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第二十二話 勉強開始!(その2)

/2.セリア先生さんの場合



「はい、そこまで。今日はこのぐらいにしておきましょうか」

「あ、ありがとうございました」

 終了を告げる会長さんの台詞に答えてから、俺は崩れ落ちるようにその場に座り込んだ。

 今日は、俺への集中魔法講義が始まってから三日目。霧子に続いて本日は会長さんの当番というわけだった。今日初めて会長さんから直々に魔法を教わったわけだけど、会長さんの教え方は流石天才にふさわしい奇抜なもの……ということは無かった。一つ一つの課題は別段、複雑な物じゃない。中等部の学生がやるような、魔法として形になる一つ前の段階、体内にある魔力を感じして流れにする、と言った物がほとんどだった。ただ、全身運動のように、体中の魔力をくまなく使わせるように課題の順番が組まれていて、その結果、こうして俺は魔力と体力を使い果たして床に座り込んでいる訳だった。

 ちなみに、お手本として、俺と同じだけ、あるいは見本のために俺よりも多くの魔力を消費しているはずの会長さんは疲れたそぶりも見せずに平然とした顔をしている。伊達に天才と言われているわけじゃないのは知っていたけれど……今更だけど、この人の魔法使いとしての底が、全然見えない。



「今日の内容はどうだったかしら」

「とても勉強になったと思います。でも、想像はしてましたけど、やっぱり会長さんは厳しいですね」

「このぐらいで厳しいなんて言葉を使っているようでは、一週間後には墓標が立つわよ?」

「さらっと怖い冗談を言わないでください」

「あら、冗談じゃないわよ? 心配なら直ぐに手配しても構わないけれど」

「そんな涙のでそうな心遣いは結構です」

 どこまで本気なんだ、この人は。思わず悲痛に息をつく俺に、会長さんは「冗談よ」といつものごとく済まして笑ってから、ふと表情を改めて言った。



「でも、神崎さんは想像していたより、基礎ができているのね」

「え……? そうですか?」

 意外な評価の言葉に、俺は驚いて目を見開いた。

 いや、いままで基礎を疎かにしてきた、という訳じゃない。そもそも応用である魔法実技が上手く行かない俺だから、その基礎となる部分は必死になって練習してきている自覚はある。だけど、俺はそもそも魔力を扱う上で、というか魔法使いとしての能力の基本中の基本である「魔力交換」からして上手くできないのだ。そんな魔法使いを指して「基礎が出来ている」というのは、あまり適切な評価ではないんじゃないだろうか。



「基礎が出来てるって、本当ですか? 俺、魔力交換すら下手なんですけど」

「そうね。その点はわたしも引っかかる所だけど……」

 俺の疑問に会長さんは軽く口元に手を当てて、考え込む素振りを見せる。



「多分……いえ、考え過ぎかしら」

「会長さん?」

「いえ、なんでもないわ。まだ結論を出すのは早計よね」

 そう言って何かを振り払うように頭を小さく振ってから、会長さんはさっきの言葉の意図を説明してくれた。



「基礎が出来ているって思ったのは嘘じゃないわよ。魔法を唱えている間、神崎さんの中の魔力がとても滑らかに整えられていくのを感じたから」

「え、じゃあ、何で魔力交換とか下手なんでしょうか。俺」

「そうね。一言で言うのなら、要領が悪いっていうことかしら」

「それ、レン―――じゃない、母にもよく言われますけど。結局は基本が出来ていないってことじゃないんですか?」

「少し違うわよ。そうね、スポーツに例えればわかりやすいかしら。例えば筋力は十分に鍛えてあるとする。でも力が強いからといって、選手として優秀とは限らないでしょう? 力を生かすための体の動かし方が分かっていなければ、力そのものが発揮できない」

「うーん。そう言われると少し分かったような気もします」

「だから、やっぱり神崎さんの課題は魔力の応用の仕方ね。ふふ、みっちりと仕込んであげるから覚悟なさいね?」

「……死なない程度にお願いします」

「ふふ、よろしい。お手柔らかに、なんて言葉を言わないだけわかってきてるじゃない」

 覚悟を決めた(あるいは色々と諦めた)俺の台詞に、会長さんは満足そうに頷いてから、ふと話題を別の方に差し向ける。



「それより残りの人はどんな教え方をしてくれてるの? 桐島さんあたりは、彼女自身も私に挑む心づもりでいるんじゃないかしら」

「色々とお見通しですよね、会長って」

「そうでもないわよ。桐島さんの性格を考えたら、直ぐに分かりそうなものじゃない」

「霧子の性格、ですか。ひょっとして、この前の「会長さんを倒したら自信が付く」っていうのは俺だけじゃなくて、霧子にも向けた言葉だったんですか?」

「どうかしら。その辺はご想像にお任せします」

 俺の問いをはぐらかす会長さんの目は、しかし、「正解」と微笑んでいるように見える。どうやら会長さんの中では霧子に対する興味もまだまだ消えてはいないらしい。



「それで、神崎さん自身の案は出来ましたか? どうやって私を負かせてくれるのかしら」

「そんなに直ぐに考えつくようなら苦労はしません」

「そう? でもあまり考えない方がいいかもしれないわよ。神崎さんは考えすぎる部分があるでしょう?」

「う」

 図星を指されて一瞬口ごもる。そんな俺を愉しげに見つめて、会長さんはからかうように微笑んでから、俺のベッドに腰を下ろした。俺は床にへたり込んだままだから、まだ彼女の方が頭の位置が高くて、会長さんが俺を少し見下ろす形になる。そんな少し高い位置から、会長さんは軽く唇に指先を当てて、挑発的な笑みを口元を揺らした。



「だから、意外と単純な方法で上手くいくかも知れないわよ?」

「単純な方法ですか」

「ええ。押し倒したりとか」

「あのですね」

 挑発的な会長さんの台詞に、俺は軽く額を抑えて溜息をつく。言うまでもないけれど、ここは俺の部屋な訳で、いくら会長さんでも、男の部屋にきてベッドに腰掛けてそんな台詞を宣うのは、ちょっと油断しすぎてはいないだろうか。まあ、別に部屋に鍵をかけている訳じゃないし、昨日みたいにいつ綾が乱入してくるか分からない状態ではあるのだけど……それにしても、と思ってしまう。

 俺ならおかしな事はしない、と少しは信用してくれているのか。あるいは、そんな度胸がないと見くびられているのか。それとも、俺が襲っても撃退できる自信があるのか。……まあ、全部あてはまりそうだけど。

 どちらにしても、ちょっとぐらいは釘を刺して置いた方が、会長さんのためにも良いかもしれない。



「……会長。あんまりそういう挑発はしない方がいいですよ」

「あら、どうして?」

「当たり前でしょう。本当に押し倒されたらどうするんです」

「大丈夫よ。私、襲い掛かられたことなんてないんだもの」

「そういう問題じゃなくてですね……」

 果たしてどう言えばいいものやら。その言葉を探しながら、やっぱり会長さんにこうして挑発されても、実際に襲いかかれる人間は少ないのかも知れないなんてことを考える。霧子にしろ、綾にしろ、龍也にしろ、やけに会長さんに苦手意識を持っているように思うし、俺だって会長さんに睨まれれば、身が竦むような思いを感じるときもある。



 ……でも、それは、本当に何故なんだろう。よく考えてみれば、なんだか違和感がある。

 霧子や龍也が会長さんを苦手とする理由。それは本当に、ただの「苦手意識」なんだろうか。元々、霧子は高圧的な人間に対して、怯むほど可愛い気のある性格をしていない。綾にしてもそうだ。龍也にしたって、人に物を頼まれると断れない質だけど……本当に嫌なことには断固として拒絶を返すタイプの人間なのだ。それなのに去年は断れなくて魔力変調を引き起こすような事態になった。

 だから、会長さんに対して威圧感を感じてしまう理由。それがもし性格的な原因じゃなくて、魔法に関する能力に起因するものだとしたら……? 無意識のうちに他人に苦手意識をすり込む? そんな魔法があったりするんだろうか。



「神崎さん? どうかしましたか?」

「あ、いえ、ちょっと考え事を」

「あら、何かしら。ひょっとして本当に、私を押し倒す方法でも考えてるの?」

「あのですね。いい加減、その発想から離れてください」

 溜息混じりにそう答えて、瞬間、「待てよ」と考えが止まった。

 実際、どうなんだろう。会長さんの思惑はともあれ、現実問題として手を伸ばす距離にいる訳で、俺が本気で襲いかかったら、どうやって撃退するつもりなんだろうか。

 三文節か、それ以上に省略した詠唱で瞬く間に魔法を構築してしまうのか。

 実は令嬢の嗜みとして、謎の護身術を嗜んでいて投げ飛ばしてしまうとか。あるはごく単純に平手打ちで撃退とか? 

 いや、会長さんみたいな家の人なら魔法の防犯アイテムの一つや二つ持っていてもおかしくはないか。襲いかかった瞬間に、風の魔法が自動発動するようなアクセサリとかあったはず。あ、でも、会長さんの性格から考えると、その手のアイテムを好まないような気もするな。自分の身は自分で守る、とか。だったら、悲鳴を上げて助けを呼ぶ、っていう選択肢もないのかもしれない。

 はたまた、本当に「無意識のうちに他人に苦手意識をすり込む」なんて魔法があるのなら、そもそも俺が襲い掛かろうとしてもそんな意志が霧散してしまうような魔法が既に展開されていたりするんだろうか。



 ……こう考えると、俺ってまだまだ会長さんの手の内が分かってないんだな。



「うーん」

「……神崎さん?」

「え?」

「『え?』じゃありません。どうしたんですか? 呆けた顔をして」

 訝しげに俺をみて、会長さんは首を傾げる。そんな彼女に、俺は内心の疑問を言葉にして投げ返す。



「単純な疑問なんですけどね。もし、この距離で俺が本当に襲いかかったら、会長さんはどうやって撃退するんだろうなーって考えてしまいました」

「あら、撃退しないかも知れないわよ?」

「その可能性はどのぐらいでしょうか」

「そうね。一万分の一ぐらいの確率じゃないかしら」

「……さようで」

 一万分の九千九百九十九の確立で撃退されるわけか。まあ、そうじゃなければ「私を打ち負かせ」なんて台詞は出てこないだろう。

 いずれにせよ、今ここで行動を起こしても確実に撃退される、という訳だ。その事実が、俺に一つの覚悟を決めさせていた。



「わかりました」

「なにかしら」

「今から、押し倒します」

「……え?」

 勿論、本気で襲うつもりなんかない。わざわざ、部屋にまで教えに来ている女の子を押し倒すなんて言語道断だって分かってる。でも、実際にベッドに押し倒すまでは本気でやってみようと覚悟を固めた。

 会長さんもそのことがわかっているのか、俺の宣言に浮かべた驚きの表情は一瞬で消えて、こちらの出方を愉しむような笑みをその目に覗かせた。



「できるのなら、どうぞ。ふふ、お手並み拝見といこうかしら」

「じゃあ、お言葉に甘えて」

 なんで、こんなことをしようと思ったのか。理由は、つけようと思えばつけられる。

 一つは、少しでも会長さんの手の内を知っておきたいと思ったこと。俺にしても霧子にしても、会長さんの取り得る行動パターンをあまりにも知らないから、多少無茶でも会長さんの選択肢を知って置くことに損はない。

 もう一つは、ひどく子供っぽい理由。いつでも、自分通りになると思って振る舞う会長さんに、少しぐらいは刃向かいたいっていう衝動が、その理由だった。我ながら大人げないとは思うけれど、あまりからかわれてばかりだと、俺としても一つぐらいはやり返したくなるのだった。思えばここ数日、会長さんには散々、挑発されていた気もするし、少しぐらいは反発しないとバランスがとれない。



「……行きます」

 だから、小さく呟いて心を決めると、俺は机から立ち上がって会長さんに向き直る。会長さんは相変わらず俺のベッドに腰掛けたまま。まだ彼女も魔法を使うそぶりは見せていないけれど、でもきっと魔法は使うだけ時間の無駄だろう。だから、俺としては文字通りに覆い被さって肩を押して、ベッドに押し倒してしまうことにした。それで目標は達成できる。

 勿論、会長さんも俺の意図に気付いたんだろう。率直な俺の行動に、少しだけ驚いたように目を開いてから、直ぐに軽い笑みを口元にひらめかせた。「来るなら、どうぞ」と告げるような余裕に満ちた笑みに、俺は覚悟を決めて床を蹴った。その瞬間、



「その身に束縛を」

 会長さんの唇から放たれた短い魔法の言葉が、耳に届く。たった、一文節の短い言葉は、しかし、呪文の一部ではなくて恐らくは、呪文の全て。その証拠に、俺の体に軽いしびれのような感覚が走り抜けた。つまりそれは、会長さんがつかったのは単文節までに省略された呪文だったということ。限界まで整理され敷き詰められた魔力の形に慄然とした思いが体を駆抜ける。



「駄目か……っ?!」

 放たれた呪文の内容から、魔法の効果は簡単にわかった。いつか綾が俺に対して使った体の自由を奪う束縛の魔法だろう。だから、俺は次の瞬間には体の自由を失って、そのまま床に崩れ込む。



 そのはずだったんだけど。



「あれ?」

「え?」

 自由を失って崩れ落ちるはずだった俺の体は、軽いしびれを感じただけで、実際には何も動きを変えることなく。そして、力なく垂れ下がるはずだった俺の手は、当初の目標そのままに……つまりは会長さんの肩に触れて。



「ええ?!」

「きゃっ?」

 驚きと戸惑いの声が交差する中、会長さんは、ぽすん、と軽い音を立ててベッドの上に倒れ込んで、俺自身もまた予想外の動きにバランスを崩して、ベッドの上に倒れ込んでしまっていた。



「え?」

「……え?」

「……」

「……」

 押し倒した俺と、押し倒し倒された会長さん。そんな俺たち二人は、ベッドの上で目を合わせたまま、ただただ硬直していた。



「どうして……?」

 そう呟いたのは会長さんだったのか、それとも俺自身だったのか。それすら分からないほど、頭の中は混乱していた。

 挑発した会長さんに、襲いかかった俺。二人とも本気じゃなくて、そして二人とも同じ結末を予想していたのに、こうして目の前にある現実は、どちらともが予想していたモノじゃない。

 予定調和の結果から外れて落ちた予想外の現実に、俺も、そして会長さんも二人とも頭の中が混乱して、驚きに目を開いたまま。ただ戸惑うままに、互いの顔を見つめていることしか出来なかった。

 息が鼻にかかるような距離。目の前にある青色の目に、仄かに紅い光が揺らめいては消えていた。それの輝きに見惚れてしまいそうになりながら、でも頭の中ではぐるぐると事態を整理しようと思考が大慌てで纏まらない考えをまとめようと奮闘していた。



 会長さんが抵抗しなかった訳じゃない。確かに、呪文を唱えた。

 じゃあ、間に合わなかった? 単文節魔法と思ったのは間違いで、実は三文節魔法の途中でしかなかった? でも、体にしびれが走ったと言うことは魔法は発動して、世界への干渉を行ったということじゃないのか?

 それとも、ごくごく単純に、会長さんが魔法に失敗した―――?



「私……いえ、あなた……やっぱり?」

「え?」

 グルグルととりとめもなく巡り纏まらない思考、それは不意に耳に届いた彼女の声に止められて、引き戻された。

 呆然とした会長の声と瞳。どこか焦点の定まらないその表情に、ひょっとして、どこか頭をぶつけてしまったのだろうか、と不安が胸を過ぎった。でも、俺がそれを確かめる声をかけるより前に、会長さんは我に返ったように目を開いて声を上げていた。



「か、神崎さん?!」

「は、はい?!」

「い、いつまで、こうしているつもりなんですかっ?!」

「え? あ―――す、済みませんっ!」

 会長さんの指摘に我に返った俺は、大あわてで会長さんの上から飛び退いて、ベッドから降りた。

 そうだ、何をやってるんだ、俺は! いくら予想外だったとはいえ、いつまでも会長さんを押し倒したままでいるなんて、無神経にも程がある。



「す、済みません!」

「あ、謝らなくていいわよ」

 慌てて頭を下げる俺を押しとどめて、会長さんは小さく首を横に振った。



「その……私が言ったことですから。だから、神崎さんが悪い訳じゃ、ないもの」

 僅かに頬を赤くしたまま、俺とは目を合わせずに、まるで自分に言い聞かせるように呟いて。俺のさわった肩の感触を確かめるように、会長さんは自身を抱きしめる。



「……う」

 いつにないそんな会長さんの弱気な仕草に、胸の中で罪悪感めいた感情が芽生えて渦巻いた。やっぱり、ここは挑発に乗ってしまった俺の方が謝らないと。



「その、やっぱりですね」

「だから、謝らなくて良いと言っていますっ!」

「は、はいっ!」

 再度謝ろうとした俺の言葉を、再びタイミング良く遮って、会長さんは素早くベッドから立ち上がった。そして、仕切り直し、とばかりに小さく咳をしてから俺の方へと向き直る。



「きょ、今日は、これで帰ります。お疲れ様でした」

「はい……」

 何事もなかったかのような態度。声にはいつもの毅然とした調子が戻っていたけれど、その頬には動揺の後が、小さな紅潮としてのこったままだった。そんな会長さんの様子に、またチクリ、と罪悪感が刺激される。

 会長さんは謝らなくて良いって言ったけど、あるいは謝って欲しくないって告げているけれど。でも、このまま何も言わないで返してしまうのは間違っている。そんな気がして俺は踵を返そうとしている会長さんを呼び止めていた。



「会長!」

「……なんでしょう」

「えーと、その、ですね」

 呼び止めたものの、何というべきだろうか。

 確かに挑発したのは会長さんだけど。挑発に乗ったのは俺で。しかも、ちゃんと押し倒せてしまった後のこと、なにも考えてなかったから。別に、そのまま襲うつもりなんかなかったけど……こうして会長さんと気まずくなる可能性を少しでも思い浮かべなかったのは、俺の考えが足らなかったからだと思うから。

 でも、今言うべきは、そんな言い訳の言葉じゃなくて―――。



「その、今日はありがとうございました!」

「……」

「……あれ?」

 言ってから気付いたけど。押し倒した相手に向かって「ありがとう」というのはちょっとばかり普通じゃないんじゃないだろうか……?

 実際に会長さんも面食らったような表情をしたまま、硬直して言葉を返してくれない。その事に気付いて、冷たい汗を吹き出しながら俺は慌てて別の言葉を探す。



「あ、いや、そうじゃなくて! いや、そうなんですけど! いや、えーと、あれだ、その……」

「……」

 焦りのためだろうか、考えれば考えるほど、適切な言葉が脳裏からぽろぽろと落ちていってしまうような、そんな泥沼のような感覚が焦りに拍車をかけていく。だから、もう深くは考えるのは止めて、ただ浮かんだ思いを、素直に口に乗せていた。



 素直に、今、一番言いたいこと。

 いろんな動揺とか、感情とか、思惑とか。きっと互いの中に渦巻いて居るんだろうけれど。このまま、会長さんと疎遠になったら、きっと一生後悔する。だから―――また。



「とんでもないことしちゃいましたけど。でも、お願いします。また、明日。朝、一緒に学校行かせてください」

「……」

 その思いを口に乗せて、俺は「お願い」という形で、彼女に頭を下げていた。



「……神崎さん」

「は、はい」

 そんな俺にかけられたのは、小さく、だけどはっきりとした声で。そしていつものように凜とした中に、小さな笑いを含んだ会長さんの声で。

 そんな声のまま、彼女は。



「ありがとう。ええ、また明日。朝にあいましょう」

 多分、俺が見た会長さんの中で一番、優しい笑顔で、そんな再会の言葉を告げてくれていた。


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