第九話 それぞれの試行錯誤(その1)
0.
「あのさ、綾ちゃん。よかったら、一緒に遊びに行かないかな」
「駄目です」
「え?」
「ごめんなさい。ちょっと忙しいので」
「あ、いや、その」
「失礼します」
締めて、十秒。
速水龍也が神崎綾に声をかけてから、彼女が立ち去るまでの時間である。
「いやあ、とりつく島もないって、ああいうことを言うんだね。あはは」
「何を暢気に感心してんのよ、あんたはっ!」
締めて、三秒。
速水龍也が霧島霧子に経過報告をしてから、彼女が殴るまでの時間であった。
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魔法使いたちの憂鬱
第九話 それぞれの試行錯誤
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1.美術部(桐島霧子)
「そうそう。筆は自分の手の一部ってイメージするの。指先の延長と思えばいいかな。絵の具は、その指先からにじみ出る魔力の一部って思うとやりやすいよ」
「わかった」
私の声に頷きながら、良は目を閉じてその手に意識を集中させた。彼の手に握られているのは一本の絵筆。その筆先が「魔法の絵の具」に触れてゆっくりと円を描くように動き、その動きに従って絵の具のほうも淡い光を放ちながら虹のようにその色合いを変えていく。使用者の魔力によって、その質量、粘度、色合いなどなど、さまざまな要素が変化するのが「魔法の絵の具」の特徴。だから良が筆を動かす事に、絵の具がその色や質感を変えていく様子は、言うなれば良の個性の具現。
「よし、と。霧子、これ、どうかな?」
「どれどれ」
待つことしばし。良の声に促されて、私は彼が手元のパレットでこねていた絵の具をのぞき込んだ。そこにできあがっていたのは淡い青の光を放つ絵の具。水よりも空を連想させるその色合いは、その中に風を閉じこめているかのように、わずかに揺らぎ続けている。
「うん。結構うまくできてる。初心者にしては上出来かな」
「そ、そうか?」
私の賛辞に、良の目にはっきりと喜色が浮かぶ。
「これ、空をイメージしたんだよね?」
「そういうの、わかるのか?」
「うん。ちゃんと魔力も混ぜられてるし。ほんとに上出来。最初はなんの反応も起きないこと多いのよ」
つんつんと、良の練った絵の具を指先でつつきながら、私はお世辞ではなくそう言った。
正直、ちょっとだけ驚いている。いつもの授業ではなかなか良は自分の魔力を形に出来ないのに、この絵の具は想像していたよりもずっと、良の魔力に従ってその形を変えていたから。
……うん。やっぱり、良は美樹部に向いているんだ。その確信に、私は自分の口元がほころぶのを自覚した。
「ふふ」
「? なんか、失敗したか? 俺」
「あ、別に、そうじゃないよ。ちょっと嬉しかっただけ」
「嬉しい?」
「うん。自分が勧誘した人が、才能あったら嬉しいじゃない。やっぱり」
それに良を美術部に勧誘したのは割と無理矢理だったけれど、でも、結果として良が楽しそうに絵の具をいじってくれているのを見ると、やっぱり嬉しくて。そんな私の表情に、良は少し照れくさそうに頬を掻いて視線を逸らした。
「あー、うん。まあ、俺も楽しいし、そう言ってくれると嬉しいよ」
「あ、照れてる」
「照れてない。それより、この絵の具って必ず使うのか?」
露骨な話題転換だったけど、部活動中という事を思い出して、私は少し表情を改めて良の言葉に首を横に振る。
「そう言う訳じゃないわよ。魔法を使うことで、表現の幅を広げることができるのは確かだけどね。必要なら使い、必要でないのなら使わない。『芸術とは自己表現。自己を表現する手段は、自己で選択し、決定するべきだ』というのが我が部のモットーです」
「なるほど」
魔法院の美樹部であるからには、当然のごとく、その作品の多くには作成には魔法が用いられるけれど、それはあくまで選択肢の一つに過ぎないし、魔法を使うから絵がうまく描ける、という訳ではない。この辺は、毎年新入部員に注意する事であり、良もなんだか感心したように頷いて納得してくれたようだった。
「でも、実際には魔法の絵の具の使い方は、必須スキルだけどね」
だから、こうして新入部員や見学者には、部長や副部長(つまりは私)がこうしてその使い方を指導している訳だった。ちなみに、年度が替わってもう五月の中旬に成ろうとしている今では、大体の人は部活動は決めてしまっている時期なわけで、現状、美術部の見学者は良一人。だから、私は良を自分の席の隣に座らせて、この一週間ほとんどつきっきりであれこれと道具の使い方や簡単な技法を教えている。おかげで自分の作品作成はあまり進んでいないけど……ちょっと、楽しい。
「ねえ、良。魔法の絵の具の欠点はなんだと思う?」
「値段が高いこと?」
「確かにそれはあるわねー。良もバイトしないと苦しくなるかもよ?」
「げ」
「まあ、その辺は神崎先生とお小遣い交渉してね」
「き、厳しいなあ」
「それはともかく、答えは「すぐに色あせてしまうこと」よ」
「ああ、そっか」
魔法の永続化は難しい。そのため、中途半端な技法で使用した魔法の絵の具はあっさりと、込められた魔力を失って制作者の意図しない色合いに変化してしまうのだ。……一部、例外はあるけれど。
「でも、それを逆手にとるような人もいるけどね。故意に色あせた色合いを出したりとか」
「なるほど」
私の説明に、良は練った絵の具を練習用の白紙に塗りつけて、その変化を確かめながら頷いている。空の色をした絵の具が、何もない白の空間に吹き抜ける風を作り上げるような色合いが、次第に色あせて、力を失っていく様子に、良はおもちゃを与えられた子供のように楽しげに目を輝かせている。
……うん。やっぱり、良はこういうのに向いているのだと思う。
再度浮かんだその想いに、私は小さく手を握る。今まで、例のトラウマ(食人絵画捕食未遂事件)のおかげで、美術部を敬遠していた良だけど、教えたことを割と器用にこなしていくし、おかげでこっちも教え甲斐がある。だから、誘って良かったな、っていう想いと、これなら良も一緒に美術部にいてくれるかなっていう想いに、どうしても頬がゆるんでしまう。
……まあ、今は暢気に、そんな感慨にばかり浸ってはいられないんだけど。
暖かさに緩みそうになっていた思考を引き締めて、こねこね、と筆の先で絵の具を混ぜる良に問い掛けた。
「あのさ、良」
「うん?」
「あの後、何か変わったこと、あった?」
「ん?」
「だから、えーと、綾ちゃんと喧嘩した後」
「あー、まあ、とりあえずは、小康状態かな」
苦笑混じりに笑いながら、良は最近の綾ちゃんのことを話してくれた。
それによると綾ちゃんと良の喧嘩から、一週間。綾ちゃんは、また生徒会が忙しくなったようで、あまり事態は変化していないらしい。
「まあ、夕飯は一緒に食べてるし、魔力交換も一回したよ。まあ、自然消滅的に仲直りした、って感じかな。強いて言えば、時々、なんとなく態度が硬い様な気もするけど……そのぐらいだよ」
「そう」
綾ちゃんの態度が硬いのは、彼女の罪悪感が原因なのか、それともまた「良の気を引く作戦」に出ているのかどちらなのだろうか。それははっきりとは分からないけれど、少なくとも、再び良に迫った……ということは無い様で私はそっと安堵の息をかみ殺す。
「……って、やっぱり俺からきっちりと言った方が良いかなあ? 一応、ちゃんと謝ってくるのを待ってるんだけどさ」
「駄目。今は余計なことしちゃ駄目なの……いろんな意味で」
「そうかなあ」
「妹離れするんでしょう?」
「……そうでした」
私にピシャリ、と否定されて、良は少し肩を落とす。そんな彼を目にして、私は内心でため息を零した。
普通なら、良がきっちりと注意して、兄妹間の微妙な「しこり」とか違和感とかは早々に取っ払った方が良いに決まっている。そう、普通なら。
(……ああ、本当に「綾ちゃんの思いが普通じゃないのかどうか」を早く確かめたいのに)
胸に浮かんだ苛立ちを押殺すように、私はこっそりと息をつく。何せ、あれから一週間、事態はほとんど進展していないのだから、そりゃため息ぐらいは漏れたって仕方ないって思う。
『折を見て綾ちゃんを誘ってみる』と言っていた龍也は、その「折」を探すのに昨日までかかったあげく、わずか数秒で、あっさりと断られたらしい。『話も聞いてもらえなかった』と、流石にへこんでいたけれど、いつまでもの凹んでいてもらっては困るのだ。私だって、焦燥感をぐっと我慢し続けているんだから。
(あいつめ。本当に押しが弱いんだから)
気弱な友人の笑顔を思い出して、私は軽く頭を振った。
龍也の代わりに、私が綾ちゃんに話をしに行っても良いのだけど、なぜか龍也は「それだけは」と頑なに止める。私としても綾ちゃんを変な方向に刺激するのは本意ではないので、今のところ龍也の指示には従っているのだけど……どうするつもりなのかな、あいつ。龍也は『ま、まだ策はあるんだって。大丈夫、ここは僕に任せてよ!』なんて、柄にもなく積極的な台詞を口にしたけれど。
「……十秒で玉砕したのに。策も何もあるのかな?」
「え?」
「あ、ごめん。独り言」
思わず漏れたつぶやきをあはは、と我ながらわざとらしい笑みでごまかして、私は慌てて話題を変える。
「えーと、じゃあ、ちょっと教えたところまでやってみてくれる?」
「わかった」
私の指示に素直に頷いて、良はまぶたを閉じた。そしてこの一週間で教えた通りに、脳内に展開するイメージを魔力を使って絵の具に注ぎ込むための作業を開始する。まだまだぎこちなく、それでも手順通りに進むその作業を見つめながら、私は思考の片隅で綾ちゃんのことに思いを巡らせてしまう。
……綾ちゃん、良のどこが好きなのかな。
その疑問が、視界の中の良に重なるように浮かんで、消えない。
好きになるのに、理由なんか無いって言うけれど……理由もなしに、実の兄を好きになっちゃうものなんだろうか。兄妹の垣根を越えずにいられないほどに、好きになる理由なんて、あるんだろうか。
それは綾ちゃんと良の関係を危ぶみ始めてから、私の中に渦を巻く疑問で、そしてまだこれといった解答を、私は見つけられてはいなかった。
一番、単純に考えるのなら、それだけの魅力が良にある、ってことなんだろうけれど……そこまで魅力、あるのかな? そんな疑問を口の中で小さく呟いて、私はまじまじと良の横顔に視線を注ぐ。
顔がいいから、っていうのは、良には悪いけれど理由にはならないような気がする。別に格好悪い、という気なんて無いけれど、顔の造形が飛び抜けているとは思えない。正直、綾ちゃんに言い寄る男の中になら、良よりはっきりと格好良い奴もいるだろうし。身近なところで言うのなら、龍也とか。まあ、あいつのは場合か、かなり顔の作りが中性的というか、女っぽいから、その辺は綾ちゃんの好みかどうかわからないけれど。
(まあ、顔で人を好きなるような娘じゃないかな)
そう思って、視線を良の指先へと移す。魔法使いとしての才能が高いから……、っていうのも、違うと思う。だって、そもそも才能も実力も綾ちゃんの方がはっきりと上だし。まあ、多分、綾ちゃんの魔法使いとしての実力は私よりも上だと思うから、これに関して良のことをどうこういう資格は私にはないけど。
(じゃあ、性格?)
呟きを押し殺しながら、また視線を指先から良の横顔に戻す。そりゃ、良の性格が悪いなんて言うつもりは無いけれど……それでも、そんなに性格、そんなにいいかな……? 軽くほおづえをつきながら、私は良に関して思いつく形容詞を、頭の中で羅列してみた。
割と短気。結構頑固。実は内向的かも。魔法に関してコンプレックスあり。変にお人好し。友達思い。あと、やっぱり重度のシスコン。割とケチ。この前ジュース奢ってくれなかったし。
(って、あれ?)
つらつらと浮かべた良への感想を総合すると、なんだかマイナス評価になりそうな気がする。面倒見が良い、といえば聞こえはいいけど、去年の会長さんとの一件を見ると、ともすれば当事者を置いてけぼりにして周りが見えなくなることもある。あげく熱くなりすぎて自分のこと、顧みなくなることだってあるぐらいだし。
……うん。やっぱり、欠点ばっかりが目についてしまう。綾ちゃんの立場からしたら、「困ったお兄ちゃん」と思ってもしかないぐらいだ。だから。
だから、綾ちゃんは別に。
よりにもよって、良を……好きにならなくても、良いんじゃないのかな……?
「霧子?」
「え?」
「どうかしたか?」
「あ、ごめん。何でもない。何でもないよ」
よほど私は自分の思索に沈んでしまっていたのか、良が私を見つめていることにしばらく気づいていなかったようだった。「どうかしたか?」との問いに、まさか「あんたのあら探しをしてました」なんて答えるわけにも行かずに、私はまた少し笑ってごまかそうとして……
そこで気づいた。
(あれ? なんで、私。良の粗探しなんて、してたんだろ……?)
友達の、親友のあら探し。そんな真似をしていた自分に、浮かべようとしていた笑いは、引きつったように止まる。
「霧子」
「あ、ごめん。また、ちょっと考え事して」
「ありがとな」
「え」
自分の思考に青ざめる私に、良は、どこか気遣うような、申し訳ないような視線を向けながら小さくそう言った。
「ありがとう……って、なにが?」
戸惑いを押殺して良に問い掛けると、彼は照れくさそうに軽く頭を掻いて、小さく笑う。
「その、まあ……、いろいろと」
「だから、いろいろって?」
「だから、この間からいろいろ心配してくれてるだろ?」
「あ……うん」
だから、ありがとう。そう言いながら、同時にその相手を気遣うような、いたわるような目を良は私に向けていた。そんな良の視線に気づいて、私は少し、息をつく。
(なんで、いつもこうなってるのかなあ)
こういうところ、良は生意気だと思う。なんで、心配しているはずの私が、いつの間にか心配される側に回っているのか。調子が狂ってしまうじゃないか。
沸々と沸き上がる良への不満。我ながら八つ当たりだと分かっているそんな思考に……こわばった心がハラリと解れたような、そんな気がした。
「霧子?」
「まあ、感謝するのは良い事よね。いずれ形で返しなさい」
「お前なあ」
内心で抱えた動揺と戸惑いと、安堵。それを悟られないように、軽い揶揄の言葉を向けて私は肩をすくめて見せる。そんな私の態度に、軽く苦笑する良を見つめながら、私はほとんど無意識に彼に向かって問い掛けていた。
「あのさ。良」
「うん?」
「良は、綾ちゃんのこと……」
「綾のこと?」
「……」
「……霧子?」
「あー、やっぱりなんでもない」
「何でもないって、何が」
「いいから、ほら。絵に集中しなさい。集中」
「痛い痛いって、おい。分かったから、無理矢理、他人の首を回すな!」
良の頭を無理矢理絵の具の方へと向けさせるなんていう強引な方法で話題を打ち切りながら、私はこっそりと何度目かのため息をついた。
……なんとなく、分かっていたことだけど。綾ちゃんの行動を聞いてから、私もちょっと思考にまとまりが無くなっているのかもしれない。ひょっとしたら、龍也はそのことに気づいていて、私を関わらせないようにしてるのかな。
調子が狂っている、っていう言葉を脳裏に浮かべながら、私はどこか揺れて落ち着かない思考に、また一つため息を零すのだった。