第九話 それぞれの試行錯誤(その2)
2.一年生たち(神崎綾)
「ふう……」
「綾。まだ落ち込んでるの?」
「うう、当たり前でしょ」
お昼休みの屋上。比較的、人の少ない一角でお弁当を広げながら、私は親友の佐奈の問い掛けに呻くようにそう答えた。胸の中をぐるぐると巡るのはぬぐいきれない自己嫌悪で、私はそれを押し出すように深くため息をつく。
自己嫌悪の元凶は、当然のことながら一週間前のあの夜の出来事。いくら頭に血が上ったからって、兄さんにあそこまでやるのは我ながらどうかしているとしか思えない。いきなりわめき散らしたり、倒れるまで(というか、身動きできなくなるまで)魔力を吸い上げたり。我ながら、八つ当たりにも程がある。
そんな後悔の念に項垂れる私の顔をまじまじとのぞき込んで、佐奈は小首をかしげる。
「良先輩、まだ怒ってるの?」
「……どうなのかな」
あれから、一週間。正直なところ、兄さんはあまり怒っているようには思えなかった。勿論、あの後、母さんには「やり過ぎだ」とお説教をくらったし、兄さんからも、ため息混じりに頭を小突かれた。でも、言ってみればそれだけ。それ以上お説教することもないし、会話だってあるし、魔力交換だってしてる。時々、何かを言いたそうな表情を見せるときもあるけれど、それもほんの一瞬だし……
「多分、そんなに怒ってはいないって思う。ほとんど、いつもと同じ、かな」
「そうなんだ」
そう、いつもと同じ。その事実を反芻して、私は先ほどとは少し違う感情に、またため息を零す。そんな私の顔をのぞき込みながら、佐奈は淡々とした口調で呟くように言った。
「いつも通り。だから、綾は不満なんだね」
「……うん」
佐奈の指摘に、私は少しだけ躊躇いを挟んで、それでも素直に頷いた。私の中にわだかまっているのは罪悪感と……そして同じくらいの、失望感だったから。
そう。「やってしまった」という後悔、兄さんを困らせた罪悪感は強いんだけど、同時に「あそこまでやったんだから」という期待感も同時にあったのだった。ひょっとしたら、少しは私の気持ちに気づいてくれて。そして二人の関係が少しずつでも変化してくれるんじゃないのかな、っていうそんな期待。我ながら自分勝手だと思うけれど、それでもどうしても捨てきれなかったそんな期待は……現在のところ、見事なまでに裏切られて、そして大きな失望感へと成り果ててしまっているのだった。
「うう……なんで、いつも通りなのよぅ。兄さんの、ばか」
思わず、そんな言葉が口から漏れる。だって、あそこまでしたに。ひょっとして、あそこまでやっても、兄さんは私が何をしようとしたのか、気づいてないのだろうか。
あそこまで……したのに。
「綾、顔赤い」
「言わないで」
佐奈に指摘されたとおり、あの時の自分の行為を思い出して、私は頬が熱を持つのを自覚した。
あのとき、兄さんに何をしようとしたのか。はっきりと分かっているし、覚えている。自分でも、思い起こして赤面するぐらい、よくあそこまで出来たなって、感心してるぐらいなのに。なのに……っ。
「うう、兄さんの馬鹿。兄さんの馬鹿。兄さんの馬鹿」
なんで、何の変化も起こらないのかっ。
ほとんど八つ当たりの感情。それを持てあまして、私はぶつぶつと呪詛のような言葉を繰り返して項垂れる。
「大丈夫。綾は頑張ってるから」
そんな私の頭を、佐奈が小さな手で「よしよし」と優しく撫でつけてくれた。
「ちゃんと報いはあるよ。きっと」
「うう……ありがと、佐奈」
慰めに顔を上げながら、私は親友の顔を見つめた。
泉佐奈。私のクラスメートで、私が「親友」と呼べる唯一の友達だった。
かなり小柄な女の子で、私より頭一つぐらい小さい。肩まで伸ばした絹糸みたいな白銀の髪と、ほのかに赤みがかかった瞳。あまり表情を変えずに、淡々と話すのが特徴で、私の彼女への第一印象は「妖精みたいな女の子」だった。遠目、かなり儚げで、触れたら透けてしまいそうに思えたから。
とはいえ、今の佐奈に、「儚げ」なんていう印象は最早抱いてはいない。表情を変えずに淡々と話す、というのは親しくなっても変わらなかったけれど、佐奈はその口調と表情そのままに、時々、ものすごく直球で現実的な台詞を口にするから。
『綾は、良先輩を好きなんだね。異性として』
なんて台詞を、表情一つ変えない佐奈の口から聞いたときには、流石に聞き間違いかと自分の耳を疑ったっけ。だって学校からの帰り道に、何気ない雑談の一つの話題のようにあまりに平然と言われたものだから、反応に困るどころの話じゃなかった。
……だから、まあ。あまりに狼狽してしまって、結局、私の気持ちはきっちりと佐奈にバレてしまって。でも、それがきっかけになって佐奈とは何でも相談できる間柄になれたんだけど。だって、あの時も佐奈は平然と私の思いを受け止めて、少しも否定することはしなかったから。
『だって、綾は好きなんでしょう? なら、私は応援するよ』
なんて、また顔色一つ変えないままに佐奈は頷いてくれたのだった。ということで、私の兄さんへの想いを知っているのは、母さんの他には佐奈だけで、こうして兄さんに関する悩みや愚痴をこぼして、相談できる相手も彼女と母さんだけなのだ。
「でも、基本的に、綾は駆け引きには向いてない」
「そうかなぁ、やっぱり」
母さんの提案を元に実践中の「兄さんと少し距離を置いて嫉妬心を煽ってみるぞ作戦」の現状は芳しくなく、だから、佐奈の言葉に私はため息混じりに頷いてしまう。
「でも……どうすればいいかな」
「直球勝負が良いと思う」
「……それで失敗したんだけど」
なにせキスしようとしたぐらいなんだけど。と、不満げに唇をとがらせると、佐奈はフルフルと小さく首を横に振る。
「それは綾が未遂で止めたから」
「う」
未遂で止めた、と言われると言葉に詰まる。確かに、ちゃんと出来ていたら……何かは変わっていたとは思うけれど。口ごもる私に尻目に、なおも佐奈は淡々と更なる提案を投げかける。
「キスで終わらないで、ほんとに最後までしちゃえたらなお良し、だね」
「さ、最後までっ?!」
思わず声をうわずらせた私に、佐奈は表情を変えないまま、少しだけ首を斜めに傾ける。
「嫌なの?」
「い、嫌って訳じゃないけど」
「いずれはやるつもりでしょう?」
「そ、そりゃそうだけど……っ、こういうのは順番が大事でしょ。こう、お互いの気持ちを確かめながら……」
「違うよ」
またバサリ、と私の言葉を遮って、佐奈は真顔のまま告げてくる。
「一番大切なのは既成事実」
「……一回聞きたかったんだけど、でも、怖くて聞けなかったんだけど、佐奈の恋愛観はどうなってるの?」
「聞きたい?」
「聞きたいような聞きたくないような」
「お母さん直伝の恋愛観だから間違いないよ。先手必勝。即断即決。あと見敵必殺」
「……聴かなかった方がよかったかも」
とくに一番最後とか。
とはいえ、佐奈が私をからかっている訳じゃなく、本当に私のためを思って言ってくれているのはわかってる。発言内容の妥当性はともかくとして、彼女の気遣いには感謝しながら、でもやっぱり首を横に振ってしまう。
「でも、しばらくは勇気でないよ」
「……うん。それでもいいと思うよ。綾のペースで頑張ろう」
「うん。ありがと」
過激な提案を率直にしてくる佐奈だけど、無理強いなんかしない。だから、私の弱気な発言にも気を悪くした様子も見せずに、首を縦に振って同意を示してくれれた。けど、次の瞬間、ふと何かを思い出したように彼女は動きを止めて、そして私の顔をのぞき込む。
「でも、綾」
「何?」
「良先輩に、謝った?」
「……一応」
「ちゃんと、謝った?」
「う、それは、まだ」
小突かれたときに、小声で「ごめん」とは呟いたけど。でも、自分から謝った訳じゃない。だから、「ちゃんと」謝ったか、と言われれば、その答えは否、になる。尻すぼみになる私の返事に、佐奈は淡々とした声のまま、諭す言葉を投げかけてくれた。
「じゃあ、一度、ちゃんと謝るべき」
「そうかな」
「そう。綾もそう思ってるよね?」
「…………うん」
佐奈の指摘は正しい。ちゃんと謝るべきだって、自分でも分かってる。分かってるけど……。
「でもでもでも、なんて言って謝ろう?」
「ごめんなさい、って言えばいいと思う」
「そうだけど、そうなんだけど……その前段階というか、舞台準備というか」
「いらない」
狼狽える私の言葉を、表情も変えずに佐奈がばっさりと切って落とす。
「単刀直入に」
「うう、そうかな」
「できれば土下座」
「ひ、引かれないかな?!」
「それは冗談」
「佐ー奈ー」
顔色も口調も変えないので、彼女の冗談は非常に分かりづらいのだった。つきあいが長いから多少は分かるようになっているけれどこういう切羽詰まった感情の時にはなかなか判別している余裕はない。
「でも、誠意は大事だよ。綾が必要と思うなら土下座しても良いと思う」
「誠意かあ」
それは分かってる。わかってるけど、そう簡単にできないから一週間もこうして自己嫌悪を引きずっているわけで。我ながら煮え切らない口調でそう呻くと、佐奈はまっすぐに私の目をのぞき込んだ。
「綾。謝らないなら」
「謝らないのなら?」
「私が、先輩もらうけど、良い?」
「良いわけ無いでしょ!」
再びの唐突な佐奈の言葉に、私は思わず声を高くして首を横に振る。
「駄目?」
「絶対、駄目」
「大丈夫。分けてあげるから」
「そう言う問題じゃないの!」
「二号さんは嫌?」
「嫌。当たり前でしょ」
「私は二号さんでもいいのに」
「とにかく駄目。ぜーったい駄目」
「綾のけち」
「けちだもん、私」
平然と「二号さん」なんて口にする佐奈に、私は全身で「だめ」をアピールしてみせた。
実は佐奈には、お母さんが一人に、お父さんが二人いる。だから、「そういうの」には抵抗がないらしいけれど……、私はまだまだそこまで割り切れていないのだ。
そんな私の拒絶に、佐奈はほんの一瞬だけわずかに眉を曇らせて見せたけど、すぐに何事もなかったかのように表情を戻してうそぶいた。
「綾。今のは冗談だよ?」
「嘘。わかるもん」
繰り返しになるけれど、表情も口調も変えないので佐奈の冗談はわかりにくい。でも、切羽詰まった感情の中でも、今の佐奈の発言は「冗談じゃない」、っていうのはなんとなくわかってしまった。
「さっきの佐奈は冗談の目をしてなかったよ」
「……ばれたか」
指摘する私に、悪びれる様子もなく、それどころか佐奈は少しだけ口元をほころばせた。無表情、無感動、と言われることが多い佐奈は、こうして本心を読まれると喜んだりする。そういう所は、無邪気でかわいいんだけど……、言っている台詞の方は無邪気でもなくかわいくもないのはどうにかして欲しい。ほんとに。
「でも、私が先に先輩を陥落させて、「綾も一緒に」とか言った方が効率良いと思わない?」
「思わない」
「そっか。綾がそういうなら止める」
「うん」
とりあえず兄さんに迫るのは思いとどまってくれたようで、私はほっと安堵の息をつく。
実のどころ、佐奈が兄さんのことを本当に好きなのか、よくわからなかったりするけれど……「佐奈ならやりかねない」という不安はあったりするので、こうして釘を刺して置くに越したことはないのだった。
「あ、そうだ。綾」
「今度は、どうしたの?」
「他の人にも、変化ないの?」
「え?」
「たとえば、桐島先輩とか」
「……会ってないから、しらない」
不意に出された霧子先輩の名前に、胸がちくり、と痛みを訴えた。言ってみれば、一週間前に兄さんに襲い掛かる羽目になった原因だし、目下の所、兄さんをたぶらかす最大の障壁として間違いない人だから。
霧子さんが「いい人」というのは知っているし、実感もしているけれど、だからこそ「驚異」な訳で、自然、彼女の話題になると私の声はどこか不機嫌さを増す。でも、佐奈はそんな私の声に含まれた小さなトゲには表情を変えず、別の人の名前を口に出した。
「じゃあ、速水先輩にも会ってない?」
「うん……」
再び不意に出された速水先輩の名前に、胸がちくりと、痛みを訴えた。……たぶん、霧子先輩の時とは違う危惧のせいで。
というか、目下の所、霧子先輩とは全然別の意味で兄さんをたぶらかす……というか、兄さんを遠い世界に連れて行ってしまう可能性を秘めた最大の障壁として間違いない人だから。
………………いや、本当は速水先輩がいい人、っていうのは知っているんだけれど。どうもにも速水先輩には、本能めいた危機感を感じてしまって仕方ない私だった。
「って、あれ、そういえば会ったような」
そんな速水先輩本人には口が裂けても言えない危惧を、私が頭に浮かべた刹那、ふと機能の記憶がおぼろげに頭をよぎった。
「会ったの?」
「多分」
佐奈の問いかけに頷きながら、私は記憶を掘り起こす。昨日の放課後。生徒会室に向かう途中で、速水先輩に呼び止められて何か言われた……ような、気がするけれど。
「何を言われたんだっけ」
「……私に聞かれても困るよ」
「うーん。そうだけど」
本当に、何を言われたんだっけ。
昨日の放課後は「美術部にいるであろう兄さんと霧子さん」を思い浮かべてしまって、他人に意識を裂いている余裕がない精神状態だったので、ひどくぞんざいな受け答えをしてしまったかもしれない。今度会ったときには謝らないと。
「綾って、速水先輩に興味ないの?」
「ないよ」
「……愚問だったね」
言いながら佐奈は、くるり、と周囲に視線を回した。昼休みの屋上、ということで私たち以外にもぽつりぽつりと人影はあるけれど、それでも声の届く範囲には人の姿はない。それを佐奈も確認したのか、小さく首を縦に振りながら口を開いた。
「速水先輩に声をかけられてあしらうなんて、あの会の人たちに知られたら大変だよ」
「そうかな」
速水先輩の「速水会」というのが存在することは知っているし、私たち一年生の間でも人気沸騰しているのは知っているけれど。やっぱり、異性としての興味なんか持てないし、そして、それ以上に速水会の人たちからどう思われるかなんて興味はなかった。
だって、『あの時』から。私は兄さんしか見えなくなったんだから。