祈り
真っ暗だった空が徐々に色を持ち始めた。光が射し始め、そろそろ夜が明ける事を皆に知らせている。
辺りが明るくなるのを待っていたかのように、早々と起き出したある部屋があった。そこには13〜4歳くらいの女の子が自分のクローゼットからワンピースを引っ張り出して鏡の前で合わせている姿がある。
「お母さん、これ白色で合ってるかな?」
女の子が身支度をする為に取り出したワンピースは、可愛い花柄入りの白のはずだが、淡い紫色に見える。どんなに目を凝らしても、女の子が望む白いワンピースには見えない。それは女の子の目の異常ではなく、他の皆もまた、日常においてそう見えてしまうのだ。
「どれどれ、ちょっと待ってね」
何がそんなに女の子を浮き立たせているのか、その理由をしっかり分かっている女の子の母親は部屋の明かりを点けてあげる。人工的な明かりの下で浮き上がったのは
「白の花柄ね、とってもかわいいわ。今日はこれを着るのね?」
「うん。だって今日は私のお誕生日だもん」
女の子はニッコリと顔を綻ばせ、早く袖を通したくてうずうずしている。
この地方では、毎年誕生日には女の子は白いワンピース、男の子は白のスーツを着て、祝福を貰う為に三大主国の天主様のお社に行く習わしがある。
楽しげに話をする女の子の言葉を聞いて、母親は少し悲しそうな目をした。そして、別のワンピースを取り出して女の子の前に広げてみせる。
「だったら、この緑色にすればお外でも白に見えるかも知れないわよ」
人工的な明かりの下で見るそのワンピースは淡い若草色。若い芽をイメージするその色は、これから大人になろうとする女の子にぴったりの色だった。けれども女の子は口を尖らせて明らかに不満そうだ。
「嫌よそんな色誰も着ないわ。お母さんが昔着ていた服は、どれも今は着られないの。だって時間によって変な色になっちゃうもん。例え紫色に見えるとしても今日だけは本当の白色を着たいの。折角、お社に行くのに色の付いた物は嫌だわ」
「・・・そうね。天主様には、きっと、この色は見えているはずだものね」
いつからだったろうか。
この世界において、ある大事な色が失われてしまったのは。
最初は、徐々に徐々に、人々が気づかないくらいゆっくりと世界の色が赤みがかりはじめた。そしてとうとう、憩いの色は黒い色にとってかわった。
朝焼けのように見える空の色は、桃色がかった透明感のある紫色。
この世界の全てがこの色で覆い尽くされ、幼い子らは本当の空の姿を知らないで育った。
唯一、人工的な明かりの下では、本来の色が現れるため辛うじて知っているだけだ。ただ、空の色だけはどうしても直に見る事はできない。
母親は女の子の着付けを手伝いながら、かつての美しかったこの世界を、いつかこの子にも見せてあげられたらと願わずにはいられない。
人々の心を安らげ、美しく命の輝きのように見えていた植物達の葉の色は、いまやその殆どが黒にしか見えず、人々の心の安らぎからほど遠い存在になってしまっている。
通りを行き交う人々の表情もまた、怪しく見えたりすることもしばしばで、幾らお化粧を施してもどこかへんてこ。今ではすっかり、色の使い方も変わってしまった。当然、可愛らしい淡いパステルカラーの服はくすんで見えたりと散々だ。
すっかり人々の価値観を変えてしまった。
そして世界の色が元に戻る事を諦めてしまった人も多い。
原因は分かっている。
この世界の根幹をなす、三大主国と呼ばれる三天主のうち、一柱であるヴェルダランドのラーシュ・オロフがその姿を見せなくなってからだ。
三大天主はこの世界の始まりから常に公平にこの世界を見守っている。
それは主神である創造神から与えられた使命であり、世の理である。
天主達は、この世界において生きとし生けるもの全てに必要とされ、身近な存在として親しまれている。
それは空想上の存在として、崇め奉られるだけのことではなく、時に、人の姿になってお社に来る者達の前に現れ自ら祝福を与えたり、気軽に町を散策したり、人々の間ではちょくちょくその姿を見る事ができる、気さくな存在なのだ。
天主の中でも最も穏やかな性格と言われいるラーシュ・オロフが姿を消してかれこれ、十数年。
ラーシュ・オロフが深い嘆きの中に囚われていることは、この世界の色が示している。
だが嘆きの原因に、何があったのかは地上の人々にはわからない。けれども、人々は、毎年、自分の誕生日に真っ白の服を着て祈りを捧げる中で、いつしかその中にラーシュ・オロフの悲しみの原因が取り払われる事も含まれるようになった。
「お母さん、私ね、今年もちゃんとお祈りするわ。ラーシュ・オロフ様に早く元気になって下さいって。そうなれば、きっとお父さんもお母さんも元気になれるでしょ?」
女の子は寂しそうな表情を浮かべる母親を元気づけるようにニッコリと微笑む。
そして玄関で待っていた父親と三人で手を繋ぎ、お社へと向かった。
*****
青年が一本の樹に手を付いたまま目を瞑っている。
祈りを捧げているように見えるその姿は、月の光に照らされほのかに輝き、神々しくすら見える。遠くからその姿を見守る者が思わず息を飲み、呼吸をするのを忘れてしまうほどだ。
この祈りは青年が少年だった頃から欠かす事無く続けられていて、少年が青年になるように、この樹もまた若木からしっかりとした幹を持つ樹に成長を遂げていた。
祈りを捧げる青年の横顔はただただ真剣で、そして美しかった。
憂いや陰を感じるのは、時折、美しい形の眉が苦しそうに歪むせいだろう。
青年がどこから来てどこに行くのかは誰も知らない。
気がつけばいつのまにか現れて、祈りを捧げた後は、現れた時と同様にいつの間にか姿が消えている。
このあたり一帯は、三大主国のうちのひとつヴェルダランドの影響をどこよりも強く受ける国ーーノルデンフェルトの直轄地であり、随分昔から一般の人の出入りは制限されている。
ノルデンフェルト国の軍隊の精鋭により日夜守られ、近づく不審者は全て排除されてきた。
ここに何があるというわけではない。
むしろ何も無いと言って良い。
青年が祈りを捧げる樹の他には、まだまだ低木な若い樹がまばらに生えていて、また、草花の茂みが点在するのみ。手つかずの荒野とでも言う方が分かりやすいだろう。
そしてそのエリアを取り囲むように深い森があるだけだ。
息をするのも躊躇われるような静かな静かな夜。
月が光を放つ音が聞こえそうなほどの静寂で厳かな雰囲気の中、ただひたすらに青年は祈り続けている。
警備の兵士達は見て見ぬ振りをする。
この辺り一帯の管理を任されている領主からのお達しもあるが、青年の祈りは彼ら兵士の祈りでもあるからだ。だから部外者であるはずの青年を排除する事はせず、青年の気の済むまで、邪魔をしないでそっと遠くから見守っている。
「・・・っ」
わずかな声が青年の口から漏れた。
同時に伏せた眼から一筋の涙が零れ落ちる。
キラキラと月の光が反射してとても美しく光り地面へと吸い込まれて行った。
青年の口元がかすかに動き、声にならない声で同じ言葉を繰り返し繰り返し呟く。
大声を上げて泣いていてもおかしくない、そんな雰囲気を感じるが、青年はただただ静かに涙を零しているだけだ。
青年の言葉は樹だけに向けれ、その内容を知るのもその樹だけ。対して、静かに立っているその樹は黙して語らず。ただ、時折そよぐ風に葉音をサワサワと鳴らすだけ。
それは、この場所だけの秘密の話ーーー。