■五■
■五■
扉をくぐると、甘く香ばし香りが漂っていた。かすかに木漏れ日が揺れるホールを進むと、客間のはずの応接セットに何か書き散らした紙切れ、辞書や巻物の類が手あたり次第に広げられている。分厚い呪文書を前に唸り声を上げていた頭が、近づいてくる足音に振り向いた。
「あああ、あのね、ルディ?」
「やあ遅かったね、ミス五十鈴! 先ほどからにゃんた班長がケーキを焼いているんだ。どんなものでも構わないというから、ホールのショートケーキというのを頼んでみたところさ。ストロベリーはないけれど、マロンの良いところをたっぷり乗せてくれるそうだ」
ソファの背に乗り出すように手をついて、ルンデルハウスは人懐っこい笑みを振りまいた。応接セットの手前で立ち止まっていた五十鈴はまるで及び腰で、アカツキの袖を離せずにいる。
「ミス五十鈴?」
「あ、うん、聞いてるよ、ケーキだよね! 素敵だね、班長のお菓子は絶品だからね!」
「なるほど、バースデーケーキか。老師は本当にマメだな」
小さなアカツキのつぶやきを、五十鈴は口の中で繰り返した。そして唐突に、アカツキの腕を両手で引き絞ってしゃがみこむ。
「結局手ぶらで帰ってきちゃった?! そうだよ、プレゼント探してたのに……」
ゆっくりと目を瞬いたアカツキは、掴まれていない方の指を、ぱちん、とひとつ鳴らした。
「あれを受け取るのがプレゼント、というのはどうだろう?」
「だだだって! そんな、それにこっちの勘違いかもしれないのに!」
小声の応酬は、ルンデルハウスまで届いていないようだった。不意に五十鈴が顔を上げると、ルンデルハウスは穏やかな笑顔でじっと二人を眺めていた。目が合うと、その笑みを深めて片目を瞑る。膝をついていた五十鈴は小さく跳び上がって、慌てて裾をばしばしと手で払った。
「そそうだ! 私、忘れ物したみたい、とと、取って来るから! 大丈夫、ルディはいいからそこで待ってて! アカツキさんは余計な事言わないでくださいね!」
何か言いかけたアカツキの口を両手で抑え込み、少し驚いた風のルンデルハウスも軽く睨み付けて口を挟ませない。頷く二人に目だけで更に念を押すと、躊躇なく背を向け扉に向かって突進し、転ぶ前に扉にぶつかるように手を突き、慌てたように手だけ振って飛び出していった。
頬を指先でひとかきしたアカツキは、ダイニングの方をじっと見つめ、それからルンデルハウスの向かいの席に座る。
「今日は、奥の部屋は立ち入り禁止なのか?」
「あ、はい。トウヤとミノリに、ここでしばらく待つようにと。その、ミス五十鈴はどうしたのだろう。いつにもまして落ち着きがなかったし、顔も何やら赤かったようだし。熱でもあるなら、今からでも追いかけた方が……」
ソファに腰を下ろしてみたものの、手元の本や手記はもう目に入らないようだった。しきりと扉を気にして、そわそわと落ち着かない。
「体調の心配はいらない。さっきまで〈七草〉にいて」
不意に口を噤んだアカツキは、そのままルンデルハウスをじっと見つめた。気まずそうにルンデルハウスは目を逸らそうとしたが、アカツキが取り出した小さなベルベットのケースに気付くと、ほっと頬を緩めた。
「ああ、そういうことか。ミス五十鈴が感激してくれたというのなら、僕としても嬉しいかぎり、なのですが。……ええと、違うのでしょうか?」
笑みを浮かべる余裕を取り戻したルンデルハウスは、だが一向に変わらないアカツキの様子に気付くと、徐々に弱気をにじませた。
「申し開きがあるなら聞いても良い。情状酌量の余地があるかは、判断できると思うから」
「待ってください、ミスアカツキ。〈七草〉では次に訪れた時に、備品が同じ場所にあるとは限らないと聞いている。だから悪目立ちするにしても、本人名義のキーワード登録以上に確実な手はないと思ったのです」
なおも続けて、敢然と言い募ろうとするルンデルハウスを、アカツキはばっさりと切り捨てた。
「勘違いしないでほしい。たとえやましい気持ちがあったとしても、確かに良い品物ばかりだった」
血相を変えたルンデルハウスの更なる反論を遮るように、アカツキは目の前でベルベットのケースを開いた。そこには飾り気のない、素っ気ないといってよいほどシンプルな銀色の指輪が納められていた。その手にケースを握らされると、ルンデルハウスはまじまじと指輪を見定める。
「趣味の良い指輪だと思う。ミス五十鈴に似合うし、きっと気に入ると思う…… のだが、いや、ですけれど?」
ルンデルハウスはしばらく熱心に指輪を見つめ、軽く吹き出し、ひとしきりそのまま、軽やかに笑い飛ばした。笑いの発作が収まると、ケースを一旦テーブルに置いて両手で目を念入りにこすって、もみしだき、その恰好のまましばらく動きを止めた。それからようやく思い切ったかのように指輪を目の前に慎重に取り出して、明かりにかざして確かめる。
「五十鈴も一目で気に入っていた。偶然なんだろうが、サイズもぴったりで。だが手に取ったところで固まってしまって、それからずっとあんな調子なんだ」
「こ、これ…… こここ」
「そう、〈婚約指輪〉。ルンデルハウスが指定したロッカーに、他の衣装アイテムと一緒に納められていた訳だ」
ソファに崩れ込みかけたルンデルハウスが、テーブルに手をついて踏みとどまった。
「それはつまり!? もしかしてミス五十鈴は、これを僕が贈ったものだと?」
「そう思ったと思うんだが。口に出しては『間違ってるといけないから、見なかったことにして置いていく』とだけ」
今度こそ、ルンデルハウスは力尽きたかのようにソファに沈み込んだ。
「まあ、きちんと誤解は解いておいた方が良いと思って、こっそり持ってきたわけだ。どうする? 元に戻しておいても良いし、〈七草〉の仕様上、このまま闇に葬ることも可能なようだけれど」
「……少し、考えさせていただいても、よろしいでしょうか?」
ルンデルハウスは顔も上げられないまま、それでも指輪はしっかりと握りしめて葛藤を始めたようだった。
「私の名義で借りてきてる。どうするか決まったら、結果だけ教えてくれ」
一層項垂れたルンデルハウスに首を傾げながら、アカツキはスポンジの焼ける匂いを辿ってダイニングへと向かった。




