第十三話 思惑錯綜、遊園地4(その3)
4.空から大地へ(神崎良)
「綾!?」
変化はあまりに唐突だった。でも、原因には即座に思い至る。
綾の翼が、羽ばたいていない。
「綾!」
慌てて雲の台座から飛び降りて、落ちていく綾に必死で手を伸ばす。だけど、その手は空を切り、届かない。
「おい! 綾! しっかりしろ!」
「……、……」
叫ぶ俺の声に、しかし、綾からの返事はない。綾が意識を失っていることは明らかで、俺は「兆候」に気付けなかった自分に歯がみした。
さっき綾が見せた赤い目。それは綾の場合体内魔力の欠乏を示す兆候だ。
「くそっ……!」
お化け屋敷で綾が派手に魔法を使った。そのことはちゃんと龍也から聞いていたのに。それに今だって必要以上に派手に飛んで見せて、魔力を使っていたことだってわかっていたはずなのに。
もっと早く気付けなかった迂闊さに舌打ちしながら、俺は必死で背中の羽に「羽ばたけ」と命令を送る。
だけど、もともと、この羽は「緩やかに」移動することを目的に作られたもの。急速な上昇や、急降下は「出来ない」ようにしてあるのか、いくら急いで飛ぼうとしても一向に速度があがらない。なのに―――。
なのに、綾との距離が開いているのは、どういうことなのか。
「なんで?!」
視界に映るのは、どんどんと遠ざかる綾の姿。緩慢にしか動けない俺を置き去りにするように、落ちていく綾との距離は少しずつ開いていく。
俺が一定の速度しか出せないのに、距離が開く。それは、綾の落下速度が上がっていっている、ということで。つまり、綾が加速してしまっているということ。そのことに気付いて、俺の頭から一気に血の気が引いていく。
つまり、綾の「羽」の落下防止の機能が働いていない……?!
「誰か! 妹が落ちてる! 助けてくれっ!」
他に客の姿がないことは分かっている。でも、ひょっとしたら、見えない位置に監視員でもいるのかもしれない。それを期待して叫ぶ俺の悲鳴に、でも、答える声はない。
「くそ、なんでだ!」
焦りにうわずった声が口をつく。そんな情けない声に思考が混乱しかけていることに気付いて、俺は咄嗟に平手で自分の頬を張り飛ばした。
「―――っ!」
痛みを気合いに変えて意識を整える。何をすべきなのか。いらだつ暇があれば、今はそれを考えないと、駄目だから。
風の魔法で俺の落下速度を上げる? でも、下手に大きな風を起こせば、ますます綾の落下を早めてしまうかも知れない。なら「上向き」の風を起こして、綾の落下を弱めれば、それでいいのか? そう考えた刹那、説明員さんの言葉が脳裏をよぎる。
『基本的にこの羽は、外からの魔法をキャンセルします』。確か、説明員さんはそういっていた。でも、キャンセルするって、何を、どこまでだ? そこを見誤れば、最悪、俺の落下速度を下げて、綾の落下速度は変わらないなんて事にもなりかねない。
(落ち着け、落ち着け……っ! そもそも、遊園地の仕掛けはどうなってる?!)
ここはあくまで遊園地だ。なら、不測の事態に対する対処はいくらでも用意されているはず。アトラクションの説明書きにも安全面には万全の配慮を、とは書いてあった。だから、俺が下手に何かするより、その安全策に任せた方がよいのかもしれない。
(だけどっ)
だけど、万が一、それらの対処方法が間に合わなかったら? そう、全てが「想定」を越えてしまっているとしたら?
このアトラクションで見せられている「高さ」は魔法による仮初めの者だとは知っている。だけど、魔法によって書き換えられた法則はあくまで現実を置き換えるもの。つまり……この高さは、少なくとも俺たちにとっては「本物」なんだ。
だから、全てが最悪に転んだ場合、俺がこうして躊躇っている所為で、綾は―――。
「っ!」
そのことに気付いたとき、俺は「羽」に手を掛けた。元凶は、この羽だ。少なくともコレがなければ、綾に追いつけるし、自分にかける魔法が無効化されることもない。
だけど……。
「この……、外れろ!」
外れない。それは当たり前だろう。飛行中に、客が外してしまうなんて、それこそ予測してしかるべき事態。なら、簡単に外れなくなっているというのも頷ける。だけど、その事に感心している余裕なんて、ない。
「くそ……っ、綾!」
呼び掛けに答えることなく綾が墜ちていく。相変わらず何かの救助装置が働いている様子もなく、俺との距離は開く一方だ。それでも羽の基本的な魔法は働いているのか、落下速度はまだ穏やかに見えるけれど、それも時間の問題だろう。徐々に、綾が落ちる速度が上がっているのが離れていても分るほどになってきている。
あとどのぐらいの猶予が残されているのか、わからない。だから、俺は焦れる気持ちを抑えつけて、緩慢にしか羽ばたかない背中の羽を肩越しに掴んだ。手のひらに、さらりとした羽毛の感触。その感触を握りつぶすように力を込めながら、俺はそこにあるはずの魔力の流れを必死でイメージする。
「外れろ」
羽を巡っているであろう魔法の力。俺の背中に、本物として癒着された「偽物の羽」。偽物を本物として、作り物を生き物として書き換えている規則。魔法によってこの世界に実現されているそのルールに、「消えろ」と叫んで、俺は両手に力を込めた。
俺の中にある俺じゃない力の流れ。渦巻くような流れるような、そんな異質を必死にイメージしながら、それを絶ち折る想像を重ねていく。
「外れろ……外れろっ、て……!」
果たしてどのぐらい、そんな不毛とも思える行為に時間を費やしたのか。最早、10mぐらいは綾との距離が開いて、絶望感が胸の底に沸いてきた、その瞬間。
「外れろって、言ってるだろ! この!」
そんな俺の叫びに重なるように、「バキリ」と何かが折れる音がして。刹那、視界が縦に流れた。
「っ!」
―――外れた。
それに気付いた瞬間、俺を襲うのは強烈な浮遊感と、そして全身を襲う風の圧力。今まで「羽」が護ってくれていたモノたちが一斉に俺を襲うなか、思わず閉じてしまいそうになった瞳を必死でこじ開けて。
「綾! 手のばせ!」
俺はぐんぐんと近づく綾に、必死で手を差し伸べていた。
相変わらず、呼ぶ声に反応はない。だから、綾から俺を掴むことはなくて……俺が掴み損ねたら、おしまいになる。その最悪の事態に青ざめながら、俺は必死で綾に手を伸ばし―――、その「羽」を、つかみ取る。
「……っ」
「よし!」
ほとんど「羽」にぶつかるような形だったから、その衝撃で綾が苦しげな声を上げた。だけど、正直、気にしている余裕はない。綾の体を掴むことには成功したけれど、相変わらず高度はぐんぐんと下がり続けている。
ただでさえまともに機能していない綾の「羽」なのに、重量が二人分になったのだから、それは当たり前だろう。だから、ここで安堵の息をついている暇はない。
頭に思い浮かべるのは風の魔法。レンさんの授業でならった時には、掌の上に竜巻を起こすためものだったけれど、きちんと応用すれば、落下を防ぐ壁にもできるはず……っ!
でも、できるのか?
一瞬、頭をよぎった不安。そんな余計な感情を頭を振って追い出して、俺は意識を魔法に集中させていく。あの時は、散々、レンさんにだめ出しされたけれど……あれから、ずっと練習はしてたんだ。なのにこんな時に成功しないのなら、魔法使いでいる資格なんてないし、迷っている余裕なんか、ない。
―――だから、やるんだ!
目の前に迫る雲と、そこから覗く地面。それを目に映しながら、俺は綾を抱きしめて、魔法の言葉を口にした。
/(神崎綾)
落ちていく意識の中、
「―――綾っ!」
そんな叫びと一緒に、あの時と同じ温もりが私の手を掴んでくれる。そんな夢を見ていて気がする。
/
「あ、れ……?」
「綾! 気付いたか?!」
「にい、さん?」
目を開くと、そこには泣きそうな表情で私をのぞき込む兄さんの顔が目の前にあった。
「え? 私……?」
あまりにも近い兄さんの顔に、一瞬、また意識が飛びかけたけれど、でも感じる違和感に私は慌てて周囲を見渡した。視界に映ったのは、雲で出来た幻想的な天の世界……ではなくて、そこはかとなく薬品臭の漂う如何にも「医務室」と言った様相の部屋。そして私は、そこのベッドに寝かしつけられているようだった。
「ここ、どこ?」
「医務室だよ。気持ち悪いとか、痛いところとか無いか?」
「あ、うん。大丈夫……」
ちょっと頭がぼう、としているけれど、取り立てて痛いところはないし、気分が悪いって言うこともない。それより、どうして私は医務室になんかいるのか。どこかふわふわした思考で、それを考えていると兄さんが、心配そうに私の手を握りながら事情を説明してくれた。
要するに私が魔力欠乏を起こしたせいで、本来「羽」に供給されるべき魔力が不足してしまった、ということらしい。羽自体は、当然そんな事態を想定して作られていたのだけれど、何故か今回に限っては、そんな異常事態に対する対策がほとんど発動しなかったらしい。原因は現在調査中らしいけれど……。
「責任者の人が飛んできて、ものすごく謝ってくれたよ。多分、後でもう一回謝りに来るんじゃないのかな」
「そ、そうなんだ……」
なんだか思ったより大変な事態になっているのかもしれない。
「あ、でも、じゃあ、どうして私、助かったの?」
「ああ、それはやっぱりちゃんと対策がしてあったんだよ」
兄さんの話によれば、「空を飛ぶ」なんていうアトラクションなんだから、不測の事態への備えは「羽」以外にも当然、施してあったらしい。途中の「雲」には落下速度を軽減する魔法が仕込まれていたらしいし、地面はスポンジの様に柔らかくしてあったらしい。係員さん曰く「猛スピードで追突しても怪我だけはしないようにしてあるのですけれど……」との事らしい。
その説明に、私は自分が無事だった理由に納得して、少し息をついた。
「そっか……だから無事だったんだね、私」
「そういうこと。まあ、俺の方はほとんど空騒ぎだったんだよな」
「え?」
私の呟きに、小さく苦笑いした兄さん。でも、その台詞に、私は心臓が止まるような、そんな刺激を受けていた。
思い出すのは、目が覚める直前に感じていた、誰かに手を掴んでもらったような感覚。つまり、あれは夢じゃなかった、ということなんだろうか。
「兄さん、私のこと、助けてくれたの?」
「いや、まあ、一応。助けようとはしたんだけどな」
私の問いかけに、兄さんはぽんぽん、と私の頭をなでつけて、はぐらかすように笑う。だから、この時は兄さんがどんな行動をとってくれたのか分らなかったけれど……それでも、分ったことが一つだけあった。
助けようとした、なんて控えめな台詞で誤魔化してるけれど。きっと、この人はまた命がけで、私の命を助けてくれたんだって。
私の名前を叫びながら、この手をちゃんと握ってくれたんだって。それが、わかってしまった。
「また……兄さんが助けてくれたんだね」
「あのな。だから、助けるような事態じゃなかったんだっての。あのままほっといても大丈夫だったんだから」
「そんなことないよ」
なんとなく気まずげにそういう兄さんの言葉を遮って、私は溢れる感情に目を細めながら、笑った。
「ありがとう」
「……ん。どういたしまして」
素直な私のお礼に、兄さんはちょっと気恥ずかしげに頬を掻きながら頷いた。そんな兄さんの態度に、私は頬がゆるむのを自覚しながら、ぎゅ、とつながれたままの兄さんの手を強く握る。
「綾?」
「ね、兄さん」
「うん?」
「ごめんね」
「ん? いや、だから、気にしなくていいんだ。綾のせいじゃないんだから」
「そうじゃないの。この間からずっと謝りたかったんだ。いろいろ我が儘言ったり、魔力吸っちゃったり……ごめんね?」
「ああ……うん。そっちも、まあ、今後、気をつけること」
「うん」
この間から、ずっと胸につかえていたのに素直に言えなかったこと。それを素直に吐露して、私はまた兄さんの手を握った。
「ごめんね」
「もういいよ」
「うん」
私の三回目の「ごめん」に、兄さんはそう言ってくれた。でも、今の「ごめん」の意味をきっと兄さんは分ってないと思う。だって、一度目と二度目の「ごめん」は、この間のことだったけれど、でも、今の「ごめん」は……これからのことに関してだから。
「ね、兄さん、もう少し、魔力貰って良い?」
「え、ああ、いいけど。大丈夫か? ちゃんと集中できそうか?」
「うん。多分」
……嘘だけど。
集中はするけれど、意識の安定なんか出来ないと思う。だって、ほら、こんなに心臓がばくばくなって、汗が滲んできちゃってるから。きっと手の方も震えてきちゃうから、それに気付かれないように私は、名残惜しいけど兄さんの手を放して、そっと身を起こした。
「……あんまり無理するなよ?」
「うん。ごめんね」
四回目の「ごめん」。それはちょっと卑怯な手段に出ようとしている自分への言い訳も込めてかもしれない。……だって、私はこれから兄さんの不安と、善意につけ込もうとしてるんから。
「じゃあ、ほら」
「うん。いく、ね」
兄さんは私が首筋に唇を当てやすいように、少し首を傾けて私の体を受け入れる姿勢をとった。そう、いつもならここで私が兄さんの首筋に口づけするだけで……それ以上は、決してしなかったんだけど。
でも……ごめんなさい。
私は、声に出さずに謝ってから、兄さんの首筋じゃなくて、頬にそっと手を伸ばしていた。
「え?」
「……」
卑怯だって、思う。ずるいって、わかってる。でも……もう、抑えが効かないって事も、わかってた。
『あの時』、兄さんに助けてもらってから、ずっと抱えていた想い。それからずっと兄さんに支えて貰いながら、ずっと育てていた想い。それが、今日、また助けてなんて貰ったから、もう、どうしようもないぐらい、その想いが溢れてるから。
だから、私は戸惑う兄さんの声を置き去りにして、そっと、求めて続けていた人の唇に、口づけた。
「……」
「……っ?!」
唇が触れあっていた時間は、でも、ほんの刹那。だから、ゆっくりとした動作で顔を放す私に、兄さんはおもしろいぐらいに狼狽しながら目を白黒させていた。
「あ、綾?!」」
「えへへ……間違えちゃった」
「ま、間違えたって、お前……?!」
間違えたなんて、嘘だけど。でも、今は嘘と言うことにしておこう。
今はちょっとズルをしちゃったキスだから。だから、次はちゃんと気持ちを伝えて……嘘じゃないキスをするんだ。
だから、今のキスは……予行演習、というか、ちょっとした宣戦布告。
これから多分、兄さんを目一杯困らせることになるけれど、絶対に諦めたりしないっていう兄さんと、そして私自身への意思表示。
それはとんでもなく自分勝手だって分かってるけれど。それでも……この想いは、多分、私の命より大切だって、そう、信じてるから。
そんな想いを胸に刻んで、私はいまだ硬直している兄さんに寄りかかって、今度こそ魔力を交換するための口づけを、その首筋へとしたのだった。