第五話 兄離れと妹離れ(その2)
2.昼休み:後半戦(速水龍也)
「ちょっとトイレ行ってくるから、先に行っててくれ」
中庭から教室に戻る途中、僕と霧子に手を振ってから良は一人男子トイレの方へと足早に向かっていった。その背中を見送りってから、僕と霧子は自然と顔を見合わせて、軽い苦笑を交換した。
「……本当に綾ちゃんには弱いよね、あいつ」
「まあ……でも、それが良のいいところだよ。うん」
強がってはいるけれど、綾ちゃんが気になってしかない。良の浮かない表情から、そんな気持ちがありありと読み取れたので、僕と霧子としては微笑まずには居られなかったのだ。
良と知り合ったのが中等部の最初。思えば、その時からすでに綾ちゃんは良にべったりだったし、彼女を守らなくちゃ、という良の意識はその頃からずっと感じていたから、今日の良の反応は意外でも何でも無かったりする。正直、過保護だなあと思う部分もあるけれど、一人っ子の僕としては、正直ちょっと羨ましい。同じく、そんな綾ちゃんと良を見てきたハズの霧子は、苦笑を表情から消すと、今度はなんだか感慨深げに呟いた。
「でも、綾ちゃんの方はとうとう兄離れをするつもりになったのか。お姉さんは感慨深いなあ」
うんうん、と頷きながら姉貴面をする霧子に、僕は苦笑を押し殺す。そんな僕の態度に気付いたのか、霧子はむっと表情を顰めた。
「何よ? おかしい」
「だって、綾ちゃんは中等部の頃から生徒会の手伝いとはちょくちょくやってたじゃないか。そんなに劇的な変化、って訳でもないんじゃない?」
「でも正式な役員じゃなかったでしょ? 部活だってそうだったし」
「まあね」
確かに、それは霧子の指摘する通りだった。綾ちゃんの才能は一年生の中では突出しているし、お世辞無しに評価をするのなら魔法使いとしての実力は、良はもとより霧子より上だと思う。だから生徒会のみならず、魔法競技関連の部活からの勧誘も引く手数多だったはずだ。でも、彼女はいつだって手伝いはするけれど、正式な参加は避けていた。いつだってイレギュラー。それが綾ちゃんの立ち位置で、彼女がその立ち位置に身を置く理由はなんとなく分かってはいた。
「……ようするにあんたと似ているのよね、彼女も」
「う……それは言わないで欲しいなあ」
僕の心を見透かしたように、霧子は軽い揶揄の表情を浮かべて肩をすくめる。
綾ちゃんの理由。
多分それは、行動の優先順位を良に置き続けたいからだろうって、そう思っている。そして、霧子が指摘したとおり、僕も又、綾ちゃんと同じように、親友の役に立ちたいから、特定の組織に縛られるようなことは極力避けるようにしてきたのだ。
「そう考えるとやっぱり兄離れするのかな。この時期に自分から行くってことは正メンバー志望だろうし……」
「ね? そう思うでしょ?」
頷く霧子の声は、綾ちゃんの変化を喜ぶように弾む。でも、その中に少しだけ安堵めいた響きが聞き取れた、と思うのは僕の考えすぎだろうか。
「? どうかした?」
「あ、うん。ただ、あの様子だと良の方がまだまだ妹離れできていないかな、って」
「シスコンだしねー」
苦笑する霧子に頷きながら、一つの疑問が頭の中に浮かぶ。
やっぱり、綾ちゃんの行動は兄離れのための行動なんかじゃないんじゃないか、ってそういう疑問。正直、綾ちゃんとの付き合いは深い訳じゃない。良と行動を共にしている関係上、接触する機会は多いけど、それでも一対一で向き合ったことは数えるほども無いと思う。
でも、なんとなく直感はあった。それは今回の行動が「良の気を引くための物じゃないのか」っていう直感。あるいはそう思ってしまうのは、僕の邪推なんだろうか。
「……よし」
僕が考えにふけっていた間、同じく霧子も何かの思索にふけっていたらしい。不意に、ぱん、と手を打ち合わせると同時に、彼女は顔を上げ、その目に決意めいた感情をひらめかせていた。
「決めた。私、決めたわよ」
……一体何を決めたというのだろう。こういう時の霧子には近寄らない方が無難なんだけどなあ。
良は綾ちゃんのことを「時々、暴走することがある」と揶揄することがあるけれど、暴走する度合いなら霧子だって負けては居ないんじゃないかなあ、って思う。面と向かって言うと殴られるから言わないけど。
「それで、何を決めたの?」
出来れば関わらない方がいい、と思いながらも、話の文脈上、まず間違いなく良に関わることだろうと分かっていたので、僕はおそるおそると彼女に問いかけた。
「そんなの決まってるでしょ。良のシスコンを矯正するのよ」
そう答えながら振り向いた霧子は、自信満面の笑顔を浮かべていた。
いや、一体何が「決まっている」のか、僕には正直、訳が分からない。声には出さずとも、盛大な疑問符が僕の顔に浮かんでいたのか、霧子は軽く指を振りながら僕を諭すように語り出した。
「いい? せっかく綾ちゃんの方がブラコン脱出を試みても、兄の方がシスコンのままだと意味がないでしょう?」
「うーん、まあ、そうかな」
綾ちゃんが本当に「ブラコン脱出」を目指しているのか、まだ判断は付きかねているけれど、それもでもはあ一般論としてはそうだろうと、僕は曖昧な表情のまま頷きを返す。
「じゃあ、良の友人であり、綾ちゃんの先輩である私としては協力しないわけにはいかないじゃない」
「なるほど」
実に霧子らしい発想に、苦笑も忘れて僕は小さく拍手を送った。霧子が影で「姉御」と揶揄される理由が、こういった面倒見の良さだろう。さんざん僕や良を「お人好し」と揶揄する癖に、彼女も相当なお人好しなのだった。ある意味ではお節介とも言うけれど。
「いい考えでしょ?」
「まあ……確かに良も妹離れは必要かもね」
他人が口を出すような問題じゃないかも知れない、と頭の片隅では思いつつ、それでも良が少しは綾ちゃんから距離を置いてくれるようになるなら、というのは僕にとっても魅力的だった。
「でも、矯正するってどうやって?」
こういうと良は怒るのだろうけれど、彼は筋金入り……とまでは行かなくても重度のシスターコンプレックスだと思う。そう簡単に矯正できるものなら、とっくに出来ているのじゃないだろうか。
そう疑問を呈すと、霧子も決定的なアイデアを持っては居ないのか、「うーん」と唸りながら首をひねり、しばらくしてから頷きと共にその答えを口にした。
「そうね。とりあえず、美術部に入れる」
「……」
……そう来たか。
以前から、霧子は何度となく良を美術部に誘っている。まあ、本人が生徒会から逃げている関係上、あまり強くは言えないようだけど、本当に入って欲しそうにしているのは、傍から見ていて少し微笑ましい。
でも、今度は「シスコン矯正」という大義名分がある。それなら再び良に勧誘をかけるいい口実になる、ということなんだろう。
「……駄目かな?」
自分でもシスコン矯正への最適解である、という自信はないのか、黙り込んだ僕の顔を見る彼女の視線に僅かに不安が陰る。
「駄目だ、って断言するほどじゃないとは思うよ。でも、美術部に良を入れるの、随分こだわるね」
「だーって、あいつそこそこ絵心あるのにもったいないじゃない。帰宅部なんて青春時代の無駄遣いだと思うんだけどなー」
「……あの、僕も帰宅部なんですけど?」
「知ってる。それが何?」
「……いいけどさ、別に」
諦観の息をつきながら、良と僕とで扱いが違うように成ってきたのはいつからだったかなあ、なんて軽い追憶を抱いて苦笑する。
良を美術部に誘っていた理由。それが良の絵心に着目しての物だけじゃないって気付いていないのは、良と霧子、当の本人達ぐらいのものだろう。そして、今回のことにしてもおそらくはそうだろう。綺麗な善意で蓋をしてしまっているけれど、その根底にあるのは、きっととても単純な感情なんだろうって思う。
でも、それを指摘することはせず、僕は軽く茶化すように彼女に笑いかけた。
「良が美術部に入ったら、僕も入ろうかな」
「えー」
「えー、って。そういう反応は流石にひどいと思う……」
露骨に不満を返されて、流石にちょっと凹んだ声を漏らすと、冗談冗談、と笑って霧子は小さく舌を出す。
「冗談だってば。まあ、あんたが美術部に入ってくれると部員数倍増しそうだしね。でも覚悟はあるのよね?」
「か、覚悟……?」
あまり穏便ではない単語に、少しひるみを見せると霧子は勢いよく頷いて、びしり、とその指先を僕に突きつける。
「勿論、芸術に身を捧げる覚悟よ!」
「み、身を捧げるって、その死にものぐるいで練習しろってこと?」
そりゃ、デッサンとか基礎の基礎のことまるで分かっていないから、死にものぐるいで勉強しないといけないのかも知れないけれど。
「違うわよ。あんたはきっと文字通り身を捧げることになるの」
「どういうことさ……?」
「勿論、モデルとして」
「モデル……?」
「当然、全裸で」
「ぜ……っ?!」
「もしくはヌードで」
「ヌードって、同じじゃないかそれ!」
一体、何を言い出すのか、と僕が驚きに目を開くと、霧子は両手を僕の肩において、諭すような視線で顔を覗き込んできた。
「大丈夫。恥ずかしいのは最初だけだから」
「き、霧子は経験あるの……?」
「あるわけ無いじゃない。そんなの恥ずかしいでしょ?」
「僕だって恥ずかしいよ!」
「だから、大丈夫だって。あんたには才能があるから」
「才能ってなんのさ!」
「さあ、全てをおねーさんに任せて服を脱いでごらん?」
「何を卑猥な話をしてるんだ、お前らは」
「あいた」
いつの間に追いついたのか、良が呆れた表情で霧子の頭を小突いていた。叩かれた霧子は頭を抑えて、恨めしげな視線で良を睨んでいる。
「卑猥とは失礼ね。芸術への情熱を語っていただけじゃない」
「男に裸デッサンのモデルを迫るのが、お前にとっての情熱なのか」
「微妙に違うけど」
「全否定しろよ。頼むから。あと目をそらすな」
霧子に突っ込みを入れる良は、いつもの面倒見のいい彼の表情に戻っている気がして、少し心が軽くなった気がした。やっぱり、友人には物憂げな表情をしていてほしくない。
「ほら、さっさと行くぞ。もうすぐ鐘が鳴りそうだ」
「はいはい」
「そうだね」
良の声に率いられて、いつものように三人で歩く。
いつものように。
「それが、不満なのかな。綾ちゃんは」
良にも、霧子にも聞こえないように、そっと呟いて、僕はなんとなく生徒会室があるはずの方角に軽く視線を投げた。