第二十六話 家庭教師達の昼食会(その1)
/**********************************/
魔法使いたちの憂鬱
第二十六話 家庭教師達の昼食会
/**********************************/
/1.集合中。(神崎良)
『肺が痙る(つる)』、という表現がある。
魔法を使いすぎた時に、胸の奥、つまりは肺のあたりに引きつったような痛みを覚えることがあるのだけれど、そんな症状を指すのが「肺がつる」という言葉だ。実際に肺が痙攣を起こしている訳ではないので生死に関わるような状態なのではないが、息苦しくて、結構辛い。
さて。どうして、そんな言葉の説明しているのかというと、俺自身が今まさに「肺がつった」ような状態で、呻いているからだったりする。
「う、おお……」
「良、大丈夫?」
「だ、大丈夫……、多分」
中庭の一画に敷いたシート。そこに座り込んだまま、俺は気遣わしげな龍也の声に絞り出すような声で頷いた。正直、授業が終わった直後は声を出すのも辛かったけれど、時間と共になんとか収まってきたような気がする。だから「大丈夫」と答えたのだけれど、霧子は呆れた様子で溜息をついた。
「何が大丈夫なのよ、何が。まだ午前中が終わったばっかりなのに死にそうじゃない」
「……うう」
霧子の言うとおり、授業はまだ午前中を終わったばかり。この調子で今日一日を乗り越えられるのだろうか、と我ながら情けない不安が胸を満たしていく。別に、午前が厳しい内容だったという訳じゃない。ほとんどは座学だったし、実技の内容も軽めだった。それなのにどうして俺がここまで憔悴しきっているのかと言えば……、それは勿論、連日の「個別指導」の賜だった。
綾、会長さん、霧子に龍也の四人がかりで俺に魔法を教えてくれることになってから二週間と少し。その個別指導は三巡してなお休むことなく続けられている。それは魔法院の学生としてもの凄く恵まれた環境な訳だけど、やっぱり普段と勝手が違うので中々疲れが抜けてくれない。なので、昼休みの中庭で、こんな醜態を晒してしまっている訳なんだけど……。
「……でも。うん、本当にもう大丈夫。落ち着いてきた」
「全然、大丈夫に見えないわよ」
「大丈夫ったら大丈夫だって」
「変なところで意地を張るんだから」
大丈夫、と繰り返す俺に、霧子が呆れた様子で溜息を零す。まあ、ちょっと強がりだって自分でも分かっているけれど、それでも泣き言ばかりも言っていられない。せっかくみんなに教えて貰ってるんだから、少しは意地を見せないと申し訳ない。
「もう。ほら、ちょっとだけ大人しくしてなさい」
「お……」
「こうすると少しは楽でしょ?」
俺の強がりに苦笑しながら、霧子が軽く背中を撫でてくれた。ゆっくりと背中から肺の辺りをさすられると、肺に絡みつくようだった強ばりが、抜けていくような感じがする。
「あ、ほんとに楽だ」
「でしょ?」
「何か魔法使ってるのか?」
「使ってないわよ。さすってるだけ。もし家でも苦しいんだったら……そうね、神崎先生にさすってもらうのよ」
「ああ、うん。わかった」
じわり、と広がっていく温もりに、息苦しさが溶けていく。その感覚に深々と安堵の息をついて、俺は霧子に礼を言った。
「……ありがと、霧子。ほんとに楽になったよ」
「そう? それなら、まあ、いいけどさ」
「でも、神崎さん」
俺の背中をさすってくれていた霧子の隣、篠宮先輩が俺を気遣うような視線を投げかける。
「無理はしない方が良いと思います。具合が悪いなら保健室に行った方が良いのではないですか?」
「ありがとうございます。でも大丈夫です」
「そうよ、鈴。そんな必要はないわ」
心配してくれる篠宮先輩に答えた俺の声。それに重なるように、会長さんの声が響いた。
「見たところ魔力の欠乏は起きていないようだし」
「でも……大丈夫でしょうか」
「大丈夫よ。男の子だし」
不安げな篠宮先輩と、楽観的な会長さん。二人の上級生が対照的な様子で俺の体調について意見を交わすその間に、今度はまた違った俺の耳に届く。言わずと知れた妹の綾の声だ。
「兄さん、魔力、交換しようか?」
「大丈夫だよ」
俺の対面に座って、不安そうな目を向ける綾に、俺は片手を上げて笑って見せた。まあ、実際の所、胸を張って「大丈夫」と言える状態ではないのは自分でもわかっているけれど……正直、今の状態では魔力交換をしてもらうのも辛い。というか、今だったら魔法を使うよりも魔力交換の方がきつい。それに何より、綾と魔力交換をする、ということは自然と、首筋に口づけされる格好になるわけで、いくら何でも昼休みに衆人環視の場所で、やる気にはなれない。というか、無理だ。うん。
「でも、兄さん。本当に魔力足りてるの?」
「足りてるよ。朝、交換して貰ったばかりだから」
「朝って、私、してないけど」
「うん? いや、だからレンさんと交換したんだ」
「……ふーん。母さんとしたんだ」
「いや、何故にそこで怒る」
「別に怒ってません」
明らかに怒っている声で、綾は口を尖らせる。
「いや、怒ってるだろ?」
「怒って無いったら、怒ってません。ただ母さんとはするのに、私とはしてくれないんだって思っただけだから」
「いやいやいや、だから何でそこで拗ねるんだ。お前は」
「別に。拗ねてないもん」
「お前な」
拗ねているだろうが、どう見ても。一体何が気に入らないというのか、この妹は。
綾のそんな態度に、俺はどうしたものか、と額に手を当てる。と、そんな時、拗ねている綾のとなりで、お弁当を鞄から取り出していた佐奈ちゃんが、代わりにとばかりに手を挙げた。
「じゃあ、先輩。私としてくれませんか?」
「え? 魔力交換?」
「はい」
そう言って佐奈ちゃんは、そっとその小さな手を俺に向かって、差しのばす。
「だめ……でしょうか?」
「う」
佐奈ちゃんは僅かに目を潤ませて、どこか不安げに上目遣いで俺を見つめた。そんな彼女の態度に、俺は否定の言葉を口に出来ずに口ごもる。魔力交換は辛いのは確かだけど、佐奈ちゃんとは普通に手を握る形で魔力交換できるし……、どうするか。
「良先輩」
「……うん」
訴えるような声と視線。その彼女の態度に、この前、綾の代わりに家に来てくれたときのことを思い起こしてしまう。慌てたり、動揺したり、そして抱きついてきたりして、色々な不安を相談してくれたあの時のこと。あの時も、魔力を交換することで落ち着いてくれたから……だから、今もひょっとしたら、何か不安を抱えていたりするのかな。佐奈ちゃん。
「あの、やっぱり、駄目でしょうか」
「いや、駄目じゃない―――痛!」
「に・い・さ・ん?」
「痛い痛い痛い! こら、綾! 耳を引っ張るな!」
「母さんとも佐奈とも交換するのに、私が駄目な理由を教えて貰いましょうか」
「理由って、お前な」
佐奈ちゃんはこの間の事がちょっと気になっているから心配なんだよ、とは言えずに、とりあえず耳から綾の指を振り払ってから、とりあえずごく一般的な理由を綾に向かって投げ返す。
「あのな、佐奈ちゃんの魔力が足りてないんだったらどうするんだよ」
「う、それは」
「いえ、魔力は大丈夫です。純粋に良先輩を誘惑してみました」
「ゆ、誘惑って、佐奈ちゃん」
「冗談です」
「あ、あのね……」
いつものように真顔で冗談を繰り出す佐奈ちゃんだった。
「ほら、元気でしょう?」
「そうかも知れませんね」
佐奈ちゃんに振り回された俺と綾。そんな俺たち兄妹を眺めながら、楽しげに会長さんは笑って、篠宮先輩は呆れたような声で頷くのだった。
/
「ともかく、お昼にしよう」
「そうね。それだけ漫才できるんだったら、良も大分回復したんだろうし」
「漫才っていうな。漫才って。まあ、声は大分楽にだせるようになったけど」
呆れの籠もった霧子の台詞に、溜息で返しながら、俺は鞄から弁当箱を取り出す。それを合図にしたかのように、みんなもそれぞれ食事の用意を終えて、「いただきます」と昼食を取り始めた。
俺、霧子、龍也のいつもの面子だけでなく、綾と佐奈ちゃん、そして会長さんに篠宮先輩まで顔を揃えて、みんなが中庭に敷いたシートの上に腰を下ろしている。ちょっとしたピクニックのような風景に見えるかも知れないけれど、あくまでここは東ユグドラシル魔法院の中庭の一画。そして、ここ最近では珍しくはない、俺たちにとっては日常になりつつある光景だった。
「お弁当、というのも大分と慣れたわね」
「そうですね。ここは日当たりも、風通しも良いですし」
サンドイッチをつまみながら、そう言って笑いあう会長さんと篠宮先輩は、普段は食堂を利用していたらしい。そういえば、食堂には事実上、生徒会役員の専用になっているスペースがあるとかないとか聞いたことがある。なんでも会長さんたちの信奉者による無用の混乱と混雑が生じるのを避けるためだとか。果たして何処まで本当なのか分からないけれど、「嘘でしょう」と笑い飛ばせない辺りが、会長さんの恐ろしい所だった。
ちなみにそんな会長さんとお昼ご飯を一緒になんて食べたら周りの視線が凄いことになるんじゃないかと危惧したりしたが、実際の所はそうでもない。遠巻きに視線を投げてくる人はいたりするけれど、会長さんが視線に気付いて軽く微笑むと慌てて退散していくのだ。「人払いの魔法をかけているのよ」という会長さんの話は冗談ではなくて本当なのかも知れない。重ね重ね、会長さんは底知れない人だと思う。
「神崎さん? どうかしましたか?」
「え?」
「さっきからずっと私の方を見ていますけど」
「あ、すみません」
どうやら会長さんの事を考える内、自然と彼女の顔に視線を投げてしまっていたらしい。
「別に謝ることはありませんけれど。でも、駄目よ?」
「駄目って何がです?」
「このサンドイッチは鈴の手作りなんだもの。そんな物欲しそうな目をしてもあげません」
「確かに美味しそうですけど、誰も物欲しそうな目なんてしてません」
「でも、そうね……私と鈴に向かって、三回回ってワン、と言うのなら、そうね、トマトぐらいはあげてもいいわよ?」
「人の話を聞いて下さい。お願いですから」
っていうか、そこまでしてもトマトしか恵んでくれないのか、この人は。いつものように愉しげに人をからかう会長さんに、俺は軽い頭痛を感じながら、気を取り直して自分の弁当箱に向き直る。今日は俺の食事当番だったから、当然のごとく自分で作ったおかずが並んでいる。体力をつけるように、とちょっとばかり肉分多めなメニューにしてみたんだけれど……、ずきり、と不意に痛んだ肺の痛みに、おかずに伸ばしかけた箸が止まった。
「良。あんた、そんな状態で食べられるわけ?」
「そこまで死んではいないから、多分」
霧子の言葉に「大丈夫」と頷いたものの、固いものをかむと肺のあたりが疼きそうだった。というか、肉分と油分が多すぎたかも知れない。ちょっと行儀悪いけど、ここはあまりかまずに飲み物で流し込むことにしよう。そう決めて俺がお茶に手を伸ばすと、それを待っていたかのようなタイミングで龍也が俺に声を掛けてきた。
「あ、あのさ。良」
「うん?」
「よかったら、これ食べない?」
「え?」
そう言って龍也が差し出してくれたのはゼリー状のものが入った容器とスプーン。冷却の魔法を使ったのか、ひんやりとした冷たさが容器越しに伝わってくる。
「龍也、これは?」
「えーとね、栄養ドリンクみたいなもの。それをゼリーみたいに固めてから、ちょっと冷やしたんだ。これだったら、食べるの楽だと思うし、肺の痛みもちょっとは引くと思うよ」
「おお!」
なんという心遣いだろうか。確かに今の状態だと、こういうものの方が食べやすくてありがたい。
「助かる。ありがとうな、龍也」
素直に礼を言って、差し出された容器を受け取る。そして、スプーンを手にして一口、薄いオレンジ色のゼリーを口の中に放り込む。瞬間、爽やかな酸味と、ほのかな甘みが口の中に広がって、そして清涼感を残して喉の奥へと溶けていく。
「おお……旨い」
「そ、そうかな:
「うん。凄く旨い。いや、ほんとにありがとな、龍也」
「口にあったんだったら、よかったよ」
「でも、コレ、どうしたんだ? 龍也が作って来てくれたんだよな?」
「うん。昨日、良が、ちょっと辛そうだったから。ひょっとしたら、今日あたり、苦しくなるかなって」
そう言って、龍也は照れくさそうに微笑んで頬を掻いた。そんな龍也の様子に、俺はちょっと、いや、かなり感動して息が詰まる。本当に、良い奴だよな、こいつは。
決して、俺は「そっちの気」がある人間ではないのだけど。この優しさと笑顔の前には、速水会に参加する男子生徒の方々の気持ちがわからないでもなかった。というか、こいつと性別が違ったら、あっさりと惚れているじゃないだろうか。俺。
……うん。龍也だったら。
綾が好きな奴が誰なのか、未だに教えて貰っていないけれど、龍也だったら、何の心配も要らずに任せられるんだけど。そんな思いに、少しだけ浸りながら、ゼリーをまた一口、口に運ぼうとした、その刹那、ふと突き刺さる視線を感じて顔を向けた。
「……」
「……」
「……」
向けた視線の先にあったのは、女性陣の何とも言えない表情。というか、女性陣は本当に喜怒哀楽の読めない表情で俺を、いや、俺たちの方を眺めていた。
「……えーと。どうかしたか? 霧子」
「いいの。なんでもないの。なんでもないのよ、良」
「いや、なんでもないって言うようには見えないんだが」
「いいの、放って置いて。色々と考えることがあっただけだから。女の子として。色々と」
俺の問いかけに、なんだか霧子は目を伏せたまま、自嘲するように笑った。とても何でもないようには見えないが、しかし「今は話しかけるな」という雰囲気に気圧されて、俺は視線の方向を綾に向ける。が、果たしてそこにも目を背けたくなるような陰鬱な雰囲気が蟠っていたのだった。
「どうして……どうして、そういうポジションに速水先輩が……」
「まさか、速水先輩が手作りお弁当攻撃だなんて……み、見くびっていました……」
「しかも、兄さんの体調を気遣った特別メニューなんて」
「速水先輩を侮ってはいけない。そんなの分かっていたはずなのに……不覚。不覚です」
「どうしよう、佐奈。兄さんが、兄さんが、兄さんの貞操が……っ!」
「なるほど、綾の中では速水先輩は責めなんだ」
「兄さんは受けだと思う……って、そうじゃなくて、どうしよう」
「綾、ここは頑張り所だよ。だから……」
ぶつぶつと綾と佐奈ちゃんが身を寄せ合ってなにやら呟いている。というか、物凄く悔しそうに聞こえるのは気のせいだろうか。いや、気のせいだよな?
「えーと、綾? 佐奈ちゃん?」
「に、兄さん!」
「ど、どうした?」
「その……お弁当。た、食べづらいんだったら、その私が食べやすくしてあげよっか?」
「食べやすく?」
「うん……その」
そこまで言って、綾は何故か頬を赤くして口ごもる。一体、何を言おうとしているのか、綾の意図が分からず、俺は思わず眉をひそめてしまう。しかし、そんな綾の様子に、俺より先に、霧子が言葉をかけていた。……なんだか頬を引きつらせつつ。
「あ、あのね。綾ちゃん。まさか、かみ砕いて食べさせるなんていわないわよね……?」
「……え」
「……綾ちゃん?」
「そ、そんなことするわけ無いじゃないですか」
「そうよね。するわけ無いわよね」
「ええ、その、勿論です」
「ふふふ」
「えへへ」
「……」
……なんだろう。
傍目から見ている分には、お互い穏やかに微笑みをかわしているだけな筈なのに、見ているだけで胃が痛くなるようなこの雰囲気は。
ちらり、と龍也に目を向けると、ハラハラと心配そうに霧子の方を見守っている。どうやら霧子と綾の間に、ただならない雰囲気が漂っていると感じるのは俺の気のせいではないらしい。
「綾、駄目だよ」
「佐奈」
そんな微妙な緊張感に割っては言ったのは、佐奈ちゃんだった。彼女は霧子に向かってぺこり、と頭を下げてから、綾に向かって諭すような口調で言葉を続ける。
「こんな所で、そんなこと言っちゃ、良先輩が困っちゃうよ?」
「それは、うん」
「だから……そういうのは家でやらないと」
「家で?」
「うん。良先輩の様子だと、晩ご飯も大変そうだから……」
「そっか」
「『そっか!』じゃない!」
あまりの会話の内容に、思わず突っ込みの声を上げてしまった俺だった。本当に何をやろうとしてるんだ、コイツは。ってか、佐奈ちゃんもそういうのを唆さないでほしい。
「お前な。そもそも、かみ砕いて食べさせるって、それは赤ちゃん相手にすることだろ」
「だ、だって……兄さん、食べるの辛そうなんだもん」
「いや、だからってな」
「私は辛そうな兄さんなんて、見たくないもん。だから……」
「う」
「だめ、かな……?」
「いや、その」
なんだって、そんなに潤んだ目で見つめてくるんだろうか、こいつは。というか、さっきの佐奈ちゃんと同じ台詞じゃないのか、これ。
「兄さん。駄目?」
「……あのな、綾」
「うん」
「普通に、最初からおかゆでも作ってくれたら……って、痛い痛い!」
努めて冷静に答えたはずなのに、何故だか、綾は機嫌を損ねて、またも兄の耳を引っ張った。
「もう、なんでそうなのよ!」
「一体、何の話だ! って、だから耳を引っ張るな、耳を!」
「うう、兄さんのバカっ!」
「うおおお、痛い痛いってか、本当にもげるもげるもげる」
「……いい加減にしないか。この、バカ娘」
「あう?!」
理不尽な(少なくとも俺にとっては理不尽きわまりない)綾の怒りの声は、突然の呆れた声によって、終わりを告げる。綾のことを「バカ娘」と呼ぶその声の主は、当然のことながら、俺たちの母親であるレンさんその人だった。
いつの間に、こんな近くにきていたのか、綾の背後(つまりは俺の正面だけど)に立つレンさんは、あきれ果てたという表情で、それはもう深々とした溜息をついて、再度、ぽこり、と綾の頭に拳骨を落とす。
「まったく。学院内でのおかしな言動は、慎め」
「うう、母さん! 痛い」
「痛いのが嫌なら、行動を改めなさい。まったく、兄の耳を引っ張るんじゃない」
半泣きの目で見つめる綾に盛大に溜息をついてから、みんなの方に向き直った。
「済まないな。昼間っから兄妹漫才を見せてしまって」
「ま、漫才って、母さんっ」
「レンさん。せめて兄妹喧嘩といってください……」
「こんにちは、神崎先生。ふふ、神崎さんたちはとても面白いですから、退屈しませんね」
「気に入って貰えているのならなによりだね。ああ、いいよ。座ったままで」
シートから腰を上げて挨拶しようとする会長さんたちを片手を上げて制してから答えると、レンさんはスタスタと龍也の元に近寄った。
「こんにちわ、神崎先生」
「ん。こんにちは。ところで、速水」
「はい」
「決めた」
「はい?」
「お前、嫁に来い」
「えええ?!」
何の脈絡もないレンさんの発言に、龍也がうわずった声で悲鳴を上げる。いや、俺も声を上げたけど。というか、その場の全員が声を上げるか、絶句するかのどちらかの反応しかできなかったけど! いや、本当に何を言い出すのか、この人は。
「ちょ、レンさん?! 何をいきなり言い出してるんですか」
「別におかしな事は言ってないだろう?」
突っ込む俺に、「何を騒いでいるのか」とでも言わんばかりに落ち着き払った視線を向けて、レンさんは言葉を続けた。
「常に気を配り、旦那の体調を気遣い、そして食事のメニューを変える。私は感激したよ。これはもう、是非とも嫁に欲しい」
「あのですね。というか、レンさん。せめて婿にこい。にして下さい」
「ん? じゃあ、お前が嫁なのか。うーん。」
「なんでそうなるんですか。龍也が神崎家に入るんだったら婿でしょう」
神崎家には、現在、独身女性が二人もいるというのに。そう俺が指摘すると、レンさんはなんだかいたく感心したように手を打った。
「ほう。「嫁に来い」発現を、良はそういう風に捉えたのか」
「普通はそう思うでしょう」
他にどういう解釈があるというのか。というか、それ以外の解釈は危なすぎるので止めて欲しい。
「ま、それはそれでいいか。良がまだ理性を保っている証拠だしな」
「理性って。あのですね」
「でも、ちょっとぐらっとしなかったか?」
「してません」
「速水が女だったらとか思わなかったか?」
「お、思ってませんよ!」
「ふふん」
一瞬の俺の戸惑いを、しかし、レンさんは軽く笑っただけで追求はしなかった。
「まあ、食事にしようか。少し出遅れたけれど、私だって捨てたもんじゃないって所を見せないといけないし、ね」
そういって笑ったレンさんの手には、龍也と同じように流動食があったのだった。