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第二十九話 試験を終えて(その2)

/2.放課後の教室(神崎良)



「本当に、ごめん」

 試験結果が返された放課後、教室に残った霧子と龍也の二人に俺は改めて頭を下げていた。



「もう。そう何回も謝らないでもいいわよ」

「そうだよ、良。そんなに落ち込むこと無いと思うよ」

 深々と、というか、教室の机に頭を擦りつけつつ謝る俺に、霧子と龍也はなんとも複雑な表情で、そう答えてくれた。そんな二人が時折視線を向けるのは、机に置かれた俺の成績表。そこに示されている数値は、平均してみれば平均点少し上。要するに今までとあまり変わらないわけで、別段、成績が落ちた訳じゃないともいえる。……あくまで、全体を平均した点数で見るのならば。



「でも、まさか実技の成績が下がるなんてねー。流石にこういうオチを付けてくれるとは思わなかったわ」

「うう、重ね重ね、ごめん」

「で、でもさ、成績はちゃんとあがってるよ?」

「……いいんだ。龍也、無理にフォローしてくれなくていいんだ」

 気遣ってくれる龍也に感謝しつつも、俺はため息を殺しながら成績表に並んだ数字に目を落とし、そしてそこに並んだ数字に目眩を覚えて、結局ため息をついてしまう。

 長所であった理論の点数は大きく上がったのにも関わらず、肝心の克服すべき実技の点数は大きく落ちたのだった。具体的な点数はあまり言いたくはないのだけど、赤点をぎりぎり間一髪で回避できるぐらいの点数だったりする。試験終了後の手応えから、実技の点数については予想というか覚悟はできていたつもりだったのだけれど、やはり残念なものは残念な訳で。



「あんなに、みんなに教えて貰って、これじゃあなあ」

 申し訳ない気持ちと、自分へのふがいなさで胸が一杯になってしまうのだった。そんな俺の落胆を見かねて、龍也は励ましの言葉を口にしてくれる。



「そ、そんなに落ち込まないでよ。良はちゃんと頑張ってたしね。ね、霧子」

「そうね。確かに頑張ってたわよね」

「うん。そうだよ! だから……」

「まあ、一緒に勉強して私はちゃんと成績あがったけど」

「き、霧子!」

「ご免なさい、反省してます。産まれてきて済みません……」

「良?! 気を確かにね?!」

 そして龍也に対して霧子の反応は、流石に怒り混じりだった。まあ、それは当たり前の反応だと思う。昼休みに成績を聞きに来ていた綾も、俺の不甲斐ない成績に大いに憤慨して、帰っていってしまったし。



「……会長さんには、なんて言われるかなあ」

 霧子と綾の態度から、ある意味一番、怖い人の反応を予想して俺はひときわ大きな溜息をこぼす。そして「会長」という言葉に、霧子と龍也もどこか哀れむような表情を浮かべて、小さく息を吐いた。



「会長さんの反応ね。あまり考えたくはないわよね……ご愁傷様。殺されないようにね」

「怖いこと言わないでくれ、頼むから」

 というか、あまり冗談に聞こえないあたりが恐ろしい。



「会長さんには、結果はまだ言ってないんだよね?」

「ああ」

 昼休みに結果を報告したのは、霧子と龍也、それに綾と佐奈ちゃんの四人。会長さんと篠宮先輩は、生徒会の用事があるとかで、会えなかった。綾と二人で同時に怒られなかっただけましだと思うべきなのか、あるいは、一番の恐怖が先延ばしになっただけだとおののくべきなのか、どっちなんだろうか。

 そんな恐怖に震える俺を横目に、霧子は肩を竦めながらふと意外なことを言い始めた。



「でも、今の会長さんならそんなに怒らないんじゃない?」

「……ああ、それはそうかも」

 霧子のそんな言葉に、なぜか龍也も少し考えてから頷いた。



「そうか? まあ、会長さんは、俺の様子なんて見抜いてたみたいだから、あまり怒らないかもしれないけどな」

「あのね、そういう事を言ってるんじゃないわよ」

「まあ、良がわかってないのなら、そっちの方がいいんだけどね。僕は」

「そうね。私もそう思うわ」

「?」

 なんとなく呆れたような、あるいは安心したような表情で頷きを交わす霧子と龍也。そんな二人の意図がわからずに、俺は疑問符を浮かべて首をかしげてしまう。まあ、会長さんが本当に怒らないとしても、彼女に怒られなければよいという問題ではないのだけど……でも、どういうことだろうか。そんな疑問に首をかしげる俺に、龍也は小さく咳払いをしてから不意に話題を変えた。



「それより、良。やっぱり、まだ調子がおかしいの?」

「うーん。正直、自分でもよくわからない」

 龍也の問いかけに、俺は正直に首を横に振った。

 調子がおかしい、とは俺の魔力の調子だった。言い訳になるかもしれないけれど、ここ最近、ずっと俺の中にはある種の違和感がまとわりついていて上手く魔法が使えない、という状態が続いている。その不調の原因はわからないのだけど、少なくとも切っ掛けについては予想がついている。俺が魔法を使う際に違和感を覚え始めたのは、会長さんとの魔力交換の後からなのだから。



「魔力変調じゃないのよね?」

「ああ、うん。レンさんはそう言ってる」

 魔法を使うときの違和感については、当然、レンさんに相談はしたし、診察のようなこともしてもらった。

 そのレンさんの見るところでは、龍也と同じように魔力変調を起こした……という訳じゃないらしい。「魔力を扱う感覚が少し変わったんだろう」というのがレンさんの弁。分かりやすく言うのなら、今は筋肉痛で直りさえすれば今までより力が出せる、ということらしいのだけど。その説明に霧子が不思議そうな面持ちで小首をかしげた。



「魔力を扱う感覚が変わるって、実際に、そんな事ってあるの?」

「うーん。神崎先生が言うのなら間違いないんだろうけど……」

 霧子の疑問に龍也もまた首をひねる。そしてそのまま考え込むように一瞬の沈黙を挟むけれど、結局、龍也にも明確な答えは出せないようだった。龍也は大きく首を横に振ってから、感心したような面持ちで小さく笑った。



「ごめん、わからない。やっぱり、会長さんが絡む事は僕にはわからないみたい」

「そっか。まあ、レンさんが心配ないって言っているんだから、気にしすぎない方がいいんだろうけどな」

「うん。そうかも。調子が戻らない内はあんまり悩まない方がいいかもしれないね」

「そう? 結構、長い時間続いているわけだし、もっと気にした方がいい気もするけれど」

「でも、考えすぎると負の連鎖に落ち込むこともあるしね」

「うーん」

 そういうものだろうか、と、俺が軽く腕を組むと、龍也は何かに気づいたように小さく声を上げて、教室にかけられた時計を見た。



「あ、もう行かないと」

「あれ? 今日も速水会だっけ?」

「あ、ううん、違う違う。少し研究棟の方に用があって」

「研究棟?!」

「研究棟?!」

 龍也の口から出た意外な単語に、俺と霧子は同時に声をあげて顔を見合わせた。勿論、研究棟のことを知らなかったから驚いた訳じゃない。教育機関としてではなく、研究機関としての東ユグドラシル魔法院を代表する建物が研究棟だから、当然、魔法院に在籍するものならその存在は知っている。でも、高等部の学生にとっては、まだまだ縁遠い場所で、軽々しく足を運べるような場所じゃない。実際、レンさんは研究棟に席を持っているけれど、俺や綾はそこに訪れたことはない。だから思わず驚いてしまった俺たちに、龍也は少し照れたようにはにかんで続けた。



「ちょっと知りたい事があるんだ。まあ良を見てて触発されたって所かな。僕も頑張らないといけないなって」

「だからって、研究棟に行くわけ? 言いたくないけど、レベルが違うわね……」

「というか、凄すぎる。お前がそれ以上頑張るとどうなるんだよ」

「大丈夫」

 呆れつつも感心する俺と霧子に、なぜだか龍也は「大丈夫」と笑いかける。



「大丈夫って、何のことよ」

「だから、僕は良と霧子から離れて、遠くに行ったりなんかしないから」

「あのな、そんな心配なんかしてないよ」

「うん。だけど、一応、言っておきたくて」

 どこまでも人の良い、そんな言葉を口にしながら、でも目をそらさずに俺と霧子に告げると、龍也は少し小走りで教室の外へと姿を消した。そんな龍也の小さな背中を見送りながら、霧子はぽつり、と呟くような声で疑問を零す。



「ねえ、良」

「うん」

「龍也の知りたい事って何かな」

「さあ……なあ」

 あの龍也が、わざわざ研究棟に顔を出してまで知りたいこと。そんなのはっきり言って、俺と霧子、つまりは学生レベルの魔法使いの想像を超えている。



「正直、想像もつかないけどな。でも、龍也のことだから心配ないだろ」

「そうね。今のあいつなら心配ないか」

 別段、思い詰めた様子でもなかったし、寧ろ、楽しそうにも見えた。なら、敢えて詮索しなくても、いつか教えてくれるだろう。そう結論づけて、俺と霧子は教室の席から腰をあげた。



「じゃあ、俺たちも帰るか。霧子、部活は明日からだろ?」

「あ、そうなんだけど、わたし、部長に呼ばれてるから行かないと駄目なんだ」

「そっか」

 じゃあ、待つよ。そう言いかけて、俺は寸前でその言葉を飲み込んだ。



「じゃあ、今日は先に帰るな」

「何よ。待ってくれないの?」

「悪い。ちょっと用事を思いついたから、先に行くよ」

「……ん。わかった。気をつけてね」

 俺の考えをなんとなく、察してくれたのだろう。少しの沈黙を挟んで霧子は頷いてくれた。



「気にするのはわかるけど、あんまり変に無理するんじゃないわよ。お兄ちゃん」

「……わかってるよ」

 やっぱり、考えていることは見抜かれているらしい。まあ、昼休みのあいつの憤慨っぷりは、霧子も目の当たりにしているから割と簡単に感づかれてしまったのかもしれないけど。



「あ、それから」

「ん?」

 じゃあね、と言って背を向けかけていた霧子だったけど、何か思うことがあったのか不意に動きを止めた。そして少しだけ言葉を選ぶような素振りを見せてから、やがて小さく笑って、こう言ってくれた。



「お疲れ様。いろいろ言ったけど、頑張ってたよ、良。だから」

「わかってる」

 続く言葉を遮って、俺は強く頷いて、笑った。今回は結果は出なかったけど、積み上げたものはゼロじゃない。だから、次こそは……きっと。



「次は、ちゃんと見返すよ」

「うん。期待してる。じゃあね」

「……ありがとな」

 笑って去っていった霧子の背中に、聞こえないように俺はそう小さく呟いた。

 去り際に貰った励ましの言葉、それにさっきまでくれていたきつ目の言葉だって、発破をかけてくれてのことだって思うから。



「よし」

 そして、俺は、ぱしん、と頬を張って気合いを入れる。実技の成績は落ちてしまったことを開き直るのは論外だけど、落ち込み続けていてもしかたない。ここからまた気合いを入れて頑張ろう……とそう思うのだけど。

 まずはちゃんとお詫びとお礼の言葉を言って回るのが筋だろう。そう考える俺の脳裏には、昼休み、怒り心頭だった妹の姿が思い浮かんでいたのだった。





/3.綾の部屋(神崎綾)



「なんで、こうなるのかなぁ」

 学校から帰った私は制服を着替えもせずにベッドに倒れ込むと、枕に顔を埋めて身もだえた。



「上手く、行かないなあ」

 くぐもった声で呟きながら、最近の出来事を思い返してみる。考えてみれば、生徒会入りの件から、なんだかやることなすこと裏目に出てるような気がする。

 兄さんから敢えて距離を置くことで、兄さんの気持ちをこちらに向けさせるはずだったのに。兄さんは、霧子さんに誘われるままに美術部に入ろうとするし、会長さんに誘われるままに家庭教師をお願いしたりするし。そりゃ、もちろん遊園地の時みたいに良いことはあったんだけど……でも、それだって会長さんに兄さんへの興味を抱かせてしまうことになったわけで。

 そして今回の中間試験。兄さんにつきっきりで勉強を教えてあげられて、そして成績の上がった暁には、言うことを何でも聞いてもらえるという夢のような計画だったのに、結果は惨憺たるものに終わってしまった。



「どうしてだろ」

 枕を胸に抱きしめて、私はゴロン、と寝返りをうちながら自問した。

 魔法に関しては速水先輩や会長さんにだって、負けないつもりだったのに。ううん、魔法に関して、じゃなくて、兄さんに関わることで、他の誰かに負けたりするつもりなんて、絶対になかったのに。それなのに、私の求めた結果は出なかった。



「もう。兄さんの、ばか」

 胸に抱いた枕を兄さんに見立てて、ぎゅう、と思いっきり胸に抱きしめてみた。八つ当たりだってわかっているけれど、もし兄さんの実技の成績があがってくれていたら、お互いに言うことを聞く、っていうあの約束を実行に移せたかもしれないのに。もし、そうなっていたら……こうして枕を代用しなくてすむようになっていたかもしれないのに。

 

「才能無いのかなあ、私」

 人に何かを教えるという才能が乏しいのかな。

 自問自答して、私は自己嫌悪がわき上がるのを自覚した。最近、兄さんの調子が悪そうなのはわかってた。それでも私は兄さんには無理をさせてしまったのだと思う。自分の気持ちばかりが先走って、兄さんにそれを押しつけるなんて駄目だってわかってたのに。あげくに昼休みには成績が落ちたこと、怒ってしまった。兄さんがちゃんと頑張ってこと、わかってたのに。

 落ち着いて考えてみれば、とても身勝手な感情で、身勝手な行動を私はしてしまっていたのかもしれない。



「でも……そんなの仕方、ないじゃない」

 霧子さんと兄さんの距離が、会長さんと兄さんの関係が変わっていくのを目の前にして、自制が効かなかったんだって、思う。



「こんなんじゃ、いつか、嫌われちゃうかなあ」

 こんなに自分のことばっかりじゃ、いつか嫌われる。そんな恐れが胸をきしませるけれど、「でも」という気持ちが抑えられない。だって、悠長に構えていられる時間はもうないと思うから。

 家庭教師の時、私が部屋に乱入しなければ、兄さんと霧子さんの関係はどうなっていただろう。会長さんから滲みでている好意に兄さんが気づいてしまったら、あの二人の関係はどうなってしまうんだろうか。

 それを考えてしまうと、いてもたってもいられない。兄さんを困らせてしまうってわかってるけど、でも、それでも、私は兄さんへの気持ちを変えられたりできないんだから……



「もういっそのこと、一度嫌われちゃった方がいいのかな」

 嫌われるなんて、嫌だけど。物凄く、嫌だけど。でも、そうでもしないと私と兄さんの関係は変わってくれないのかもしれない。だって霧子さんや会長さんとの関係は、いろんな形に変わっているのに、私と兄さんとの関係は、ずっと変わらない。ずっと、どこまでいっても「家族」のままで。それはとっても大切で、失っちゃいけない関係だってわかっているのに、でも、それだけじゃ、私は我慢できない訳で。



「うう……もう、こうなったら、思い切って寝込みを襲うしか……」

「おーい、綾? 居るか?」

「は、はい?!」

 枕を抱えて、半ば自暴自棄に、ぶつぶつと我ながら不穏な計画を描き始めた矢先、ドア越しにかけられた声に、文字通り私はベッドの上で飛び上がった。



「に、兄さん?」

「そうだけど……って、悪い、ひょっとして寝てたか?」

「ううん! 全然、起きてたよ?! 今、開けるねっ」

 悶々とした気持ちに眠気なんか感じていなかったけれど、例え微かな眠気があったとしても一気に吹き飛んでしまった。鬱々とした気分もどこへやら、私は大急ぎでドアへと駆け寄って、鍵を開ける。そして、そこには今まで考えていた人の顔があった。



「今、ちょっといいか?」

「う、うん。いいよ、勿論!」

 頷いてから、私は慌てて部屋の中に戻って、兄さん用のクッション(残念ながら利用頻度は高くないのだけど)を用意する。そして、兄さんにそれを渡しながら、私は努めて平静を装いながら兄さんに問いかけた。



「そ、それでどうしたの?」

 兄さんから、私の部屋に来てくれる事ってあまりない。だから少しの不安とそれ以上の期待を胸に尋ねると、兄さんは少し気恥ずかしそうに鼻の頭をかいた。



「あー、いや、なんだ。その試験のことなんだけどな」

「あ……ごめん、なさい」

「え?」

 言いづらそうに「試験」と口にする兄さんに、昼休みのことを思い出して、私は思わず頭を下げる。



「いやいや、なんでもお前が謝るんだ?」

「だって、ほら、その……お昼休み。私、一人で勝手に怒っちゃって」

「いや、それは当たり前だろ?」

 謝る私に、兄さんは首を横に振って、怒るどころか微笑んでくれた。



「怒ってくれたのは、期待してくれてたからだろ? だから、俺の方こそごめんな。期待に応えられなくて」

「あ……」

「ありがとな、綾。期末試験こそは頑張るから。まあ、我ながら頼りないと思うけど、でも、今度こそ頑張るからさ」

「……うん」

 本当に兄さんは怒っていなくて、それどころか「ありがとう」って言ってくれて。そして、くじけて無くて。さっきまで、私の胸の中をグルグルと嵐の雲のように渦巻いていた暗い感情は、ぱあ、と日が差したように薄れて消えていく。少しのことで一喜一憂してしまうのは、我ながら単純だって思うけれど、でも、でもでも。嬉しいものは嬉しいんだから、仕方ないって思う。うん。



「じゃあ、次こそは期待してるね、兄さん」

「頑張るよ。あ、それから例の約束のことなんだけど」

「約束って?」

「あのな、なんでそこで疑問系なんだ。お前から言い出したことだろ。ほら、なんでも一つ、言うことをきくって奴」

「え……ええ?!」

 諦めたはずの事が、目の前に転がり出てきた。その事に私の思考は、しばし混乱を来してしまう。思わず目を白黒させる私に、兄さんの方も驚いたように目をぱちくりさせていた。



「いや、だから、なんでそんなに驚くんだよ」

「だ、だって……その、どうして? あの約束は」

「実技は落ちたけど、まあ、平均してみれば成績自体は上がったわけだしさ。……ほんの少しだけ」

 苦笑しながらそう言うと、兄さんはぽん、と私の頭に手を置いて、優しくなでてくれた。



「だから流石に何のお礼もなしだと落ち着かないよ。一番、時間を割いてくれたのは綾だしな」

「あ……」

「それで、なにか欲しいものってあるか?」

「ほ、欲しいもの?」

 自分で口に出した言葉に、どきり、と心臓が鳴る。その高鳴りを顔に出さないように意識しながら、私は兄さんの表情を伺った。



「本当に、本当に何でも良いの?」

「いいぞ。予算の許す限りのものであれば」

「そう、なんだ」

 本当に欲しいものは、お金なんて関係ない。寧ろ、お金なんかで買えたりしない。



「じゃ、じゃあ」

 今、頭に置いてくれている手の温もりを、私の胸にも置いて下さい。そういったら、軽蔑されるだろうか。

 今、微笑んでくれている唇で、私の唇を塞いで下さい。そう願ったら、嫌われるだろうか。それともただの冗談だと思われて、笑って済まされるだけだろうか。



「決まったか?」

「えーと、ね。じゃあ……うう」

 私と兄さんの関係。それを変えたいって言う願いを口にしようとして、でも、できない。

 だって、多分、冗談だって、思われるだろうから。でも、ひょっとしたら、本気に受け取ってもらえるかもしれない。でも、やっぱり、その可能性は低いだろうけど。でもでもでも、やっぱり、ひょっとしたら……っ。



「うううーっ」

「えーと、綾? 今、思いつかないのなら、後でもいいぞ? 別に時間制限をつけたりはしないからさ」

「ま、待ってっ」

 諭すように優しく言って、そして立ち上がろうとする兄さんを、私は咄嗟に服の袖をつかんで引き止めた。



「綾?」

「で、デートっ」

「え?」

「だから、その、あの、デート! して、欲しいな、なんて」

 願いたかったこととは違うけど、でも、ここで何も願わないなんてこと、出来そうになくて。だから、私の口から飛び出したのは、そんな中途半端な願いのカタチになってしまっていた。うう、佐奈がここに居たら「押し倒してくださいぐらいはいいなさい」って怒られるかもしれない。けど、今はこれで一杯一杯な私だった。

 一方の兄さんはといえば、私のお願いに、またも驚いたみたいに、少し目を見開いていた。



「で、デート?」

「うん。だめ、かな?」

「……いや」

 迷うような一瞬の間。だけど、結局は兄さんはすぐに首を縦に振ってくれた



「うん。そのぐらいなら、いいぞ」

「いいの?!」

「うお?!」

 あっさりと肯定の返事をくれた兄さんに、私は勢い込んで、さらに兄さんの服の袖を強く引っ張る。



「こら、綾! お前、何でそんなに驚いてるんだ?」

「だ、だって……っ」

 これが驚かずにいられるだろうか。まさか「デート」という言葉で提案して、それを兄さんが受けてくれるなんて思っていなかったから。ひょっとして。ひょっとしたら! 兄さんも、その私に対して、少しぐらいはそういう気持ちを……



「あのなデートってどこか遊びに行くって事だろ? そのぐらいなら全然大丈夫だぞ」

「え?」

「ほら、この間も遊園地いったところじゃないか」

「あれは……違うもん」

「違う?」

 不思議そうな表情を浮かべる兄さんに、喜びにあふれていた私の中にふつふつと怒りの感情がわき上がっていく。いや、ぐつぐつ、と言うべきかもしれない。グラグラと形容すべきかもしれない。佐奈の言葉を借りるなら、「黒い負のオーラ」という奴が、放課後の時と同じように、一気に私の中に吹き荒れたのだった。



「ふ、ふふふ……」

「あ、綾?」

 そうか、そうなんだ。「私とのデート」は「仲良く遊びに行く」程度の認識なんだ。ふーん、そうなんだ。



「ふ……ふふふ、ふふふ……」

「綾? 綾?! おい、どうした?」

「どうもしてませんっ」

「どうもしてないって、いや、お前、なんだか空気が……」

「ど・う・も・し・て・ま・せ・ん!」

「はい。どうもしてません」

 こうなったら、こうなったら! 絶対に、何が何でも、そういう認識を改めさせてやるんだから。私と二人っきりで「デートする」っていう事が、どういう事なのか、いやって言うほどわからせてやるんだからっ!

 嬉しさと、怒りの入り交じった感情をかみしめながら、私はそんな決意に堅く拳を握るのだった。と同時に、私は確認しておくべき事に気づいた。このノリだと霧子さんや会長さんとデートの約束ぐらいしちゃいそうだし。それは断固阻止しなければ……っ



「そうだ。兄さん」

「うん?」

「その……他の人とも、デートの約束、してる?」

「してないよ。なんでそうなる」

「だって、どうせ全員にお礼して回るつもりなんでしょ?」

「まあな」

「やっぱり……」

「でも、綾が最初だからな。他の連中からどんな要求がでるのかはまだわかってないよ」

「私が……最初」

「うん」

「えへへ」

 我ながら、本当に単純だとは思うけれど、そんな兄さんの言葉に、また自然と相好が崩れてしまう私なのだった。




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