第十四話 波紋(その2)
/2.朝(神崎良)
「……いないか」
朝、俺は教室に入ると霧子と龍也の姿を探した。今日はどういう訳か、綾だけじゃなくて、龍也も霧子も先に登校してしまっていた。昨日の遊園地では、俺と綾が病院に担ぎ込まれたせいで、例の事故の説明も満足にできていないままだったから、二人と佐奈ちゃんにはきちんと事情の説明と心配をかけたお詫びを言わないといけないのだけど……。
そんな義務感とは裏腹に、教室に二人の姿がないことが分ると、俺の口から漏れたのは軽い安堵の息だった。正直なところ、今、二人と会っても、落ち着いて話せる自信がない。なにせ、自分でも挙動不審だって思うほど、気持ちが落ち着いていないから。
「はあ」
口からこぼれた溜息は、朝目覚めてから通算で何度目なのか、最早、見当も付いていない。我ながら辛気くさいと思うのだけど、それでもつい溜息が零れてしまうのは……多分、「自己嫌悪」の所為だろう。
「……はあ」
言っている側から、また一つため息を零して、俺は教室の隅の席に腰を下ろした。始業前の教室。そこにざわめきがあるのは当然だけど、なんだか、いつもより騒々しいような気がする。それは……やっぱり俺の気持ちが高ぶって、落ち着いていないからだろうか。
まだ始業の時間には十分な余裕がある。せめて、授業が始まるまでには気持ちを落ち着かせようと、俺は大きく息を吸い込んで、目を閉じた。思い返せば、本当に昨日は色々とあって、最後なんて空から落ちるなんて羽目にもなった訳だから、気持ちが落ち着かないのも仕様がないのかもしれない。そう言い訳するように考えながら、閉じた瞼の裏、そこに思い描かれる情景は、たった一つのことだった。それは、つまり。
……綾とキスをした、あの時のこと。
「……っ!」
脳裏に浮かんだ光景を、俺は慌てて頭を振って追い出した。もとい、追い出そうとした。だけど、あの時の記憶は瞼の裏に縫い止められてしまってでもいるのか、一向に俺の思考からは離れていってくれない。
妹と、キスをした。つまりはその事実が、俺にとってあんまりにも衝撃的だった、ということなんだろうか。
「って、いや違う、いや違うっ!」
あれは、そもそもキスじゃない。意識がもうろうとした綾がうっかり唇と首筋を間違えたことによる事故。そう、事故なのだ。大体、俺たちは兄妹なんだから、キスの真似事だってしたことはある。うん、多分、小さかった頃にしたことがあるような気はする。
「ああ、うん。兄妹なんだから気にするようなことじゃない」
そう、気にするようなことじゃなく、そして必要以上に「気にしてはいけないこと」のはずなのだ。……それなのに。
あの時、唇に触れた、柔らかな感触と。あの後、『……間違えちゃった』って言いながらはにかんだ綾の笑顔が、目に焼き付いて離れないのはどうしてなんだ。
「うあああ……っ」
頭を巡る思いに呻いて、俺は、ごん、と机に頭を落とす。
どうかしている。本気でどうかしている。妹と唇が触れただけで、こんなに意識してしまうなんて、兄として駄目すぎる。そりゃあ、今まで散々、シスコンだの、変態兄貴だのと言われてきたけれど。それは冗談交じりに笑い飛ばしてこれていた。だけど、今、霧子や龍也に冗談半分にその言葉を投げかけられて、ちゃんと笑い飛ばせるんだろうか、俺。
「う、うう……」
実は本当に、俺って、実の血を分けた妹を意識してしまうような言い訳のきかない変態シスコン兄貴なんだろうか……? いや、でも、待て。ちょっとは仕方ない部分もあるんじゃないのだろうか。
落ち込んでいくばかりの思考に、俺は精一杯の待ったをかけて考える。
自慢ではないが(本当に自慢ではないけれど)、小さい頃を除外すれば、女の子とキスした事なんて無いのだ。だから、相手が妹とは言え、同年代の女の子とキスしてしまって動揺してしまっているのは、仕方ないんじゃないだろうか。
……相手が妹とは言え。
「うああ、やっぱりそれは駄目だ……っ」
「か、神崎君?」
「え?」
堂々巡りの思考に身もだえする俺に、不意に、横合いから声がかけられた。その声に顔を上げると、心配そうに、というか怪訝そうに俺を見つめる女の子と眼鏡越しに目があった。
「あ……、鐘木さん。お、おはよう」
「おはよう」
鐘木セフィナ(かねき・せふぃな)。黒く艶のあるセミロングの黒髪と、仄かに褐色色の肌が印象的なその女の子は、俺のクラスメートであり、そして「速水会」会長さんだった。当然のことながら龍也の熱心なファンであるのだけれど、他の子たちの龍也への熱意が暴走しないように上手く手綱を握ってくれている非常にありがたい人物だった。その彼女は俺の挨拶に軽く答えながら、少し眉を潜めて俺の顔をのぞき込んできた。
「大丈夫なの? 神崎君」
「だ、大丈夫って、何がっ?」
「いや、声裏返ってるし。それに、さっきからなんだか、一人で身悶えしてたじゃない。病院行く?」
「あ、いや、まだ大丈夫」
「ま、まだなんだ」
俺の答えに、鐘木さんが少し引きつったように笑う。が、あまり深く追求する気はないのか、彼女は少し声を改めてから別のことを口にした。
「まあ、大丈夫ならいいんだけど。それより、ちょっと聞きたいことがあるんだけど、いい?」
「聞きたいこと?」
「うん」
「いいけど、何の話?」
そう聞きながらも、話題は龍也のことだろうとは分っていた。正直なところ、俺と鐘木さんの共通の話題と言えば龍也に関することぐらいだ。そして、そんな予想に違わず、俺に促されて口を開いた鐘木さんの口からは龍也の名前が転がり出た。
「あのさ、速水君が昨日デートしてたって噂があるんだけど、何か知ってる?」
「デート?」
「うん。昨日、「天国への門」で速水君が女の子と歩いているの見たって言う子がいるんだけど」
「ああ、それか」
つまり昨日、「速水会」の誰かが、遊園地で遊んでいる俺たちを見た、という事なんだろう。そう事情を理解して、俺は「違うよ」と鐘木さんに笑いかける。
「昨日の件はデートじゃないよ。龍也は俺たちと一緒に遊んでただけだから」
「神崎君も一緒に?」
「そうだよ。俺と龍也。それから霧子と、ウチの妹と、その友達の五人で遊びに行ってたんだ」
「ふーん。じゃあ、神崎君が誰かと二人っきりでデートしていた、という訳じゃないのね?」
「違う違う。あと人数的にもダブルデートって訳でもないから、安心して」
「そう。そういう訳だったんだ」
そんな俺の返事に、鐘木さんはほっとしたように息をつき、そしてそれと同時にざわめくような安堵の息が周囲から一斉に漏れた。そのざわめきに周囲を見渡せば、速水会の女の子とおぼしき娘たちが方々から俺と鐘木さんに視線を注いでいた。
……ああ、そうか。教室が少し騒がしい気がしたのは、その噂を心配して速水会のメンバーが集まっていたことが原因だったのか。そう俺が納得して頷いていると、鐘木さんは小さく苦笑して肩をすくめた。
「速水会の誰かが抜け駆けしたんじゃないのかって、みんな殺気立っててさ」
「なるほど」
「でも、いやー、よかったわ。魔女狩りなんてしたくないしね、私」
「……会長職も大変だな」
「まあ、多少はね。好きでやってることだからいいんだけど、速水君、人気ありすぎるからねー」
基本的に学内での龍也との魔力交換は速水会に入っていることが前提になる。そして、速水会に入った以上、交換できる回数も会からの割り当てに従わなければならないという制約があるわけで……熱心なファンの中にはそれを破ろうとする者も当然出てくる。勿論、制約は学内のことに限定されるわけだけど、会に入っているメンバーの中では「抜け駆け禁止」、というのがある種、暗黙の了解になっているらしい。
だけど、やっぱり中には抜け駆けを試みる女の子(時には男の子も)居るわけで。そういった人物に注意を与えるのが、鐘木さんたち速水会の運営メンバーの仕事になっているのだった。
……なんだか大げさな話だけど、去年、龍也との魔力交換を独占しようとした危険人物がいたから、こういう慣習が産まれたのだった。
「ということで、みんな聞いての通りよー。特に非常事態は発生していないから、臨戦態勢に入っていた人は警戒レベルを下げるようにー」
「はーい」
鐘木さんが教室、そして廊下にいる会のメンバーに振り向きながら呼びかけると、安堵混じりの素直な返事と共に、ぞろぞろとみんな散会していった。未だに龍也が教室に来ていないためか名残惜しそうな表情をする子もいたけれど、流石にそろそろ始業時間が近いので、結局は自分の教室へと去っていくようだった。
「で、神崎君は何があった訳?」
「え?!」
そんな会のメンバー達に笑顔で手を振ったまま、鐘木さんはぽつり、と囁くように問いかけた。まるで俺の抱えている悩みを見透かすような鐘木さんの口調に、引きつった声が口から零れて落ちる。
「な、何があってって、何が?」
「だから、何か進展があってのかなーって。主にほら、桐島さんとかと」
「あのね。だから昨日のはそんなのじゃないんだって。そんなの何もないよ」
「ふーん、じゃあ、なんでそんなに錯乱してるわけ?」
「うっ」
錯乱している、という指摘に思わず言葉が詰まる。確かに今の自分の精神状態を表現するのなら、「錯乱」という言葉があてはまるから。
「……そんなに錯乱しているように見えるのかな」
「うん。凄く変。だから、ひょっとして速水君と妹さんが付き合っちゃったりして、そのショックで神崎君が壊れちゃったのかな、とも思ったんだけど。違う?」
「違う」
龍也と綾が付き合う。それはそれで、ある意味でショックを受けるかもしれないけれど、そっちの方が全然マシな事態だと思う。少なくとも今の俺の悩みなんかより全然まっとうで健全な悩みだから。
「じゃあ、何に悩んでるの? よかったら相談に乗るけど」
「……いや、いいよ」
せっかくの鐘木さんの好意だけど、俺はしばらく躊躇ってから首を横に振った。正直、相談に乗ってくれるという申し出はありがたかったけれど……流石に「妹にキスされちゃったんだけど、どう思う?」なんて相談を持ちかける気にはならない。
「そ。ならいいけど」
「うん。心配してくれてありがとう」
「お礼なんて良いわよ。ちょっと気になっただけだしね。でも、悩みがあるなら言ってよね。こういう会を作ってくれたのは、神崎君なんだからさ。その辺、ちゃんと感謝はしてるんだから」
せっかくの申し出を断った俺に、鐘木さんはそう言うと、小さく手を振りながら背を向けた。基本、龍也以外には淡泊な性格の女の子だから、気にかけて貰ったことは嬉しい。でも、同時にそんな彼女に心配させてしまうほどに挙動不審な自分に気付いて、俺はまた深々と溜息を零すのだった。
「……本当、何やってんだろ。俺」