第七話 妹心と兄心(その2)
2.妹さん大爆発(神崎良)
「あ、綾?!」
「何よ、それ、何よ、それ、それって何なのよ?!」
「いや、ちょっと落ち付けって……、綾?! お前?!」
いきなり激高した妹に、なだめる言葉をかけようとして。俺に向けられた綾の瞳にともる光の色に気づいて、俺は即座に、絶句した。
紅い。
いつもの魔力欠乏を示す「うっすら」とした紅じゃない。それは宝石を思わせるほどに、深く、強い赤の色。ここ数年は見た記憶がない、その瞳ははっきりと「激怒」しているときの綾の目だ。
「ちょ、ちょっと待て! 落ち着け」
「一体、どういうつもりなのよ! 兄さんは!」
いったい何に怒っているのか。全然理解できなかったが、何とか落ち着かせようと俺は言葉をつづる。
「どういうつもりって、だから、お前を見習ってだな」
「違うでしょ!」
「ち、違うって何がだよ?」
「だから、見習うポイントがずれてるの! なんでそんなことになるのよっ!」
フォローする言葉に、綾はなんだか半泣きになりつつ首を振り、そしてますます瞳の赤を色濃くしていく。
「兄さんは……兄さんは! わたしが、どんな気持ちで四日を過ごしてきたか、なんて全然、全っ、然っ、わかってないんだね……?!」
「あ、綾の気持ち?」
だから、綾は兄離れをしようとしていて。そして、今は俺のことが気にかかって、生徒会も遠慮しようとしてたんじゃないのか?
「不正解です。違います。全然、わかってまーせーんっ!」
「待て待て、不正解もなにも何も言ってないぞ、俺は!」
「いーえ、不正解です。その顔みてれば、どんなこと考えてるかなんかわかるもん」
にべもなく俺の言葉を切り捨てながら、綾はベットからふらり、と体を揺らして立ち上がる。妹の背後の景色が、陽炎のように揺らいでいるのは気のせいだろうか。気のせいだろう。気のせいに違いない。いや、だって、気のせいじゃなかったら、俺、死ぬかもしない。呪文詠唱なしで空気が揺らぐほどの魔力が脈動しているなんて、尋常な事じゃないのだ。
「と、とりあえず、落ち着け! 話せばわかるから」
「いーえ、わかりません。今だって、兄さんは全然わかってくれてないもん。だから」
「だ、だから……?」
「お仕置きです」
「お、お仕置き?!」
「ええ、だって兄さん、全然、わかってくれないんだもん。だから、もう、ものすごいことお仕置きするしかないじゃない」
「いやいやいや、待て! 綾、とにかく落ち付けってば!」
一体何を罪状にしたお仕置きなのか、とか、お仕置きするしか選択肢が無いなんて言うのはどういう状況なんだとか、そもそもやっぱりお前は何に怒っているんだとか、突っ込み所がありすぎるわけだけど、その理不尽さ云々以前に、目の前の妹の剣幕に命の危険を感じて、椅子を揺らして後ずさった。だけど。
「駄目」
その動きを察したのか、綾は、小さく笑ってその手を俺に伸ばし―――そして、口を開く。
「その身を巡る力は流れを絶て」
「げっ?!」
魔法。
まさかいきなりそんな強行手段に出るとは思わなかったので、驚きに僅かに身がすくみ。その時間が、俺から逃げる時間を完全に奪い取ってしまう。
「鉛の体つなぎ止めるは戒めの鎖。以て、その四肢を大地に縫い止めよ」
「マジか、おい!」
綾の唇が紡ぐのは正真正銘の「対人捕獲用」の呪文。他人の体に干渉してその動きを操るなんていう、正真正銘の高等呪文だ。あげく、通常、四文節から構成される呪文を、三文節でまとめ上げるなんて、こいつ何時の間にそんな技術を……なんて、感心している場合じゃない!
「ぐおっ?!」
しかし「何とかしないと」なんて気持ちだけが焦る間に、綾の魔法はその法則を現実に敷き、結果、俺の手足からは力が抜け、俺は為す術もなく椅子に座り込んでしまった。
まるで、椅子に貼り付けにされたまま、刑の執行を待つ死刑囚のように。
「……お仕置きするったら、するんだから。だから、逃がさないよ?」
身動きのとれなくなった俺に、綾はそれはもう凄絶な微笑みを浮かべて、歩み寄る。
「ちょっと、待て! だから、落ち付けって、きっと話せば分かるから!」
「話してわかり合えるのなら、戦争なんか起きません」
「兄妹喧嘩に、そんな壮大な例えを持ち出すな!」
俺の制止の言葉は、立て板に水とばかりに聞き流されて。綾は俺の両頬に手を当てて、俺の顔を真正面からのぞき込む。
「う」
思わずうめきたくなるほどに、真っ赤な目。そこに迸る感情の起伏に、紅い光が縦横に舞い踊っているような気がしたのは、錯覚なのか。
これから妹が何をするつもりなのか。それを想像して体を硬くする俺に「……言ったのに」と、綾は呟くようにそんな言葉を漏らして落とす。
「え?」
「泣くって言ったのに」
「はい?!」
「兄さんが、ちゃんとしてくれてなかったら、ものすごいこと泣いてやるって言ったじゃない」
「え、え?!」
泣くって言った? 綾が、俺に? いつ、どんな文脈でそんなことを。
「ってか、本当に初耳だぞ?! そんな台詞は!」
「言ったもん!」
「だから、いつ! 少なくとも俺は聞いてないぞ?」
「言ったの! 昨日、私の脳内の兄さんに!」
「勝手な約束を脳内の俺に背負わせるな!」
聞いたこともないほどに理不尽な契約の形態を、兄に強いる妹だった。
「そ、そもそも何に怒ってるのかわからないし、流石に魔法はやり過ぎだろう?!」
「だって、兄さんがわかってくれないからじゃない!」
諭す言葉に綾は聞く耳を持たず、俺の頬に当てた手で、ぐいぐいと俺のほっぺたをつねる。
「いたいいたい」
「痛いのは私の方なんです!」
「なにを無茶な」
どこの世界に、被害者に向けて「私の方が痛い」なんてのたまう加害者がいるのか。思わず呻く俺だったが、しかし、綾も負けじとばかりに呻くように唇をとがらせた。
「うう……さっきまで、ちょっと良い雰囲気だと思ったのにっ」
「よ、よい雰囲気?」
「うん……『楽しいか?』って聞いてくれた辺りとか、『寂しい』って言ってくれた辺りとか! ああ、報われたんだなって思ったのに……思ったのにっ!」
「いや、訳がわからないんだけど……って、だから痛いって」
「なんでわからないのよ、馬鹿ぁ! しかも、よりによって、霧子さんの話題で締めようとするなんて……ふ、ふふ……堪忍袋の緒がキレる、とはこのことよね」
ふふふ、と昏い笑みを浮かべる綾に、「今日のお前が、一体、いつ「堪忍」していたのか、言ってみなさい」なんて危険な台詞が脳裏に浮かんだが、本当に危険すぎる台詞だったので頭を振って棄却した。
「綾。だから、落ち着けって。俺が何か気に障ることしたんだったら、ちゃんと言ってくれたら謝るからさ」
「そんなの、言えるわけないじゃない」
「な、なんで」
「なんでって……とにかく、まだ言えないの。言いたいけど。凄く言いたいけど」
ものすごく言いたいけど言えない。そんな矛盾した内容の台詞を、繰り返しながら綾は困ったように息をついた。
「だって、兄さんは悪くなくて、悪いのは多分私で……ああ、でもやっぱり兄さんも悪いんだから!」
「……綾」
やっぱり今日の綾は様子がおかしい。喜んだり、怒ったり、笑ったり、興奮したり。綾が俺の前で、喜怒哀楽の感情をころころと変えることは珍しいとまでは言えないけれど、やっぱりその感情の示し方が極端で、落ち着きがなさ過ぎる。
だから、俺は大きく一度息を吸って。
「綾。落ち着いて」
努めて冷静に。なるだけ、優しい口調で呼びかけた。
綾はさんざん「わかってくれない」って言ってたから、今日の綾の様子がおかしい原因は、やっぱり俺が気づくべき事に気づけていないからなのかもしれない。元々、察しは良くない方だと思う。だから、その点を攻められると反論できないけれど。
でも、だからこそ言ってくれないと、わからないし、わからないまま、今の綾を放っておくことも出来ないから。
「ちゃんと話そう。今日のお前、ちょっと変だぞ」
「……うん。そうだね」
なるべく押さえた俺の声に、多少は落ち着いたのか。瞳の色はまだ紅いままだったけれど、それでも綾は高ぶっていた声を抑えて、そう頷きを返した。
なら、これでようやく落ち着いて話ができる……と、思ったのはやっぱり俺が「わかってない」からなのかもしれない。
「変だよ、私」
「え?」
「今日だけじゃなくて、もともと、変なんだから。私」
「……綾?」
静かな口調。でも、そこに何か真摯な響きを感じて、俺は綾の目を見つめ返した。紅い瞳。宝石みたいな輝きが、どこか熱を帯びて俺の目を映している。
「ずっと、変で。多分、これからも変なんだから」
「……」
開き直ったような言葉に、でも自棄するような響きは感じない。代わりに感じるのは、素直な言葉の響きだけ。なのに、何故か、ひどく張り詰めたようにも聞こえた。
「でも、今日はいつもよりちょっと変なだけ。うん、だから……」
だから。
その言葉を契機に、頬に添えられた手の感触が、少し強さを増した。
「だから、私」
「綾……?」
綾の顔が少しずつ大きくなる。要するに、顔が近づいてきている訳で。
吐息がかかる距離にまで、迫った妹の顔。その瞳に飲まれて、かける言葉が出てこない。
……このままじゃ、まずい。
何がまずいのか、よくわからないまま、その直感だけが胸を打つ。だけど、力を奪われた俺は……というか、綾の目に飲まれかかっている俺は、身動ぎも出来なかった。
「……兄さん」
綾の顔は文字通り目と鼻の先。彼女の呼吸が乱れているのが、顔にかかる吐息でわかる距離で止まったまま。そして、俺もまた動けないままに、ただ妹の瞳を見つめ返して。
そんなひどく現実味のない状況に、思考が停止に逃げている最中。
俺を映す紅い瞳が、涙に揺らいでいることに、そこでようやく、気がついた。
いったい俺の何が、妹の機嫌を損ねているのか。それは本当に、わからない。
だけど。それでも、目の前で妹が泣いていて。それをただ呆然と見つめているだけの兄なんて、情けないにも、ほどがある。
「……綾」
だから、俺は止まった思考のまま。
「え? ……あれ?」
「ああ、ほら、泣くな」
動かないはずの腕を動かして、妹を胸の中に引き寄せて、その頭をぽんぽんと叩いてやった。
「あ、あれ……、あれ……? どうして? 私、魔法……」
「ふふふ、あまり兄をなめてもらっては困るな」
信じられない、そんな感情が滲む妹の言葉に、俺は「自分でも驚いている」ことを隠しながら、そんな軽口で応じて見せた。
……いや、本当。なんで動けているのか。自分でもわからない。
が、すぐにそんな複雑な事情でもないのか、と思い当たって頷いた。そもそも人体に干渉する魔法は、難しい。あげく三文節詠唱なんて高等技法を使うのならその難易度は跳ね上がる。いくら綾が成績優秀だからといっても、まだ高等部の1年生だし、そもそも、こんな高ぶった感情のままに行使した魔法で完全に他人の体の支配なんてできない……のだと思う。
だからまあ、成績優秀とは言い難い俺でも、根性出せば……死ぬほど魔力を動かして、「元々の俺の体の規則」を取り戻しさえすれば、綾の魔法に対抗できたのだと、思う。……断言できない辺りが、俺の限界でもあるけれど。
でも、まあ。そんな理屈は放っておくとしても。魔法なんか解けなくたって、少しぐらい……泣きそうな妹の頭に手を回すぐらい、根性でなんとかなしないと、だめだから。
「時々、信じられないことするよね。兄さんって」
対して綾はどう判断したのかはわからない。だけど、俺の胸の中、綾がなぜかあきれ果てた、という口調でそう呟いた。
「信じられないって、それはひどいと思うんだけどなあ」
「そういう意味じゃないよ。……やっぱり、そういう意味かも、だけど」
答える綾の声が、からかうような口調に変わる。少なくとも張り詰めていた声じゃない。
「やっと落ち着いてくれたか」
「……どうかなぁ。まだ落ち着いてないかも」
「あのな」
俺の胸に顔を埋めながら、小さく綾が笑った。
「生徒会にストレスを感じている、って訳じゃないよな?」
「うん」
「じゃあ、やっぱり俺の所為か?」
「…………本当に、兄さんの、馬鹿」
「はい?」
「なんか、無理矢理にできなく、なっちゃったじゃない……馬鹿」
また俺を非難する言葉を呟きながら、綾はようやく俺の胸から顔を上げる。やっぱり、まだ瞳は紅い。でも、それは「うっすら:としたほのかな赤の色。少なくとも激情に揺さぶられていたあの危うい光は、既にない。
だから、本当に落ち着いてくれたのだ、と俺は胸中で安堵したけれど、相変わらず綾の言葉の真意がつかめない。一体、今度は何に対して「馬鹿」と言われているのだろうか、俺は。
そんな俺の戸惑いに、綾はくすり、とほほえんで小さく舌を出した。
「ごめんね、兄さん」
「え?」
「変に絡んじゃって。四日ぶりだったから、兄さんのこといじめたくなっちゃったんだ」
「あのなあ……」
果たしてどこまで本当なのか。はぐらかす口調の台詞に、俺はなんと答えたものかと思考を巡らせる。だけど、そんな俺にゆっくりと考える時間を綾は与えてくれなくて。
「だから、意地悪ついでに、もう少しわがまま言うね」
「え?」
にやり、といたずらっぽく、笑って。腕を伸ばして俺の首に手を当てた。
って、この姿勢は……。
「そもそも美術部に入るとか、魔法に抵抗するとか」
「え? え?
「そんなに力が有り余って居るんなら」
「ちょ、ちょっと、待て。お前、まさか」
気づけばまた綾の瞳が「うっすら」からやや濃い赤色に輝きを増している。激怒の感情ではないけれど、それでも強い感情を示す瞳。そして、綾自身もその感情を隠すそぶりを見せずに―――笑って。
「遠慮なんてしないんだから!」
「ぎゃああ?!」
綾は吸血鬼よろしく俺の首下にかみついて、そして信じられない勢いで俺の魔力を吸い上げ始めたのだった。