第一話 ある兄妹の朝の光景(その1)
造りかけの箱庭(http://ksugi.web.fc2.com/)にて連載中の魔法使いたちの憂鬱を、携帯電話用も書けて小分けにしているバージョンです。
内容的には、上記HPの内容と代わりはありません。
「汝の隣人を愛せ」
遠い遠い昔。遠い遠い世界で、そんな言葉が教えとしてあったらしい。
その言葉が残されてから、果たしてどのくらいの時間が流れてしまったのか。かつて未曾有の混乱を経験したこの世界においては、それは明確ではない。しかし、それでも、この世界の人々はその言葉がとても大切な言葉だと理解している。あるいは、かつての世界の人々よりも深く、その言葉に切実な共感を抱いているのかも知れない。
まあ、「この世界の人々」と「かつての世界の人々」とでは、その言葉に対する理解には、多大な隔たりがある可能性は否定できず、それ故に比較は簡単ではないのだが。
それをふまえてなお、誤解を恐れずに言うのなら、この世界の人々のその言葉に対する理解は、多分に切実であり、そして……即物的であるのかも知れない。
なにしろ。
「ハーレムって、大変そうだよね」
そんな言葉が朝の食卓で何気なく口にされるぐらいには、この世界は、かつての世界からは、おかしな方向に変ってしまっていたのだから。
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魔法使いたちの憂鬱
第一話 ある兄妹の朝の光景。
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1.
「ハーレムって、大変そうだよね」
「……そりゃまあ、大変だろうけど」
唐突な問い掛けに曖昧に応えながら、俺はトーストにバターを塗る手を止めた。パンとサラダと卵焼きというオーソドックスな朝食が並べられたテーブル。そこに俺と向かいあって座る妹は、まだ眠気がとれないのか、トーストを手に取ったまま、ふらりふらり、と左右に船を漕いでいる。
「綾。ちゃんと起きろ。パン、落としそうだぞ、お前」
「んー。大変なんだよー。世知辛いよねー」
果たして俺の声が届いているのか、居ないのか。我が妹は、兄の注意を無視したまま、ゆらゆらと揺れながらハーレムの苦労を訴え続ける。どうやら ハーレムが大変そう、なんていう唐突な発言は俺の聞き間違いでは無かったらしい。兄として妹の思考過程に軽い目眩を覚えつつ、俺は綾に言葉を返した。
「……まあ、ハーレムが世知辛いのとは違う気がするけどな。というか、人の話を聞けって。ああ、ほら、ジャムが制服に付くだろ。起きろって」
妹の揺れの方角が左右から前後に変化してきたので、俺は慌てて椅子を立ち、手を伸ばして綾の頭を軽くはたいた。
「痛」
「起きたか?」
「眠いー」
「もう一回、顔洗ってこいよ」
「んー、大丈夫。ということで、ハーレムは大変です」
大丈夫な人は、朝っぱらからハーレムの話なんてしない。内心でそう突っ込んでから、俺はまだ眠りの園に片足を突っ込んでいるらしい妹の頭をもう一度ゆする。
「うー。もう、起きてるってばー」
「そう言う台詞は、ちゃんと目を開けてから言えよ」
神崎綾。我が妹ながら歴とした優等生なのだが、寝起きの悪さだけはどうにもならないらしい。普段の涼やかな表情とはうって変わって、目は半分閉じたままのその姿には爽やかさの欠片もなかった。
「それより、ハーレムは大変だよね?」
「……何がお前をその単語にかき立てるのか、兄はとても心配なんだけど……大体、『大変、大変』って、お前に実感なんてないだろう?」
別にハーレムという言葉は珍しいわけでもなく、日常的に冗談半分に使われることは多い。だけど実際の所、「本当のハーレム」をなんてものを形作っている人なんて稀なのだ。一夫多妻もしくは多夫一妻は制度として認められてはいるけれど、正式に認可されるにはクリアしなくてはならない条件が多すぎる。その一つが年齢制約。俺も綾も、まだ高等部の学生なんだから、ハーレムなんか持てるはずもない。
当然の事ながら、妹がハーレムの主であるという事実はなくて、ついでに言えば誰かのハーレムの構成員ということもない。というか、ハーレム云々以前に、綾には彼氏もいなかったハズだ。そんな俺の指摘に、「そうなんだけどね」とあっさりと頷きながら、綾はトーストにかじりつく。
「うーん」
はもはも、とでも描写すればいいのだろうか。もの凄く気だるげに、かつ、もの凄く眠たげに食パンの端を囓っていたかと思うと、綾は、ぱたりと机に突っ伏した。
「あふ。むにゃ」
「ああ、こら。だから、喰いながら寝るな」
あまりの行儀の悪さに再度目眩を覚えつつ、俺は再び腰を上げて綾の頭をはたく。
「うー。ひどい」
「ひどくない。何度も言っても聞き分けのないお前のが悪いの。ほら、顔あげろ」
とそこまで言って、ようやく俺は違和感に気付いた。綾の寝起きが悪いことは、いつものことではあるけれど、ここまで眠そうなのは珍しい。あげく食事中に机に突っ伏すなんてこと、やったことは無かった……もとい、滅多になかった。そこまで思い当たって、俺は迂闊さに舌打ちしながら、椅子から立ち上がり綾の隣に歩み寄る。
「綾」
「んー?」
「調子、悪いのか?」
「んー……どうだろ」
問い掛けに応える声は、さっきまでの呆けた様子から少し真摯さが混じった響きに変る。どうやら本当に調子が悪いらしい。そう判断して、俺は綾の傍で腰をかがめて、その顔を覗き込んだ。
「綾。眼、見せて」
「ん……」
俺の呼び掛けに顔をあげた綾の瞳。その眼差しは、僅かに期待が籠もったような光と、そして赤い熱を帯びていた。
瞳が仄かに朱に染まる。それは綾の場合においては、『体内魔力』の軽い欠乏を示す兆候だ。
「やっぱり、もう足んないのか?」
「……足んない。成長期だもん、わたし」
僅かな逡巡の後、綾は拗ねたような照れたような返事を返す。それに、「それは結構なことです」と小さくわらって、俺は妹の額に軽く手を当てた。熱い……とはっきりとわかるほど、ではないが、平熱と比べると僅かに熱がある気もする。
なら、『交換』はしておくべきだろう。そう俺が頷いたのと同時、綾が遠慮がちに俺に呼び掛けた。
「兄さん」
「ん?」
「いい?」
「今更遠慮するなって」
「……うん。ありがと」
詫びる声に、ほんの少しの喜色を滲ませて、んー、とのびをするように大きく腕を広げる妹を、俺は抱きかかえる。互いの肩に顔を埋めるような抱擁の形。その体勢のまま俺は綾の長い髪にそっと手を載せ、
そして綾は、その唇を俺の首に、口づけた。
「……っ」
刹那に生じた、くすぐったいような、しびれるような感覚に、思わず漏れそうになった声を、俺はすんでの所でかみ殺す。肌をくすぐるようなその感触は一瞬で薄れ、綾の触れている部分を中心にして薄い虚脱感が全身に広がっていった。
水面に落とされた小石が波紋を広げるように広がる喪失感めいた感覚。同時に、その虚脱を補うかのように軽い酩酊感めいた感覚が体の内側で蠢く。眼の奥に感じる小さな熱。それが血管を伝って脳の方へ広がっていくにつれて、俺は自分の思考が焦点を失っていくのを自覚した。
奪われると同時に、与えられるような、感覚。
それは『魔力交換』―――誰かに体の魔力を交換する際に生じる典型的な感覚だった。
気持ちいいのか、悪いのか。それすら判然としない感覚のなか、曖昧な意識で綾の頭に手を添えていると、
「……うん。ありがと、兄さん。もう大丈夫」
そんな妹の声が、曖昧に霞んでいた俺の意識をカタチを戻してくれた。目の前には、穏やかに笑う妹の顔。そして、その眼には熱も気だるさもなく、澄み渡った光があった。いつもの綾。それを確認して、俺はほっと息をつく。
「うん、まあ……眠かったのもあるけどね」
ハンカチで、俺の首元を拭いながら、綾はくすりと小さく笑った。
「それより、兄さんは平気?」
「あー、うん。全然平気だ」
正直にいうのなら、特有の軽い倦怠感と違和感は多少、残ってはいる。それは魔力を抜かれた後、特有の感覚だった。10歳の頃から……つまり、7年ほど前から何度となく繰り返している行為だけど、未だに綾との行為の後には、この種の倦怠感と違和感がぬぐえない。
まあ、だからとこの行為に嫌悪感や抵抗感を覚えている訳でもない。なにせ、世の中には、これが病みつきになる、という人も実際に存在する訳だし。……いや、決して病みつきになりたいと思ってるわけではないのだけれど。
「お前こそ平気か?」
「うん、私は平気。なんならもう一回しても良いくらいだよ?」
「いや、それは勘弁してくれ」
軽い冗談を交わしながら俺と綾は、互いの調子を確認する。と、そのとき、ギイ、と居間のドアが開く音がした。
「朝から仲睦まじいな。お前達は」
開かれたドアから聞こえたのは聞き慣れた声。その声に俺と綾が振り向いた先に居たのは、腰まで伸ばした長髪が印象的な、ワイシャツ一枚の女性だ。
神崎蓮香。通称レンさん。俺と綾の叔母であり、育ての親だ。ついでに言えば、髪の毛の色が僅かに銀色を帯びていることを除けば、姉妹といっても通じるほどに綾と容姿が似ている人だった。もっとも醸し出す雰囲気にはかなりの差があるけれど。
「レンさん。おはようございます」
「おはよう、綾」
「おはようございます」
「ああ、おはよう。良」
俺と綾の挨拶に、欠伸混じりに頷きながらレンさんは素足のまま、食卓の方へと歩み寄ってくる。そして、そのまま俺の隣の席へと彼女が腰を降ろそうとした瞬間に、
「―――って、こら」
「きゃう?!」
俺は、その頭を軽くはたいた。
「……良。挨拶代わりに、親の頭をはたく奴があるか」
頭をさすりながら、レンさんは恨めしげな眼差しで息子を―――つまりは、俺、神崎良を見上げる。対して俺はそんな非難の視線に、溜息をつきながら首を横に振った。
「だったら、きちんとした格好をしてください。ワイシャツ一枚で居間をうろつくのは禁止です」
せめて下着はつけてくれ。下着は。そう告げる俺に、レンさんは「やれやれ」と息をついてから大げさに肩をすくめて、にやりと笑う。
「まったく何を照れてるのかね、この子は。親の体に滾るほど、もてあましてるのか?」
「息子相手にセクハラ発言するほどにはもてあましてないですよ。というか、礼儀の問題です、礼儀の」
「むしろ常識の問題だと思います」
俺の言葉に、綾もうなずきながらレンさんにあきれた視線を向けている。が、当のレンさんはと言えば、
「細かいことを言うな。家でくらいくつろがせてくれ」
と、息子と娘の非難をあっさりと聞き流し、俺の隣の席に腰を降ろしたのだった。
……この人は。
女手一つで、俺と綾を育ててくれたことには感謝のしようもないが、趣味は「息子と娘をいぢること」と言ってはばからないあたり、正直どうにかしてほしい。あと歴とした教職なんだから、その辺りの配慮もして欲しい。本気で。
「レンさん、今朝はご飯食べますか?」
そんな俺の内心をわかっているのか、いないのか。綾は笑いをかみ殺すような表情で、レンさんに問い掛けていた。いつもコーヒーだけで済ますことが多いレンさんだけど、「一応パンでも焼きましょうか」、と綾が尋ねると、レンさんは首を横に振りながら、俺の肩とつついた。
「あー。こら、良」
「はい?」
「はぐ」
そう言いながら、レンさんはさっきの綾と同じように両手を広げて見せた。……そこから見てたのか、この人は。
「というか、レンさんもですか?」
「はぐー」
「……今朝は綾と既に魔力交換したんですけど、俺。見てましたよね?」
「ああ、見てた」
「それでもしろと?」
「綾と出来て私と出来ない理由を簡潔に述べてみてくれ」
「ああ、はい。わかりました。わかったから、髪の毛ひっぱるの禁止」
どこの子供だ、あんたは。だだっ子のように、人の髪の毛をひっぱるレンさんの手を振り払いながら、俺は溜息混じりの言葉を返す。
「頼むから年相応の振る舞いをしてください」
「たまにはこういう態度も愛嬌があっていいだろう?」
良くないから抗議してるんだけど、さっぱりレンさんには通じていないらしい。まあ見かけが若いからそういう振る舞いも愛嬌があるといえば事実だけど。
と、俺が内心で思わず納得しかけてしまった時に、がたん、と椅子を揺らして綾が立ち上がった。
「あー、レンさんずるい。兄さんとは、この間、したばっかじゃないですか」
「ずるくない。お前だってこの間したとこじゃないか」
「私は成長期だからいいんです」
「私も成長期だから良いんだ」
「大嘘を言わないでください」
「嘘とは心外だな。大まじめなのに」
「なおさら質が悪いです」
「そもそも私のが魔力の燃費が悪いのだよ。だから仕方ないだろ?」
「そんなの胸を張って言わないでください。大体、それも大嘘じゃないですか」
明らかに綾をからかっているレンさんの台詞は、確かに大嘘だった。
なにせレンさんは、こう見えて最上級の魔術師だ。聞いた話では、数年間は他人との魔力交換なしでもやっていけるほどの体内魔力の貯蔵と変換効率を誇っているらしい。俺や綾みたいに定期的に誰かと魔力の交換をしなくちゃいけない魔術師とは次元が違う。
だが、やはりレンさんはそんな綾の指摘にはびくともせずに、俺の耳をひっぱりながら綾に向かって笑いかける。
「細かいことを気にしていると成長できないぞ、綾」
「人並みには育ってます。少なくともレンさんのご心配は、いりませんよーだ」
そう言いながら、綾はちらりとレンさんの胸元に視線を向けた。
確かに、そういう場所を比較するのなら確かに綾の方が育っているような気がしないでもないが……正直、大差ないような気がするんだけど。まあ、それを口にすると殴られるので止めておく。
「わかっていないな」
当のレンさんはと言えば、綾の指摘に、やれやれ、と余裕ありげに笑いながら、肩をすくめて。
「これは成長云々の問題じゃなくて、良の好みに合わせて、こういうサイズにしてるんだぞ?」
そんな余計な発言をしてくれていた。
「そうなのっ?!」
「俺に振るな。というか嘘に決まってるだろうが」
「嫌いなのか?」
「だから、そういう問題じゃないでしょう」
思わず額を抑えながら、俺はまたまた盛大に溜息をつく。朝の朝からなんて話題を振るんだ、この人は。大体、俺がレンさん相手に欲情するの前提で話を進めるのは、本当に勘弁して欲しい。いくらなんでも家族に興奮するほど無節操でもないんだから。
「こら、男がうじうじと悩むんじゃない。と言うわけで、ほらこっちに来なさい」
「うわっと」
最早、問答無用とばかりにレンさんは俺を力づくでひっぱると、ぽすん、と俺の頭を胸の中へと抱きかかえた。そう。さっきの綾と俺みたいに「抱き合う」形ではなく、完全に俺を抱きかかえる姿勢。文字通り、母親が子供を胸に抱き示す体勢だった。
「……うう、この格好はどうにかならないものですか?」
「贅沢な。これ以上過激な場所を求めるのなら下の方しか残っていないぞ?」
「……」
だから朝からそっち方面のネタを振るなと言うのに。本当に教職なんだろうな。この人。多少陰鬱な気持ちでそう呟きながらも、俺はおとなしく魔力を受け入れるために意識を整える。
「ほら、準備は良いか?」
「……はい、大丈夫です」
「よし、行くぞ」
その言葉と同時、レンさんの指先は、俺の首筋ではなく、俺の首の後ろ、背中との付け根の辺りに触れる。その瞬間、首筋から全身へ再び、熱が波を打つように揺れながら広がっていった。
「……っ」
「少しだけ、我慢だよ」
ほんの少しだけ声を溢した俺に、レンさんは耳元でそっと囁く。そして子供をあやすように、抱え込んだ俺の頭をやさしく撫でつけてくれた。
……いや、だからそういうのは恥ずかしいと言ってるんだけど。
そう内心で溢す声は、しかし、レンさんの手の温もりと、安堵めいた感覚にかき消されて言葉にはならなかった。……我ながら、なんというか、子供っぽすぎて嫌になる。
と、おれが軽い自己嫌悪に陥りかけた瞬間に、レンさんは大きく俺の背中を叩いてから、抱きしめる腕を解いてくれた。
「……よし、お仕舞い。おつとめご苦労さん」
「もう良いんですか?」
「ああ、充分だよ。それに―――」
いつもより短い交換時間。それに驚いて俺が顔を見返すと、レンさんは軽く苦笑しながら、俺の背後を指さした。
「朝から親娘喧嘩は、やめておいた方が良いだろう?」
と、彼女が指し示す指の先には、
「……私も、もう一回、する」
なんて、理不尽な台詞を、確固たる意志を込めた口調で宣う妹が居たりした。