第二十九話 試験を終えて(その1)
/0.妹さんは不機嫌(泉佐奈)
誰しも機嫌の悪い時あるとは思う。それでも、限度というものはあるんじゃないだろうか。
時々、漫画なんかでは、機嫌の悪い人の周りの空気が黒く淀んでしまって、そのあまりの禍々しさに周囲の人たちや、鳥や獣までもが逃げ去ってしまう、なんていう表現があるけれど……まさか、それに近いものを、こうして目の当たりにするとは思っていなかった。
「あれって、フィクションじゃなかったんだね」
「……何の話? 佐奈」
「綾の機嫌が悪いっていう話だよ」
学校からの帰り道。口や鼻からもうもうと黒い「もや」を吐きだしている、なんてことは流石に無いけれど、それでもピリピリと肌で感じられるほどの不機嫌さを全身から吹き出している綾に、私は小さく息をつきながらそう答えた。そう、本当に周囲の空気を黒く染めているんじゃないかと錯覚してしまえるほどに機嫌の悪い人物とは、他でもない、私の親友である神崎綾その人なのだった。
「そんなに機嫌、悪そうに見える?」
「うん。負のオーラが凄いよ、綾?」
「そんなこと……ないもん」
「そんなことあります」
私の指摘に、綾は不服そうに小さく口をとがらせる。そんな親友に首を振って、私は背後を振り返って指さしてみせた。
「ほら、あの犬なんて震えちゃってるし。さっき、カラスと雀の集団も一斉に逃げ去ったし」
「それは……偶然でしょ?」
「町を歩くと人の波が割れるし、そもそも人が近づいてこないよ? ほら校門を出るとき、周囲に人がいなかったの気づかなかった?」
「そ、それは言い過ぎじゃない? そこまではひどくないよ」
「いえ、ひどいです。綾が自分で気づいていないだけだよ?」
「そうかな」
「うん」
「……そっか」
私の指摘にそれ以上は反論せずに、綾は内心からそれこそ黒いものをはき出すかのように深々と大きく息をついた。それは私に言われるまでもなく、綾自身も自分の不機嫌さを自覚していたということなんだろう。
まあ、今日のお昼からずっと私以外の誰とも口をきいていないし、そもそも口を開こうともしていなかったんだから、流石に自覚ぐらいはしてくれていないと困ってしまう。あるいは自覚しているのに、それを認めたくないほど、心がささくれ立っているのかもしれないけれど。
「……ふう」
そんな私の内心はともかく、無言のままに歩を進める綾は、またまた黒い感情をはき出すように、何度目かの溜息をこぼす。その内に、動物が逃げるだけじゃなくて、周りの草花までも枯れ果ててしまうんじゃないかってちょっと心配になってくる。それほどまでに綾の機嫌が悪い理由。それは多分、二つある。
一つは、会長さんのことだと思う。
あの出来事……つまりは会長さんが自分のミスを認めて「良先輩に何でも一つ言うことをきいてもらえる」という夢のような権利を自ら放棄するに至ったあの出来事の後、会長さんと良先輩の関係は変化してしまった。正確に言えば、良先輩の方はあまり変わらないのだけど、会長さんの良先輩に対する態度が変わってしまったのだ。そのことが綾の機嫌を大いに損ねていることは想像に難くない。
良先輩としては、会長さんが自分への呼び方が「神崎さん」から「良さん」へと変わっただけ、と思っているのかもしれないけれど、私や綾、そして桐島先輩や速水先輩、さらに言えば、会長さんの周囲に居る人たちにとっては大きな変化だ。だって、それは親近感が明らかに変わったことの証なのだから。それを裏付けるように、会長さんが良先輩を見る視線もはっきりと変わっている。今まで、会長さんが良先輩に向ける視線はあくまで「好奇」の範疇に収まっていたはずなのに。今では、その視線に明らかな「好意」が籠もっている。
さらに言うならば、会長さんの行動にも変化の兆しがみられるのだ。今までのような強引さは影を潜めて、無理矢理に良先輩にひっついている訳でもなく、試験を控えて先輩の邪魔にならないように、配慮している節もある。そんな気遣いを、あの会長さんが良先輩に向けていることだけでも、今までとの違いは明らかだった。
そんな会長さんが良先輩に向ける「好意」がどんな種類なのかは、まだわからない。「友情」なのか、「愛情」なのか。「好き」、なのか、「愛している」のか。まだ私には判断がつかないのだけれど……綾はかなり深刻な事態だと考えているのだと思う。
「……ふう」
そして、綾の口から漏れるため息がとっても重くて、とっても黒いことのもう一つの理由。それは良先輩の中間試験の結果だった。実は今日、中間試験の成績が返されたのだけど……あろうことか。
「どうして、こうなるのかなあ」
そう、あろうことか、良先輩の成績はあがらなかったのだった。『成績が上がれば、良先輩が言うことをきいてくれる』、そのそもそもの大前提は、もろくも崩れ去ってしまったのだった。
/**********************/
魔法使いたちの憂鬱
第二十九話 試験を終えて。
/********************/
/1.放課後の職員室(セリアと蓮香)
「今朝、成績は本人に伝えたよ」
「そうですか」
放課後の職員室。生徒会活動の報告書類紅坂セリアから受け取りながら、神崎蓮香は良の試験結果を伝えていた。その言葉に頷いてから、セリアは少し気遣わしげに視線を揺らす。
「あの、先生」
「うん」
「その……、良さんの様子はどうなんですか?」
「流石に落ち込んでたな」
「そうですか。落ち込んでいましたか」
「まあ、あれだけ何人にも教えてもらっていて成績が変わらなかったんだから、そりゃあ、ね」
寧ろ、落ち込まない方が問題がある。そう言葉を続ける蓮香に、セリアは少し眉をしかめた。
「先生は、平気なんですね。良さんが落ち込んでいても」
「ん? ああ、そうだな」
「そうだなってっ」
「声が大きいよ、紅坂。場所をわきまえなさい」
「え? あ……」
職員室という場所で俄に声を荒げかけたセリアを、蓮香が落ち着いた口調でいさめた。少なくとも職員室で騒ぐのは、紅坂セリアにとってマイナスにしかならない。その蓮香の意図を悟って、セリアは即座に表情を改めて平静を取り戻す。
「失礼しました」
「構わないよ。原因はウチの息子だしね。まあ、私としては良相手に感情的になってくれるのはうれしい限りだ」
本音なのか冗談なのか、判然としない口調で笑いながらそう言うと、蓮香はやや表情を改めてセリアの顔を覗いた。
「しかし、この結果はお前なら予想はできていただろう?」
「……はい」
蓮香の問いにセリアは僅かに口ごもってから、やがて首を縦に振る。
「もちろん、最初からそう思っていた訳じゃありません。良さんは頑張っていましたけど、ただ……」
「ただ?」
「ただ、そうですね、タイミングが悪かったんです」
「タイミングか。そうなんだろうね」
セリアの答えに、蓮香は同意を示すように頷きを返した。
試験直前の神崎良の魔力の状態が普段とは異なることに、蓮香は気がついていた。おそらくは紅坂セリアとの魔力交換を切っ掛けにして、神崎良の魔力の質に変化が起きている。それが蓮香の考えだった。
「紅坂。お前は良の状態をどう思う?」
「少なくとも魔力変調ではない、と思っています」
「ああ、似ているが違うね。少なくとも魔力の劣化は見られない」
魔力変調とは、ほとんどの場合、元々の魔力からの劣化を意味する言葉だ。しかし蓮香が見る限り、今の神崎良は魔力自体は寧ろ向上している。今回の試験で神崎良は結果を残せなかったことに、蓮香がさほど落胆を感じていないのは、そのあたりが原因でもある。
「なら、消化不良という奴かな」
「そう思います。良さんは、力を持てあましているじゃないでしょうか」
「あるいは……言い方は悪いが、びびってる、という所かな」
それぞれ言い方は異なるが、セリアと蓮香はほぼ同じ考えを示して頷きを交わす。要は、神崎良が変質した自分の魔力の使い方がわかっていない、というのが二人の結論だった。
肉体を例に出すのなら、子供と大人では力の使い方が違う。筋力が増えたのなら、その分繊細な加減が必要になる。魔力もそれと同じく、力の強さが変わったのなら、扱う方法も変わってくる。だから、それにまだ慣れていないだけだろう。そうセリアに言いながら、蓮香はくるり、と指を回した。
「ああ、一応言っておくが、紅坂。今回のことで、お前が罪悪感を覚える必要はないよ」
「ええ、それはもちろん感じていませんけれど」
「……あのな。そこは嘘でも「感じています」と答えておけ」
「それは失礼しました」
少し調子が戻ってきたかな、と苦笑して、セリアは改めて周囲に目を配る。放課後の職員室ということもあり、教員や生徒の姿は散見されるが、少なくとも今、蓮香とセリアの話に聞き耳を立てている魔法使いはいない。それを確認してから、蓮香は少し身を乗り出して、セリアに問いかける。
「ところで、紅坂」
「はい。なんでしょうか」
「良の嫁になる気はあるのか」
「神崎先生は、時々よく分からないことをおっしゃいますね」
「至極単純なことしか口にしていないつもりだが」
「言葉の内容は単純でも、言葉の意図は単純には思えませんけど」
「この場合、言葉通りの意図だよ」
「そうですか」
すました蓮香の言葉に、セリアは軽く息をついてから小さな微笑をたたえて答えた。
「私は紅坂を継ぐつもりでいますから。ですから、神崎さんの嫁になるのは難しいでしょうね」
「ふむ」
「神崎さんが婿に来るのなら考えておきます」
「そうなると、紅坂良か。ふむ。言葉の響きとしては……うーん、どうなんだろうな」
なにやら真剣に悩み始めた蓮香に、セリアは「失礼します」と苦笑混じりの会釈を残して職員室から姿を消したのだった。