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緑の中の  作者: 千砂
13/54

目覚め

 優しいーーー。

 愛情を感じる、ひたすら優しく頭を撫でてくれる手が心地良く、目蓋を開けるのを戸惑ってしまう。


 (このままずっとこの手の温もりに浸っていたい)


 うつらうつらと意識が浮き沈みをするのも気付かず、ティーナは眠り続けている。


 意識が波間に浮かび上がっている時、優しい手がティーナの体に触れているのを感じると、無性に目を開けたくなるけれど、そうするとこの心地良さが消えてしまいそうで勇気が出ない。そんな時は本能に従い波間を漂うのに身を任せる。


 (優しい手。レーヴィかな? オルヴォかな? うーん、ちょっと違うわね。柔らかい手だし骨格も細そうだし、これはきっと・・・母さんね)


 ティーナの意識が浮上している時間が長くなり、時々自分を撫でている手の持ち主のことを考えている。


 手の持ち主は優しいけれど、ティーナの目覚めを促すように導いているようだ。


 (も少し寝ていたいな)


 けれどもそんなティーナの思惑を察したのか、頭を撫でていた手は今度は頬を撫で始めた。この手は明らかにティーナを目覚めさせたがっている。

 少し不満だけれど、寝た振りをするにもそろそろ限界を感じていたティーナは、ようやく目を開ける事にした。きっと目を開けたら、ティーナを覗き込むパウリーナの顔があるはずで・・・期待が胸を占める。


 ティーナはゆっくりと目蓋を上げ、ぼんやりとする視界の中で人影を見た。


 「母さん?」


 ティーナの視界は少しぼやけているが、何となく雰囲気から、人影が微笑んだように思えた。


 「母さん、今、何時?」


 ウーンと伸びをしようとした時、かつて経験したことのない激痛が走った。


 「がっはっ」


 一瞬で夢うつつの状態から現実に引き戻されたように、体のあちこちが激痛に襲われ、ティーナはあまりの痛みで息をするのもままならない。思わず浅い呼吸を繰り返し体のあちこちが酸欠で痺れを感じ始めている。


 (やばい。呼吸、深く・・・ふぅ・・・ふぅ・・・)


 さすがに医療従事者なだけあって瞬時に自分の状態を察知し、落ち着いて意識をしながら深い呼吸を繰り返した。そっとそっと、ゆっくり少しずつ吸ったり吐いたりを繰り返すといくらかマシになってきた。


 (何でこんなに痛いんだっけ?)


 ティーナは記憶をたぐろうとするが痛みが強くて上手くできない。身を縮こまらせて痛みに堪えていると、さっき目覚める前までに感じていた優しい手が背中や肩を優しく擦るのを感じた。


 痛みに耐えながら目を開けると、ぼんやりとだけれど霞がかかったような視界に女性の顔があり、ひどく懐かしいと思った。

 その女性は心配そうに、ティーナに寄り添い体を擦ってくれている。まるでティーナから痛みを逃そうとしてくれているようだ。


 「あ、あり、ありがとう、ございます」


 何とかお礼を口にしたが、相手に聞こえたかどうかは分からないがお礼を言えた安心からか、ティーナは痛みで気を失うような感じで再び眠りに落ちていった。



 *



 (苦い)


 次に意識が浮上して来た時の最初の感想は味覚だった。


 口の中に液体が入り込み、それが苦いのだ。思わず舌で押し出そうとしたが、顎が固定されくいっと上を向かされた。一瞬パニックになりそうになったが、気持ちを落ち着けてみれば、吐き出すほどのものではなく、どうやら口はその苦さに慣れているようだ。

 苦い液体はティーナの口の中で唾液と混ざり合いながら喉の奥に少しずつ流れて行くのを感じる。


 体は誰かに支えられているようで、ほんの僅かではあるけれど上体が持ち上げられているようだ。背中に当たる温かさが安心感を覚える。


 ティーナがゴクンと飲み込んだ時、ほぅっと言う、自分以外の息が幾つか漏れるのが聞こえた。まるで安堵の溜め息とでもいうか、ほっとしたという感じで吐き出された息の音は自分を心配してくれているのだと感じる。


 うっすら目を開けると、どこかで見たことのあるような女性の顔があった。ティーナには祖母という存在は居ないが、理想とする祖母のイメージを持つ目の前の女性に一瞬で親近感を持った。


 女性はティーナの顔を覗き込み、ほんの僅か、目を細めて微笑み、何やら口を動かして喋っているのだがティーナには理解できない言葉で、正直言って全く意味不明だ。ただ、とても優しい感じがする。


 女性の手がティーナの顎にかかり、軽く持ち上げ口を開かせると、あの苦い飲み物を入れていく。今度はハッキリと苦みを感じ思わず顔をしかめてしまった。

 そのティーナの表情が面白かったのか分からないが、女性は何故か愛おしそうな顔で笑みを深くした。


 「マルドォルチャ?」

 (苦い?)


 囁くように優しく女性がティーナに話しかけるが、その意味が分からない。ちょこんと首を傾げると、女性はふっと微笑む。そして今度もまた言葉を紡ぐ。ゆっくりと話してくれるのだが・・・。


 「セドティオエスタスアマーラグスト、ハルティドロゥロ」

 (これは苦いけれど、痛み止めよ)


 ますます意味が分からずまたもや首を傾げる。きっといま、ティーナの顔は困った顔になっている筈なのだが、女性はそんなティーナの表情を見て更に嬉しそうにしている。

 けれどもその表情は決してティーナの事を馬鹿にしているようなそんな感じではなく、むしろ逆に愛しいと感じるのがとても不思議で、ついじっと女性の表情に見入ってしまう。色々と過去の経験から、人の表情を読むのに長けてしまった結果、この女性がティーナに対して悪意ではなく愛情を持っていると感じてしまうのだ。


 「ヴェエヌ、ミトリンコス」

 (さあ、全部飲みましょうね)


 そう言うと女性は嬉しそうにニッコリと笑みを浮かべ、ティーナの後ろへ視線を向けた。


 今まですっかり存在を忘れていたが、ティーナの背後にいて体を支えている人が、改めてしっかりとティーナの体を支え直した。もともと動かそうとしても鉛のように重く、ティーナの意思に反して動かない。後ろの人が居なくてはティーナは体を支えて起きていることすらできない。

 支え直されたのを確認し、女性はティーナの背後にいる誰かに向かって頷くと、透明な液体の入ったカップをティーナの口元に添えた。


 (げ、また飲めと?)


 独特の匂いが鼻腔を刺激し顔が引きつるのは止められないし、液体を飲ませようとする女性の手も止められない。顎に優しく手を沿わされ促されれば、抵抗する力を持たないティーナには全く逃げ道が無くなってしまった。少しだけ恨めしそうな顔になり、諦め半分の気持ちでなされるがまま、カップの縁に唇を沿わせるようにすれば、女性がカップを傾けて、液体が注がれるのを受け止めた。


 (うーん、苦いー)


 少し多めに入れられたため苦さが倍増した。

 思わず体が拒否反応を示しリバースしようとするのを、後ろから大きな手で丁寧にも鼻を摘まれ、顎を持ち上げられ、上を向かされる。その勢いでゴクンと全て飲み干してしまった。


 「げほっ。うー・・・にがいー」


 涙目で天井を睨みつけると視界に別の人の顔が現れた。真上からティーナの顔を覗き込むその人は初老の男性だ。大きな手だから男性だと思ったけれど、雰囲気が女性に近しいものを感じる。一瞬、女性の旦那様なのだろうかと考えた。

 男性は興味津々且つ楽しそうな表情でティーナを見下ろしている。目元に皺を刻み楽しそうだ。一瞬だけちらりと女性に視線を送ると、すぐさまティーナの顔を覗き込んだ。


 「マルフェェルムラブゥスィオン、モントランテアトレヴゥルセ」

 (口を開けて見せてみろ)


 何を言っているか分からないが、楽しそうに話しかけてくる。訳が分からずにティーナが「ん?」とそのままの形で首を傾げて見せると、男性は口をパカッと開けてみせる。


 (口を開けろと? あ、全部飲んだか見せろって?)


 ティーナが渋々口を開いてみせると、男性はニカッと楽しそうに笑って頷いた。そして頭を撫でられる。まるでイイコイイコと子ども扱いされているようで、微妙にくすぐったい。


 「ヌゥントリンコスチ」

 (今度はこれを飲んで)


 男性の手によって顔を正面に戻されると、今度は違うカップを持った女性が待っていた。

 中身は少し黄色がかっていて何やらさっきより断然美味しそうに見える。無理矢理飲まされるのに懲り懲りしたティーナは、自ら進んで口を開いた。


 (どうせ飲むことになるなら早めに終わらせたいわ)


 そういう思いで口を開くと、女性は嬉しそうに少しずつ流し込んでくれる。その液体は仄かに甘く爽やかな香りがあった。自然とコクコクコクコクと全て飲み干してしまう位には美味しかった。


 (お口直しってやつかな)


 はしたなくもペロリと舌で唇を舐めてしまった。先に飲んだ液体が苦かったせいか、今回は意外にも美味しくて、ほぅっと満足の息を吐き出すとそっと口元を拭かれた。


 「あ、ありがとうございます」


 きっと通じないとは思うけれど、言わないより良いと考えてお礼を口に出した。案の定、女性はさっきのティーナのように首を傾けていた。



 

 その後も女性は甲斐甲斐しくティーナの口元を拭いたり、着衣を整えたり、めくれた上掛けを綺麗になおしたりと忙しなく動き、ティーナが快適に過ごせるように心配りしてくれている。背後でティーナを支えている男性もまた、寒く無いようにとの配慮からかなるべく露出をしないようにカーディガンのような上掛けをしっかりと掛け直してくれる。


 しかし、分からない。

 どうして今この状態なのか。


 ようやく、どうして自分がこういう状況にいるのか考えられるようになった。


 少し前に体が酷く痛かったような気もするけれど、あれは夢だったのだろうか。ティーナが黙って自分の状態を分析していたら、目の前にスプーンが差し出された。


 「マルフェールムラブーション」

 (お口を開けて)


 優しい響きを感じるが、ティーナには不思議な(まじな)いのようにも聞こえる。


 スプーンを持っている女性に視線を向けるとニッコリと微笑まれる。

 微笑まれれば微笑みを返すが、目の前のスプーンはどうするのかとじっと見つめていると、ツンツンと唇をつつかれてしまった。


 (口を開けろと言う事なのだろうか)


 確かに何かが入っている。クリーム色をした、スープか何かだろうかと色々考え、試しにそっと口を開くとゆっくりと中に流し込まれた。


 舌の上を流れる感覚はビシソワーズのような感覚で口当たりがとても良い。ゆっくりと口の中で唾液と交えコクリと飲み込むと、厚かましくも自然と口を開いてしまった。まるで、餌をねだるひな鳥のようだ。


 ティーナのその行動を見て、女性はさも嬉しそうに再びスープを食べさせてくれる。お腹がいっぱいになり、その内にポカポカと体が芯から温かくなって来た。

 そうなるとまるで子どもみたいに睡魔に取り憑かれるが、何とか最後のお茶を飲ませてもらう。そこまでくると、もう目を開けられていられない。いつもの背もたれも程よく温かくて力強くて安定感があり、そのまま背凭れがわりに、ではなくて、まさしく背凭れとしてよりかかり寝てしまった。


 「ホゥ? チュチウインファーノヤムドルミス」

 (おや?、この子はもう寝てしまったのか)


 呆れたような声が頭上から聞こえる。


 (悪いけど、何を言っているのか全然分かんないから・・・)


 目蓋は重くて開けられないが、まだティーナの意識は微かに起きていて頭の中でツッコミを入れている。


 「ツェールテ、ネニゥストマァコエスタスプレーナ。ミエスタスベーラ」

 (きっとお腹がいっぱいになったのよ。可愛いわね)


 今度はクスクスと女性が笑いながら喋っている。


 (なんか、私をネタに喋っているのかな?)


 ティーナは沈み行く意識の中でそんな事を考えていたが、そのうちに彼らの会話も気にならなくなり、完全に眠ってしまった。



 次にティーナの意識が浮上すると、部屋の中は外から漏れてくる明かりでほのかに明るい。目を凝らしてみるとどうやら誰もいないようだ。

 いつも甲斐がしく世話をしてくれる女性の姿もない。

 耳を澄ましてみるが特に何も聞こえない。

 考えてみれば、このベッドで生活をするようになってから、目を覚ましている間、一人でいるのは初めての体験だった。


 こんな生活を始めて何日経ったのか分からないけれど自分の知っている人達と一人も会っていない事が気がかりだった。いつもなら、病気をして部屋にこもっていればオルヴォやレーヴィやパウリーナやマティアスが入れ替わり立ち替わり誰かしら側にいてくれるのに、今回は一度も顔を見ていないのだ。


 自分が今どこにいて、どんな立ち位置にいるのかも分からない。


 救いなのはお世話をしてくれている彼女達からは全く敵意を感じない事で、そこは安心していられる。けれども、いつまでもこんな生活が続くのだろうかと不安もある。


 もう一つ気がかりな事がある。自分の体の事だ。


 今はほぼ寝たきりの状態で、腕を動かそうとすると痛みが走るし、自分の力だけで上体を起こしていられない。こうなった原因について、少しずつ思い出した事は、爆発に見舞われたことと、血まみれのマティアスを見たこと、そしてエルヴァスティへ向かう次元移転装置に自分が入ろうとしていたことを断片的に思い出していた。


 「血まみれの父さんを自分では引きずる事が出来なくて、確か、誰かに、誰だっけ・・・。クラエスさんだわ。クラエスさん達に託して運んでもらったはず。だからそのまま転送できていれば父さんは大丈夫なはずで、だから、私は、私は・・・」


 次元転移装置内に完全に入り切れていなかった自分だけが事故に巻き込まれたのだろうか?


 あの紛争地帯の異世界に留め置かれたのだろうか?


 冷静に分析をしようとしても情報が全く無い状態で、ティーナの頭の中はグルグルと思考が忙しなく出口を求めて滞留し、爆発しそうになっていた。


 「あ、そうだ。確か医療用のリュックを背負ってたはず。あの中には一切合切の機材を入れていたからアレさえあれば何か分かるかも」


 そう思いつき、ティーナはベッドから起き上がろうと体に力を込める。前のように痛みが出るだろうと覚悟はしていたが、幸いにも骨にまで響くような痛みは無かった。

 いつも女性が着替えをさせてくれる際に、何やら塗り薬を塗ったりしてくれていたが、酷い怪我をしていたのかもしれない。とにかくあの痛みはかつて無いほどに、経験した事の無い酷い痛みだった。


 少しずつ動いてようやくベッドの端まで辿り着いた。どんだけ広いんだと端に辿り着いた時には既に肩で息をしていた。

 自宅の自分のベッドの倍以上はある広いベッドは端まで行くのにも大変だ。健康な時ならばゴロゴロと転がって堪能していたかもしれないが、今はこの距離が恨めしい。

 またカーテンのようにベッドの周りにかかる布も邪魔だ。自由に動かせない体には檻のようにも思える。比較的自由に動かせる右手でカーテンを押しのけてみれば、壁に沿って置いてあるシンプルな可愛い調度品の上にティーナの荷物が置いてあるのが目に入った。


 ティーナの専門分野である、主に医薬品や器具を入れるために特注で作ってもらった物だ。一応、落としても踏まれても壊れにくい素材で作られているからか、見た目は壊れている様子は無い。恐らくだが中身も大丈夫だろうと思うが、開けてみない事には分からない。


 「しっかし、この距離・・・。体が動かない今はほんとしんどいだろうなぁ・・・」


 目算で約25〜30歩。自由に体が動く状態なら10歩〜15歩で辿り着く距離に調度品がある。


 「くぅ・・・何か方法ないかな」


 とは言っても、道具があってもこの体ではその道具すら満足に使えないだろうし、とブツブツとひとりごちながら、結局は自分で立って行く事にした。


 「これはリハビリよ。出来るだけ早いうちに動き出さないと、筋肉が落ちちゃうわ」


 痛みをこらえて腕で体を支えようとするが上手く行かない。早くも左腕が悲鳴を上げ始めた。


 「っくぅ・・・はぁ・・・これしき、なんの。怪我してて、ずっと寝てて、久々に動かす痛みは、最初はこんなものよ」


 枕元に立つ支柱に手をかけ体を支える。そして、足を引きずりながらもベッドからおろし、ようやく腰掛ける体勢になった。

 この動作だけで全身汗で濡れているが、ここから先は歩かなければいけない。たったこれだけの動きで情けないと、自分を鼓舞し、鈍い感覚の足に力を入れようと、ゆっくりと体重をかけていくがその感覚がイマイチ分からずに、見事に、ど派手に床の上に転んでしまった。普通なら手で支えるだけの反射神経はあるはずなのに、顔から落ちてしこたま鼻を打ち付けて、派手な音が部屋に響き渡った。


 「もう、いや・・・。なんなのこれ・・・。自分の体なのにぃ」


 情けなくて涙が出てくる。


 「ふぇ・・・」


 誰もいないとの気の弛みからか、つい声を出し、泣き出してしまった。


 「ふぇ・・え・・・。ひっく。父さん、母さん、レーヴィ、オルヴォ・・・。助けて・・・」


 床に突っ伏したまましゃくり上げながら泣いていたら、遠くからバタバタと走る足音が聞こえて来た。その足音は少し先の部屋の前で止まると、隣の部屋の扉が勢い良く開かれ、更に足音は止まる事無くこの部屋の扉をも開けた。


 「ラブランカフィルメ。ミハザルデインフェーロ?」

 (しっかりしろ。一体、どうしたんだ?)


 背凭れの男性の焦った声が聞こえる。

 うつぶせになっていたティーナの体を仰向けにし、男性がティーナの体を横抱きにしてベッドに運んでくれた。そしてそっと座らせると、ティーナの体をあちこち調べ始めた。


 「レアウヴンディ?」

 (どこか痛むか?)


 心配そうな目で覗き込まれる。ティーナは泣き顔を見られた事で恥ずかしくなり俯いてしまった。

 俯いたティーナの鼻と頬が赤くなっているのに気がついた男性は、ティーナに短く言葉をかけた後、隣の部屋に言って何か叫んでいる。


 「ツォールアフェロィンカーイミヴェニィユカタプラスモ」

 (冷やす物と、湿布を持って来てくれ)


 隣の部屋に誰か居たのだろう。男性のものではない足音が遠ざかって行った。


 「ツィウイ、イェンマリマーサフィリィノ」

 (まったく、お転婆な娘だな)


 ふっと息を吐くような笑いを見せ、男性がティーナの赤くなっている頬や鼻を丹念に調べている。


 「ラスクツェーソ、ミギュスゥテファリーヂスルゥガ。カーイセマルヴァルゥマエスタスボーネ」

 (ぶつけて、赤くなっているだけだな。冷やしておけば大丈夫だろう)


 そう言ってペンペンとティーナの頭を撫でるように叩いている。愛情のある叩き方はティーナには分かる。レーヴィやオルヴォによくされているからだ。ティーナの頭を男性と同じようにして触れてくれる二人の兄の事を思い出して一気に涙が溢れ出した。


 「レーヴィ、オルヴォ・・・どこ・・・」


 ひっくひっくと泣きじゃくりはじめたティーナを抱きしめてくれたのは、男性に遅れて、息を切らして駆けつけた女性で、ティーナを宥めるようによしよしと背中や肩を擦ってくれる。そのどれもがレーヴィやオルヴォ、パウリーナやマティアスを彷彿させる動作でティーナはますます涙が止められずにいる。


 散々泣いて泣きつかれた頃、ようやく周囲の事を気にする事が出来るようになった。ティーナが泣いている間ずっと女性は抱きしめて付き添ってくれていたし、男性もまたベッドに腰掛けて側に居てくれた。


 どうしてそこまでしてくれるのかティーナには分からない。言葉は分からないけど、二人のティーナに対する気持ちが伝わって来て、誰かが側に居てくれて、一人じゃないと思える事がとても心強かった。




 誰かが隣の部屋にやって来たようだ。トントンとノックをする音が聞こえティーナがそれに反応をしめし首を向ける。


 (返事をした方がいいのかしら?)


 考えたけれど、この部屋はティーナの部屋ではないし、この二人の家に置いてもらっているだけだろうから、とチラリと目の前にいる女性に視線を向けると、そっと頭に手を沿わされ、再び女性の肩口に顔を埋めさせられポンポンと背中を軽く叩かれる。

 まるで心配しなくて良いわよ、と言われているようだ。

 代わりに男性が応対してくれたようで、誰かと一言二言交わした会話が聞こえたが、直ぐに扉が閉められ男性が戻って来た。


 「レフリゲラーテヴィアヴィツァーギョクンツィティウ」

 (これで顔を冷やしなさい)


 男性が女性に対して水の入った容器を見せた。

 

 「カーイプレタスアルポールティマルグランダンターブロンキーウ?」

 (あのテーブルを持って来て下さる?)


 女性が何か男性に頼んだようで、男性は頷くと、ベッドの脇に置いてあった小さめのテーブルを運んできた。


 女性がタオルを浸している間に男性の手によってティーナはベッドに寝かされた。固く絞ったタオルを目元に置かれると、ひんやりとしてとても気持ちがいい。何度かタオルを取り替えて、ようやく痛みが落ち着いた。


 顔の熱が引いた頃、準備されていた冷たい湿布が鼻と頬とおでこに貼られた。鏡がないのでティーナには分からないけれど、手当をしてくれた女性が微妙な顔をしている。


 「ヴィミデズィラスクナビーノ・・・」

 (女の子なのにねぇ・・)


 そもそもショートカットのティーナは、湿布を貼った事で、まるでやんちゃな男の子のような雰囲気になっていた。


 「キーウデマンダースシミーラ・・・」

 (一体誰に似たんだろうか・・・)


 「チィティーエニイール? ミスキィーヴォラースキーウ?」

 (さあ? 誰でしょうね? ふふ)


 目の前で交わされる会話にティーナはキョトンとした顔で二人を眺めていたら、男性が何かを思い出したようにティーナに目線を向けた。


 「ティーユインファーノエスタス ヴィツィティースキアルファリンタスールラプランーコ? ミスキヴォーラスセイーオデズィーロエスタスアンカーウ?」

 (どうして床に倒れていたんだろう? 何か欲しい物でもあったのかな?)


 そう言って男性はティーナが倒れていた方向を見ると、ああ、という表情になった。恐らく自分の荷物を見つけてティーナは取りに行こうとしたのだろうと推測したようだ。

 すぐに男性は調度品の上に置いてあるティーナの荷物を持って来た。


 「ジファーロスツィヴォラス?」

 (これが欲しかったのか?)


 寝ているティーナの枕元にそっと置いてくれた。

 男性の話した言葉は分からなかったけれど、ティーナは頷いて「ありがとうございます」とお礼を言った。


 「あ、りとざ、ます?」


 たどたどしい口調で女性がティーナの言葉を繰り返した。ちっとも同じ言葉に聞こえないのは仕方が無い事だが、でもティーナは歩み寄ってくれた気がして嬉しくなった。


 「あ・り・が・と・う・ご・ざ・い・ま・す」


 ゆっくりと、一音ずつ区切ってもう一度言った。


 「あーりーとーうざーいーます」


 所々微妙に抜けて入るけれど、とても嬉しく、ティーナは痛みはまだあったけれど笑顔を作った。そして、ハッと気付く。


 (言葉! 登録されていたらここがどこか分かるはず。後で、装置を取り出しておこう)


 自動翻訳機がティーナ達実動部隊には支給されている。それは関係のある異世界の言葉が入っているのだ。良い事に気がついたと少し安心感が沸いて来た。


 それからティーナはまだ自分の名前を名乗っていない事に気がついた。

 比較的動かしやすい右手で自分の胸をポンと叩き「ティーナ」と言うと、男性と女性が首を傾げて見ていた。どうやら伝わっていないようだ。


 「ティーナ、ティーナ、ティーナ」


 このジェスチャーが伝わるかどうか分からないが、ティーナは自分を指差してゆっくり三回繰り返してみた。


 「ティーナ?」


 女性が繰り返して発音してくれた。ティーナはウンウンと頷いて、何度も繰り返し自分の名前を発音した。どうやらしっかり伝わったようで、女性がティーナを指して「ティーナ」と言う。ティーナは笑顔で頷いてみせた。すると今度は女性が自分自身を指して「ビルギット」と言った。そして隣にいる男性を指して「イェオリ」と言う。これがどうやら二人の名前らしい。


 ティーナは何度か口の中でモゴモゴと練習したあと、「ビルギット」「イェオリ」と目を見ながら言えば、二人ともとても嬉しそうに頷いていた。


 (だがしかし、遥か年上の二人を呼び捨てて良いものかどうか・・・)


 色々と葛藤したあと、ティーナは改めて二人の名前を呼んだ。


 「ビルギットさん、イェオリさん」


 今度もまた二人とも首を傾げている。


 「さん?」


 「さぁん・・・?」


 それぞれティーナが新しくつけた「さん」に興味を示しているようだ。

 二人でアレやこれやと相談をしているようだが何を話しているのかティーナにはさっぱり分からず暫く様子を窺っていた。待っていたら決着がついたようで二人とも揃って頷いた。そして女性が口を開いた。

 まず自分を指して「ビルギットサン」と言い、次に男性を指して「イェオリサン」。最後にティーナを指して「ティーナサン」と言った。


 ティーナは自分の言った意味が通じた事が信じられず、ぽかんと口を開いてしまった。開いたままの口をそっと閉じさせてくれたのは『ビルギットさん』で、優しくティーナの顎を支えてくれた。


 「ビルギットさん、ありがとう」


 恥ずかしそうにはにかみながら、ティーナはぎゅっと右手でビルギットの手を握りしめた。


 「ミメモリースラヴォールトィンウヌアルラアリーアヌン」

 (これから、お互いに言葉を覚えましょうね)


 ビルギットの話した言葉は、ティーナにとってはまだまだ呪文にしか聞こえななかったが、きっと自分と同じ気持ちなんだろうと、ティーナは感じていた。



 翌日からティーナはビルギットとイェオリを相手に、言葉の練習を始めた。二人しかこの部屋にやってこないので自動的にビルギットとイェオリしか話し相手がいないともいう。


 ティーナは貰ったノートとペンを使って、聞き取れた言葉の発音の音と、自分の使う単語をメモをしていく。

 正直言って辞書も無く全くゼロからのスタートが、此れ程難しいとは思わなかった。メモをしていたらイェオリが覗き込み、指を指して何やら言うので、ティーナは自分の言葉で書いたこの国(この世界)の言葉を発音すれば、イェオリは、ああ、と頷いて、ティーナからペンとノートを拝借すると、発音の音の隣に何やら文字を書いてくれた。そして、指を指して発音してくれる。


 おお、と目を丸くしていると、イェオリはティーナに発音させながら、その横に単語を書いていってくれた。毎日少しずつ増えていくノートは、ティーナにはこの世界にやってきてからの宝物になりつつあった。




 体が何とか動くようになってから、ティーナは書いてもらった単語や発音を、自動翻訳の機能を持つ携帯端末を取り出して調べてみたのだが、イェオリ達の話す言葉は全くひっかからない。検索方法に問題があるのかと、あれこれ試してみるが全く反応なしだ。

 これで分かった事は、ティーナはやはり全く違う世界、しかも、推測だけれど、翻訳機に登録されていないということは本部も知らない世界に飛ばされたかもしれない、ということだ。あの紛争中の世界でなかっただけが救いだったけれど、やはりショックだった。


 けれど凹んだのはその時だけで、言葉は通じなくてもティーナに親切にしてくれるビルギットとイェオリが一緒にいてくれると思うと、一晩寝た翌日にはすっかり持ち前の前向きさを取り戻していった。


 (レーヴィの講座であったわよね。異世界に飛ばされたらってやつ。まさか本当にそうなるとは考えてもいなかったわ・・・)


 取り敢えずティーナの行動基準は、レーヴィの講座で学んだ事に置かれた。


 (体が動くようになったら、まずは自分が倒れていた場所に連れて行ってもらってSOS発信器を設置しなきゃ。そして、この国の事を調べることよね。その為にはまずは何はともあれ、・・・言葉よね)


 目標が決まったら突き進むだけだ。

 ティーナはよしっと心に刻んだ。


 取り敢えずは、毎日の挨拶からだと、朝食を持って来てくれたビルギットに笑顔で「ボーナンマテーノン(おはようございます)」と挨拶をした。

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