60:それは無謀にあらず
どこか遠くで声がする。
聞いたことがあるような、しかしどうにも聞き覚えの無いそんな声が、どこか遠くで。
『おい……、ず…………苦……てるみ…………ない……』
否、それは遠くではないのかもしれない。すぐ近く、どうかすると耳元でささやかれているような気もするし、下手をすると頭の中から響いているような、そんな感覚さえどこかにある。
だというのに聞こえない。聞き取れない。
聞こえる言葉、何やら女の声のように感じるその言葉は酷く曖昧で、途切れ途切れで、どうやらその聞き取りづらさこそが静がこの声を遠いと感じるその要因のようだった。
『早く思…………とい……ね。……た神…………い方をも……んたは知…………ずさ』
声に意識を集中させる。聞こえる言葉に手を伸ばし、一言でもいいから拾い集めようとするようなそんな感覚。同時に心の中で問いかける『あなたは誰です?』というそんな言葉を、声に出せない意識の中で、それでも何とか静ははっきりと言葉に変える。
そうした瞬間、遠く聞こえ辛かった声が、ほんの少しだけ近くに来たような、そんな気がした。
『……たが思い出……きは私……前じゃないさね』
耳元で、足元で、あるいは少しだけ近づいたどこか遠くで、聞こえる女の声が一つの名前を口にする。
「×××××」
その瞬間、朦朧としていた意識が急速に覚醒し、視界を覆う闇が晴れて急速に外の光が入ってきた。
人馬一体の体でまともな人間ならそれだけで即死しかねない後ろ蹴りを放ち、攻撃対象である少女をしこたまに蹴り飛ばしても、それでもなおこの骸骨は自分の戦果に満足しなかった。
それどころか、自身の蹴りの感触を不審に思うかのように後ろ足を何度か跳ねさせて、真後ろへと方向転換しながら手にした鉈を肩へと担ぐ。
『ア、シィ……』
臨戦態勢を解くことなく、人馬一体の骸骨は厨房へと向けてすぐさま歩み出す。
蹴り込んだ相手がどんな状態にあろうとも関係ない。動けるようなら今度こそ動けなくしてから殺すだけだし、動けないようならそのまま鉈を振り下ろすだけで済む。
すでに死んでいるというそんな可能性は、生憎と骸骨予想の中には存在していなかった。先ほど蹴り飛ばした際、後ろ足に感じた“硬い感触”は、どう考えても相手の命を奪った感触とは違っている。
油断はない。相手が今この瞬間、立ち上がって攻撃して来ても対処できるだけの最大限の警戒態勢。相手の挙動の、その微かな予兆をも見逃すまいという集中力。
しかしそれゆえに、骸骨はあの少女以外の敵の存在にその瞬間まで気づかなかった。
注意を向けるのを怠っていた。自分が戦う敵は、なにも小原静ただ一人ではなかったというのに。
「【雷撃】――!!」
背後に足音、まるで階段を一息に飛び下りたような、そんな音が不意に響いて、直後に意識を完全に厨房へと向けていた骸骨目がけて、電撃の閃光が襲い掛かる。
『――アシィッ!!』
とっさの事態に振り向くことなく、骸骨は馬の下半身の、その後ろ脚を再び蹴り上げて、電撃目がけて後ろ蹴りをぶち込むことでどうにかそれに対処する。
電撃で構成された馬の部分に電撃は効かない。
その電撃の防御はいわば自身の下半身の特性をこれ以上なくうまく利用した対応だったわけだが、しかし逆に言えば、電撃が上半身の骸骨そのものに直撃していれば間違いなくダメージを受けるところだった。
予想外の事態に振り返る。
骸骨にしたところで、別段もう一人の存在を忘れていたというわけではない。
ただ、あちらの一人が骸骨の差し向けた使い魔たちを突破してこちらに来るのはもっと先のことだと思っていたし、それ以前に突破するどころか、差し向けた使い魔の数に圧倒されてそのまま倒してしまえる可能性の方が高いと踏んでいた。
少なくとも、こんな短時間にあれだけの数の使い魔を突破して、こちらの救援に来るなどとは骸骨も予想していなかったのだ。
ただし、骸骨のそんな計算違いの理由は、骸骨自身が振り返り、認識した光景によって明かされることとなる。
食堂へと降りる階段付近、そこから床を蹴り、一直線にこちらへと向かってくる少年の姿。その顔に張り付く、まさに死に物狂いとも言うべき必死の形相。
それはそうだろう。なにしろ彼の後ろには、骸骨が先ほど差し向けた雷の使い魔たちが、雪崩を打つようにして階段を転がり落ちつつ、その背を追いかけていたのだから。
短時間のうちに使い魔を突破して、こちらへと駆けつけたなどとはとんでもない。
あの少年は少女が危険にさらされていると見たその時点で、自身が決定的不利に置かれるその危険も顧みず、乱戦上等とでも言わんばかりの無謀な特攻を仕掛けてきていたのだ。
ほとんど破れかぶれにしか見えないような、そんな特攻をかましていた竜昇だったが、しかし実のところ、その無謀にしか見えない突撃にも全く勝算が無かったわけではない。
というよりも、このままではじり貧だと感じたからこそ、竜昇は敵を引き連れ、乱戦になるのも覚悟の上で、骸骨の方への無謀にも思える突撃を敢行したと言ってもいい。
その最大の要因は、敵の数が竜昇一人では到底処理しきれるものではなかったというその一点に尽きる。
元々今回の敵である骸骨、それが生み出す使い魔は、自身が電撃属性の魔力で形成されているせいなのか竜昇の電撃系の魔法がほとんど効かない。
唯一効果があるのは電撃であると同時に【貫通】の性能を持つ【光芒雷撃】のビーム攻撃だけで、それは同時に多数を操作できるとは言っても一度に操れる数はせいぜい六発が限界だ。
対して、敵の扱う使い魔たちは、一番数の多い蝶を除いても、犬と猿だけを数えても十体以上いるのだ。しかもその一体一体が素早く動き回り、四方八方から襲ってくるとなれば、こちらの攻撃とてそう簡単にはあてられないし、【分割思考】を使って消費した雷球を即座に補充するにしても、それすらも間に合わなくなる可能性は非常に高い。
加えてあの蝶達も厄介だ。恐らくは蝶の標本の、その中身をまとめて使い魔化したのだろうあの蝶達は、その気になれば素手で叩き落としても倒せるもろさである反面、そのすべてが強烈な電撃をその身にまとっている。
恐らく今の【甲纏】を纏った竜昇ならば、適当に手を振り回して蝶達を叩き落としても数匹ならば問題なく対処できるだろう。
だがその先、静にかけられた【甲纏】が蝶の電撃によって削り切られ、減衰して消えてしまえばそうはいかない。もとより触れるだけでダメージを与えられる蝶なのだ。少数であれば【甲纏】の守りに任せて対処できても、数が増えれば当然こちらにも【光芒雷撃】で対処せざるを得なくなる。
要するにあの数を真っ向から相手にしていては、いずれは遠からずその数に圧殺されてしまうのだ。
だから見切りをつけた。静が人馬の骸骨の後ろ蹴りを喰らい、厨房へと叩き込まれたことを悟ったその時点で、最悪のじり貧になるその前に、早々に一か八かの賭けに出た。
敵の全てを討ち取るのは難しいとみて、本体だけに狙いを絞るそんな賭けに。
(そう、狙うべきは使い魔の死体や勾玉じゃない。その頭蓋骨の中にある、お前の核一択だ――!!)
背後から犬と猿が迫るのを肌で感じながら、それでも竜昇は眼前、こちらへと注意を向けた人馬形態の骸骨へと右手を突き出す。
背後の使い魔たちに追いつかれるのは時間の問題だ。今でこそどうにか追いつかれずに済んでいる竜昇だが、足自体は間違いなく動物が元になった使い魔たちの方が早い。例外があるとするならば、それはひらひらと飛ぶ形でしか移動できない蝶型の群れくらいだろう。
「【雷撃】――!!」
敵が迎撃の態勢を整えるその前に、こちらを見下ろす骸骨目がけて竜昇が電撃の魔法を発動させる。
敵の使い魔に電撃は効かない。それは先の保健室ですでに試したことではあるし、背後から追って来ている他の使い魔についても言えることだろう。
だが一方で、敵の本体であるあの骸骨だけは話が別だ。
背後の犬や猿、蝶、骸骨の下半身となっている馬などが雷属性の魔力で作られた使い魔であるのに対して、あの骸骨だけは間違いなく、雷に耐性を持たない通常の敵だ。もちろん、使い魔を盾にするなど、通常の敵に比べれば対処方法も多数持っているかもしれないが、少なくとも使い魔たちと違ってあの骸骨にだけは電撃が“効く”のである。
『アシィ――』
自身に差し向けられた閃光に対して、それでも人馬一体の骸骨はすぐさま自分の身を守るべく反応して見せた。腰から下、馬の形をした脚部の前足を持ち上げ、顔面に向かう電撃を馬の下半身で受け止める。
とは言え対応されること自体は竜昇とて想定済みだ。先ほどの後ろ蹴りに対して、今度は後ろ足だけで立ち上がって、馬体全体で受け止めるような対応をしたのは流石に予想外だったが、こちらへの視界が塞がるという意味ではその姿勢はむしろ好都合なくらいである。
なぜなら、竜昇の狙いはもっと別の場所、具体的に言うならば敵である骸骨の背後にあるのだから。
「【光芒雷撃】――発射――!!」
『――!?』
敵が馬の下半身を持ち上げ、電撃を雷属性の使い魔の体で防御した次の瞬間、竜昇が【雷撃】の閃光を目隠しに背後へと回り込ませていた雷球が光条を放つ。
馬が後ろ足で立つ形になり、かなり高い位置を取っていた骸骨のどてっぱらに背後から風穴が開けられて、その腹に収められていた二つの死骸の内、馬の頭蓋骨であると思しき骨の、下あご部分がぶち抜かれてふっ飛んだ。
「チィッ――、外れたのか!!」
とは言え、その狙いは一〇〇パーセント竜昇の狙った通りのものだったわけではない。
小さな敵頭蓋骨を最初から狙うという選択肢を諦め、敵の下半身の元となっている、腹に収められた二つの死骸を狙ったまではよかったが、攻撃が当たったのは馬の頭蓋骨だけで、しかもその頭蓋骨にしたところで勾玉のはめ込まれた上半分ではなく、下あごの側をどうにか粉砕するに留まった。
これで骸骨と馬体を繋ぐ脊椎部分にでも攻撃がヒットしていれば話も変わってきたのだろうが、しかし竜昇の攻撃を防ぐ際に予想外の動きを見せた敵の細い脊椎をとっさに狙うのは難しく、【光芒雷撃】の光条は脊椎の真横、あばら骨と腰骨の間をすり抜けるようにして貫通し、敵本体へのダメージには至らなかったのだ。
(やっぱり動き回る敵を精密に狙うのは困難か――、――!?)
と、そんな風に心中で現状を分析していた竜昇の背中に、何やら重い衝撃が入って竜昇の体が前へと倒れ込む。
両腕に感じる、背後から何かに掴まれたようなそんな感覚。
背中を踏みつける小さな足の感覚まで加われば、なにが起きているのかは竜昇であってもさすがに理解できた。
「ぐ、ぅッ――、この猿――!!」
自身が背後の使い魔、そのうちの一体である猿に追いつかれ、背中に飛び乗られたのだと理解して、即座に竜昇は自身の周囲、そこに残る後発の雷球へと意識を巡らせる。
だが竜昇が雷球を光条へと変え、背中の猿へと撃ち込むその前に、その背中の猿が真横から何かの衝撃を受けたようにもんどりうって背中から転げ落ちていった。
「――!?」
「互情さん、そのまま走りぬけて!!」
驚く竜昇に対し、聞き覚えのある静の声が耳へと届く。
声に反応し、目の前の骸骨や背後の使い魔たちが一斉にその方向へと向き直るのを視界の端に捕らえながら、竜昇は考えるより先に言われた通り、走る足に力を込めて人馬の骸骨のその真横を全力疾走で駆け抜ける。
――次の瞬間、竜昇自身も直前までいた、敵の使い魔の集まるその場所を、まるで無数の刃が飛んできたような、蹂躙の嵐が吹き抜けた。