第三十話 神崎家の兄妹(前編)(その1)
/0.デートの朝(神崎良)
「お、晴れたな」
カーテンを開けた途端、目に飛び込んできた青空に、俺は思わずそう呟いた。週末の朝。窓ガラス越しに空を覗けば、綺麗な薄雲が空高くに浮かんでいる。いわゆる絶好の行楽日和という奴だろう。
「違うか。デート日和、って言わないと怒られるかな」
そう呟いてから俺は部屋時計に目を向けた。いつもの起床時間より一時間以上遅い。今日は学校が無いから十分に朝寝坊を楽しんだ……という訳じゃない。いやまあ、その側面が全く無いとは言わないけれど。でも俺がわざわざ「頑張って」遅く起きたのには別の理由がある。
「そろそろ、大丈夫だよな」
心持ち足音を殺しながら俺は自室のドアへとそっと近づいて、一階から物音がしないかどうか聞き耳を立てた。穏やかな朝の空気の中、ドア越しに人の動き回る物音は聞こえてこない。なら、そろそろ動き出しても大丈夫だろう。そう頷いて俺は大きく息を吐き、そして今日の準備を始めるべく大きく体を伸ばした。
「さて、じゃあ、追いつきますか」
時計の針が指し示す時間は、約束の時間の一時間前。寝過ぎたわけではないけれど、さほどのんびりしている暇もない。万が一、待ち合わせ時間に遅れようものなら、どんなことになるのか想像もしたくない。とはいえ、逆に準備を早くしすぎて、待ち合わせ場所に行くまでに綾に追いつきでもしたら、それはそれでまた怒られるのだろう。何しろ、綾と来たら同じ屋根の下に住んでいるというのに、わざわざ朝に顔を合わせないように俺の起床時間を制限までしたのだ。なかなか時間調節が難しい所だった。
「……でも、何を考えてるんだろうな。あいつは」
そこまでして、綾は「待ち合わせ」を演出したいらしいのだけど、その意図は何なのだろうか。それがわからないまま、俺は「まあ、そういう所も綾らしいけど」とうそぶいて、誰もいないリビングへと、歩き始めたのだった。
妹の綾とのデート。
その待ち合わせ場所に、時間通りにつけるようにとこれからの行動順序を頭に描きながら。
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魔法使いたちの憂鬱
第三十話 神崎家の兄妹(前編)
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/1.魔法院研究棟(龍也と久遠)
「デート? 良君と綾ちゃんが?」
「はい」
「ふーん」
貴重なはずの機材が乱雑につまれた東ユグドラシル魔法院研究棟の一室。その中で必要な器具を手探っていた緑園久遠は、速水龍也が口にした話題に手を止めて、感心するような表情で息をついた。
「デート、か。相変わらず仲がいいのね、あの兄妹は。羨ましいわ」
「羨ましい、ですか?」
この研究室の主、緑園久遠。その彼女の捜し物を手伝いながら、龍也は首をかしげる。
「緑園先生は、ご兄弟がいらっしゃるんですか?」
「姉妹ならね。男兄弟はいないから、憧れるのよ。仲の良い兄妹って素敵だって思わない?」
「それは……はい。僕もそう思いますけど」
「……ふむふむ」
龍也の返事に歯切れの悪さを感じ取って、久遠は少し目元をゆるめる。生気のあふれたその緑の瞳に、久遠は悪戯めいた光を浮かべつつ、ややわざとらしい口調で言葉を続けた。
「あ、でも。ちょっと変かもしれないわね」
「変って、何がですか?」
「あの二人、兄妹にしては仲が良すぎる気がするなーって。龍也君はそんなこと思わない?」
「思います! ……っ、あ、済みません」
久遠の台詞に、龍也は勢い込んで言葉を重ねた。だが、その言葉の勢いが良すぎることに直ぐに気付いて、龍也は恥じ入るように頬を赤くした。いつもは落ち着いている龍也のそんな様子に、久遠は微笑ましい感情をかみ殺し、彼の瞳を覗いて感情を探った。
速水龍也。高等部の学生でありながら、上級研究員にも比肩する魔法を行使し、「速水会」なんていうファンクラブまで組織している逸材……のはずなのだが。どうやら神崎兄妹のことになると、やや感情を揺らしてしまうらしい。さて、彼を揺さぶる原因は才色兼備の誉れも高い妹なのか、それとも十人並みと見られている兄なのか。
(ふふふ。若いって良いわね-。可愛いなあ)
才能あふれる魔法使いが感情をもてあましている様子に、久遠は自分の感情が刺激されるのを自覚する。だが、思わず手を伸ばしそうになる自身を、彼女はすんでの所で堪えた。
(龍也君って、蓮香のお気に入りみたいだし。流石に手を出すのは不味いわよねー。ああ、でも良いなあ。可愛いというか、綺麗だし。持ち帰りたい……)
脳裏に親友の顔を思い浮べて、何とか自制する久遠。そんな彼女の様子に龍也は、不思議そうに小首をかしげて問いかける。
「あの、緑園先生。どうかしましたか?」
「え? 何もしてないし、何もしないわよ? まだ」
「まだ?」
「うん、って、いや、なんでもないわ。こっちの話よ。うん」
あはは、と久遠はあからさまにごまかす笑いを浮かべて手を振った。その態度に流石に疑問を感じた龍也だったが、差し当たって彼が選んだのは話題を元に戻すことだった。
「あの、先生。少しお尋ねしてもいいですか?」
「あら、なにかしら」
「さっき、良と綾ちゃんのことで「相変わらず仲が良い」っておっしゃいましたよね」
「あー、うん。言ったわね」
「じゃあ、その……緑園先生は二人のこと、お詳しいんでしょうか」
その瞳にわずかな躊躇いを潜ませて、それでもまっすぐに久遠を見つめて龍也は彼女に問いかける。その表情を見つめながら、久遠はあご先に軽く手を当てて小首をかしげた。
「んー? どうかしらね。あの二人のことなら、君の方が詳しいんじゃない?」
「最近のことならそうだと思います」
「ああ、そういう事」
要するに龍也が知りたいのは、二人の子供の頃の話か。そう了解して、久遠は軽く頷いた。そして脳裏に思い描くのは、まだ幼い頃の神崎兄妹の記憶。所々、色あせて、だからこそ綺麗なその思い出に、久遠は小さく笑みを零す。
「そうね。レンとは付き合いが長いから、あの子たちのことは昔っから知ってるわ」
「やっぱり、そうなんですね」
「ふふ、ちゃんと思い出してみると懐かしいわね。うん、昔っからお兄ちゃん子だったわね、綾ちゃんは」
「昔っから、ですか」
「そうよ。文字通り、良君にべったりとくっついていた時期もあったし。お風呂はともかく、トイレにまで良君といっしょにじゃないと嫌だって、ぐずる娘だったのよ」
「と、トイレもですか?!」
「そうそう。可笑しいでしょ? いやー、レンも随分と苦労してたわねー。あいつが「十歳は老け込んだ」とかぼやいてたのよ?」
幼い子供二人に、あれこれと振り回される蓮香。親友のそんな姿を笑いながら見守っていたあの頃から、どれだけの時間がたったのだろう。そんな感傷めいた想いに指折り時間を数えそうになって、しかし、久遠は即座にその行為を止める。いつまでも自分は若いと信じる彼女は、時間の経過を考えるのは嫌いなのだった。
「でも、考えてみるとレンは、あの頃から綾ちゃんには振り回されっぱなしなのよね。ふふふ、困った娘よね。綾ちゃんってば」
「……あの。じゃあ良もですか?」
「良君?」
「はい。良の方も変わってないんでしょうか」
「そうね-」
少しだけ記憶を巡らせて、そして久遠は首を縦に振る。
「うん、良君も変わってないかな。今と変わらず、綾に優しいお兄ちゃんだったわよ」
今と変わらず、少し、優しすぎるって思えてしまうぐらいに。そう心の中で呟いて、久遠は「少し休憩にしましょうか」と龍也に言葉を向けた。
少しだけ、遠い昔の記憶のページを物語る準備を心の中で整えながら。
/2.兄妹で待ち合わせ(神崎良)
時間調節の甲斐あって、俺はほぼ待ち合わせの時間通りに、指定された公園にたどり着いた。駅前近くにある小さな公園。人もまばらなその公園の古びた時計台の下で、綾は約束したとおりに一人で佇んでいる。白のブラウスと紺のスカートという出で立ちの綾は、気遣わしげに腕時計に視線を落としていて、まだこちらに気づいている様子はない。
「あれ、ちょっと遅れたかな」
そんな不安に俺が急いで綾に声をかけようとした刹那、綾が不意に顔を上げた。そして俺に気づいて、満面の笑顔を浮かべて大きく両手を振る。
「兄さん!」
「おはよう。ひょっとして、俺、遅れたか?」
手を振る綾に足早に近づきながら尋ねると、綾は腕時計を俺に示しながら笑ってくれた。
「大丈夫。ほら、時間通りだよ」
「そっか。でもお前、結構待ったんじゃないのか?」
「ううん。私も、今来たところだから、大丈夫だよ」
「いや、今来た所って。お前、俺が起きたときには……」
「いま・きた・ところ・だから」
「あー、はいはい。わかりました」
「はいは一回です」
「はい。わかりました」
「よろしい」
俺が折れると、綾は満足げに微笑んだ。どうやら今日は待ち合わせの演出にこだわるつもりらしい。本当に、なんのつもりなんだろうか。その思いに俺が軽く首をひねるけれど、綾の方はそんな俺の疑問には気づかない様子で、別のことを口にした。
「あれ、そう言えば兄さん」
「うん?」
「そんな服、持ってなかったよね?」
「ん?」
そんな服、と綾が言った俺の服装は、別に奇抜な出で立ちという訳じゃなくて、少し前に買っていたシャツとジーンズ。ひょっとして、どこかおかしいだろうか。
「いや、前から持ってたよ。着たことはなかったけどな」
「ふーん。そっか」
そんな返事に、なぜか綾は少し相好を崩した。そして嬉しそうに口元に笑みを湛えたまま、上目遣いで俺の表情をのぞき込んできた。
「なんだよ。どうかしたのか? って、やっぱりどこか変か?」
「ううん。違うの。あのね、兄さん。それって今日のデートのため新しい服をおろしてくれたってことなんだよね」
「え? いや別にこのために新調したという訳じゃなくてだな」
「照れなくてもいいのに」
「あのなあ」
別にそう言う意識はなかったつもりなんだけど、でも言われてみるとそういう事になのだろうか。綾がいろいろと準備してくれているみたいだから、しまっておいた服を着てこようという気になったのかもしれない。
「お前だって、そんな服持ってたっけ」
「えへへ」
「なんだよ」
「気づいてくれて嬉しいなーって」
そう言って綾はその服をお披露目するように、くるり、と俺の目の前で一回転して見せた。白と紺のコントラストが、目に鮮やかに綺麗に回る。
「今日のために新調したんだ」
「そ、そっか」
はっきりと言い放つ綾に、なんと答えたものかと言葉を探す。だけど俺が口を開くより前に、綾は少し照れくさそうにスカートの裾を少しだけ揺らした見せた。
「どうかな。似合う?」
「似合う、似合う。って、痛て」
はにかむ綾に、俺は素直に賛辞を口にした……のに、なぜかいきなりほっぺたをつねられた。
「なんで、そこで怒るんだよ」
「誠意がありませんー」
「そんなこと無いって」
「本当?」
「本当」
「絶対?」
「多分」
「もう! そう言うときは、ちゃんと手を握って「綺麗だよ。綾」ぐらいは言ってくれないと駄目」
「言うか!」
どこの兄が実の妹相手に、そんな告白まがいな態度と台詞を言うというのか。
……まあ、本音を言えば似合ってると思うけど。ちょっと見とれるぐらい、我が妹ながら可愛いとは思うけども。まあそんなことを正直に口に出すと、またどこからか「シスコン」との声が降り懸かってくるだろうから、言わないけども。
と、内心でそんなことを呟く俺に、綾は少しふくれてみせてから、不意に不適な笑顔を浮かべて見せる。
「いいよ。兄さんが素直じゃないのは知ってるんだから」
「素直とか、そういう問題じゃないです」
「そういう素直じゃない兄さんには……えい!」
「おっと」
何を思ったのか、綾はいきなり俺の腕をとって、そのまま腕に抱きついてきた。その急な行動に危うくバランスを崩しそうになって蹌踉めいたけど、俺は何とかバランスをとってそのまま綾を支えた。
「お前な、急に抱きつくな」
「えへへ。ごめんなさい」
「……」
危ない、と起こらないといけないのだけど、綾の本気で嬉しそうな微笑みに、怒る言葉が出てこない。……まあ、今日ぐらいは良いか。そう思って腕に抱きつかれるままにしていると、綾が妙に不思議そうな顔をして俺の方を見上げた。
「……あれ?」
「ん? なんだ?」
「今日は振り払わないんだなーって。ほら、いつもだったら、腕に組み付くのは嫌がるのに」
「いつもならな」
そんな綾の問いかける視線に、俺は少し視線を外してから答えを返す。確かにいつもならいきなり腕を組まれたりしたら振り払うなり、文句を言うなりするけれど。でも、まあ、今日は。
「デートなんだろ? 今日は」
わざわざ早く起きて、俺と別行動をとって、新しい服もおろして。
そこまでして、綾がそういう雰囲気を演出したいっていうのなら、少しぐらいはそれに付き合ってやらないと駄目かなって思っただけだった。そもそも、今日は綾にお礼をするための日だし。それで綾の機嫌が良くなるのなら、それでいい。
「だから、まあ、そういうこと」
「……うん!」
自分でも「どういうことだ」と突っ込みを入れたくなったりもするけれど、それでも綾は満面の笑みで頷いて、抱きつく腕にさらに力を込めて、笑った。
「えへ。幸せ」
「……」
「兄さん? どうかした?」
「いや、なんでもない」
本気で幸せそうな笑みを浮かべてたから。その屈託無い笑みに、思わず見とれていた……なんて、言うシスコン発言は口にするわけにはいかずに、俺は誤魔化すように小さく咳払いをして話題を変えた。
「それで、今日はどこに行きたいんだ? もう決めてあるのか?」
「んー、一応ね。でも、兄さんは行きたいところある? あるならそっちでもいいよ」
「綾の行きたいところでいいよ。今日はお礼だしな」
「本当にどこでもいい?」
「いいよ」
「お値段度外視でも?」
「常識の範疇でお願いします」
「はーい」
そう悪戯っぽく笑ってから。
「じゃあ、今日一日、よろしくお願いします」
綾は俺の腕に寄り添うようにして、歩き始めたのだった。