第十五話 お兄さん葛藤中(その2)
3.親友たちのお昼休み(神崎良)
霧子と龍也の様子がおかしい。
……なんだか、朝にも同じようなことを考えていた気もするけれど、それはさておき。
遊園地の翌日あたりから、二人の様子が普段と違うような気がするのだった。こうしていつものように中庭の一角で弁当を食べているときでも、なんとなく空気がぎこちない。別に避けられている、という訳じゃないけれど……なんというか、距離を測られているような、そんな雰囲気を感じてしまう。
(……なんなんだろうな)
二人に対しておかしな事をしたつもりはないのだけれど、ここ最近、綾のことで頭がいっぱいだったので、知らない間におかしな事をしでかしてしまったのだろうか。
そんな不安を抱いたりもしたけれど、俺の行動が原因で気分を害したら霧子ならはっきりと文句を言うだろうし、龍也だって指摘してくれるだろう。だから、別な理由があるとは思うんだけれど、その理由に思い至らない。
「良?」
「え?」
箸で弁当をつつきながら思考に沈んでいた俺は、霧子の声で現実に引き戻された。気付けば霧子が気遣わしげに俺の顔を覗いている。
「どうかした? なんか、ぼーとしてるけど」
「ん……まあ、どうかしたと言えばどうかしたんだけど」
霧子の問いかけに、俺は箸を止めてその表情を伺う。じっと俺を見る霧子に嫌悪や怒気などは感じられない。でも、いつものように「何を呆けてるのよ」とからかうような口調でもなくて、やっぱり俺の様子を伺っているというか心配しているというか、そんな雰囲気を漂わせている。
……らしくない、と言えば怒られるかも知れないけれど、やっぱり霧子らしくない、と思う。
「あのさ、霧子」
「なに?」
「……何かあったのか?」
「え?」
思い切って投げかけた言葉に、一瞬、霧子の表情が引きつった。浮かんだ動揺に軽く目を泳がせながら、しかし霧子は「何のこと?」と惚ける言葉を口に乗せる。
「な、何かあったって、なにが?」
「いや、分からないから聞いてるんだけどな。この間からなんとなく様子が変だから」
「様子が変って、私が?」
「お前だけじゃなくて、龍也もだけどな」
「え?」
そう言いながら横目で龍也の方を見ると、龍也は驚いたように何度か目を瞬かせていた。
「ぼ、僕の様子もおかしいの?」
「ああ。この間から、なんか変だ。お前も、霧子も」
「そ、そんなことないわよ?!」
「良の気のせいだと思うな?!」
……思いっきり声が裏返ってるぞ、お前ら。狼狽える二人の態度に疑念を確信に変えて、俺は目を細めて問い掛ける。
「……なんかあったな? お前ら」
「そんなことないってば。ね、龍也」
「そ、そうそう」
「なるほど。惚ける気か」
「惚けてなんかいません。人聞きの悪いこと言わないでよ」
「何故目をそらす?」
「……な、なんとなくよ! それより良!」
「お前な。誤魔化すにしても、強引だぞ。それ」
「うるさいわね。それよりも!」
強引に主導権を奪い返す、とばかりに声を強めながら、霧子が俺の鼻先にぴしり、と指を突きつけた。
「それより、そっちの方はどうなのよ」
「そっちの方?」
「だから! その……綾ちゃんとはどんな感じなの?」
「う」
綾の名前に俺は一瞬言葉に詰まる。途端、その俺の態度に、二人の顔色が同時に変わる。
「ウソ。なにか、あったのっ?!」
「まさか、良……やっぱり、綾ちゃんと?!」
「な、何にもないぞ?! っていうか、龍也。「やっぱり」って何だ、「やっぱり」って?!」
突如、詰め寄る二人に俺は慌てて首を横に振る。でも思わず声がうわずったのは、「何もない」と答えつつも「例の事件」が頭をよぎったかもしれない。
「……怪しいわね」
「良、ほんとに何もないんだよね……?」
そんな俺の狼狽は、霧子と龍也には伝わってしまったのか、二人は訝しむように少し目を細めた。
「何もないってば」
本当はあったといえばあった訳だけど。しかし、いくら霧子と龍也にだって「いや、実は妹にキスされたんだよ。あはは」なんて言えるわけもない。なおかつ、それ以降、綾の些細な行動で動揺し続けているなんて尚更言えるわけもなく。
「……ホントに何もないぞ?」
「目が泳いでるわよ、良?」
「失礼な。何もないって」
「本当に?」
「う」
「『う』って何よ! ほら、やっぱり狼狽えてるじゃない!」
「狼狽えてない! そうじゃなくて、えーと、ほら、綾の態度が変わっただけだって」
「綾ちゃんの態度が、変わった?」
「そうそう」
二人に完全にウソを突き通す自信はなくて、俺は「綾との出来事」じゃなくて「最近の綾の変化の事」を答えの代わりに返した。そもそも霧子と龍也には、綾のことで色々と相談しているだから、完全に隠し通すなんて事もやりたくはない。
「いきなり怒り出したりすることは無くなっただけどさ。代わりに、やたらとべたべたしてくるようになった」
「べ、べたべた?!」
「綾ちゃんが、良に?!」
「いや、ほら、あれだ! べたべたっていっても、遊園地のお礼のつもりなんじゃないかな! あいつなりの」
二人の顔が青くなったのを見て、俺は慌てて首を振りながら続けた。
「お礼って……良が綾ちゃんのこと助けたからってこと?」
「正確には「助けようとした」だけどな」
結局は俺の空回りだったわけだし。「風」の魔法のクッションは……まあ、一応、それなりに成功していたから遊園地側の安全装置が無くても多分、二人とも死にはしなかったと思うけど、流石にアレだけでは二人とも無傷で済んでいた保証なんかないし。
だから……アレはきっと綾なりのお礼の態度なんだろう。そういう俺の言葉に霧子と龍也は何故か微妙な表情で顔を見合わせた。
「……」
「……」
「……えーと。俺、なんか変なこと言ったか?」
「あ、ううん。良は別に変なこと言ってないわよ?」
「うん。そうだよ。良は変なこと言ってないんだけど」
俺の問いかけに、そろって首を横に振る二人は、しかしまたもや同時に二人が顔を見合わせる。
……一体、なんだっていうんだろうか。やっぱり何かおかしいと、俺が首をひねっていると、なんだか霧子は一瞬考えるそぶりを見せてから、ぐっと俺の方に身を乗り出した。
「あ、あのさ。良」
「な、なんだ?」
やっぱり何かまずいことを言ったのだろうか。霧子の様子に軽く身構える俺に。
「これ……、食べる?」
「え?」
そう言いながら霧子は自分の弁当箱の中からおかずをつまみ上げながら、俺に差し出した。……って、え?
「えーと、霧子?」
「良って、これ好きじゃなかった?」
「いや、好きだけど」
確かに卵焼きは好きだけど。だから、なんで唐突にそれを俺につきだしているのか、その意図が分らない。何をどうやったら今の話の文脈からそういう行動につながるのか、さっぱり理解できないのですけれど。霧子さん。
しばし戸惑うままに、卵焼きと霧子の顔の間で視線を往復させていると、霧子の表情がふと不安に曇った。
「……いらない?」
「いや、そんなこと無いぞ?!」
呟くようなその声が、ひどく儚げで。俺は咄嗟に声をあげて慌てて首を横に振る。
「くれるんなら喜んで貰うけど……いいのか?」
「う、うん。じゃあ……」
俺の言葉にほっとしたような表情を浮かべた霧子だったが、今度は卵焼きを掴んだ箸を動かそうとして、何故か硬直した。そしてそのままの姿勢で、ちらちらと俺の顔と卵焼きの間で視線を往復させる。
「……霧子?」
「は、はいっ。あげる!」
「うおっ?!」
俺が「どうかしたのか」と口にするより先に、霧子はぽーん、とつまんだ卵焼きを俺の弁当箱へと投げ入れた。それを零さないよう慌てて弁当箱で受け取りつつ、俺は霧子に声を上げる。
「お前な! 食べ物を投げるな!」
「なによ! ちゃんと渡せたんだからいいじゃない!」
「そういう問題じゃないだろうが!」
「そういう問題なの! いいからさっさと食べなさい」
「あのな」
「た・べ・な・さ・い」
「……わかった」
なんだろうか。語気は強いものの、どことなく不安定な霧子の声に、今はおとなしく従おうと決めて俺は投げ入れられたおかずに橋を延ばして口に入れた。
「あ、うまい」
「ほんと?!」
予想外、と言っては失礼だけど、想像以上の味に思わす零した言葉。それを聞いて霧子は嬉しげな声を上げた。
「ほんとに美味しい?」
「うまいよ。霧子って料理できたんだな」
「一応、人並みぐらいにはね。何よ、知らなかったの?」
ふふん、と一転して機嫌の良くなった霧子に小さく笑って卵焼きを飲み下す。と、その次の瞬間、つんつんと龍也が俺の腕をつついた。
「あ、あのさ、良。こっちも食べる?」
「え?」
「だから、そのお弁当。はい」
「え、ええ?」
再び何が起きているのか混乱し始めた俺を尻目に、龍也は自分の弁当箱を俺に向かって差し出している。……なんだろう。やっぱり霧子と龍也は二人して何か企んでいるんだろうか。
「……あのな、龍也」
「な、なに?」
「言っておくが、金はないぞ?」
「別に金銭要求してないよ! ただ、えーと……そうだ。僕、最近太り気味だから、ちょっとダイエットしようかなあ、って」
「ダイエット? お前が?」
「うん。そうそう」
「……ふーん?」
男がダイエットなんか気にするな、なんて事は言わないけれど、コイツは自分のどこをダイエットしたいというのだろうか。前々からもう少し身長が欲しいとぼやいていたから、寧ろ食べた方が良いとは思うんだけど。
「まあ、くれるなら貰うけど。いいのか?」
「勿論、はい。どうぞ」
そう言っておかずを箸でつまみ上げると、龍也はそれを俺の顔の前に持ってきた。そして、そのままの位置で停止する。
「……」
「……龍也?」
そのおかずを受けようと俺が弁当箱を差し出しても、龍也は、なかなかおかずを落としてくれようとしない。
一体、なんのつもりだろうかと俺が訝しんで眉をしかめると、やがて龍也はおずおずといった態度で口を開いて、言った。
「あ、あーん」
「…………いただきます」
「あ」
龍也の言葉を聞かなかった事にして、俺は素早く差し出された唐揚げをひょいと箸で直接つまみ上げ、そのまま口に入れた。そんな俺の行動に龍也はなんだかショックを受けたような声色で抗議の声を上げる。
「良! お箸での受け渡しって行儀がわるいよ」
「やかましい」
行儀が悪いのは重々承知だが、流石に龍也が相手でも、男相手に「あーん」とされるのは抵抗がありすぎる。というか、何故に頬を染めるんだ、お前は。
「うう、頑張ったのに」
「……ちょっと、龍也。なんであんたが頑張るのよっ」
何故か肩を落とす龍也に、霧子が呆れたような口調で問い掛けた。
「いや、その……先生に言われたしね?」
「頑張る相手が違うでしょ」
「じょ、冗談だって。あはは」
目の前でかわされる二人の会話。龍也の唐揚げを咀嚼しながら、その内容が気になって口を挟む。
「頑張るって、何のことだ?」
「な、なんでもないわよ?!」
「いや、なんでもないよ?!」
ほぼ同時に答えて首を横に振る二人。しかし、ここまであからさまに態度がおかしければ、流石に「何もない」と思う方がおかしいだろう。
「……なんか、変だな。お前ら」
「な、なんのこと?」
「変なことなんか何もないよ?」
「怪しい」
「怪しくない」
「そうだよ。全然怪しくないよ?」
「なら、何故に目をそらす?」
「……」
「……」
やはり何かあるな。仲良く視線を逸らす二人に、俺が尚も詰め寄ろうとすると、霧子が再びおかずを掴んで俺に突きつけた。
「なにも企んでないから、ともかく食べなさい」
「なんでそうなる」
「いいから、ほら!」
俺の顔の前に箸を付きだして、そのまま静止する。それはさっきの龍也と同じ体勢で。
「……」
「……霧子?」
口の前に箸を持ってきたまま停止する霧子の姿勢はさっきの龍也と同じだから、つまり、その意図も同じなのだろうか。まさか……と思って戸惑う俺に、霧子はほんの少し頬を赤くして小さく呟くように言った。
「……口、開けてよ」
「っ?」
想像通りの言葉に、一瞬、絶句する。突然の事態に思考がついて行かずに思わず硬直してしまった俺に、霧子はやがて意を決したような表情で口を開いた。
「あ、あーん」
「っ?!」
ここまで言われると最早、その意図は間違いようもなく、俺は促されるままゆっくりと口を開いた―――その、刹那。
『風よ。以て、その標を打ち堕とせ』
「うおっ?!」
「え?」
パン、という乾いた音とともに、肉団子が宙を舞い、そして霧子の弁当箱の中へと零れて戻った。
「何だ?!」
「な、何?!」
今のは、多分、風の魔法。しかも、今の声は……。
突然の事態に驚きながら、一斉に振り向いた俺たちの視線の先、そこには髪を風になぶらせつつ仁王立ちをしている妹の姿があった。
「あ、綾?!」
「ちょ、ちょっと綾ちゃん! なんて事するのよ!」
「ご免なさい、霧子さん。ちょっと、手が滑りました」
いきなり魔法を放たれて憤慨する霧子に、綾はぺこり、と頭を下げる。そして再び上げた顔には、しおらしい表情が浮かんでいたが、なんだか物凄く怒っているようにも見えたのは何故だろう。
それはともかく「手が滑って魔法がお弁当を直撃する」なんて事がありうるのだろうか。その疑問に、霧子は「否」と結論づけたらしく、俺たちの方に歩み寄る綾に、怒りの視線を向けていた。
「あのね、綾ちゃん。手がどう滑ったら、風の魔法が起きるのかしら」
「ちょっと練習していたら方向を間違えちゃいました。未熟でお恥ずかしい限りです」
「それで、どうして正確におかずだけを直撃するのかな……?」
「偶然って怖いですよね」
物腰柔らかに謝ってはいるのだけれど、しかし悪びれていないことは態度で伝わってきて、というか霧子に謝りつつ俺をもの凄く睨んでいる気がするのは気のせいか。妹よ。
「それより、兄さん」
「な、なんだ?」
「あんまり食べ過ぎるのは良くないと思うよ? 油断してたら太っちゃうんだから」
ごく穏やかな口調なのに、ぴりぴりと帯電するような迫力を感じるのは、本当に俺の気のせいなんだろうか。気のせいじゃないとしたら、果たしてこいつは何に怒っているというのだろうか。
困惑する俺を尻目に、龍也を目線だけで追い払い、トスン、と俺の隣に腰を下ろした綾は手に提げていた弁当をほどきながら微笑んだ。
「ということで兄さんには私の弁当をあげます。兄の健康管理は妹の役目ですし、霧子さんのお弁当を「偶然」落としちゃったお詫びも兼ねて」
「大丈夫よ。綾ちゃん。おかずはまだあるから」
「いえいえ、霧子さんはご自分でお食べになって下さい」
「私ちょっとダイエットしようかなーって思ってるのよね。だから心配しないで?」
「……」
「……」
そして、そのまま笑顔のまま見つめ合う二人。しかし、その目が笑っていないことぐらい、俺にだって分かってしまうわけで。
あるいはこのまま喧嘩が始まるのか、と危惧した時、不意に二人の言葉の矛先が変わった。
「……兄さんは私のお弁当が欲しいって言ってます」
言ってない。
「良は私に食べさせて欲しいって言ってます」
そちらも言ってない。……まあ、ちょっと、というかかなり期待したけど。
綾と霧子。二人の言葉に内心だけで答えつつ、二人の視線に耐えきれずに目をそらした先、一人、心配そうに俺の方を見つめてくれる親友の姿をみつけて俺は思わず問い掛けていた。
「なあ、龍也?」
「な、なに?」
「えーと、なんでこんな事態になってるんだろうな?」
縋るようにして投げかけた問いには、「あ、あはは」とただ乾いた笑みが返されただけだった。