第六話 ブラコン娘の憂鬱(その2)
2.神崎家の夕食後(神崎蓮香)
「……でも、もう、駄目、かも」
夕食後、良と入れ違いにリビングに姿を現した綾は、先ほどまで良が座っていたソファーに倒れ込むと息も絶え絶え、といった風情でそう呟いた。
「……駄目、かも」
「……」
うわ言のように弱音を零す娘に、さてどう対応したものかと考えながら私はとりあえず黙ってコーヒーをすする。
「限界」
「……」
「死んじゃう」
「……」
「生徒会、止めようかなあ」
「………………あのなぁ、綾」
ソファーに顔を埋めながらくぐもった声で泣き言を漏らす娘に、私は軽い目眩を覚えて頭を抑えた。まさか兄の残り香をかいでいるという訳じゃないだろうが……いや、そうではないと信じたいのだが。
「生徒会に参加を申し込んでまだ三日だろう?」
「そうだけど」
「それとも生徒会で耐えきれない仕打ちでも受けているのか?」
「そうじゃないけど……うう、母さんにこの辛さ、わからないのかなあ」
弱音を吐くのが速すぎる、と諭す私に、綾は半病人よろしく、ふらふらと頼りなくソファーから上体を起こす。そして何故か恨みのこもった視線を母に投げかけつつ、呻くように言った。
「もう三日も、兄さんとのスキンシップが無いんだよ?……うう、枯れそう」
本気で辛そうに呟いて、くたり、と綾は再びソファーに崩れ落ち、クッションに顔を埋めた。
……どこまで、根性がないんだ。この娘は。
いつもの優等生ぶりは猫かぶりだったのか、あるいは、単に本当に兄のことに関しては耐性がまるっきり無いのか。おそらくは後者だろうな、と嘆息しながら私はソファーを立って、倒れ伏す娘の頭に手を置いた。
「もう三日も、じゃなくて、まだ三日、だ。見たところ、別に魔力の欠乏も淀みも無い。まだ魔力交換は必要ないだろう?」
そう指摘する私に、綾はソファーに寝そべったまま顔を上げて、唇をゆがませる。
「そうだけど、そういう問題じゃないんです」
「あのね、綾。そもそも生徒会に入った目的が何か、わかってるのか?」:
「わかってる。わかってるけど……っ!」
ぽんぽんと額を叩く私に、かみつくような勢いで言ったかと思うと、綾はそこで言葉を止めて。
「つらいよう」
と何度目かの泣き言と共に、三度ソファーにその顔を埋めるのだった。
「……まったく」
……この娘は。僅か三日でへこたれる娘に、今までの教育方針を顧みて、忸怩たるものを感じてしまう。
まあ、兄が絡みさえしなければ、至ってまともな娘なだけに、悩ましいところではあるけれど。今も殊更、幼い言動になっているのは単に私に甘えに、というか愚痴りに来てガス抜きをしているだけの部分もあるだろう。流石に本気で三日で投げ出すほどに無責任な娘に育てた覚えはないのだから。
………………多分。
「ねえ、母さん」
「なんだ?」
頭をよぎった微妙な予感を振り払いつつ、私が隣に腰を下ろすと、綾は体を起こして声の調子を改めた。
「あのね、ちょっと聞きたいんだけど」
「うん?」
「……効果、出てるよねっ?!」
「…………効果?」
「だから! ちゃんと兄さんに効果出てるよね?!」
「……」
まだ三日だ、と言ったばかりだろうに。この子は。
思わず額を抑える私に、しかし、綾はすがるような視線を向けて、なおも言葉を重ねる。
「兄さん、寂しがってる?」
「うーん」
「嘘、寂しがってない、の……?!」
「いや、寂しがってはいるよ」
「本当?!」
「本当」
頷きながら私は今晩の良の表情を思い起こす。……まあ、多少は寂しくは思ってはいるだろう。あくまで兄として。
「私のこと、何か話してた?」
「ああ。そりゃ夕食の時にはほとんどお前の話題だよ」
「ほ、本当?! 私のこと、ちゃんと気にしてくれてた?!」
「ああ」
そりゃ生徒会への参加を勧めたのは良自身だから、気にするだろう。あくまで兄として。
「どんな風に?」
「どんな風にって、そりゃ……うまくなじめているかなって心配してたよ」
「ああ、違うの、そう言うんじゃなくて!」
「そう言うんじゃなくて?」
「だから……その……」
問い返す私に、綾は僅かに頬を赤くしながら言葉を濁す。
ああ、もう。この期に及んで照れるかなあ、こいつは。思わず抱きしめたくなったが、ぐっと我慢して耐えることしばし。意を決したように……というには控えめな視線を私に向けて、綾はおそるおそる、という声で私に問いかけた。
「や、焼き餅とか焼いてない……かな?」
「さて。良もお前の現状を知らないわけだからね。焼きようがないんじゃないか?」
まあ、まず間違いなく「焼き餅なんて焼いていない」と断言できるが。流石に事実そのままを突きつけて、その目に爛々と輝く娘の希望を叩きつぶすのは、多少躊躇われるので止めておく。
……ちょっと言いたいけれど。流石に今言うと泣きそうだしな。
「そっか……まだ兄さんは嫉妬に狂ってはくれていないんだ……」
「……」
「じゃあ、まだ頑張らないといけないんだね。うう、辛いよう」
「……」
……娘よ。多分、このままいくら頑張ってもお前の兄が嫉妬に狂うなんてことはないと思うんだ、母は。
流石に不憫になってきたので、ちょっと綾の行動の方向性を修正してやろうと私は言葉を探す。
「なあ、綾」
「うう、何?」
「あー、その、なんだ。最初から少しとばしすぎじゃないのかな」
「……とばしすぎ?」
「まあね」
なにしろ綾は生徒会入りを決意した翌日から、なるべく良と顔を合わせないように工夫を凝らしていた。
朝は良より早起きし、先に一人で登校する。昼食も兄のところへ顔を出す、という行為は控えているようだし、夕食に至っても、「兄さんと先に食べていてください」と私に頼み込んで、顔を合わさずにすむように工作までしていた。
つまり良との間に距離を置くために「本当にしばらく顔を合わせない」という作戦をとっているのだ。その実行力と決断力は大したものだと思わなくもないけれど、実際のところ効果があるのかと言えば、今のところ収穫なし、という所だろう。
良が綾を心配している、と綾に言った言葉は嘘じゃない。本当に綾のことが心配、という良の気持ちは態度からくみ取れる。しかし、それ以上に「兄離れ」ともとれる彼女の行為を邪魔してはいけない、という気遣いもありありと感じ取れるのだ。
そう「兄離れ」。綾にとっては残酷きわまりないことに綾の行動は良にとっては「兄離れ」の一環として受け止められてしまっている。つまり、綾が望んでいる「嫉妬感」とはほど遠く、ともすればほほえましい感情で綾の行動は受け止められようとしているのだ。
……それに。
まだ綾には告げていないのだけれど、良の「部活」の話を聞く限り、綾の努力はまるっきり逆方向に作用しだしている可能性さえあるのだった。
「……母さん? 話聞いてます?」
「あ、うん。聞いてるよ」
実はちょっと上の空だったけど。それを悟られまいと私は綾の髪を掌で軽く梳きながら、先の話題を続ける。
「とばしすぎ、というのはね、最初から完全に距離をとらなくてもいいんじゃないか、っていうことだよ。そうだね、夕食ぐらいは一緒にとってもいいんじゃないか?」
「そ、そうかな!」
お預けを食らっていた子犬が、「よし」のかけ声の気配を誘ったかのように、途端、綾は目を輝かせる。綾にしっぽが付いているとしたらさぞや勢いよくぱたぱたと振れていることだろう。
「さっきも言っただろう? お前の状況を知らない事には良も焼き餅の焼きようがないって」
「あ、そっか……そうだよね!」
私の垂らした餌に、豪快に喰らいつきながら、綾は喜色を満面に浮かべて頷いた。
「そっか、いいよね。夕食ぐらい、一緒に食べて、こっちの状況を教えないと駄目なんだよね」
「そうそう」
実際、それで状況が好転する、とは思ってはいないのだけれど、かといって現状のあまり効果がない……、というか逆効果を招きつつある作戦を長時間とらせておくのも忍びない。
本音を言うと、良にはこの隙にさっさとまっとうな彼女を作って欲しいという思いもあるのだけれど、その反面、やっぱり娘の恋路に多少の報いを、と願ってしまうから。
……親として、破綻している考えだとは自覚はしている。でも、例え、茨の道であっても。ひとひらの花びらぐらいは、頑張る娘に与えられてもいいのではないかって、どうしようもなく思ってしまう。
「……親ばか、とは言わないんだろうね、こういうのは」
「? 何か言った? 母さん」
「いや、別に何も」
誤魔化すように小さく微笑んで、私を見上げる綾の額にそっと手を置いた。そんな私の態度に、多少は疑問を抱いたようだが、今の娘は、そんな些細な疑問より、兄と会えることの喜びの方が遙かに大きいようで、瞬く間に疑問符は彼女の表情から消えて、代わりに歓喜に近い喜色がその瞳に満ちていった。
「そっか、明日は兄さんと晩ご飯食べてもいいんだよね。あ、私が作っても、いいよね?」
「いいよ。家事を代わってくれる分にはいくらでも」
「うん。よーし、これでまた明日一日、がんばれるー」
どこまでも兄のことしか見えていない妹。久しぶりに見たその娘の無邪気な笑顔に、私は内心でこっそりとため息をついた。
できれば、生徒会活動で本当に兄から離れられるような出会いがあってほしいものなのだけれど……
「……まあ、なるようにしかならない、か」