69:悲鳴の手紙
『私たちが去った後、この場に誰かが立ち寄った時のために。
そしてあるいは、その誰かが私たちを探しに来た誰かだった時のために、この手紙を残します』
『私の名前は渡瀬詩織。私立網川高校に通う二年生です』
残された手紙、ルーズリーフにつづられた文面は、そんな出だしと共に始まっていた。
どうやら、自分たちを誰かが探しに来たときのために、人が立ち寄りそうなこの場所に手紙を残していったらしい。
差出人は名前から考えてもやはり女子。しかも年齢に関しては竜昇たちの一つ上と、大きな目で見れば相当に近い年齢であったらしい。その証拠と言うわけではないが、メールになれた現代の若者らしく、文字こそきれいではあったものの、どこか手紙を書きなれていないような、そんな印象をそこに記された文面から見て取れた。
『私たちがこのビルに入ってから五日が経ちました。現在私は、クラスメイトの馬車道瞳、及川愛菜、中崎誠司君、それと、このビルの中で出会った先口理香さんという女性の四人と共に行動しています』
『同じく共にこのビルへ入ったクラスメイト、沖田大吾君は、ここに来る以前の、上の階の水族館にて、遭遇したモンスターに銛で刺されて亡くなりました』
「――ッ」
そこに書かれていた文面に、竜昇は流石に衝撃を受けて息をのむ。
予想できなかった事態ではない。犠牲者が出るというその事態は、むしろこんなビルであるならば当然のようにあり得る事象だ。むしろ竜昇たちや彼女らのように、生きてこの階層の、この場所にたどり着けたというだけでも状況としては上出来なのかもしれない。
そう思い、竜昇は一度乱れた心を落ち着ける。
実際、死者が出ていたという以外にもこの文面には一つ気にかかることがある。
「互情さん、気にされていることは何となくわかりますが、ひとまずこの手紙を最後まで読んでしまいましょう。手紙の内容について話すのはその後で」
「あ、ああ、そうだな」
言われて、竜昇は一度思い直して手紙の最後の文面へと目を通す。
実際、その後の文章も情報としては十分な価値を持ったものだった。
『これから私たちは、五つ目のと六つ目の不思議を突破して、七つ目の不思議に挑むつもりです。ひいては五人で下の階、地上を自力で目指すことになると思います。
幸いにもどういうつもりなのか、このビルから戦うための力は与えられているので、それを使っていけるところまで行こう、というのが、私たちが出した結論です』
と、そこまでで書かれた文章は一度終わり、続きの文章が次のルーズリーフへと移行する。
ただ、そこに記されていたのはそれまでの淡々とした文面とはうって変わった、書いた人間の感情に満ちた文章だった。
『本当は、私は正直、この先に進みたくありません。
誠司君や理香さんは助けは期待できないと言いますが、私はそれでも、無理に危険を冒してまで進みたくはない』
『あの怪物たちと戦うことが、戦う術を持った今でもたまらないくらいに恐ろしい』
『このビルに入ってから嫌な耳鳴りが頻繁に聞こえる』
『ようやくありつけた食事も、実を言えば飲み込むのに苦労した』
『それでも、私たちは進むことになってしまった。あのマナでさえ先に進むという選択をしたのだから、私にはそれをとても拒絶できない』
『本当に、どうして私はあの時、このビルに入ろうとする皆を止めなかったのだろう』
『今言ってもどうしようもないことであることはわかっているが、それでもこのところ、気付けば私はそんなことばかり考えている』
『このビルが明らかにおかしいものであることは、このビルが現れた先月の時点で分かっていたはずなのに』
『だとしたら、大吾君はもしかすると、私が殺したようなものなのかもしれない』
文章が次のルーズリーフに移る。
『下らない愚痴になってしまった』
『とにかく、私たちは先へと進む』
『願わくば、地上につくまでの長い旅路の中で、これ以上仲間が死ぬことが無いように』
すべてを読み終えて、何も言わずに竜昇は黙り込む。
なんと言うか、手紙に記されていたのは酷く生々しい、どうしようもない内容だった。
最初は自分たちを探しに来た人間に自分たちの無事を伝えるべく書き始めたのだろうが、途中でやはり何か思うところがあったのか、まるで己の思いを吐き出し、罪を懺悔するかのような内容へと文面が移行している。
恐らく内容を決めたうえで書いたというよりも、筆と感情に任せて書き記したと言った方が近いのだろう。そう言う意味では、この手紙は手紙であると同時にここをとずれた詩織という少女の、悲鳴を書き記した手記に近いと言えるかもしれない。
そうして竜昇が黙り込み、この手紙の主の苦境に思いをはせているのとは対照的に、手紙を持つ静の方はもう一度手紙を元の順番に戻すと、特に竜昇のような感傷は見せずにもう一度手紙を最初から精読し始めた。
眼を皿のようにして、まるで手紙から読み取れる情報を一片たりとも逃さぬというかのように。
そして、静は一通り手紙の再読を終えると、抱いた疑問を言葉にするべくおもむろに口を開く。
「この手紙、文章の後最後に日付が書いてあるのに気付きましたか?」
「ん? ……いや、気づかなかった。書いてあったのか?」
「はい、最後の一枚の右下に。恐らくこの手紙が書かれた日の日付なのだと思うのですが、少し妙なのです」
「妙?」
「この手紙が書かれたのは、今から六日前なのです」
「六日……?」
静の言葉に、しかし竜昇はその意味がすぐには理解できずに思い悩む。
六日という数字に竜昇が抱いた感想と言えば、すでにそれだけたっているのであれば今から追いつくのは相当に難しいかもしれないという、その程度の感想だけなのだが、しかし静はどうにもそれとは別の、もっと根本的な何かを疑問視しているように思える。
ただ、それが何なのかが竜昇にはよくわからない。
「ごめん、それの一体何が問題なんだ? 確かに六日も先行されてるんじゃ、今から追いつくのは相当に難しいかもしれないけど」
「いえ、そうではないんです。思い出してみてください互情さん。私たちがこの【不問ビル】に入ったのは、ビルが出現してから十日が経ったあの日でした。その後、私たちはこのビルに侵入して、この学校で二晩を過ごしているわけですから、私たちの街に不問ビルが現れたのは十二日前ということになります。
ですが、この手紙が書かれたのは六日前。しかも手紙を書くまでに、彼女たちはビルに入ってから五日間もの時間がかかっているわけで――」
「こいつらがビルに入ったのは十一日前……、それこそ、ビルが現れた次の日にビルに入り込んでないと計算が合わない……?」
言われて、竜昇は初めてその事実の不可解さに思考がいたる。十二日前にビルが現れて、その翌日にビルに侵入したというのは、確かに算数の計算上では何ら違和感のない、不可能でも不可解でもない普通の事態ではあるのだが、しかしこんな【不問ビル】に侵入するのに、たったの一日しか時間をかけなかったというのは確かに巨大な違和感だ。
いくらなんでも不用心にもほどがある。なにしろこの手紙の主である詩織という少女は、【不問ビル】が出現した次の日には、ほとんど躊躇も葛藤もなくビルの中に飛び込んでいたことになるのだから。
「それだけではありません。この手紙には、ビルが出現したのは先月と書いてありますが、そもそも日付の関係上、十二日前ではまだ先月とはどう頑張っても呼べません。この先月という表現が、月をまたいだ前の月のことを指しているのか、それとも三十日前のことを言っているのかはわかりませんが、どちらだったとしても表現と現実に大きな食い違いが発生するのです」
「……!!」
言われて、ようやく竜昇もその事実に思考がいたる。
すでにビルの中に入ってから三日が経過し、どうにも日付の感覚が失われつつあった竜昇たちだったが、しかし携帯電話日付表記を確認すればそんなことは一目瞭然だ。この手紙の日付は、明らかに竜昇たちの知る不問ビルの出現時期と矛盾する。
「どうなってるんだ……? 俺達が気付く前から、あのビルは存在していた……? ……いや、そう言えば小原さん、この手紙の娘が書いてる私立網川高校ってところに聞き覚えはあるか?」
「やはり互情さんもそこに着目されますか。結論から言えば私も聞き覚えはありません。もっとも、私の通う学校は中高一貫校だったので、高校受験をしていない分そのあたりに疎い、ということもあるのですが……」
「俺は高校受験はしたけど、この名前には聞き覚えがない。流石に断定まではできないけど、恐らくこの学校は俺の家から通える範囲の、この近辺にある学校じゃないと思う」
竜昇とて高校を受験するにあたり、一応一通り、自分の家から通える距離にある学校は調べている。もっと言ってしまえば、竜昇が静の通う霧岸女学園の名前を知ったのも実を言えばその時だ。それ以前は電車の中で霧岸の制服を見かけることはあったものの、それがどこの学校の制服なのかまでは把握していなかった。もっとも、学校名がわかったところで霧岸は女子校であったため、その段階では竜昇もそれ以上霧岸女学園に対して興味を抱いてはいなかったのだが。
それはともかく、である。
とりあえず竜昇が知る限り、少なくとも竜昇が知る不問ビルの近隣に私立網川高校なる学校は存在していない。
加えて、不問ビルの出現時期にも食い違いがあるとするならば、見えてくる状況はおのずと限られてくる。
「俺達の街以外にも不問ビルが出現してたってことか? しかも俺達の街に出現するより早く?」
「いえ、それだけではありません。私たちの街に不問ビルが出現したのが十二日前、この方々が不問ビルに入ったのが十一日前だとすると、このビルは他の街にあったものが移動して来たのではなく、二か所の場所に最低でも一日は同時に存在していたことになります。しかも、他の街の不問ビルに入った人間の痕跡が、こうして今ここに残されている……。これは一体どういうことなのでしょう」
「どういうことって……、そんなもん――」
どういうことかと聞かれれば、この場合考えられる可能性は限られている。
この手紙が真っ赤な大嘘で、実際には他の街の不問ビルもこの手紙の主である渡瀬詩織なる少女も存在していないという、そんな話でもない限りは、この手紙が指し示す事実はつまり、もう一つ存在する不問ビルが実際には中で繋がっているということだ。
否、存在している不問ビルの数は、実は一つや二つではないという可能性まで浮かび上がって来る。
(あるのか? 俺達の街以外にもあちこちに……。あれと同じ【不問ビル】が、他には知れ渡っていなかったというだけで……!!)
実際にその予想通り、不問ビルが各地に出現しているのかどうかはわからない。すでに二か所で出現しているとわかりはしたが、実際には何か所にいくつの【不問ビル】が出現しているのか、それを知る術がないからだ。
だが可能性としては十分にありうる。なにしろこのビルは竜昇たちの様な一部の例外を除けば、ほとんどの人間が気付いていて気にも留めないという不問のビルなのだ。そんなビル、いきなり出現したとしても報道などされるわけがないし、報道されることが無いならどこに何棟出現しようが竜昇たちにはそれを知る術はない。
「そうなると、この手紙にある『上の階の水族館』というのにも一定の予想が付きますね。別のビルから入ったが故に私達とは別の場所からスタートして、そうしてこの階層で私たちのコースと合流した、と考えるならば」
「合流、か……」
かねてよりこの不問ビルの中の空間が尋常な物理法則に収まらない、ある種の異空間になっている可能性というのは考えられていたことだ。でなければいかに巨大な不問ビルと言えども、博物館一つに学校丸ごとなど流石に収まりきるはずがない。
そして、そんな異常な空間が広がっているというのなら、静の言う『合流』という現象も有り得ないとは言い切れない。
「妙なことになってきましたね。こうなると、私達以外にも、もっと以前からこのビルに侵入しているプレイヤーが何組もいるのでしょうか?」
「……可能性は十分にあるな。この手紙のパーティの街に現れた不問ビルは、俺達の街に現れたものより早く出現していたみたいだし、俺達が入った不問ビルに新たに侵入する奴がいるかもしれない」
それは朗報とも悲報とも、どちらと言っていいのか迷う事態だったが、間違いなく意識に留めておかなければいけないものだった。
この予想が正しければ、現在不問ビルの中に居るパーティは一組や二組ではない。いったいどれだけの人間がこの不問ビルに侵入し、今も生き残っているのかは想像すらできないが、しかしいる可能性があるというなら、それと同じくらい他のパーティとかち合う可能性も十分にあるということだ。
そしてそうして出会えたパーティと、竜昇たちがどんな関係性を築けるかもまた未知数だ。こちらにその気がなくとも、利害の対立や極度のストレスによる疑心暗鬼で、プレイヤー同士の殺し合いが始まる事態というのは、サバイバルもののストーリーでは半ばお約束である。現実がフィクション通りの危険な展開に向かうかはわからないが、それでも他のプレイヤーとの衝突の可能性というのは決して軽視できる問題ではない。
(けど、その危険を踏まえても、やっぱり他のパーティとはどうにか接触を持っておきたい)
他のパーティとの接触がはらむ危険を認識する一方で、それで竜昇は他のパーティとの接触、あるいは合流に、ある種の魅力の様なものを感じていた。
ここまで戦って来ても思ったが、このビルをたった二人で攻略するというのは相当に無理がある。この先も安定して戦い続けようと思うなら、人数の増員はある種の死活問題だ。この巨大なビルからの脱出を考えるなら、どこか、何らかの形で他のパーティメンバーと接触を持つ必要がある。
「なんにせよ、この先は他のプレイヤーの存在を念頭においた方がいいかもしれないな。この手紙の五人にも、もしかしたらどこかで追いつけるかもしれないし」
「そうですね。どうやらこの方々も、私たちと同じように下を目指しているようですし、双方のここに来るまでの時間の差を考えれば、私たちがどこかでこの方々に追いつくことも可能かもしれません」
その後、一応他のパーティと合流する手段として、この場で暫く待って後続として不問ビルに入って来る、そんな哀れな犠牲者たちを待つという手も一応考えたが、そもそもそんな者達が本当に来るのかも分からないため、その案は二人の合意の元却下された。
竜昇としてもそもそも気の進む案ではなかったし、いつ来るかもわからない後続を待つよりは、六日も先とは言えここを通ったとみられる五人を追い駆ける方がまだ確実なように思えての結論である。
「……さて、となると、私たちも先に進むことを考えなくてはいけないのですが、手紙の中にあるこの記述、『五つ目と六つ目の不思議を突破して、七つ目に挑む」という、これは――」
と、先に進むとそう決めて、二人の思考はこの階層を攻略するための、ひいてはこのビルそのものを攻略するためのものへと徐々にシフトしていく。
そしてそれ故に、二人はこの時気付くことができなかった。
【不問ビル】が複数の場所に出現しているのなら、では竜昇たちが目指している【不問ビル】の一階、目指す出口があるその場所は、いったいどこに通じているのかという問題に。
複数の街のどこかなのか、あるいはもっと別の場所なのかというそんな疑念に。
代わりに気付くことができたのは、それに比べればほんの些細な、しかし誰かにとっては深刻な別の問題だ。
「――おや?」
三度手紙を読み返し、文面だけでなく、手紙それ自体から得られる情報はないかと観察していた静が、最後の一枚をめくったところで小さく声をあげる。
「どうかしたのか?」
「いえ、この手紙の最後の一枚、よく見るとペンの痕のような……、上に紙を乗せた状態で、なにかを書いていたようなあとがあるなと思いまして……」
「ペンのあと? その前の一枚のあとが写ってるんじゃないのか?」
「……いえ、それとは文面が違うようです。互情さん、この辺で何か、ゴミ箱などの中に、書き損じの様なものはありませんか? この一枚に残るあとだけでは他の文字と重なっていてどうにも読みにくいのです」
「書き損じ……」
言われて、竜昇が周囲を探してみると、静の予想通り近くにあったゴミ箱の中に、丸めて捨てられた、手紙と同じルーズリーフが一枚見つかった。
すぐさま取り出し、クシャクシャになったそれを広げて中の文面を改める。
「これは――」
そこにあったのは、まるで悲鳴のような少女の一言。
詩織という少女が思わず書いて、しかし誰にも見られぬようにと手紙から外したそんな言葉。
『最近みんなの様子がおかしい』




