第五話 兄離れと妹離れ(その1)
0.朝(神崎綾)
善は急げ。思い立ったが吉日。鉄は熱いうちに打て―――って、最後のはちょっと違うかも知れないけど。いつもより早く起床した私は、昨晩の覚悟が崩れてしまわないうちに一人で登校していた。
兄さんと朝の挨拶もせずに、たった一人で登校するなんて、本当にいつ以来だろう。晴れ渡った朝の空気を、たった一人で吸い込みながら、私の頭にそんな思いがよぎった。去年までは中等部と高等部の違いはあったけれど、登校自体はいつも一緒にしていた。だから学年旅行の時などの年に数回在る例外を除けば、本当にいつも兄さんの隣にいたことになる。
あの人の傍にいること。それは私にとって当たり前のことなんだなあ、って今更ながらに痛感する。極々当たり前で、そしてとても大切なこと。でも、その当たり前で大切なことを、今日、私は手放そうとして一人、道を歩いている。
『近すぎることが、女を感じさせない原因かも知れないよ』
昨日の母さんの台詞が、頭の中で繰り返し響く。
私にとって、そして兄さんにとっても、互いの傍にいることは当たり前すぎたから、胸に抱いた思いを伝える勇気が出なかった……のだろうか。もし、そうなら。本当にそれが二人の関係の進展を阻害していたとしたら……なんて皮肉なんだろう。
「運命って、残酷なんですね、兄さん」
呟いた言葉に、胸が押しつぶされそうになる。本当に残酷だって、思う。母さんは「茨の道」だっていったけれど、本当にそうなのかも知れない。でも、だからって歩くのを躊躇うほど私の想いは弱くなんてない。
だから、つらいけど。ものすごーく、辛いけど。というか、想像しただけで寂しさに目尻が熱くなってきたりもするけれど……っ!
「……兄さん。私、頑張りますね……っ!」
そう、全ては私たちのバラ色の未来のために!
茨の道を進んだ先には、きっと綺麗な花が咲いているはず。その覚悟を胸に、私は足早に魔法院への道を進むのだった。
目指すは、高等部の生徒会室。金の校章が刻まれた、生徒達の憧れの場所に。
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魔法使いたちの憂鬱
第五話 兄離れと、妹離れ
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1.昼休み:前半戦(神崎良)
「綾ちゃんが生徒会に?」
「どうも、そうらしい」
昼休み。いつものように中庭の一角で霧子と龍也と並んで弁当をつつきながら、俺は霧子の言葉に曖昧な表情で頷きを返した。
話題になっているのは妹の綾のこと。俺が朝起きると既に綾の姿はなく、代わりにとばかりに「私、生徒会に入ります。探さないでください」なんて書き置きが朝の食卓に残されていたのだった。
一体、昨晩の拒絶は何だったのか、……それに、探すなって言われても。お前が家に帰ったら兄は居るんですが、わかってるのか、妹よ。
「それとも生徒会に入ると寮に入らないといけないんだったか?」
「えーと、そんな規則は無かったと思うよ」
龍也に確認すると、やっぱり否定の言葉が返ってくる。その返事に、自然と嫌な予感がむずむずと胸の中でわき起こった。
優等生で通っている綾だけど、思い詰めると周りが見えなくなる嫌いがある。昨日の俺の言葉に反感を持っての、妙な暴走じゃなければ良いんだけど……置き手紙という行為といい、その文面と言い、どうにも妙なスイッチが入っている気がしてならない。
そんな不安は顔に表れていたのか、ぽん、と俺の肩を叩いて、励ますように霧子が頷きながら口をひらいた。
「まあ、今日学校で止めに来るな、って事じゃないの? 変な心配しないでもいい、私のことは気にしないで……って」
「……そうかな」
まあそう考えるのが妥当だろうか。霧子の言葉に頷きながらも、答えた声は我ながら今ひとつ歯切れが悪い。
その俺の態度がなにかツボにはまったのか、龍也が笑いを堪えるように頬を引きつらせて口元を隠した。
「……なんだよ。何か面白かったか?」
「ご、ごめん。笑うつもりはなかったんだけどね。でも、良が綾ちゃんのこと気になって仕方ないみたいだから」
「そうそう。妹が心配で堪りませんって、顔に描いてあるよ。お兄ちゃん?」
「うるさい」
龍也と霧子に二人そろって本心を見透かされたのが気恥ずかしくて、俺はふて腐れた声で二人から目を逸らす。そんな俺に二人は同時に溜息をついて、そして目を見合わせて笑いあったのが肩越しの気配でわかった。
「ホント仕方ないお兄ちゃんよね。自分で勧めておいて、いざその通りになろうとすると狼狽えるなんて」
「……う」
痛いところを、付くなあ。
いやいや、まさかこんなに綾が急に行動するとは思わなかった―――、というのはやっぱり言い訳に過ぎないんだろうか。勧めたのは俺だし、その勧め通りの結果になりそうだからと言って狼狽えるのは確かに情けない。
「まあ、良って昔からシスコンの傾向があるからね」
「……失礼な」
言うに事欠いてシスコンとはなんだ、シスコンとは。
霧子と龍也の呆れのこもった会話に、胸中で突っ込む声は我ながらちょっと勢いがない。シスコンと指さされれば違うと答えるのは常なのだが、「本当に違うのか?」と自問してしまうとちょっと自信が揺らいでしまうあたり、本当にどうにかしないといけないのかも知れない。
「せめて妹思いと言えよ、お前ら」
「妹思いねー。……うん、それは確かに良らしいかも」
憮然としたまま振り向くと、霧子は愉しそうに俺の顔を覗き込んで笑った。その表情に邪気はなく、だから少しだけ毒気を抜かれて俺は肩をすくめて息をついた。
「まあ、狼狽えてるのは確かに情けないけどさ」
しょうがないじゃないか。妹を心配するのは兄として当然の義務だろう。
「でも、良はどうするの?」
「どうするって、何が」
「だから、綾ちゃんのことだよ」
放っておいていいの?、と訊きながら龍也は気遣わしげに少し表情を改めた。なんだかんだとからかいながら、それでも心配してくれる友人に、俺は小さく感謝しながら首を横に振った。
「放っておくも何も、本人の希望だからな」
俺としては会長さんとの関係がもう少し改善してから、綾が生徒会に入る……みたいなステップが一番、無難かななんて思っていた。だけど、まあ、綾が本当に自分の意志で生徒会に入りたいと決めたんなら反対する理由は特にない。
……あくまで綾が「冷静に考えて」決めたのなら、だけど。
「それに、生徒会に入るのはあいつのためになると思うんだ」
「……ああ、なるほど」
短い言葉だけで、俺の言いたいことを察したのか、龍也は感心したように頷いて手を打った。反面、「どういうこと?」と霧子は首をひねる。そんな彼女に説明するように龍也は指を振りながら言う。
「ほら、綾ちゃんって、今、良としか交換してないじゃないか。だから、会長さんみたいな……えーと、その……そう! 多少強引な人の傍にいるのは、意外と良いこと何じゃないのか、ってこと」
「ああ、そっか。なるほどねー」
言葉を選びまくった龍也の説明に、霧子は納得しつつ手を打ち合わせた。
そうなのだ。多少の不安があるものの、俺が綾に生徒会入りを勧めてみた最大の理由はそこにある。綾は俺に輪をかけて魔力交換の相手が少ない。というか、本当に俺一人としか魔力交換を行っていない。
会長さんが昨日俺に食ってかかったように俺が綾を「独り占め」にしている、という訳じゃない。そんな制約をかけずとも、本当に今の綾は俺以外の魔法使いと魔力の交換ができないのだ。「しない」、のではなく、「できない」。魔法理論の理解、そしてその行使共に群を抜いているハズの綾が抱えた魔法使いとしての大きな、それは欠陥だった。
その事情を知っている霧子は、うんうんと首を小さく振りながら腕を組む。
「なるほどねー。確かに会長さんなら、意外と上手く行くのかも……」
「そうなると良いんだけどな」
綾が俺以外との魔力交換が出来ないのは体質的なものというよりも、性格的な原因が大きい、とレンさん以前が言っていたことがある。なら、きっかけさえあれば俺以外の誰かとも交換が出来るはずだし、そうなる方が生きていく上ではいろいろと好ましい。
食事が出来ないときに点滴で栄養補給をするように、非常手段として、外部から魔力を強制的に摂取させる方法はある。あるにはあるのだが、あくまでも「非常手段」だ。その生活を一生続けていくことは、難しいとされている。
……縁起でもない考えだけど、もし俺に何かあったとき、綾を道連れにしてしまうようでは、向こうで父さんや母さんに顔向けができない。だから何とかしてやりたい、と考えるのは兄として当然だろう。
「確かに良としか交換「出来ない」んじゃ、いざというとき困るわよね」
「そうだね。うん、会長さんと上手くやれれば理想かも知れないね。あの人、魔力の扱いはとんでも無く上手いから」
「そうね……って、あれ? そういえば」
ふと何かを思いついたのか、霧子が小首を傾げて俺の顔を覗き見た。
「どうかしたか?」
「うん。綾ちゃんが良としか交換できないのは知ってたけど、そう言えば綾ちゃんと良が交換しているところって見たこと無いなーって」
「あ、僕もない」
「……えーと、そうだったっけ」
二人の指摘に答えつつ、俺はなるべく自然に二人から逸らした。二人が見たことがない、というのは当たり前のことだ。……あんな体勢での魔力交換、人前で出来るわけ無いだろうが。
普通、魔力交換は掌同士の接触、つまりは握手、という形で事足りる。が、当人同士の体質とか相性とかによっては、俺と綾みたいに変な姿勢での交換を余儀なくされるケースもあるのだ。そりゃ、あれは最早生活の一部であって、健康維持の為には必要な行為だから恥ずかしがるような事ではないとは理解はしている。しているののだけれど、流石に妹に首筋に口付けされる、なんて体勢を進んで人前でやろうなんて気は起こらない。
「まあ、家でしてるからな。わざわざ外でする必要もないからなあ」
「……」
「……」
我ながら無難な返答で上手くお茶を濁した……と思ったのはつかの間。二人はなんだか不審げに目を細めた眼差しを俺の横顔に突き刺した。
「……なんだよ。その露骨な疑いの眼差しは」
「なんか誤魔化されてる気がするんだよね」
「うん。私もそう思う」
「今、露骨に目を逸らしたよね」
「うん。露骨に誤魔化そうとする雰囲気よね」
「……」
こういう時は気があうな、お前ら。
内心で突っ込みながら、さてどう答えた物か、と考えあぐねていると、ずい、と霧子が一歩踏み出して俺の顔を覗き見た。
「まさかとは思うけど、綾ちゃんに変な事してるんじゃないでしょうね」
「するか!」
一瞬、どきり、と心臓がなったのを無視して俺は霧子に指を突きつける。
「さっきも言っただろ? これでも妹思いを心がけてるんだぞ?!」
「うん」
「知ってる」
あっさりと俺の抗議を受け入れる霧子と龍也。が、未だに二人の視線からは疑いの色が消えていない。
「でも、やっぱりちょっとシスコン気味だからね。良は」
「というか、もうはっきりとシスコンじゃないの?」
「お前らな……」
くそう、事実無根だと言い切れない自分が憎い。いや、感情としては事実無根なのだけど、変な体勢での魔力交換だという自覚があるので、やっぱり否定する言葉にどこか迫力が欠けるのだった。
「まあ、良を弄るのはこの変にしておくとして」
「お前な」
「良じゃないけど私もちょっと、心配かな」
流石は会長に苦手意識を持つ女。俺の意図をくみ取っても、霧子はやはりどこか不安げに眉を曇らせた。
「ちょっと覗きにいこうか?」
「覗くって……、どうやって」
まさか正面から生徒会に乗り込むとでも言うのか。そう言うと「違うわよ」笑った。
「正面から訪ねたら実態なんて分からないでしょ。そりゃ勿論、「透視」しかないじゃない」
「透視って、お前なあ」
透視を実現する魔法はいくつかの種類がある。光の進み方をねじ曲げる方法、あるいは物の透過率を変えてしまう方法などなど。どの方法にしたって、なかなかに難易度は高く、思いっきり集中すればドア一枚を透視できるかどうか、と言ったところ。
しかしながら、「できる」イコール「やっていい」訳では当然ながらないわけで。不用意な透視行為は歴とした犯罪になる。当然のことながら世の中には「透視」を防止する商品が溢れているわけで、この学園の至る所にもその種の魔法行使に対する妨害装置は備えられているのだ。正直、成功する確率なんて万に一つもないだろう。
そんな思考に俺が顔を顰めるのをみて、更に霧子は得意げに笑う。
「ふふん。まあ、良には無理でしょうねー」
「お前だって無理だろ? 基本、おおざっぱなんだから」
「失礼ね」
不満げに眉を曇らせて、霧子は俺の額に軽く手刀で一撃を入れる。
「じゃあ、出来るのか?」
「できないけど」
「お前な」
「大丈夫。私たちには強い味方がいるじゃない。ね?」
「え?」
言いながら霧子が向けた視線の先。そこにはキョトンと目を開いた龍也の顔があった。じっと固定された霧子の視線を浴びる内、呆けていた龍也の表情が次第に青ざめていく。
「ま、まさか、僕にやれって言ってるの?!」
「当然。あんた、その気になったら100メートル先まで覗けるって言ってたじゃない」
「や、やらないよ! そんなの犯罪じゃないか」
霧子の指摘に、「できない」じゃなくて「やらない」と答える龍也を、俺は驚愕の思いで見つめた。というか100m先までって、それ既に上級魔法じゃないのか……? 常々、才能の差、と言う奴は実感していたけれど、こうまでレベルが違うとは。
が、俺は友人の才能に、感嘆しているのを尻目に、もう一方の友人は、その才能の悪用を悪びれることなく求めていた。
「大丈夫、大丈夫。ばれなきゃ問題ないし」
「そういう問題じゃないじゃないよ!」
「いいじゃない。ちょっと見るだけだし」
「良くない」
いくら押しに弱い龍也といえども、流石に犯罪まがいな行為は勘弁願いたいのか、霧子の言葉にも強硬に首を横に振る。
「むー。こんなに頼んでるのに」
「幾ら頼んでもだめだって。いくら霧子の頼みでも、やっちゃいけないことは―――」
「良の頼みなのに?」
「え?」
龍也の台詞を遮ったのは、ぽつり、と呟くように零された霧子の言葉。その言葉に、龍也はぴたりと口を止め、途端、先程までの毅然とした口調から一転、狼狽えを含んだ口調になって口ごもる。
「だから、良の頼みなのに。それでも嫌?」
「え、う、それは……」
霧子に指を突きつけられて、見事なまでに龍也は狼狽える。
……いや、本当。どこまで気が良いんだ、この男はと苦笑しながら俺は友人の肩を叩いた。
「いや、頼んでないから。しなくて良いぞ」
「そ、そう。良かった」
ほっと安堵に胸をなで下ろす、龍也。どうやら頼みこんだら嫌々でもやってくれていたらしい。ああ、もう良い奴だな、こいつは。
「とにかくそういうのはダメだからな」
「ちえ。わかったわよ」
流石に本気ではなかったのか、拗ねたように唇を尖らせながらも霧子の目元は笑っていた。
まあ龍也の時だって、初日から強引に迫ったりしたわけではないらしいし、そんなに心配しなくても大丈夫……だろう、きっと。
「うん、僕も覗かなくても大丈夫だって思うよ」
その龍也も、俺の考えに同調して、うんうん、と首を縦に振りたくった。
「会長さんもいきなり迫ったりしないだろうし。それに綾ちゃんなら大丈夫だよ。ほら、あの娘、僕と違って意志が強いから」
「あんたが流されやすいだけでしょ」
「うう、そういう言い方はないんじゃないかなあ……」
透視の話はお仕舞い、とばかりに、龍也の気の弱さを弄り始めた霧子を横目に、俺は何となく中庭から空に向かって視線を投げた。
視線の先、校舎を一つ突き抜けた先にあるのは、生徒会室のハズ。目に見えないその場所に、それでも視線を投げながら、何となくざわざわとする気持ちを抑えて、俺はこっそりと溜息をかみ殺していた。