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第三十四話 記憶と記録と想いと迷い(その3)

/5.セリアと綾(篠宮鈴)


 生徒会室の中には、言い知れない静寂が鎮座していた。

 窓から差し込む夕日が形つくる人影は、微動だにせず、ただ硬い床の上に陰を刻む。音さえも遠く、息さえも凍ってしまったかのような張り詰めた静謐は、しかし、それほど長く続かなかった。


「おっしゃっている、意味が、わかりません」

「あら、そう? 言葉通りの意味なんだけど」

 困惑と動揺と、そして苛立ち。そんな感情が浮かぶ声で絞り出された綾さんの言葉。それを受けても、セリアは平然とした態度を崩さない。


「ですから、意味がわかりません。私は、兄さんが好きって言ったばかりです。なのに、どうして会長さんのものになるっていう話が出てくるんですか」

「あなたが、良さんを好きなのはわかったわ。でも、良さんだけを好きにならないといけない理由はないでしょう? だから、こうして提案しているんだけど」

 兄のことを好きなままでいいから、私のものになりなさい、と。つまりは、それがセリアの提案だった。


「……セリア」

 セリアにはセリアの考えがあるのだろうけれど、綾さんにしてみれば、あまりに唐突で、そして不躾な提案だろう。そう考えて思わずセリアを諌めようと声を出した私に、セリアは短い一瞥を投げた。

 『わかっているから、黙って見ていて』と。視線だけで私に釘をさして、セリアは再び綾さんに言葉を向ける。


「どうかしら、悪い提案ではないと思うのだけど」

「悪い提案というか、私には冗談にしか聞こえません」

「そう? 良い話のはずなんだけどね。あなたにとっても……良さんにとっても」

「……っ!」

 いつもと同じ、何気ない口調のままで告げられたセリアの言葉に、しかし、目に見えて綾さんの表情が強張った。そして、私も自分の顔が引き攣るのを自覚した。


 『良さんにとっても』

 その言葉を聞いて、おそらく綾さんと私は、同時にセリアの提案の意図を理解したのだと思う。

 もし仮に、綾さんと神崎良さんの二人が……二人共がセリアのものになるのなら。二人はセリアを介することで、結ばれることもできるのだ、と。おそらく、セリアはそう言っているのだ。


「……おっしゃっている意味が、わかりません」

 そして、そんなセリアの意図を理解したはずなのに、綾さんは先ほどと同じ台詞を繰り返した。気丈にも平然を装った彼女の言葉は、それでも隠し切れない動揺に微かに揺れていた。


「本当にわからない?」

「……」

「ごめんなさい。意地悪な聞き方だったわね」

 口をつぐんだ綾さんに、セリアが少し口調を改めて、謝罪の言葉を口にする。


「だけど、もう一度言うわ。私のものになる気はない? 悪い提案ではないと思うのだけど」

 セリアが言うように、確かにそれは、『悪い提案』ではないのかもしれない。なぜなら、それはある種の抜け穴だから。

 血の繋がった兄妹同士の婚姻は基本的に認められていないが、兄妹が同じ相手と婚姻関係を結ぶことは、おそらく禁じられてはいない。勿論、無条件で認められるはずはないだろうが、乗り越えなければならないハードルの数は、兄妹が直接結ばれる場合に比べれば、明らかに減るだろう。


 そう考えるのなら、綾さんにとっては実の兄と結ばれる道筋ができることになる。その意味では、この提案には利点がある。そして、彼女の兄である神崎さんにとってみれば……実の妹の想いを、正面から受け止めるなんて言う重すぎる選択から、逃げることができる。あるいは、それがこの話の一番の利点なのかもしれない。


 今、綾さんがセリアの目の前で、言葉を失って立ちすくんでいるのも、綾さん自身がその事に……実のお兄さんに対する負担のことに思い至っているからではないだろうか。

 もっとも、これはただの私の推測でしかないけれど。


「……会長さんは」

「?」

 痛みを孕むようなしばらくの沈黙の後。セリアの真意を見抜こうとするかのように、綾さんはまっすぐにセリアを見据えて、静かに口を開いた。


「会長さんは、本当に、好きなんですか?」

「ええ、以前から言っていたでしょう? 私はあなたを気に入っているって」

「そうじゃありません」

 柔らかに、まるであやすかのような響くセリアの言葉を強い調子で遮って、綾さんは首を横に振った。


「会長さんは、あなたは、本当に、兄さんのこと……、兄さんのことが、好きなんですか?」

「……そうね」

 それは、セリアの提案の内容を考えれば、当然すぎる問いかけだっただろう。

 綾さんがセリアのものになるだけでは、「悪い提案」にしかならない。神崎さんもセリアのものになって初めて「悪い提案ではなくなる」のだから。なら、本当にセリアが神崎さんを手に入れたいと願っているのか。つまり、彼に好意を寄せているのかは、綾さんとしては当然確認しなければならないことだろう。

 しかし、そんな当然予想できていたはずの問いかけに、セリアは即答すること無く、しばし、言葉をつまらせた。小さな迷い……あるいは、微かな恥じらいのような。そんな微妙な表情を覗かせながらも、セリアを平静を装った声で綾さんに返事を返した。


「そうね。良さんは面白い人だから、少なくとも嫌ってはいないわよ」

「そんな曖昧な答え止めてくださいっ!」

 セリアの返答に綾さんは語気を強めた。そして胸に手を当てると、セリアを睨みつけるように視線に力を込める。


「はっきり、答えて欲しいんです」

「はっきり?」

「はい。兄さんのこと……兄さんのこと、好きなら好きって、はっきり言って欲しいんです」

「私は別に」

「嘘です!」

「嘘じゃないわよ」

 声を強める綾さんに、セリアは少し拗ねたような声で答えた。


「だって、わからないんだもの」

「え?」

「だから、私、男の人を本気で好きになったことなんてないんだもの」

「え……え?」

「だから、わからないの。はっきりとわかるのは、嫌いじゃないっていう感情だけ」

 拗ねるようなセリアの返事に、綾さんが毒気を抜かれたように、しばし、ぽかんとした表情を浮かべる。

 ……まあ、自分から「私のものになりなさい」といっておきながら、好きという感情がわからない、なんて言い出せば、綾さんが呆れてしまうのも無理はないかもしれない。

 ともあれ、セリアの言葉は嘘じゃない。私の知る限り、セリアが男性に好意を寄せたことはないはずだった。去年の速水龍也との一件をはじめとして、セリアが男性を自分の傍に置いた、もしくは置こうとしたことはある。だけど、それはあくまでも「気に入った」からであって、多分「好きになったから」ではない。

 そして。それは、きっと女性に対しても同じ事なのだろう。だから、セリアは本当に。誰かを好きっていう感情を、知らないのだ。


 『気に入っている』『傍に置きたい』。

 そんな感情はわかっても。胸を締め付けられるぐらい、誰かのことを想って焦がれるなんて言う感情を、きっとまだ、セリアは知らないのだ。……少なくとも、今はまだ、自覚できては、いないんだろう。


 そんな考えに、胸が軋むように傷んだ。


「気を悪くしたのなら御免なさい。でもね、綾さん。それが私の正直な気持なの」

「そんないい加減な―――っ」

「そうね、いい加減かもしれない。でも、今のあなたに、嘘の気持ちを告げるほど、私も馬鹿じゃないわよ」

「……っ」

 セリアには珍しく正直な、だから誤魔化しのない素直な言葉。それを向けられて、綾さんは言葉を詰まらせる。そんな彼女の様子に、何故か「ああ、神崎さんの妹なんだな」なんていう思いが私の頭をかすめた。


 セリアの提案は、悪い提案じゃないと言いながら、ある意味は「宣戦布告」のようなものだ。だって、綾さんからしてみれば、一旦は最愛のお兄さんをセリアが奪い取る形になるのだから。なのに、そんな言葉を向けてくる相手の気持ちをはかってしまうなんて所は……神崎さんのように、お人好しだと思えてしまった。


 そんな綾さんの心のなかで 果たしどんな葛藤があったのかはわからない。


「……せっかくのご提案ですけど、遠慮します」

 ただ、長い沈黙を挟んで、セリアの提案を拒絶した彼女の声は、もうそれ程、刺々しくは聞こえなかった。そんな綾さんに、気を悪くした様子もなく頷いて、それでもセリアは静かに、優しく言葉を続けた。


「そう。じゃあ、今の話は忘れて―――と、言いたいところだけど、出来れば覚えておいて。今は、きっと必要ないって思っているでしょうけれど。追い詰められた時の選択肢は、あるに越したことはないでしょうから」


 誰にとっての選択肢なのか。

 それを口にしないまま、セリアはその視線を、綾さんから外して窓の向こうへと向けた。


 今この場にいない人。まるで、その人を思い浮かべるような表情を、その瞳に湛えて。



/6.惑う記憶と彷徨う想い(神崎良)


「……ふう」

 復号器から指を離した途端、疲れに強張った息が、自然と唇から漏れた。

 この手の復号器で本を読むと、一度に色んな情報が頭の中に入ってきてしまうので、消化不良気味になってどうしても疲れてしまう。なんだか、頭の奥のほうがズキズキと鈍く痛んでいるのも復号器の副作用なんだろうか。レンさんや龍也ならこんな風にはならないんだろうけれど。


「こういう所はやっぱり紙の本がいいなあ」

 痛みを紛らわすように魔法院の学生としてあるまじき発言を口にしながら、俺はどっかりと椅子に腰を下ろした。そのまま視線を薄暗い天井に向けてから、目を閉じる。


 まだ整理しきれていない部分もあるけれど、事故の公式記録に直接触れて、収穫というかわかったことは大きく二つある。


 一つは、教えられてきた事実が、ほぼ記録されている通りのものだったということ。

 二つは、記録されている事実が、俺の持っている記憶とは、少し異なるということ。

 その二つ、だ。


 バラバラになったパズルのように断片的だった記憶。それが復号器で読み込んだ記録に合わせるように、パチパチと繋がりを取り戻していったのはわかる。でも、パズルを復元させるお手本となった記録と、その記憶を元に組み立てられた記憶の姿が、どうしても合わない。


「この場合、どちらを信用するべきかといえば……やっぱり、公式記録の方なんだけど」

 ため息混じりに呟いて、頭の中にある鈍痛を追い出すように軽く頭を振る。それでも頭痛は消えなくて、閉じた瞼の裏、辻褄の合わない記憶が浮かんで消えた。


 記憶と記録。その二つは、大枠の部分で違うわけじゃない。

 例えば、記録によれば、事故の瞬間、望遠鏡を覗いていたのは、綾だった。それは俺の記憶とも符合する。

 父さんに支えられて、望遠鏡を覗き込む妹の背中。それを焦れた想いで見つめる俺に、母さんが「お兄ちゃんなんだから、少し我慢してね」と諭す声をかける。そんな記憶は確かに俺の中にあった。

 ……まあ、読んだばかりの記録に刺激されて、記憶が改変されてしまっている可能性は否定出来ないけれど、今はそれを気にしても仕方ない。それに記録と辻褄を合わせるように、記憶が変わってきているのだとしても、肝心の事故の瞬間の記憶が、記録とは合わない方が問題だった。


 事故の記憶。

 空を埋め尽くす世界樹の雨、冗談みたいに大きい世界樹、目も眩むほどの光。消えて行く人影。掴んだ手と、掴めなかった手。


 そのいくつかは記録にあるのに、そのいくつかは記録にない。


「やっぱり、夢なのかな」

 呟きにつられるように、ずきん、とまた鈍い痛みが頭を刺す。それを振り払うように頭を振って、俺は再び事故報告書の内容を思い起こした。

 

 事故報告書には、当時の関係者による証言も記載されており、その中にはまだ小さかった綾や俺自身の言葉も記載されている。しかし、「二人共、記憶の混乱が見られ、証言としての有用性には疑問がの残る」との注釈が付けられているあたり、あまり重要視されていなかったのかもしれない。


 俺と綾の証言で共通しているのは「光(おそらくは世界樹の葉)がいっぱいあった」という記述。その他で目立った証言といえば、例えば次のような証言だろう。


 綾曰く、「お兄ちゃんに助けてもらった」。

 俺曰く、「お母さんを助けられなかった」。


 そして、このどちらの証言も、俺と綾が混乱していると判断された原因でもあるようだった。


「まあ……そうだよな」

 ズキズキと鈍く響く頭痛を堪えながら、閉じていた瞼をゆっくりと開ける。保管庫の薄暗い照明を瞳に捉えながら、考えを巡らせた。

 父さんも母さんも、東ユグドラシル魔法院を卒業した立派な魔法使いだ。そんな二人を差し置いて、まともに魔法を使えるわけもない初等部の子供がどうやって綾を助けたっていうのだろう。だから、警察の人が俺たちの言葉が、混乱の産物だって判断したのも無理もないことなのかもしれない。


 そもそも、俺の記憶の中で、一番、鮮烈に残っているのは、溢れ出る光の中で、必死に手を伸ばしたという記憶だ。

 でも、父さんの姿は、光のなかに飲まれてしまって、直ぐに殆ど見えなくてしまって。

 だから、まだ見えていた母さんと綾の手を掴もうって、ただ、それだけを思って。それで、綾の手を掴んで。そして、母さんの手を―――。


 ―――そして、母さんの手を掴み損ねたっていう、そんな記憶。


「……っ」

 ズキン、ズキン。

 思い出した光景に、頭痛が一際、酷くなる。今まで忘れたことなんかなかったけれど、事故の報告書に触れたせいか、今までより鮮明に、あの時の記憶が脳裏に蘇ったからかもしれない。でも―――。


 でも、報告書のどこをひっくり返してみても、俺の記憶が事実だなんて示してくれる記述も記載も見当たらない。当たり前といえば、当たり前だろう。大人たちが対処できなかった事故なのに、子供が手を繋いだぐらいで、あの事故から人を救うことなんてできたはずがないんだから。


 だから『母さんを助けられなかった』なんていう記憶は。

 俺の中でずっと、俺の心をずっと縛って、そして……支えてきたあの光景は、どこにも真実として記載されていない。


 なら、やっぱり。この記憶は、事実でも、真実でもないのだろうか。


 勿論、そんな俺の記憶を現実的に解釈することはできるんだろう。例えば、事故報告書には、俺の証言は「事故後の記憶との混同の可能性が高い」と記載されている。

 父さんや母さんが命がけで俺達を助けてくれて。助かった俺は、妹をあやすためにその手を握り、抱きしめた。あまりに衝撃的な事故だったため、事故の最中の記憶と、事故後の記憶が混ざり合い、「世界樹の魔力の暴発の中から、俺が綾の手を握って助けた」という記憶が捏造されたのではないか。そんな報告書の解釈は、言われてみれば、その通りかもしれないと頷いてしまうものだった。そもそも、そうでなければ、辻褄は合わないんだから。


 ……逆に言うのなら、そう考えさえすれば辻褄は合うはずなのだけど。でも、その考えにまだ納得出来ない自分がいる。

 そんな想いに、俺は薄くまぶたを開く。そして、薄暗い書庫の照明に、いつしか固く握りしめていた右手を開いて、かざしてみた。


 俺はずっと「父さんと母さんを助けられなかった」と思っていた。

 あの時、この手で母さんの手を掴めさえすれば、きっと助けられたはずなのに。この手で母さんの手を掴めなかったから、助けられなかったって、ずっと思っていた。


 もう綾にも、レンさんにさえ言うことはないけれど。でも、それはずっと俺の中にある思い。

 母さんに、父さんに、レンさんに。そして……なにより綾に対する、引け目であり、負い目であり、拭いきれない罪悪感。普段は意識しないようにしていても、心のどこかでわだかまっていた想い。


 でも、それは全部、事故中と事故後の「混ぜられた記憶」によるものなのだろうか。


 そうなのかも知れない。

 そうだったら、良いと思う。でも、そんなのは―――。


「……うっ」

 ……駄目だ。しっかりしろ。

 流されそうになる思考を押しとどめるように、自分に言い聞かせて、大きく息を吸う。

 今日、ここに来たのは、自分の気持ちをはっきりさせるためだ。ずっと目を背けて、蓋をしながらも、ずっと引きずってきた気持ちに、きちんと決着を付けないといけいないって思ったから、ここに来たんだ。

 そうでないと、応えるにせよ、拒むにせよ、ちゃんと胸を張って綾の気持ちに向き合えない。


 綾への想いが。妹への気持ちが。

 ただ、あの時の罪の意識に引きづられてのものだなんて、思いたくなくて。

 なのに、その罪悪感の正体はただの記憶のすり替えにすぎないかもしれないってことを、受け止めきれなくて。


 これじゃ。こんなんじゃ、なにも―――変わらないし、変えられない。


 収まらない頭痛に苛まれながら、それでも、気持ちを整理しようともう一度頭をふった。その刹那。


「……いや、待て」

 不意に記憶の中に、符号を見つけた気がして、俺は一人息をのんだ。

 鮮明になった事故の記憶。そのなかの光景って、どこかで「別の場所」で見なかったか。


 溢れる光の中。舞い散る世界樹の雨の中。そして……馬鹿みたいに大きな世界樹の影。

 そんな夢の様な風景の中で、『誰かに触れる』なんて、誰かに話せば、夢物語だと笑われてしまいそうなことだけど。でも、よく考えれば、その光景とその感覚は……


 ひょっとして、あの時、会長さんとの―――。


「……さん。神崎さん!」

「え?」

「大丈夫ですか?」

 不意にかけられた声に気づいて顔をあげると、そこには気遣わしげな表情を浮かべる司書のおじさんの顔があった。


「大丈夫ですか?」

「え? はい、なんでしょうか」

「いえ、ですから……大丈夫ですか? 随分と青い顔をされていますが」

「え? あ、はい。大丈夫です……っ」

 答えた瞬間。一際大きな頭痛がして、俺は思わず顔をしかめて言葉をつまらせた。額を指す痛みを抑えようと、額に手を当てると、自分でもびっくりするぐらい冷たい汗に濡れていた。


「あまり、一度に記録に触れないほうがいいかもしれません」

 そんな俺の様子に、司書さんは落ち着いた態度で、ハンカチを差し出してくれた。


「あ、ありがとうございます」

「魔法の本、というものは便利ですけどね。少し便利すぎます」

「え?」

「少しずつ、受け止めていって上げて下さい」

「……はい。ありがとうございます」

 落ち着いた色合いのハンカチと、なにより優しいその言葉を受け取りながら、俺は司書さんに深く頭を下げた。司書さんの言葉と手慣れた様子からすると、事故の記録をみて、こんな風に取り乱す人は多いのかもしれない。


「あの、ありがとうございました。この復号器、返却します」

「はい。ありがとうございます」

「あ、ハンカチは洗って、今度持ってきます」

「ええ。そうしていただけると助かります。私にしては良い品物なんですよ、それは」

 冗談めかしてそう答える司書さんだったけれど、ふと何かに気づいたように表情を変えた。


「ああ、そうそう。神崎さん。神崎良さん……でしたね?」

「え? あ、はい」

「あなたに伝言をお預かりしていたんです」

「僕にですか?」

 図書館に知り合いはいない。そう訝る俺に、司書さんは少し気まずそうな表情を浮かべて頷いた。


「ええ。もし、あなたがこの記録を見に来るようなことがあれば、この手紙を渡して欲しいと頼まれましてね。本当は、こういうことはしてはいけないんですが……」

 と、声を潜めながら司書のおじさんは、背広のポケットから便箋のようなものを取り出した。特に変哲のない便箋。目立った点といえば、署名が赤いインクで記されているあたりだろうか。血のような赤ではなくて、さながら夕日を思わせる紅の色で、こう記されていた。


 紅坂カウル。


 俺が、その存在をはっきりと知ったのは、多分、この時が初めてだった。


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