8、 3月13日(6日目)・屋内という名のユートピア ~歌とジュースもあるよ☆~
「章変わるの早すぎだろ!」
「ぶっちゃけ、さっきのはあの章タイトルつけたかっただけだから。タイトル回収が早すぎたから今から仕切り直しだ」
初っ端からきょーこのツッコミで始まる今章。現在の状況はジョン・マン公園を出、国道沿いに愛媛を目指しているところである。
「そういえばさ、昨日着いた場所って足摺岬があったんだろ? 室戸岬には行ったのに、そっちは行かないのか?」
当然といえば当然の疑問である。しかしそれは徳島でニーチャンとおっちゃんと出会った時にも少し話したことだったが、くらうは最初から足摺岬は避けるつもりだった。
「ちょっと調べたのと、行ったことのある人から聞いた話なんだけど、足摺岬までの道は狭い山道だからかなり危険なんだってさ。車で言った人が自転車は絶対止めた方がいいって言ってた」
「ふうん。でも似たような道何度も通ってるじゃねえか」
「まあな。でも数人に聞いたら、全員に止めとけって言われるような道だから、さすがにそこまで危ないなら止めとこうと思って。それにな、あの辺りってどうやら自殺のスポットらしい」
「げ、マジかよ‥‥」
幽霊の話にはあまり関心を示さなかったきょーこだが、自殺という生々しい単語にさすがに顔をしかめる。
「なんか多いらしいよ。ホントかどうかは知らないけど、夜中に車で向かった人が、詳しい話は忘れたけど、途中なんだったかすげえ不気味な体験して急いで引き返して、朝車を見たらべったり手形がついてたんだってさ」
「さすがにそれは怖ええな‥‥」
「な。だから足摺岬はパス。昨日は夜で今は早朝で時間も悪いし」
人が少ない時間帯というのはそれだけそういった危険も大きい。信じているかどうかは別として、わざわざ危ないという場所に飛び込んでいく気はない。
「と、言うわけで本日から食べ歩きの旅を始めます」
「いよっ、待ってました!」
あまり気味の悪い話をしていても良い気分ではないので、早速話題を楽しい方向に転換する。きょーこもそちらのほうがよほど興味があるらしく、即座にテンションを切り替えていた。
まず最初に立ち寄った道の駅。そこで見つけたのは【姫カツオスティック】という、カツオの切り身のようなものがスティック状に加工されたものだ。数種類の味付けがあり、とりあえずノーマルなもの(確か塩コショウ)と、ゆずぽん味というのを購入してみた。
「む、案外美味いな」
まず普通の味を食べ、思ったよりも美味しくて感心する。味は普通の焼き魚といった風だが、こんな手軽に食べられるのならなかなかいいかもしれない。
そして続いてゆずぽん味。魚×ゆずぽんとか最強だろう、と思いながら口にし、
「‥‥なんか、普通のと違いが感じられないんだけど」
「まあ、ほんのりとゆずの味がしてる気もするけどね」
美味しくないわけではないが、期待してたのとなんか違う。コレジャナイ感が強い。
それらを食べ終えると、さらなる名産を求めて出発。今日はどんどん美味そうなもんを食べてゆきたい所存である。
しかしそんな思いもむなしく、そこからしばらくは山道を走ることに。
主な目的に食べ歩きを加えたとはいえ、観光地らしきものを発見したのならば寄り道しない手はない。くらうは山道の途中で【叶灯台】なるものを発見し、それがあるという道へと逸れて走っていた。
いや、走ってはいない。道を逸れてすぐ、さながらト○ロでも出てきそうな木々のトンネルの中を走る土の道となってしまったため、現在は押し歩き中である。
そしてその道を抜けた先、そこにあったものを見上げ、くらうは呟いた。
「これは‥‥灯台だな」
そこには灯台があった。終了。
「ええ‥‥けっこう大変な道頑張って進んできたのに、ふっつーの灯台じゃん‥‥」
「いーや、わかんねえぞ。実はすっげえ灯台なのかも知れないよ」
「何がどうすごいんだよ」
「それはな、なんか、こう、どわーって、なってるんだよ」
抽象的すぎた。というかどわーっとなったら何がすごいのかもよくわからない。
まあ聞いたこともない場所だし、不意に発見して訪れたところなんてこんなものだろう。気を取り直して大自然の山道を引き返し、くらうは今日も自転車を走らせる。
「うおあー、脚がパンパンだー。筋肉つー‥‥」
どわーっとなってるらしい灯台を後にして1時間ほど。くらうは道の駅【大月】で休憩をとっていた。
いい加減、くらうの体は悲鳴を上げ始めている。まともに寝ていないというのも大きな原因であるだろうが、毎日の無理な走行により朝から脚がダルく、坂を上るのに力を入れて踏み込むと、腿のあたりがピクピクと軽く痙攣していることが感じられる。
「ヤバいなあ。まだまだ終わりは遠いのに、体がもつかなあ」
「諦めんなよ! もっと熱くなれよ!」
「おおう‥‥それは定番のMAD素材じゃないか」
「モア、ミナラッテ、ミケロ!」
「そうだなあ、何事に対しても微動だにしない精神は見習いたいなあ」
当のモアイヌは相変わらずくらうの肩の上で周囲の気配に溶け込んでいる。そろそろ溶けてなくなるんじゃないだろうか。
「なあなあ、ここでもなんか美味しいもん食べていこうよ」
「ああ、なんか良さげなもんあるかな」
道の駅内の店に入ると、棚の上には様々なお土産品が並べられている。どれも美味しそうには見えるが、すぐ食べられて荷物にならないものという大前提は守らなければならない。
「なあ、レジんとこにあるブリちまきってやつ、美味そうじゃないか?」
きょーこが示す先、そこにはコンビニのファーストフードのような雰囲気で、見慣れない食べ物が置かれている。
見た目は普通のおにぎりのように見えるが、中にぶりの角煮が入っているらしい。確かにとても美味しそうだ。
さっそく1つ購入して椅子に座って、かじりつく。
「‥‥‥‥! これは、美味い!」
1口かじって、くらうは瞳をぱっと輝かせた。
笹の葉に包まれたおにぎりの中にごろっとしたぶりの角煮が入っており、甘辛い味付けが絶妙だ。ごはんはもち米を使っているのかもっちりとしていて食べごたえもある。ちまきといえばこどもの日のかしわ餅に並ぶおやつという認識が強かったので、そのあたりの意外性もありこれはかなりの感動ものだ。
「あたしにもくれよ!」
くらうがブリちまきを差し出すと、1口分ほどがぽっかりとなくなり、きょーこの手の中に小さなブリちまきが出現する。つくづく羨ましい能力だ。
「うおっ、ホントだ! これは美味え!」
それを1口かじり、きょーこも弾んだ声をあげる。
「笹の葉に包まれてるおにぎりの中にごろっとしたぶりの角煮が入ってて、甘辛い味付けが絶妙だ。ごはんはもち米を使ってんのかもっちりとしてて食べごたえもあるな。ちまきっつったらこどもの日のおやつみたいなイメージ強いから、そのギャップもあって感動もんだな!」
「おう‥‥地の文と同じ説明をありがとう」
「大事なことなので、2度言いました」
「‥‥ああ、そうだな」
「可愛そうな目で見んな!」
予想外の美味いものに満足し、くらうは上機嫌に足を進める。
「そろそろ気温もマシになってきたかなー」
時刻は9時過ぎ。朝はまだまだ上着のウインドブレーカーが必要なほど気温が低かったが、そろそろ上を脱いでも大丈夫そうだ。
「ていうかくらう、昨日・一昨日とあんな寒空の下で寝てて、風邪とか引いてないの?」
「あー、それオレも結構心配してたんだけど、どうやら平気みたい」
「あー、あれな。なんとかは風邪ひかないってヤツだ」
「そうそう、秀才でイケメンのムードメーカーで空気も読める素敵なくらうは風邪ひかないんだよな」
「個人限定!?」
「でも、なんか異様に唇が荒れてる」
「なんだよそれ‥‥」
素敵なくらうが次に差しかかったのは、整備が行き届いたうえ車道と歩道が分離された道。それだけ聞けばかなり走りやすそうな道だが、しかしその向かう先は坂道だった。
「だああ‥‥また坂道か‥‥」
「でも車道と分かれてるし、まだマシじゃん」
「まあそうなんだけどさあ‥‥」
走りやすいとはいえ、今日は朝から脚が参っていることもあり、いい加減坂は勘弁してほしい。
なんて言ったところで、行くしかないんだけれど。
「しゃーない、頑張るかー」
くらうは小さくため息をついて、腿をピクピク痙攣させながらえっちらおっちらと坂を上り始める。
と、突如くらうの足元でメキャッ、と金属が軋みをあげるような、そんな何かひどく危険な音が響いた。くらうの背筋がぞくりと寒くなる。
「‥‥なんだよ今の音」
乗っているのは折りたたみ自転車だ。しかもすでに2年近く経っているうえ、走行量は尋常ではない。仮にこんな山中で自転車が走らなくなってしまったらと思うと、想像するだに恐ろしい。くらうは戦々恐々としながら、愛するエミリアの状態を確認する。
「‥‥うおあ。何だこれは‥‥」
見ると、チェーンを覆うカバーが見事にめくれあがっていた。どうやら靴がカバーの端に引っ掛かり、そのまま持ち上がってしまったらしい。
「おいおい、それ大丈夫なのか?」
「どうだろう、すぐ直ると思うけど‥‥」
くらうはカバーをグイっと折り曲げるように、元の状態へと戻す。
「ん、けっこう簡単に直りはしたけど、なんかちょっと不安だな。またいつ引っかかることか」
「そんな修理で大丈夫か?」
「大丈夫だ。もんd‥‥って言わせんな!」
こればっかりはノリにまかせて変なフラグを立てるわけにはいかない。まだまだエミリアには一緒に頑張ってほしい。
「大丈夫だとは思うけど、用心に越したことはない。注意するようにしておこう」
しっかりフラグを回避して返答。気を取り直して自転車にまたがり、もう一度引っかからないように注意しながら、再び坂を上り始めた。
その坂道は白壁のトンネルへと入ってゆくが、電灯も灯っているおかげで中は明るく、丁寧に舗装されているのでずいぶんと走りやすい。なによりすぐ横を車が走っていないというのがなによりありがたい。
とはいえ、やはり坂道は坂道。いくら道が良かろうとしんどいことに変わりはない。
「なあ、ちょっと気になるんだけど‥‥」
「なんだよ」
息を切らせて坂を上りながら、くらうはふときょーこに尋ねる。
「この坂上ったのって、ホントにこのタイミングだったっけ‥‥?」
「はあ‥‥? 何の話をしてんのさ」
「メタな話だよ!」
「知らねえよいきなりキレんなよ!」
くわっ! と険を露に答えるくらうに、きょーこも荒く怒りを返す。無駄に騒いで疲れが増した。
「ったく、つまりアレだね。また前と同じ『漆黒の闇に葬られし記憶』が発動したってことだな」
「あれ、名前変わってね‥‥? ていうかラヴはどこから出てきたんだよ‥‥」
どうやらきょーこは厨二病という、何人にも逃れることの出来ぬ暗黒の宿命にその身を蝕まれてしまっているようだ。くらうは盟約に縛られしきょーこに憐憫の情を抱きながら、自身の思わんとすることの供述を再開する。
「でさ、このトンネル坂抜けたらオレたち次の道の駅に着くだろ?」
「いやいきなり未来の話されても知らないけどさ‥‥」
「着くんだよ。『そしてくらうは道の駅【すくも】に到着した』ってナレーションが入る」
「あっそ。で?」
もはやまともに相手もしてくれないきょーこが冷たく次を促す。くらうは若干寂しい気持ちになりながら言葉を続けた。
「でもな、よくよく考えるとこの坂は道の駅より後にあったような気もしてきたんだよ。この坂が高知にあったのか愛媛にあったのか、その辺りの記憶も判然としない」
「メモがあるんじゃないの?」
「そのメモの書き方がわかりづらいんだよ。こんなもん書くと思ってなかったから、そのあたりの時系列が曖昧だしさー」
「別にいいじゃねえかそんな細かいこと。‥‥そうだ、あたしにいい考えがあるよ。
この物語は少しばかりのメモと過去の曖昧な記憶を基に書かれています。そのため不鮮明な描写や実際の道と齟齬があることもありますが、ご了承ください。
‥‥完璧だろ?」
「おお、そういう手があったか‥‥。いや、ていうかきょーこ、そんな丁寧な言葉も使えるんだな」
キラン、と目を輝かせながら、流し目でドヤ顔を見せつけてくるきょーこに、くらうは色々な部分に感心を禁じえない。
まあとにかく、そういうことなのでご了承ください。
「ほらほら、そんなメタ発言してる余裕があったらもっと頑張りなよ」
「ああ‥‥そうだな。いい加減かなりしんどくなってきた‥‥」
思った以上にトンネルの坂道は傾斜がキツく、道も長い。少し先にはトンネルの出口が見えているのだが、その出口をここからだと見上げなければならないというのが、それだけでひどく気が滅入る。どれだけ標高が上にあるというのか。
必死にペダルを踏んで坂を上っている途中、ふとトンネルの壁に掲示板のようなものがあり、何かが掲載されているのが目についた。なんとなく気になり、足を止めてそちらに目を向けると、そこにあったのは【トンネルができるまで】と書かれた説明文といくらかの写真。
「‥‥‥‥」
息を弾ませながらくらうはしばらくそれを眺め、
「‥‥んなもん、知らねえよおおお!」
全力でツッコんだ。
「こっちは疲れてんの! 脚がピクピク痙攣してんの! そんな状態の時にそんな情報与えられたって興味なんか持てねえよどーでもいいよ! 今欲しいのは休憩所! 椅子がある休める場所! ああもう何でこんなに坂長いんだよこのヤロー!」
「おいこら落ちつけくらう! ソウル○ェムがすげえ勢いで濁ってるぞ!」
危うく魔女化しそうになっていたくらうを、どうにかきょーこがたしなめてくれた。危ないところだった、ともすればマゾになっていたかもしれない。
「‥‥すまないきょーこ」
「気にすんな。もしマゾになっても、あたしがちゃんと踏んでやるからさ」
「ありがとう! なによりのご褒美‥‥ハッ!?」
「ギリギリアウトだったみたいだな‥‥」
気を取り直して再度坂を上り始める。坂道の途中で足を止めてしまうと、そこから再びこぎ出す瞬間が一番ツラいのだ。
「なあ、くらうはマゾなのか?」
「ちげえよなんでその話続けてんだよ。変態扱いするんじゃねえ。オレはどっちかというとSだ。サドだ。でも凌辱とか痛みが伴うものはあんまり好きじゃなくて、強気な女の子を押し倒して焦らして言葉で攻めて堕として、色々と懇願させるシチュエーションとかが大好きだ。いや、もちろん素直な娘も好きだぞ。素直な女の子を押し倒して焦らして、頬を染めながら一生懸命懇願するシチュエーションも最高だと思う」
「なんでいきなり流暢に語り出してんだよ! Mよりよっぽど変態じゃねえか!」
「バカにするなよ! 至高は幼女と妹だ!」
「最っ低だなおい!」
「いつか純粋無垢な妹系幼女をオレ色に染めていく類の官能小説を書くことが夢だ!」
「もうお前滅びろ! 社会のために今すぐ滅びろ!」
などと途方もなくくだらないやり取りをしている間に、くらうはようやくトンネルを抜け、坂のてっぺんに辿り着いたようだった。
いったん自転車を止め、くらうは脚を休ませる。
「ふう‥‥下らないノリのせいで、無駄に疲れた」
「誰のせいだよ」
「オレ!」
「ファイナルアンサー?」
下らないノリは続く。
そしてくらうは道の駅【すくも】に到着した。
「すげえ、ホントに着いたな。しかもナレーションも入ったじゃんか」
「だろ。今のオレには、未来予知とか余裕だぜ。なんたってここは二次元だからな。やろうと思えば魔法だって使える」
「くらうも魔法ストラップ少女だったのか!?」
「ストラップでも少女でもねえよ」
そんなくらうがいるの道の駅はちょっとした休憩所と、少し寂れた雰囲気の食事処がある程度の小さな場所だ。
「お、見ろよそこのたこ焼き屋。看板に面白いこと書いてある」
その店の看板には【豊ノ島が勝てばたこ焼き50円引き】と書かれている。
「誰だよ、豊ノ島って」
「相撲取りだよ。母親がひいきにしてる力士なんだ。へえ、宿毛市出身だったんだ」
観光地や名所ではなく、テレビで見ている人に関連するものをこうして直に見ると、何となく身近な存在に感じられる。くらうが応援している力士は他にいるが、ちょっと豊ノ島も応援してあげたくなってきた。ちなみに執筆の段階で現役の好きな力士は琴奨菊。
「お、こっちの店にはカツオのタタキがあるけど‥‥げ、こんなに高いもんなのか」
「いいじゃんせっかくなんだし。食っていこうよ」
「‥‥いや、さすがにこの値段は手が出ない。無理だ」
「ったく、相変わらずの貧乏性だな」
「たかだか数日で金銭感覚が変わるもんか」
あっさりとタタキを諦め、くらうはベンチに座って休息をとる。脚が温まってくれば少しはマシになるかと思ったが、どんどんキツくなるばかりで状況は一向に良くならない。いったいどこまで無理が効くことやら。
と、先ほどから気にはなっていたのだが、周囲をうろうろしていた1匹のネコが、休んでいるくらうの足下にすり寄ってきた。何度も足に顔をこすりつけ、垂れさがったバッグの紐にまで頭を押し付けようとしている。
「お、おお‥‥やべえ‥‥めちゃくちゃ可愛い‥‥」
ずいぶんと人間に慣れているようだ。ここの店の人の飼いネコだろうか。くらうが頭を撫でてやっても全く嫌がらない。
「これは参ったな。このままでは、動けないじゃないか」
何度も何度も足に体を擦りつけてくるものだから、可愛くて移動ができない。
「そんなにネコ好きなのか」
「大好き❤」
のどを撫でてやると気持ちよさそうにゴロゴロとのどを鳴らしている。
ああ、どうしよう。今日今までの疲れが全部抜けていくようだ‥‥。
「おお‥‥ネコってすげえな。くらうの表情が今までになく緩んでやがる‥‥」
しばらくネコを撫でているいるうちに、くらうは身の危険を感じ始めていた。ランニングのあと、たまたま近寄ってきたネコと1時間近くたわむれていたという経験を持つくらうである。このままだと永久にここに居座ってしまうことになりそうだ。
「ごめんな。オレ、そろそろ行かなくちゃならないから」
名残惜しいが、迷いを捨てて立ち上がり自転車のもとへ。
しかしネコもついてくる。足にまとわりついてくる。
「‥‥し、しかたがない。もうひと撫でだけ」
捨てきれなかった。
「よし、ホントにもう行くな。じゃあ最後に‥‥」
うろうろしているネコは1匹ではなかった。せっかくなので(←迷い)もう1匹もちょっとなでなでもふもふしようと近寄るが、
「む、こっちのネコは人間嫌いか」
そちらのネコは近づくと逃げて行ってしまう。同じ場所にいるネコでも人間に対する態度が違うのは個性なのだろうか。
「ていうかあのネコ目つき悪りいな」
「それはオレも思ってた」
なんか少し離れた場所からものすごい睨みつけてくる。そういう顔つきなんだろうが、それにしても眼力が半端じゃない。
「しかたないな。車輪眼を使われる前に退散しようか」
「そうだな。消されちゃかなわないもんな」
ようやくネコを諦め、くらうが次に辿り着いたのは宿毛市街。
「‥‥いくらなんでも、その文章は適当すぎじゃないの?」
「案外展開のつなぎってどう書けばいいか難しいんだよ。同じような文ばっかだとつまんないから、時々こうやって意外性をもたせないと」
「手抜きにしか見えねえよ‥‥」
1行で済ませてしまったがこの1行には1時間近くの走行時間と様々な想い(主に疲労と憔悴)が込められている。
山道ならまだしも、市街地に入るとでかい荷物の旅姿はけっこう浮いている気がする。なんだか通行人の視線が集まる。まあ気にしないけれど。
「おっ、コスモスがあるじゃないか! メシ買おう!」
コスモスとは、ディスカウントドラッグストアのことである。食品から日用品までなんでもそろっているうえ他の店に比べて安定して値段が安く、くらうお気に入りの店であった。まさかこんなところで出会えるとは。
「いやー、途中ちょいちょい食ってたせいで半分忘れてたけど、そういやまだ朝メシ食ってなかったんだよなー」
「だからさっきの道の駅でタタキ食おうっていったじゃねえか」
「あれは高かったから仕方ない」
時刻はすでに11時近い。朝食というよりはほぼ昼食になってしまった。くらうは今食べる用と、この先長らく店が見つからないと困るので後で食べる用にパンを購入した。
「‥‥結局パン食うのかよ」
「だって安いし」
「名物食おうよ‥‥。ああ、ドラッグストアなんだから貧乏性に効く薬とか売ってねえのかな」
呆れるきょーこをよそに、くらうは店先でもそもそとパンを食べる。きょーこも諦めてくらうからパンの一部を奪い取り、もそもそと一緒に食べる。
「そっちのパンもくれよ」
「これは、後で食うやつッス(低音ヴォイス)」
「あとで食べるやつを、開けちゃダメじゃないか。食べちゃダメじゃないか(低音ヴォイス)」
「開けても食べてもねえよ」
変なところでやたらと息が合うくらうときょーこである。しかしあまりやりすぎるとくらうがニコ厨であることがばれてしまうので、ほどほどにしておかなければならない。
「ようし、もうちょい頑張ろうか」
「まだ昼前じゃんか」
「宿毛市は限りなく高知県の端っこなんだよ。もうすぐ愛媛に入れると思う」
「へえ。ずいぶん長かったね、高知県」
香川・徳島をそれぞれ1日で通過したのに比べ、高知ではすでに2泊もしている。確かにずいぶん長かったように思えるがそこもようやく抜け、ついに最後の愛媛県にこれから突入である。その先もまだあるとはいえ、そういった節目が近くなると俄然やる気が湧いてくるものだ。
「愛媛入ったらケチらずにみかんジュースは買えよ。何種類かな」
「はいはい、高くなかったらな」
「だからそこはケチんなって!」
貧乏性に効く薬は手に入らないまま、くらうは愛媛を目指してさらに自転車を走らせた。
「よっしゃー! やっと愛媛県突入だ!」
ようやく愛媛県に突入し、疲れも忘れて一盛り上がりしたのち、最初に見つけた道の駅でくらうは休憩をとっていた。
「なんかここまで来るともう少しって感じがするな」
「ああ、あと少し。頑張らないとな」
「くらう、休憩入れる頻度かなり高くなってるよな」
「そうなんだよ。休み休みじゃないと、ホントにもたない‥‥」
最初の頃は数時間続けて走っていたのが信じられないほど、くらうの足は疲弊しきっている。今日などは特に、1時間おきくらいには休憩をはさんでいる。
「毎日の疲労の蓄積もだけど、2日ほどまともに寝てないのがでかい気がする」
「それもそうか」
もしマトモに寝られていれば、もう少しマシだったかもしれない。今日こそはマトモに睡眠を取らなければ、明日は本当にもたないかもしれない。
「お兄ちゃん、お兄ちゃん」
そこへ不意に現れた妹系幼女がくらうにまとわりついてきた――のではなく、急におばちゃんに声をかけられた。なにかとおばちゃんにはモテるくらうである。
「はい、これあげる」
「あ、ありがとうございます‥‥?」
ぽん、と突然何かを手渡され、見るとそれはボンタン飴の箱(開封済み)だった。わけがわからず戸惑っているくらうをよそに、おばちゃんはとっととどこかへ消えてしまった。
「なんだ、展開が急すぎてついていけない」
「愛のプレゼントだろ」
「開封済みの愛とか。むしろ凹むわ」
結局そのおばちゃんが何者だったのかは全く分からなかったが、せっかくもらったのでボンタン飴は美味しく頂いておいた。
まあ恐らくは、買ったはいいが食べきれず、必要もないので処理役として偶然見つけた若者にあげておいた、といったところだろう。
「この後の予定はどんな感じなんだ?」
きょーこもボンタン飴を舐めながら、おなじみの今後の予定を尋ねる。これは物語の展開が進む際の、「そ、それはいったい‥‥!?」に近い役割である。
「今日は特に目指したい場所もないから、とりあえず市街地まで着いたら寝床を探すよ」
「いい加減、今日は屋内を見つけなよ」
「それなんだけどさ、アルミシートがあればどうにかなるかも」
「あるみ‥‥?」
くらうが夜のことについて考えていたことを言うと、きょーこは首を傾げる。
「そう、アルミの寝袋みたいなものかな。準備段階で寝袋探してる時に見つけてたんだけど、災害用のアルミシートみたいなもんがあるらしい。湿気はこもるし寝心地は悪いらしいけど、値段も安いし、防寒って意味でなら最高らしいんだよ。今の寝袋と併せて使えば、十分外でも寝られると思う」
「なんだよそれ、めちゃくちゃいいじゃん。なんでそれ買わなかったんだよ」
「言ったろ、寝心地が最悪なんだって。動くたびにアルミがこすれて、歯が抜けそうになるような不快な音がいちいち鳴るらしい。だからあくまで、緊急の災害用」
「なるほどな‥‥。で、今がその緊急事態ってか?」
「そういうこと」
どこか呆れる声を漏らすきょーこに、くらうは気にせず頷く。
「ったく、旅行してんだかサバイバルしてんだかどっちだよ」
「徐々にサバイバルに近くなってる気はするな」
あっけらかんと答えるくらうに、きょーこは深いため息をつく。
「まあ、なんにせよこんな山道じゃ何も手に入らないし、とにかく市街地だな」
ようしっ、と気合を入れて立ち上がる。
「まだまだ先だけど、宇和島ってところになんかお城があるんだってさ。全然知らないけど、とりあえずの目的地はそこにしようかな」
「観光名所なのか?」
「いやだから、全然知らん」
「‥‥あたしは城なんかより美味いもんが食いたいよ」
「宇和島城付近は市街地みたいだし、なんかあるだろ」
「よしっ、くらう疲れてんだからいっぱい食わないとダメだぞ! 甘いもんとか甘いもんとか、糖分の補給は大事だからな!」
「食いたいだけだろ‥‥」
今度はくらうがきょーこに呆れたため息をつき、もう本日何度目になるかという再出発をするのだった。
思っていた以上に、そこから宇和島市街までの道は遠く険しかった。
とにかく坂が多い。愛媛に入ってから、やたらと上り下りを繰り返しているような気がする。そのため走行距離以上に疲労がたまってしまい、それに見合う休憩も何度も入れたため時間もずいぶんとかかってしまった。
山と坂ばかりが続く道を抜け、ようやく建物が多く立ち並ぶようになったのは、すでに夕方5時近くを回ったころだった。
「ようやく、今日の終わりが見えてきた感じだな。さすがにしんどい‥‥」
街中を走りながら、くらうは力ない呟きをもらす。
「そんな時こそ、美味いもん食って元気出さないとな!」
「きょーこは元気そうでうらやましいよ‥‥」
どうにも力が入らないくらうだったが、その時通りがかった店を見て、ぱっと表情を輝かせた。
「こんなところにエースワンが!」
反乱軍を見つけたジェネラルのようなセリフと共に、くらうはその店、エースワンへと自転車を滑り込ませた。
「この店がどうしたってのさ。普通のスーパーじゃん」
「あなどるなよ。この店は高松駅前にもあるんだけど、店舗特有の商品でなければ‥‥」
くらうは活き活きと店内に入り、総菜コーナーを目指す。
「あった! エースワンにはこれがあるんだよ!」
くらうが示したのは、コロッケである。特別珍しいものではない。しかしエースワンのそのコロッケは何と、1つたったの18円なのだ。大きさがよほど小ぶりだということもなく、普通の大きさの普通に美味しいコロッケが、18円なのだ。普段から時折ちょっとしたおかずやおやつの代わりに買っていたが、こんなお買い得なものを買わない手はない。
「ちょっとちょっと、なんでここに来てまで普段食ってるもの買うのさ。名物食おうよ、名物」
「いいからいいから、食ってみろって」
そのコロッケを5つ買い、店の外のベンチに座って半ば押し付けるように文句を言うきょーこに差し出す。きょーこはしぶしぶといった様子で、ちょっとした反抗のつもりか、少し大きめにくらうの手からコロッケをもぎとった。
「‥‥‥‥なるほど。18円をちょっとナメてたよ。確かにこれは美味いな」
コロッケを1口かじり、幾分かきょーこの機嫌も和らいだようだ。
「な、だから言ったろ」
「でも、安くて美味いからって、こんなとこでまで食ってるくらうは、やっぱり貧乏性だと思うよ」
「主婦力が高いといってくれ」
コロッケを食べ終えとりあえず腹を満たしたくらうは、続いてとりあえずの目的地であった宇和島城へと向かった。
入場料は特に無いらしいので、門の前に自転車を停めると、とりあえず敷地内に足を踏み入れる。所々に簡単な説明が加えられており、ぐるりと城の周囲を見て回れ、段を上っていくとかなり近くで見られるようだ。時間帯のせいか曜日のせいか、くらう以外の観光者の姿はほとんど見られない。
「なんていうかまあ、なるほどって感じだな」
「すげえ興味なさげな感想だな」
「まあ実際、城はそこまで好きってわけでもないしなー」
RPG好きとしては中世ヨーロッパの城とかならともかく、日本の城にはそこまで興味はそそられない。
「まあでもせっかくだし、色々見ていこうか」
うろうろと見て回り、最終的に本丸ではない、かなり小ぶりな城の前で足を止める。
「んー、一通り見て回れたかな」
城の前の芝の上で休んでいると、観光客だろうかそこへ1人のおっさんがやってきた。
「すいませーん、なにされてますか?」
なにしてるもなにも、見学だけど。
「えーっと、城を見学してるんですけど‥‥」
不意に声をかけられ、なんと返したらいいかわからず思ったことそのままを答える。だって実際そうだし。というかなぜそんなこと聞かれるのか。
「もう閉園するので、すいませんが退場してもらっていいですか」
なるほど。観光客ではなく管理者側か。しかしこのタイミングで閉園とは、運がいいのか悪いのか。
仕方なくくらうは休憩もそこそこに宇和島城を後にすると、門の外を出たところで突如そこにいたおっさんに話しかけられた。今度は関係者ではなく、たまたまここにいただけの人のようだ。
「お兄ちゃん、旅行中?」
「はい、そうです。四国一周しようと思ってて、香川から出発して、もう愛媛が最後の県なんです」
「へえ、そりゃすごいなあ」
「なんだか愛媛に入ってから、坂が多くて大変ですよ」
「確かに坂は多いなあ。でも愛媛の岬は簡単に越えられるよ」
「そう、なんですか‥‥」
「そうそう。まあ大変だろうけど頑張ってな」
「ありがとうございます」
おっさんに別れを告げ、くらうは市街地を走りながら、何とも言えない表情で呟く。
「ここに来るまででも、かなり大変だったんだけどなあ‥‥」
ソースの信憑性が薄すぎて、楽だと言われても全くこの先の道を楽観することができない。おっさんには悪いが、本当に楽だったらもうけもの、程度で疑わせておいてもらおう。
宇和島城から、くらうは続いて百円ショップへと向かった。探せばどこかにあるだろうという予想に違わず、そう探し回るまでもなく店はすぐに見つかった。探しものはもちろん、アルミシートである。
「って百均で売ってるようなものなのか?」
「いや、どうなんだろう‥‥」
とりあえず店内を探して回り、見当たらないので店員に尋ねてみる。
「あー、確か最近までこの辺にあったんですけど」
といって店員が案内してくれた場所には、ぽっかりと空の棚があるだけ。無いことはないようだったが、しかし結局手に入れることはかなわなかった。
「マズイな、これは本気でどっか屋内を探さないと」
「このあたりはネットカフェとかはないの? 24時間営業の」
そう、高知市での前例があるので、ネットカフェはあったとしても不安が大きい。
「まあでも探してみるしかないよなあ‥‥」
そうボヤいて近くの店を検索しようとしたとき、不意にあることを思いついてくらうの表情はぱっと明るくなった。
「そうだ! よく考えたら寝られる場所ってネットカフェだけじゃないじゃん!」
公園で野宿、もしくはネットカフェという考えにとらわれてしまっていたせいで、そんな単純なことにすら気付けなかった。
くらうは揚々と検索を始め、そしてそれはすぐに見つかった。
「なんだなんだ、どこに行くってのさ」
よくわかっていないきょーこを連れ、くらうが地図を見ながら辿り着いた場所。それは、カラオケ【まねきねこ】だった。
全国チェーンなのかどうかは知らないが、少なくとも岡山香川、そしてここ愛媛にも展開している店舗だ。その利用料の安さは目を見張るものがあり、平日の昼はなんと1時間10円で入れるという破格のカラオケ屋である。もちろん今回は夜なのでそんな料金では入れないのだが。
「な、カラオケも夜のフリータイムだったら朝まで寝られるだろ! いやー、普段からカラオケめちゃくちゃ行ってるのに全然思いつかなかったよ」
くらうはいそいそと店内に入り、とりあえずいくらかかるのか、何時までいられるのかを確認する。どうやらフリータイムで入るとだいたい1200円ほどかかるようだが、その程度で凍死を免れるというなら十分支払ってもよい額だ。しかも朝の8時までいられるらしい。文句なしだ。最高すぎる。
それだけを確認すると、くらうは満面の笑みで店を出る。さすがに今から入るのは早すぎるし、晩ご飯だって食べなければならない。
「じゃあ晩メシは‥‥○ックだ!」
「だからなんでそうなるんだよ!」
ぺちっ、と机をたたいて抗議するきょーこがいるのは、すでに某ハンバーガーショップの店内である。
「いやだって、安いし。ちょうど近くにあったし」
「じゃなくて! なんであたしたちは愛媛に来てまでこんなもん食ってんだよ!」
「こんなもんとか言ったら作ってる人に怒られますヨ?」
「なぜ、あたしたちは今愛媛にいるのかということをじっくり考えよう」
「旅行中だから」
「だからなんでその旅行中に名物食わねえんだよー!」
もはや半泣きのきょーこはすごい勢いでハンバーガーを貪っている。
「そりゃあたしだってファーストフードも好きだよ。でもね、どうせならこんな時くらい色んなもん食いたいって思うじゃん。せっかく久しぶりに屋内で寝られるんだしさ、ちょっとめでたい気分で良いもん食おうって思わないの?」
「いや、むしろ屋内の寝床を確保したってことはその分お金が余計にかかるということで」
「くっそー‥‥色んなもん食えると思って楽しみにしてたのにー」
がつがつとハンバーガーにがっつきながら涙目のきょーこ。さすがにちょっと哀れになってきた。というかどこまで食べ物に執着があるんだこいつは。
「わかったわかった。明日からはもうちょっと色んなもん食いに行くからさ」
「ホントか!? ホントだろうな! 絶対だからな! 約束だぞ!」
言うや否やきょーこは身を乗り出して目を輝かせていた。嬉しそうで何よりだ。
晩ご飯を済ませて外に出ると、日はすでに傾きかけてはいるが、今からカラオケボックスに入るのもさすがにもう少し早い。
というより、くらうにはもう1つ行っておきたい場所があるのだ。
くらうが近くのサンクスで尋ねると、店員は愛想良くその場所を教えてくれた。ソレはここから数分とかからない場所にあるらしかった。
そのもう1つとは、
「あー、疲れが取れるー」
ざばあー、と全身を湯船に浸し、くらうは幸福感全開の声を漏らした。肩の上にひっそりときょーこ、頭の上には堂々とモアが鎮座している。
くらうが寝る前に立ち寄ったのは、近くにあった小さな銭湯。少しでも余裕がある時に、余裕があることをしておきたい。なにより疲れている時の風呂は格別だ。
「睡眠すらできない状態で半ば忘れてたけど、実はもう3日も風呂入ってなかったんだよなー」
「あー、そういや室戸岬以来だな。臭っせえと思ったよ」
「え‥‥マジで‥‥?」
「おいそんな本気で傷つくなよ。まあ実際、汗臭くはあったけどさ」
一応服は着替えていたが、身体の汚れはどうしても蓄積していくものだ。周囲にどの程度臭気を放っていたかは不明だが、少なくともいい香りをさせていなかったことだけは間違いないだろう。
「しかし、確かに気持ちいいんだけど‥‥尻がヒリヒリする」
「『ぢ』ってやつだな!」
「ちげえよ! 毎日自転車乗ってるから擦れてんの!」
自転車に乗っている時点で痛いとは思っていたが、湯につかるとかなり染みる。自分では見えないが、おサルさんみたいに赤くなっているかもしれない。
「でもレーパン履いてんじゃなかったの?」
レーパンとは序章でも軽く説明したが、尻の部分に柔らかい素材がつけられている自転車乗り用のパンツのことである。このような尻とサドルのこすれを軽減するためのものなのだが、あくまで軽減でしかないからか、そもそもくらうのチャリが折りたたみだからか、くらうの尻は擦れまくっている。
「んー、正直チャリが一番の原因な気もするんだけどな。多分ちゃんとしたチャリのサドルに合わせた形になってるだろうし」
「でも履いてないよりはマシなのか?」
「うん、実はそれも試してみたんだけど、履いてないと尻とともにタマの裏が擦れて大変なことになるんだ‥‥」
「‥‥何のタマかは詳しく聞かないでおくよ」
「金の‥‥」「聞かねえっつってんだろうが!」
風呂から出ると、しばらく脱衣所で火照った体を落ちつける。温泉の後の脱衣所ってどうしてこんなに気持ちいいのだろう。さらに扇風機があれば幸福感は倍増すると思う。
そして温泉を後にするとあとは待望の屋内、カラオケ屋【まねきねこ】へ行くだけだ。
会員証を持っていなかったためその場で作り(思わぬ追加料金が発生しくらうは驚愕した)、ドリンクバーもついているというのでとりあえずココアを持って個室へと入った。安っぽくて無駄に甘いが、今はその甘さがちょうど良い。
「うーん、ジョイかダムかと聞かれていつもの癖でついジョイって答えたけど、ダムでもよかったかもな」
「どっちでもいいだろそんなもん。ほら、よっぽど疲れてんだろうし早く寝よう‥‥ってなんで曲入れてんだよ!」
「え?」
「素できょとんしてんじゃねえよ! なんで今日あんだけヘバっておいて当然のようにカラオケをエンジョイしようとしてんだよ!」
「いやだって、せっかくだし。オレ歌うの好きだし」
「‥‥本物のアホだな‥‥ってしかもいきなりメタルかよ!」
「いよっしゃああああああ!」
頻繁にカラオケに通っていると、最初に歌わないと気が済まない歌というのがいつの間にかできていることがある。くらうの場合それが、ロックがさらに激しくなったメタルと呼ばれるジャンルの歌だった。ANGRAのNOVA ERAと言ってわかってくれる人がどのくらいいるんだろう。
ちなみにわかる人にはわかるだろうが、さすがにあんな高音は出せないので1オクターブ下げて歌っている。マイナーな曲のいいところは、勝手に音域を下げて歌ってもわかる人がいないところだと思う。そもそもくらうは歌は好きだが、音域は狭く下手くそだ。
「くらうはアホだと思うけど、ジュース飲み放題なのは最高だね」
なんだかんだできょーこもご機嫌のようだ。今更だけど食ったものはどこに行ってるんだろう。そしてモアイヌは相変わらず、何をするでもなくどこかを見つめて静止している。
「さあて、どんどん歌うぞー!」
「それで次はデスメタルかよ! アホだろ! 変態だろ!」
「ヴォオオオオオオ!(シャウト)」
「‥‥あんたのどっからそんな声が出てくるんだよ」
1人カラオケをこよなく愛し、1人で8時間とか歌っちゃうくらうにはかなり物足りなかったが、さすがに徹夜で歌い続けるわけにもいかないので2時間ほどで中断。
「それだけでも十分すぎだよ」
きょーこにツッコまれながら、くらうは個室のイスを繋げて寝転がれるほどのスペースを作り、ごろりとその上に寝転がった。室内のコンセントでケータイの充電をすることも忘れない。
ほかの部屋の歌が思った以上に聞こえてくるので多少うるさいが、まあこの程度ならどこのカラオケボックスでもそうなので許容範囲だろう。というか近いからって受付の店員同士の会話までちょいちょい聞こえてくるのはさすがにどうかと思う。
暖房もあるため寝袋に入るまでもなく、上着をお腹にかけて目をつむる。
少しして、くらうはちょっと泣きそうになった。
「‥‥室内って、良いなあ」
「うるせえ早く寝ろよ」
寒くない。寝袋に入ってないのに、何枚も重ね着してないのに、新聞紙にくるまってないのに、寒くない。まさか屋内というのがこれほどまで幸せに満ちた場所だったなんて、知らなかった。
くらうは屋内の暖かさ(物理)に触れながら、およそ3日ぶりになるまともな睡眠をようやくとることができたのだった。
明日は少し、頑張れそうだ。