リハビリ
ティーナの一日は「ボーナンマテーノン」に始まり「ボーナンノークトン」で終わるようになった。意味は“おはようございます”と“おやすみなさい”だ。身近なところから始めようと、食事中にも食器の名称や料理名など、目につくものは片っ端から覚えるようにした。
ネイティブからすればティーナの発音はたどたどしいものだと思うが、ビルギットやイェオリは嘲笑したりしない。むしろ、舌足らずな発音ほど喜ばれているような気がする。
ティーナが一人で練習している時にも、二人は目を細め、優しい笑みを浮かべて見ている。うまくできた時には、少し大袈裟なくらいに褒めてくれ、そうなると、ティーナは言葉を覚えて行くのがとても楽しく、沢山覚えて、早くビルギットとイェオリと会話がしてみたくてウズウズする。
ノートには、イェオリやビルギットの発音を聞いて、ティーナがカルナ国の言葉で書いた横に、更にイェオリが単語を書いてくれる。それはエルヴァスティのどの文字とも違うし、カルナ国の言葉とは全く違う綴り方に、ティーナは目を白黒させてしまった。
(まるで難解な発音記号を幾つも重ねたようだわ)
一瞬目が点になったティーナの様子をちらりと見て、イェオリは一つづつ指で指しながら根気よく教えてくれた。
(ご自分のお仕事だってあるのに、ほんと有り難いわ)
「イェオリさん、ありがとうございます。えっと・・『だん、け、あるゔぃ、みぃ、えすたす、ふぃ、りぃ、ちゃ』」
舌足らずな物言いでティーナがお礼を言えば、イェオリは破顔してティーナを抱きしめた。まるで幼い子どもにするようにやたらと頭をなでてくれる。どうやら褒められたようだ。
『ボーナインファーノ、ミカパブリィスボーネ。スゥムブスウープ。エスタスティーウトーノ』
(良い子だ、良く言えたな。いいぞ、その調子だ)
正直言うとイェオリが何と言ったのかは分からないが、褒められる事が嬉しくて、加速度的に覚えるのが早くなった。
ティーナが自分に課した事は言葉を覚えることだけではない。
まだ痛みの残る体ではあるが、自分で判断した結果、恐らくリハビリに入っても大丈夫だろうということで、一刻も早く体を元に戻すことだ。
本当は持って来たナノマシンやスキャナなどを使って診てみたいのだが、いかんせん、まだスプーンやペンなどを持つのがやっとの状態では、高価なマシンを壊してしまう可能性もあるし、ここは急がば回れと地道にリハビリをしようと考えたのだ。
朝食後は、昼食の時間まではイェオリかビルギットと一緒に言葉の勉強をして過ごしているが、昼食後から夕食までの間は、二人とも色々忙しいようで最近では一人で過ごしていることが多くなった。念のためビルギットとイェオリからは
『ボンヴォールタウゲドールマス』
(ちゃんと寝ていなさい)
と何度も言われ、強制的にベッドに寝かしつけられるが、だからこそ、ある意味これはチャンスだと考え、大人しく従う振りをして、誰もいなくなったところを見計らってこっそりとリハビリが出来るんじゃないかと思いついた。それに寝て食べてを繰り返していれば、きっと太ってしまうという怖れもあった。
(どちらかと言うと、後者の方が怖いかも・・・)
少しだけポヨンとした二の腕を見て、はぁと溜め息が出た。
『えすてぃす、ぼんぐーすた(美味しかったです)』
昼食を食べ終え、食後のお茶を飲み終えると、今日もまたビルギットから横になるようにと言われ、シーツを首元まで被せられてしまった。ティーナは素直にビルギットの言うことに従いそのまま横になる。
『ボンヴォールドールミス ジスヴェスペールマーンジョ』
(良い子だから夕食までゆっくり寝ていてね)
ビルギットはそう言うと、ティーナの額に口づけを落とし部屋を後にした。
ティーナはドキドキしながらも耳を澄ませ、ビルギットと隣の部屋で待機していた誰かの足音がどんどん遠くなるのを確認した。そして更に、心の中でゆっくり100まで数えた後、誰もやってこないのを確認し静かにベッドの上に身を起こした。
(少しだけだから。痛くなる前には止めるし)
心の中で言い訳をしながらゆっくり関節を動かし始めた。
一人でやるにはまだ結構辛い箇所もあるけれど、やらないよりはマシだ。痛くなる直前まで動かし稼働域を確認すると、主に体の左側に色々不具合があるようだと分かった。骨に異常がないことはスキャニングしなくても自分の体だし何となく大丈夫だと感じ、少しずつゆっくりと各部位に負荷をかける。
手首や足首を回したり、軽い足上げ運動や軽い腹筋背筋などメニューを考えながら実行していけば、すぐにポカポカと体が温まってきた。
そろそろ床に立ってみようと思い、広いベッドの縁までゴロゴロと転がるように移動してゆっくりと足を下ろし腰掛ける。先日は失敗してしまったけれど、同じようにベッドサイドの支柱を支えとして手をかけ、時間をかけて両足に体重を乗せてみる。少しずつ少しずつ、普段だったら絶対にこんなにゆっくりな動作は逆にできないが、派手に転んで顔面を強打した痛みを思い出せば自ずと慎重になってしまう。リハビリで怪我をしてしまえば元の木阿弥である。
痛みが出ないことを確認しながら、なんとか立ち上がることはできた。額に流れる汗が何となく気持ちいい。やはり左足に力が入り難いためふらつくが、その場で右、左と加重をかけてみる。
「おや。意外と大丈夫かも。心理的なものもあるのかもしれないわね」
ブツブツと独り言を言いながら、今度はベッドを手すりの代わりにして周囲を歩いてみることにした。枕の方から足の方まで、目測で、10歩くらいかと見当をつける。
右、左、右、左と口の中で呪文を唱えるようにモゴモゴと言いながらそろりそろりと歩みを進めていくと、30分はゆうにかかったかもしれない。歩数も途中から数えられなくなってしまい肩で息をする始末で既にティーナの体は汗だくだ。何度もベッドに座ってしまおうと思ったけれど、あと一歩あと一歩ととうとう足下側まで辿り着いた。
「もちょっと・・・。もっと楽に行けるかと思ったんだけどなぁ・・・。ま、長辺だから仕方ないかなと思っておこう」
次は角を曲がってサイドからサイドへ移動する。今度は少し短めで、目測では5〜6歩と言ったところだろうかと見当をつける。
「よし」と呟いて支柱を握りしめている手に力を込め、ベッドの角に沿って曲がろうとした。その時、またしても派手にすっころんでしまった。案の定、左足が思うように上がらずにバランスを崩してしまった。再び床とキスをしてしまうかと思ったけれど、今回は前回と違って顔からではなく、体を捻って背中から倒れ込んだ。顔は打たなかったけれど、背中から脇にかけて地味に痛い。
「っはっうっ・・・」
それほど強打した訳ではないが、一瞬息ができなかった。
「いったぁ・・・」
痛みもあって少しばかりの間、ティーナはそのままの体勢でインターバルを取ることにした。
床に寝転んで天井を見上げれば、柔らかい光が間接的に部屋の中を照らしているのが分かった。
何かのシルエットなのだろうか・・・。よく見ると、光の玉がそれぞれ意思を持っているように、軽快にポンポンと部屋中を飛び回っているようにも見える。
そう言えば、窓の外をまだ見たことが無かったなと思い出し、寝転んだまま少し離れた窓の方へ視線を向ける。薄い布地のカーテンがかかっていて外の様子は見えないが、風が吹いているのだろうか・・・、カーテン越しに梢の揺れるような動きがチラチラ見えた。
「樹か・・・。この世界の樹についても本部が何か情報を持っていてくれるといいんだけどな・・・」
その世界にしかない樹木のDNAが、異世界を繋ぐための“道”を開くキーワードとは知らなかった。カルナ国が独自に編み出した技術なのだろうが、いまだにティーナはどう言う仕組みなのかすら分かっていない。
クヴェレーロに向けてエルヴァスティ側から道をたどり、異世界の扉を設置したことを思い出す。エルヴァスティ側から確実に扉を開けることが出来ることを思い出せば、希望の光がティーナの心の中で少し大きくなった。
「さて、そろそろ再開しようかな」
いつまでも寝転んでいては床の上もベッドの上でも同じだ。
しばし現実逃避をしたお陰でやる気が出て来た。打ち付けたところの痛みも引き、コロンと転がって、うつ伏せ状態になる。そして体を支える両腕に平均して力がかかるように、ゆっくりと力を込めていく。
(ん? 気のせい?)
一瞬足音というか振動が聞こえたような気がし、動作を止めてじっと周囲の音に気を配ってみる。
残念ながら、どうやら気のせいではなかったらしい。パタパタと誰かが走っている音が聞こえて来た。その音は確実にこちらに向かっているようで、思わず「デジャブ?」と頬を引きつらせて青ざめてしまった。
「やばい。このままでは見つかってしまうわ」
早くベッドに戻らなきゃと、あの足はイェオリに違いないと、大慌てで起き上がろうとするが焦りばかりで上手く行かず、見事にまた倒けてしまった。ジタバタともがいているいるうちに、大きく体勢を崩し倒けた瞬間に勢いよく扉が開き、血相を変えたイェオリが入って来た。そしてズカズカと大股でティーナの側までやって来た。
『ティーナ! ヴィアンカーウポーヴァス、キオンヴィファーラス! チトムボーイミン!』
(ティーナ。お前は、何をやっているんだ。このお転婆め!)
イェオリは、転がったままの姿で顔を上げられずにいたティーナを抱き起こし、ベッドに腰掛けさせた。
「う・・『みぃ、べぇだ、あ、う、ぅらぁす(ごみゃんにゃさい)』」
しょぼんと項垂れているティーナの前に膝をついてイェオリは丹念に体を調べている。前回派手にぶつけや顔も丹念に見ている。その目は真剣そのもので、ティーナにとっては実に居心地が悪い。こっそりリハビリをして、どうだと見せてみたい気持ちもあったから、こんなことで早々にバレてしまったのも恥ずかしい。
あちこち見られてくすぐったいけれど、抵抗するのもいけない気がしてなされるがままだ。
どうやら大丈夫そうだと分かり、強ばっていたイェオリの表情がようやく緩んだ。
「『みぃべぇだあうぅらぁす(ごみゃんにゃさい)」
ティーナは同じ言葉を繰り返し、チラリと上目遣いでイェオリを見た。僅かにイェオリの目元が緩んだように見えたが、すぐさま厳しい目をしてティーナに向かい合う。
『ヴィヴォリスキオヌン?(今度は何をしたかったんだ?)』
予測不能なティーナの行動に溜め息を吐きながらも、ゆっくりと一言づつ区切ってイェオリは喋ってくれる。
(えっと・・・、あなたは、したい、なに、を・・・かな?)
対する答えを、ティーナは頭の中で単語帳を捲り、四苦八苦しながら何となく意味を掴み、
『ぷぅろぅめなーど(歩く)、ぷらぁくぅてぃーこ(練習)』
座っているのでジェスチャーは難しいが足をプランプランと動かしてみせると、イェオリは理解してくれたようだ。一瞬目を見開いたかと思えば、その後直ぐにがっくりと項垂れてしまった。
(まずい。変なこと言ったかな?)
内心焦っているが絶対的な語彙力不足でどうしようもない。せめていつものノートが手元にあればいいが、この状況でベッドをコロコロ転がって取りにいく訳にもいかず、焦りながらも何とかフレーズを思い出す。
「イェオリさん、『みぃぃ ゔぉおらす まぁるち(わたち、ありゅきたい)』」
ティーナの言葉を聞いてイェオリは、更に困った顔をしていた。けれどその表情には険は無く、はて、どうしようかな、と悩んでいるようにも見える。ティーナは縋るような目でイェオリを見つめた。
「ティーナ!」
イェオリの登場から随分遅れて、ビルギットが駆けてきた。前回と全く同じだ。
上品なビルギットが肩で息を切らしているのを見ると、ティーナは自分がとんでもない事をしてしまったように思えて申し訳ない気持ちでいっぱいになる。と、同時に、どうして自分が倒けた事が分かったんだろうと不思議に思った。
ビルギットが慌て駆け込んできた為か、寝室の扉が開きっ放しになっている。
そこへ視線を動かせば、若い男性と女性が一人ずつ心配そうに、こちらを伺っているのが見えた。制服のように見える服装からして、どうやら、この家で働いている人のようだと見当をつける。
エルヴァスティのカルナ国では滅多に見た事は無いが、他国に行った時、時々、お金持ちや王侯貴族等の制度の残っている国で使用人として従僕やメイドたちが普通に存在していた。恐らく、彼らもそういう立場の人なのかもしれない。そして前回も今回も寝室でティーナが倒れた音を聞いて、すぐにイェオリに知らせたのも彼らなんだろうと思い当たった。
もしかすると彼らは四六時中隣の部屋に詰めているのかしらなどと考えながら、ティーナが好奇心の目でじーっと見ていたら目が会ってしまった。その途端、ビックリした様子で二人ともパッと身を翻して慌てて扉を閉めてしまった。
「ティーナ・・・」
ティーナが隣の部屋に気を取られている間にイェオリから説明があったのだろう、ビルギットはギュッとティーナを抱きしめ、安堵の息を大きく吐き出した。
まだ所々体の痛むティーナに気遣い、微妙に力加減されている。そしてやはり大きな温もりを全身で伝えてくれている。きっと本当に心配してくれていたのだろうと思う。
ティーナの心に、とても申し訳ない気持ちが沸き上がって来た。
「ビルギットさん『みぃべぇだあうぅらぁす(ごみゃんにゃさい)。みぃいんてんしーす ぷろーゔぃ ぷらくてぃーき いぞーりて(一人で練習をしようと思ったの)』
通じたかどうか分からないけれど、頭の中をフル回転させ、知っている単語を並べ立てた。
『チフィリーノン・・・(この娘はもう・・・)』
ビルギットの腕にギュッと力が込められた。
側では、はふっとイェオリが溜め息を吐いた。
イェオリはビルギットの名前を呼び、ティーナの頭の上で何やら二人で話し合いを始めた。
その間、ティーナはしっかりとビルギットに抱きかかえられていて、時折、頭を撫でられたり、髪を梳かれたりしていた。
ティーナは不思議な感覚にとらわれた。果たして、見知らぬ他人にこういった態度というのは、この世界では普通なのだろうか・・・。最大限の愛情を示されているような気もして、ティーナはビルギットに身を任せながらも、疑問に思っていた。
あーだこーだと、イェオリとビルギットの話し合いは少し長かった。
まだまだリスニング力も単語の量も足りていないけれど、それでも何となく聞き取れて意味の分かる言葉がある。果たして合っているかどうかは分からないけど、ティーナはこう推測し解釈していた。
『(困ったな。この子はきっと禁止してもきっとまたやるぞ)』
『(ええ、私もそう思います。どうしましょうか?)』
『(ふむ、誰か側につけるか?)』
『(誰を? ○○○とか?)』
『(いや、やっぱり駄目だ。私が練習に付き合おう)』
『(ならば私でも良いのでは?)』
『(倒れた時に支えるには女性よりも力の強い男性がいいだろう。一緒に倒れてしまうかもしれん)』
『(そうですね。では、あなたが居る時だけ、ということで)』
『(そうしよう。誰もいないところで倒れられるのは、心臓に悪い)』
9割方推測だが、きっと当たらずとも遠からずとティーナは思っている。
イェオリとビルギットの会話のキャッチボールを目線で追いながら、段々、迷惑をかけているなぁと凹み始めていた時、ビルギットがティーナの視線に気付いて、腕の中に居るティーナに話しかけた。
『ティーナ、チュヴィー、ヌンデコンヴェルサチオポーヴィスコムプレーニ?(今の会話は理解できましたか?)』
ゆっくりとしたスピードで、ティーナと目線を合わせながらビルギットは根気づよく話しかける。
(できます、あなた、理解、話・・・? 会話が理解できたかって事かな)
「『みぃ イェオリさん かーいぷらくてぃーこ?』(私、イェオリさんと練習?)」
そう返答すれば、イェオリもビルギットも頷いた。
やはり当たらずとも遠からずだと、ほっと胸を撫で下ろした。
その後、イェオリが目をくりくりさせて、新しい言葉を繰り返し言っている。きっと覚えろと言う事だろうとティーナは推測し『クーネクン アーヴォ』と繰り返した。
(アーヴォと一緒にっていう意味だと理解したけど、イェオリさんの事をアーヴォと言うのかしら?)
首を傾げて、「“アーヴォ”って一体何?」と訊ねれば、イェオリは自らを、ビルギットはイェオリを指差している。
(やっぱりイェオリさん=アーヴォなのね。愛称か何かなのかな?)
「『みぃ ぷらくちーかすくーんら あーゔぉ』(私はアーヴォと一緒に練習します)」
そうティーナが言うと、イェオリが最高の笑顔を見せた。とても嬉しそうだ。よほどアーヴォという愛称が気に入っているのかもしれない。これからはイェオリの事を、何かにつけてアーヴォと呼ぼうとしっかり記憶した。
「『あーゔぉ』」
『イェア、キーオ? デフィイ?(うん、何? なんだい?)』
ティーナがアーヴォと呼びかけると、イェオリは目を細めたままティーナに視線をあわせてくれる。
「『ぼんゔぉーる』(お願いします)」
明日から宜しくという意味で頭を下げてみる。すると頭をよしよしと撫でられる。ティーナが顔を上げれば、抱きしめられた上でよしよしと撫でられる。これまで以上の過剰なまでのスキンシップに、自然と硬直してしまうティーナとは反対に、イェオリはとても嬉しそうだ。なので素直にイェオリの胸に顔を埋めてティーナからもハグをした。
『アヴィーノ』
突如、すぐ近くで声がする。
『アヴィーノ』
ビルギットを見れば、ビルギットが自分を指差してアヴィーノと言っている。
「『あゔぃーの?』」
ティーナがビルギットに続いて発音すれば、満面の笑みでビルギットが頷いた。ふとイェオリを見上げてみれば、苦笑しているけれど小さく頷いている。
(イェオリさんに愛称があるなら、ビルギットさんにもあるわよね。ビルギットさんの愛称がアヴィーノなのかもしれないな。ビルギットさんも愛称で呼んで欲しいのかも)
「『あゔぃーの』」
ティーナが言うと、ビルギットはイェオリからぶんどるようにしてティーナを抱きしめた。そして、とっておきに甘やかすような声で『イェア(そうよ)』と言う。その声色もビルギットの温もりもティーナにはとてもこそばゆく同時に安心できるものだった。
(本当に、この過剰なスキンシップはこの世界特有の物なのかな・・・。レーヴィやオルヴォも真っ青ね)
ティーナが甘え続ければきっとどこまでも甘えさせてくれるような雰囲気を、イェオリ、ビルギットの二人からも感じるが、自分はやはり二人にとっては見知らぬ客なのだからどこか一本線をひいた付き合いを心がけなければならないと、ビルギットの温かい腕の中で、ついこの温もりに溺れそうになりそうになりながらも、ティーナは自分の心をそっと戒めるのだった。
(元気になったら出て行かないといけないんだしね。親しき中にも礼儀あり、で良いのよね。合っているよねこの使い方)
残念ながら、今日はイェオリは予定があるらしく「リハビリは明日から」と何度も念を押された。ティーナは、そんなにシツコク言わなくても理解できていますと言いたかったが、残念ながら反論するだけの語彙がまだ無かった。
イェオリはティーナにだけでなく、ビルギットにもよくよく言っていた。
ティーナがところどころ聞き取れて何となく繋ぎ合わせて推測して理解できた内容は「明日練習に付き合うから、今日はもう大人しく寝かせるように」だった。
ティーナはそっと溜め息を吐く。
倒けてしまったけれど、まだ体力も残っていたけれど、今日のところはイェオリの言う事を聞いておこうと思い大人しくベッドに戻る。
それに、ティーナがこの部屋でジタバタと、床とこんにちはをしている音を立てる度に、隣で待機しているだろう人達がイェオリとビルギットに連絡をしに行ってしまう気がするのだ。
きっとティーナが止める声を発するよりも早く行動を起こし、あっという間にさっきと同じようにイェオリに抱え上げられて叱られるのが落ちであろう。と言うより、都度やってくることになるイェオリやビルギットの負担を考えれば、もう下手な事はできないなと思う。
軽はずみに動くのは、暫くは止めておこうと思った。
翌日の昼食後、約束した通りイェオリがやってきた。
「『あーゔぉ、ぼん、ゔぉーる』(あーゔぉ、よろしくお願いします)」
わざわざ時間を作ってまで付き合ってもらうのだ、最初に挨拶はするべきだとティーナはベッドに腰掛けたまま頭を下げた。
アーヴォと言ったせいか、やはり昨日と同様、甘い甘い顔になるイェオリはそのままの表情で頷いて手を差し出した。
イェオリの腕に縋るように立ち上がり、支えられるようにして並んで立つ。ティーナの準備ができたところでイェオリのかけ声に合わせて足を踏み出した。
『デクストラ(右)、マルデクストラ(左)、デクストラ(右)、マルデクストラ(左)』
10歩、歩いたところでティーナの息が上がって来た。肩で息を始めたティーナを心配してイェオリは抱え上げようとしたがティーナは首を振って拒否をした。
「『あんこーらう』(まだまだ)」
『ターメンキーオンファーリ?(まだやるのか?)』
イェオリの心配顔に対し、ティーナは首を振って、まだまだ自分で歩くと主張する。
ティーナとしてはイェオリが貴重な時間を作ってまで付き合ってくれているのに、その時間を無駄にしたくない、そんな気持ちもあって少しでも長く練習をしたかったのだ。一方、イェオリの方はティーナが望むなら幾らでも時間調整するつもりでいたし、何よりも優先したいと考えていた。
それぞれの気持ちをうまく伝える事が出来ず、最初こそ互いの様子を窺い過ぎてギクシャクとした雰囲気があったが、回を重ねるうちにそういう雰囲気は無くなって行った。
二人が練習をする時にはビルギットも一緒にいて様子を眺めている事もあった。
一生懸命に前を見据えて歩く練習しているティーナは気付かないが、ビルギットの二人を見つめる瞳には深い深い愛情が溢れていた。
小休憩の時には、イェオリはビルギットにティーナを任せ自身は隣の部屋へと出て行った。
ビルギットは夫であるイェオリには目もくれず、漸く出番が巡って来た事が嬉しそうに、甲斐甲斐しくティーナの世話を始めるのだ。
休憩を取る時にはティーナは汗だくになっているので、着替えさせるためイェオリは部屋を出ているのだけれど、そういう時は少しばかり寂しかった。
さすがに男の自分が年頃の娘の着替えの手伝いは出来ないが、なるべく手をかけてあげたいと思っていたからで、隣の部屋で休憩をしていると、つい溜め息が出てしまい、更にその行動が自分らしく無いと自嘲気味に苦笑いが出てしまう。
*
「閣下。お疲れでございますか?」
隣の部屋に控えていたサムリが声をかけた。
「ふん、たったこれしきのことでワシが疲れる筈が無かろう」
イェオリはお茶に手を伸ばしながら、すっかり別の表情になっている。ティーナに対して見せる柔らかさは微塵も無く、威厳のある態度で側近をジロリと見返した。
普通の人ならば息をするのも忘れてしまいそうなほどに威圧感満点なのだが、サムリは長年イェオリに仕えているだけあって全く意に介していない。
互いの性格を知り尽くしているイェオリは、面白くなさそうに鼻を鳴らした。一方で、側近はくっくっくと肩を震わせている。イェオリはジロリと睨みつけ面倒くさそうに言った。
「サムリ、何か用があったんじゃないのか?」
その言葉でサムリは表情を引き締めると、居住まいを正した。
「あのお方から、まだか、と連絡がございました」
サムリの言葉に、ピクリとイェオリの眉が動いた。そしてゆっくりと目蓋を閉じた。
こういう時のイェオリは何かを考えていて、サムリは無粋に声をかけて邪魔をする事はしない。考えがまとまればイェオリから必ず答えが聞けるとサムリは分かっているからだ。それに今回のこの件については答えは一つしか無いということも。
サムリの予想通り、イェオリが口を開くまでそれ程長い時間は要しなかった。
「あい分かった、明日参る」
イェオリはそれだけ言うと茶器をサムリに渡し、再びティーナとビルギットのいる寝室へと入って行った。
「やれやれ。獅子を骨抜きにするユスティーナ様にお会いできるのはいつの事でしょうかね」
イェオリの後ろ姿を見送りながら呟くサムリの言葉が、独り言を言っているのか、部屋で待機をしている使用人二人に対して言っているのか分からず、メイドと従僕は互いに顔を見合わせ目線で会話をしていた。