第二十二話 勉強開始!(その1)
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魔法使いたちの憂鬱
第二十二話 勉強開始!
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/1.霧子先生の場合
「ということで、私のことは先生と呼ぶように」
一体、どういう訳なのか、みんなが俺に日替わりで魔法を教えてくれることが決定したあの日から二日後。俺の部屋に現れた霧子は、俺と机を挟んで向き合うと、いきなりそう宣告した。
「……あのな。なんで先生なんだ」
「えー。だって、今回は私が良に教えるんだよ。だったら「先生」って呼ぶぐらい良いじゃない」
否定的な俺の返事に、霧子は不満げに唇を軽く尖らせる。が、そんな霧子に俺は少しだけ目を細めて、溜息混じりの言葉を返した。
「先生、ねえ……」
「何よ、その態度は。言いたいことがあるならはっきり言いなさいよ」
「普通の先生は、問答無用で生徒を気絶させたりしない」
「う」
流石に二日前の出来事は忘れては居ないのか。指摘する俺に霧子はばつの悪そうな表情を浮かべてから、気まずそうな声を出した。
「あれは、その……、ちゃんと謝ったじゃない。ごめんね?」
「いや、もう怒ってはいないんだけどな。ただ、あれで霧子の教師としての適性に疑問符が付いてしまった訳だ」
「失礼ね。そもそもアレは良が悪いんじゃない」
「……お前。実は反省なんかしてないだろ?」
「してます。してるけど、でも、良も反省しなさい。反省」
殴ったことは謝っても、その原因はあくまで俺にある、という事らしい。どうも霧子としては、綾と気軽に「何でも言うことをきく」約束を交わしたことがお気に召さないらしい。まあ、俺が「妹離れする」と言っておきながらのことだから、霧子が怒るのも無理はないのかもしれない。
「それより霧子先生は、一体何を教えて下さるんでしょうか」
「ふふふ。それは勿論……、これよ!」
不適に笑いながら霧子は鞄の中から、俺が最近見慣れた物を取りだした。最近の放課後、頻繁に手にするようになったもの。つまり、絵の具と筆だ。
「要するに美術部と同じ事をするのか?」
「そ。私としては、こういうのが良に向いていると思うのよ。多分、直接の魔力行使じゃなくて「魔法の絵の具」という媒介を解しているあたりが、良のやりやすさにつながっているんじゃないかな、って」
「なるほど」
そう言われると、確かに納得できる点はあった。実際、俺個人の感想としても、普通の魔法より扱いやすいのは感じている。そうやって頷く俺に満足したのか、霧子は偉そうに腕を組んで見せた。
「ということで、やっぱり先生と呼ぶように」
「はいはい。分かりましたよ、桐島せんせー。いた」
「なんで棒読みかなあ」
「拳で殴るな、拳で! 教育委員会に訴えるぞ」
「買収済みだから大丈夫よ」
「なんという汚職まみれの発言を……っ」
早くも霧子の教師としての資質に疑問を抱く俺だった。まあ、霧子の性格からして汚職とは一番縁遠そうなんだけど。
「じゃあ、霧子先生の方針としては、魔法の絵の具を通じて俺の技術向上を図る、ということなんだな?」
「そうだけど、それだけじゃないわよ」
「他に何かするのか?」
「うん。教え合うっていうのもいいって思うのよね」
「教え合う?」
「そうそう」
言いながら霧子は鞄の中から、プリントの束を取りだした。その表面に目を走らせると、どうやら理論の問題集らしい。
「誰かに物を教えるのは、自分の勉強になるっていうでしょ? それに実技の方にばかりかまけて理論の方を疎かにしてたら意味無いしさ」
「なるほど、それはあるかも」
他人に教えることで自分の中で、再度、理論を反芻してそれを実技につなげる、というアイデアは悪くないと思う。霧子の提案に、またも頷きながら、しかし、俺は一つ引っかかりを覚えて、それを言葉にして霧子に向けた。
「言いたいことはわかった。だが一つ気になることがある」
「なによ」
「それが思いっきり宿題のプリントというのはどういう意図があるんだろうか」
「ふふ、それはね」
俺の問いかけに頷いた霧子だったが、しかし、偉そうに頷いたまま、言葉を返さない。というか、偉そうに頷いたまま硬直して、言葉を返さない、と表現した方が正しいかもしれない。
「霧子?」
「……」
「何故、目をそらす」
「別に? そんなことはないんだけどね?」
「お前、どさくさに紛れて俺に理論の宿題を押しつけるだな?」
「えへ」
「お前なあ……」
駄目だ、と答えようとして思いとどまる。
「丸写しはだめだからな。考え方を教えるだけだぞ」
「え? じゃあ、いいの?」
「いいよ。けど、これでおあいこになるからな」
まあ、そちらの方が、俺としても気兼ねなくなる。それに理論は俺が、実技は霧子が、互いに教えあうっていうのを想像すると、ちょっと嬉しくもあったりする。
「だから、先生っていうのは無しで」
「えー。駄目なの?」
「こだわるなあ。そんなに先生って呼ばれたいのか?」
「別に拘ってるわけじゃないんだけどね。まあ、いっか。じゃあ、基本方針はそういうことで」
「基本方針は、って……まだ何かあるのか?」
「勿論。これが一番、重要なんだから」
そう言って霧子は仕切り直すように、こほん、と小さく咳をしてみせてから、また宣言するように言った。
「勉強と平行して作戦会議も行います」
「作戦会議って……なんの作戦だよ」
「決まってるじゃない。どうやって、私たちが会長さんを克服するのか、についてよ」
「お前な」
また物騒なことを言い始めたな、と眉をしかめる俺に、霧子は真面目な顔のまま首を横に振る。
「あのね……このままじゃいけないと思うのよ」
「うん? いや、このままじゃいけないから、こうして勉強会をだな」
「そうじゃないの。このままじゃ駄目なのは良じゃなくて、私のこと」
「……お前のこと?」
「うん」
問いかけに、霧子は神妙な表情を強めて頷いた。僅かに伏せた眼差しに、覚悟を決めたような光が覗いた気がして、俺も心持ち居住まいを正す。
「どういう事だ?」
「最近の私ってさ。なんだか、流されてるだけの気がしちゃってるのよ。そう思わない」
「いや? そんなこともないんじゃないのか?」
どちらかといえば、あちらこちらと流されている俺に対して、龍也と二人であれこれ心配してくれていると思う。だけど、そんな俺の指摘にも霧子は硬い表情のまま首を横に振った。
「そんなことあるの。特に会長さん相手には、さ」
「ああ、それは……まあ、なあ」
確かに相性が悪いのか、苦手意識が高すぎるのか、妙に会長さんに対しては言葉少なになる。だから、振り回されている、といえばそうも言えなくはないけど……でも、それを言い出したら、会長さんに対して押され気味なのは、霧子だけじゃなくて俺も含めて全員だけど。
「だから、決めたの。私だって、ちゃんと会長さんに意見を言えるようにならないとって。会長さんと会うときに、いつまでも良の後ろに隠れてるんじゃ格好つかないでしょ?」
「そうか?」
「そうよ。当たり前じゃない」
「んー。そうか」
別に良いのに、と口に出かけた言葉を飲み込んで俺は首を縦に振った。まあ本音としては、霧子に頼られるのは悪い気がしていないので気にしなくて良いというか、気にしないで欲しいんだけど。
でも、まあ、こういう所が霧子らしいといえば、霧子らしい。
「まあ、気持ちは分かるよ。俺だって会長さんへの苦手意識なんて克服だきるんだったらしたいしな」
「よし、じゃあ、決まりね」
頷く俺に、霧子は相好を崩して小さく手を叩いた。
「じゃあ、私と良の勉強会では二人で教え合いつつ、会長さんへの苦手意識対策を考えます。以上、何か文句ある?」
「何故最後に喧嘩腰になるのかはさっぱり分からないが、それ以外はわかったよ。まあ、霧子らしくて良いと思う」
「一応聞くけど、それって、誉めてるのよね?」
「微妙」
「あんたね」
唇を尖らせる霧子に、「冗談だよ」と答えながら、本当は褒めている、と心の中で呟いておいた。自分の弱さを認めるところも、それを埋めようってするところも、むやみに強がるところも、全部含めて、霧子らしい気がする。
「でも、苦手意識の克服と言っても具体的な方法は考えているのか?」
「それは大丈夫よ」
「ほう」
自信満々に答える霧子に、俺は感心の声を漏らして、言葉の続きを促した。
「じゃあ、具体案はあるんだな?」
「うん。ほら、会長さんも言ってたじゃない。会長さんに勝てば自信につながるって。会長さんへの苦手意識の原因って、結局の所、凄すぎる人から感じる威圧感だと思うのよ。だから会長さんに対する自信が付いたら、ちゃんと対等に意見を言えるようになると思うんだけど……どうかな」
「なるほど」
確かに「苦手意識」といっても『生理的に嫌い』、『恐れ多くて苦手』、『雰囲気が怖い』などなどいろんな種類はあるわけで、会長さんに俺たちが抱く感情は、霧子の言うように「恐れ多い」に近いのかもしれない。
「確かにそうかもしれない。でも、勝つって何で勝つんだ?」
「拳で」
「やめんか」
思わず、霧子の頭を軽くはたいて突っ込んでしまう俺だった。当の霧子は、叩かれた頭を軽く抑えてなんだか恨めしげな眼差しで俺を睨む。
「むー、叩くこと無いじゃない。冗談なのに」
「そういう冗談は心臓に悪いから禁止」
「うー。でも、拳は冗談としてもさ、決闘とかそういうやり方が、一番、後腐れ無い方法だと思わない?」
「思わない。暴力は遺恨を残します。だから禁止」
「別に決闘イコール暴力だって限らないじゃない。良って、私がそんなに力に訴える人間だって思うわけ?」
「先日、殴り倒した相手に対してそういう問いかけをしても、哀しい答えが返ってくるだけだと俺は思うんだ。答えが欲しいというのなら答えるけれど」
「だから、それはごめんってばーっ」
ちょっと泣きそうになって謝る霧子に、冗談だよ、と笑いながら俺は話題を元に戻した。
「そもそも決闘って、真正面からの勝負だろ?」
「うん。そういうこと」
「じゃあ、ますます駄目だろ。会長さんに相手に正面から決闘して勝てるわけ無い」
真正面から挑む、というのは霧子らしいとは思うけど、それは駄目だと俺は即座に首を横に振る。
「なによ、言い切るわね。良ってば、いつから会長さんの味方になったのよ」
「味方とかそういうことじゃなくて客観的事実を言ってるだけなんだから、拗ねるなって」
不満げに唇を尖らせる霧子を宥めて、俺は会長さん相手に正面から挑んでは勝てない、と思う根拠を説明した。
魔法使い同士が決闘する、ということであれば、当然、正面から直接魔法で戦うということになる。その場合、優劣を決めるポイントは「早さ」だと思う。相手より早く魔法を唱えて、相手が防ぐ間もなく直撃させてしまえば、そこで勝負は付くことになる。
で、いかに魔法を早く使うか、ということを考えると、それはいかに早く呪文を唱えられるか、という事に結びつく。そして、この点で俺と霧子は会長さん、ついでに言うなら龍也や綾に対して大きく遅れをとっている。通常、魔法を使うためには四文節からなる呪文を詠唱する必要があるわけだけど、上級者になるほど文節を省略して短い呪文で魔法を発現することが可能になる。
実際に、会長さんや綾は俺を束縛する際に、三文節で魔法を使って見せたし、龍也だって時々三文節の魔法を使って見せてくれることがある。それに対して俺はといえば四文節の魔法を何とか発動させるので一杯一杯であり、霧子にしても一文節を省略した魔法を使えるほどの技術は習得していない。……というか、普通は卒業間際まで文節の省略詠唱方法なんて習わないはずなんだけど。閑話休題。
「霧子。お前、文節省略なんてできるか?」
「う、それは無理だけどさ」
「だろ? ということで、俺たちが正面から決闘を挑んでも返り討ちだ。闇討ちでもするしかない」
「あのね、いくらなんでも闇討ちなんて真似しないわよ」
「じゃあ、武力行使は諦めるんだな?」
「はーい。諦めます」
「よろしい」
渋々と言った様子で首を縦に振る霧子に、俺は鷹揚に腕を組んで頷きを返して見せた。そこで、いつのまにか俺が先生っぽくしゃべっていることに気付いて、俺と霧子は顔を見合わせて軽く笑う。
「まあ、今は会長さんを何かで打ち負かす手だてなんて思いつかないけどさ、会長さんだって人間なんだ。得手もあれば、不得手もあるだろうし、きっと何か方法はある」
「本当?」
「……多分」
「そこで「俺に任せておけ」とか言えば格好良いのに」
「五月蠅いな。悪かったな、格好良くなくて。だけど、冗談無しに喧嘩は止めてくれよ。荒っぽい真似は禁止だからな」
「なによー。随分、日和るじゃない」
「なんと言われようとも、何事も平和が一番です」
日和見主義とか、事なかれ主義とか言われるかも知れないけど、争いやもめ事なんて無いに越したことはない。更に言えば霧子に喧嘩なんてして欲しくないっていう思いが強いのだった。そんな俺の内心の思いを知ってか知らずか、少し不満げに目を細めていた霧子は、一転して、口元をほころばせて笑みを零した。
「ふふ」
「何故笑う」
「んー? だって、平和主義を口にする割には、会長さんと一番喧嘩してるのは良だなーって」
「……あのな。別に好き好んでしてるわけじゃないの」
痛いところを突かれて、一瞬、言葉に詰まる。確かに、会長さんと色々ともめ事を起こしているのは霧子でも龍也でもなくて、俺だけど。しかし、一応、言い訳をさせて貰うのなら平和主義者と無抵抗主義者は違うと思うわけで、誰かを殴るのが好きじゃないっていっても、相手に殴られっぱなしで、それでも自分は手を出さないという状態が平和だって言うのは間違っていると思う。……以上、言い訳終わり。
「ともかく! 確かに今までは、会長さんに対して、ちょっと喧嘩腰だったかなー、と思わなくもないけどさ。今回のことは、それを踏まえてちゃんと仲直りするための行動なんだからな。うん、ほら、どこから見ても平和主義者だろ?」
「なるほど、戦争で相手の領土を焼け野原にしてから、戦後復興事業で大もうけしようって言う訳ね?」
「物凄く人聞きの悪いことを言うんじゃないっつ!」
何処の極悪人なんだ、俺は。
「うんうん。わかってるわよ。良は好戦的な平和主義者なんだよね。平和は拳で奪い取るんだって感じで」
「微妙に間違っていない気もするが、そういう生臭い発現は止めてくれ」
争いと平和は切り離せない物かも知れないけれど、争いなんて、つながりを切ってしまうような出来事は起こらなければそれに越したことはない。誰かとつながらないと生きていけない魔法使いにとっては、なおさらそうだと思う。
と、そんな風に抗議する俺の言葉を、霧子はどこか生暖かい眼差しで見つめながら、うんうん、と一人頷いていた。こいつめ……俺の言い訳、もとい主張を完全に聞き流してるな?
「……そんなに好戦的かなあ、俺?」
「え? ううん、そんな事無いんじゃない」
「そんなにニヤニヤしながら言っても説得力がない」
「そんなこと無いって。ちゃんと分かってるってば……私は良のそういう所、好きだから、ね」
「え?」
「ん、何?」
「あ、いや、なんでもない」
突然、声を大きくしてしまった俺に、不思議そうに霧子が小首を傾げた。そんな霧子に、俺は慌てて首を横に振った。『好きとか聞こえて、ちょっとびっくりしただけだ』、とは流石に口に出来ない。って、何を動揺してるんだ、俺は。明らかに今のは、俺の考えが好きなんであって、俺自身が好きって言われた訳じゃない。そんなの文脈から直ぐ分かる。分かってるんだけどもっ。うう……敏感に反応してしまった自分がちょっと恥ずかしい。
「良? どうしたの? 顔赤いけど……?」
「な、何でもないって!」
動揺に自分でも耳の辺りが熱くなってきているのを感じて、俺は慌てて霧子から目をそらした。逸らした横顔に、霧子の不審気な視線が突き刺さるのを感じていたが、俺が誤魔化す言葉を口にするより前に、「あっ」と小さく呟く霧子の声が耳に届く。その声に視線を戻せば、そこには何かに気付いたのか、見る間に頬を赤く染めていく霧子の顔があった。
「あ、その……良、い、今のはねっ?!」
「な、なんだ?」
「今のは……その……」
「うん」
「今のは……えと」
「……」
多分『今のは違う』。あるいは『そういう意味じゃない』。きっとそんな類の言葉が来るだろうと予想していた俺の耳には、しかし、いつまで経っても霧子の声は届いてこない。霧子の唇は何度もせわしなく動かされて言葉を形にしようとはしていたけれど、そこからはただ吐息が零れて落ちていくだけだった。
だから、自然、俺たちは、沈黙の中にただ互いの言葉を待つことになって。お互いに赤くなった顔のまま、ただ見つめ合っていた。
「……」
「……」
何を言おうとしているのか。あるいは何を言えばいいのか。
カチカチとやけに大きく聞こえる時計の針の音と、バクバクとやけに騒がしく踊る心臓の音が、思考をかき回して、中々、答えが掴めない。
そんな気まずい沈黙は、果たしてどのぐらい続いたのだろうか。何度も何度も、言葉を紡ごうと小さく動いていた霧子の唇。結局、今の今までそこから言葉は零れてくることはなくて。
「……あぅ」
困ったように零された息を最後に、ついには、その唇は閉じられてしまった。
「っ」
瞬間、頭が白くなって、心臓がひときわ大きくなった鳴った。真っ赤になった狼狽えた顔。そんな表情を俺に見せて、それでも霧子は俺の勘違いを否定する言葉を、最後まで口にしなかったから。……しないでいてくれたから。
だから、それは、そういうことでいいのだろうか。つまり……「好き」って言葉の解釈は、そう理解して良いって事、なのか?
「き、霧子」
「な、何?!」
答えに確信があったわけじゃない。でも、俺は我慢できずに声を上げていた。緊張に乾いていた所為か、呼びかける声はひどく上ずっていたけれど、そんな俺の呼びかけに応える霧子の声も十分以上に狼狽えていて。でも、お互いにそんな可笑しさは気にもとめないぐらいに、ただ互いの意識を互いの想いに向けていたんだと、思う。
「あのな」
「う、うん」
俺の声に、びくり、と小さく体を震わせて霧子が目を開く。薄く青みがかかった瞳。その瞳を覗いて『眼、綺麗だな』なんて暢気な感想を、自分の中の暢気な部分が人ごとのように呟いた。
「……」
「……」
良いのか? 言って良いのか?
土壇場で迷い渦巻く想いが、口にしようとしている言葉を、少しだけ押しとどめた。頭に浮かぶのは、龍也と霧子と自分自身。三人で並んで歩いている写真。そんな今の関係を壊したくないって言う畏れが、胸の中の想いに蓋をしていた。でも、目の前の霧子の瞳に、熱を持っていく思考に、ふくれあがる思いが、その蓋をこじ開けていく。
「あ、あのな。俺……っ」
「う、うん……」
緊張に舌が喉に張り付くみたいで、だから、口から出る言葉は滑稽なぐらいに引きつっていたけど。でも、霧子は笑わずに居てくれて、ただまっすぐにうっすらと赤く潤んだ眼差しで、俺を見つめてくれていた。
そんな霧子に。
「俺、」
お前のことが、好きだって。胸に抱いていたその想いを形にしようと決めた、その刹那。
何故か。頭には綾の顔が浮かんで。
その綾はなんだか泣いているように、見えた。
「……っ」
刹那、胸を刺すような痛みを感じて、一瞬、俺は言葉に詰まる。
なんで、ここで綾の顔が出てくるのか。理由に思いを巡らせて、少し情けなくなった。だって、それはいつまでも妹離れできない俺の心が見せた、弱さに思えて。それ以上にいつまでも霧子に想いを口に出来ない事への言い訳に、綾を都合良く、使ってしまっているんじゃないのかって思ってしまったから。
でも―――、だからこそ、思う。霧子が好きなのは嘘じゃない。
「霧子」
「う、うん」
だから、「好きだ」って。今度こそ、ちゃんと思いを口にしようとした―――、その刹那。
「失礼しますっ!」
「っ?!」
「?!」
突然の声とバンッと勢いよくドアが開け放たれる音に、俺と霧子は声にならない悲鳴を上げて飛び退いた。驚きのあまり跳ね回る心臓を押さえながら、大急ぎで振り向いた視線の先、そこには。
「あ、あ、あ、あ、綾?!」
「え、えええええ、綾ちゃん?!」
そう、そこには。なんだかお盆を手にした綾が、もの凄く底冷えのする視線で俺たちを睨み付けていた。
「お、お、お、お前、何なんだ?! いきなり!」
動揺のあまり引きつりまくった声で叫ぶ俺に、綾はひどく落ち着き払った口調で「何なんだ、じゃないです」と言い放つ。
「勉強を頑張っているはずの兄さん達にお茶をお持ちしたんですけれど」
「う。そ、そうか。ありがとう」
「あ、ありがと、綾ちゃん」
「…………」
綾の台詞にようやく事態が飲み込めて、俺と霧子は慌ててお礼の言葉を口にする。そんな俺たちに対して綾は無言のままで部屋の中に入り、紅茶の香気漂うカップを俺と霧子の前に置いていく。
「……」
「……」
「……」
なんなんだろう、この凄まじいまでの居心地の悪さは。綾からこれでもかっ、とばかりに放たれる無言の圧力。そのあまりの重さにたじろいでいると、紅茶のカップを置き終えた綾が、不機嫌さを隠そうともしていない視線で俺の顔を貫いた。
「…………それで。兄さん。今、何してたの?」
「え?」
「今、何してたの?」
「いや、何もしてないぞ?!」
「ふーん」
まさかバカ正直に『今まさに告白しようとしていた』なんて言えるはずもなく。我ながらうわずった声で誤魔化しに、綾は更に声の温度を下げて呟くように言った。
「何もしてなかったんだ。ふーん。じゃあ、勉強もしてなかったんだ?」
「え、あ、いや、してた。勿論してたに決まってるじゃないか」
「……兄さん?」
無言のまま綾は俺の目の前に立つと、腰をかがめて俺の顔を真正面から見つめて問いかけた。
「勉強。してましたか?」
「あー、いや、その休憩、そう! ちょっと休憩してただけであって」
「勉強してましたか?」
「いや、だからな? 別に勉強してなかった訳じゃ」
「ホントーに、勉強してましたか? 天地神明に誓って?」
「……ご免なさい」
「ちょっと脱線してました」
最早、誤魔化すことはできまい、と二人して綾に白状する俺と霧子だった。そんな俺たちの言葉に、綾は物凄く深々と溜息をつくと、くるり、と俺から踵を返すと、そのままベッドの方に向かって歩き、そしてそのままベッドに腰掛けた。
「……綾?」
なんのつもりだ、と問いかける俺に、綾はまだ不機嫌な表情を浮かべたまま宣言するように言った。
「監視します」
「監視って」
「兄さん達が、ちゃ・ん・と、真・面・目・に、勉強するように、です。霧子さんもいいですよね」
「……はい」
「文句ないです」
有無を言わせぬ、とはまさにこのことだろうか。今は逆らってはいけない、と思わせる迫力を何故か身にまとう妹だった。
あるいは、さっきまで告白の覚悟を決めるまでに精神力を使い果たしてしまっていた俺としては、ほとんど綾の台詞に刃向かう気力は残っていなかったのかもしれない。霧子の方はどうだろうか、とちらり、と視線を向けると、霧子はなんだか、気まずそうに、そして少なからず照れくさそうに笑ってから、俺に頷いた。
「勉強、しよっか」
「……そうだな」
頷いて笑いあう。その時、軽く目があって、一瞬、また息が止まる。
「……」
「……」
「そこ! ホントーに勉強する気あるんですかっ?!」
「も、勿論だぞ?!」
「えーと、じゃあ、絵の具! 絵の具の準備をしないとね!」
思わず見つめ合ってしまった俺と霧子に、容赦なく綾の突っ込みが飛んだ。その声に、そそくさと視線を逸らして俺と霧子は改めて勉強の準備に取りかかる。
そんな俺たちに綾は凄まじく不満そうな表情を浮かべながら、一人ベッドの上で深々と溜息をついていた。
「うう。なによ、もう。本当に佐奈の言うとおり突入して良かった……ありがとう。佐奈。それと兄さんのバカ、バカ、バカ……」
「綾? 何か言ったか?」
「……なんでもありません。兄さんはただただ黙々と粛々と勉強してればいいんです」
俺の問いに、拗ねたように唇を尖らせて綾はそっぽを向く。どうやら俺がまじめに勉強していなかったことが、相当お気に召さなかったらしい。
さて、どうしたものか。完全に機嫌を損ねている綾の態度に俺は思考を巡らせる。まあ、勉強しないで、あまつさえ告白しようとしていた俺だから偉そうなことを言う資格は無いかもしれないけれど……勉強している間、ずっと不機嫌な気配を振りまかれているのも息が詰まりそうで困る。
どうしたものかと霧子に視線を向けると、霧子は小さく「任せて」と頷いてから、手にした絵筆を綾に差し出した。
「え? 霧子さん?」
「どうせなら綾ちゃんもやらない? ほら、せっかく部屋に居るんだし、見ているだけじゃつまらないでしょう?」
「え? あの……いいんですか?」
「うん。美術は必修じゃないから、こういう絵の具を使った経験は、綾ちゃんもあんまりないでしょ?」
「あ、はい。それは」
差し出された筆と、指し示された絵の具。それに興味をそそられたのか、堅かった綾の表情が少しずつ和らいでいく。その妹と霧子の様子に俺は「良かった」と自然と胸をなで下ろした。こういう所は、やっぱり霧子の良いところだって思う。
そう思うと、少しだけ後悔に胸が痛んだ。それは霧子ではなく、綾でもなく、俺自身が原因の痛み。
綾の泣き顔を思い浮かべて告白を躊躇してしまった一瞬。あそこで、あそこであの一瞬、躊躇ったりしなければ……上手く行っていたかもしれないのに。ああ、我ながら自分の弱気が嫌になるっ!
というか、鍵を閉めて置けば良かったのか? いやいや、待て。二人っきりになった途端にドアに鍵を閉めたら、それはそれで問題だろう。えーと、じゃあ、部屋の前に「入るな」とでも掛札をかけておけばよいのだろうか。いや、それだと余計に綾を刺激してしまいそうな気が―――。
「ほら、良。いい加減、始めるわよ」
「兄さん、早く準備してください」
「……わかったよ」
霧子と綾の催促する声に、俺は感じていた後悔を、小さく頭を振って追い出した。ちゃんと告白できなかったのは、残念きわまりないけれど、今は気持ちを切り替えようと決めて、俺は霧子先生の授業を受けるべく絵筆を手にしたのだった。