場所なのか、わかる?」
「どうしてって……綺麗だから、とか」
「ぶー。外れ」
はぐらかそうとする俺の意図を軽くいなして、綾は真っ直ぐに俺の瞳を見つめ続ける。その真っ直ぐな視線に、知らず、頭をよぎる記憶があった。それは……あの遊園地での出来事で。綾とキスをしたあの時の、記憶で。だから、このままの体勢でいるのは非常に不味いってわかっているのに、体がうまく動いてくれない。動かないと駄目だってわかっているのに、でも、動けなかった。
「ここはね、母さんが、父さんに告白したその場所なんだよ」
「……そっか」
「うん」
その答えに、綾がどういうつもりで俺をここに連れてきたのか、鈍い俺でもはっきりとわかったから。
繋いだ両手。それを通じて伝わってくるのは綾の熱と、隠せない震え。それが綾の気持ちを伝えているから、
「あのね、わたしね」
母さんが、父さんに想いを告げたこの場所で。泉が光を放つこの場所で。綾がなにをするつもりなのか、わかってしまっているのに。
繋いだ両手から伝わる震えが、見つめる瞳に揺れる迷いが。綾の手を振り払って、その目から逃げることを、させてくれなくて。だから、俺と綾を止める者は、他に誰もいなくて。
「私、私ね―――」
いつか、母さんが、父さんにしたように。
「私、兄さんのことが、好きです」
今、妹は、兄に、その気持ちを告げていた。




