5、 3月11日(4日目)・雨ニモ負ケズ風ニモ負‥‥ケズ、ソシテ寒サニ負ケマシタ
その日の朝は、爽快な音楽とともに目を覚ました。
イヤアア! ヴォオオオ! と清々しい朝にふさわしい、活気のある歌声がケータイのスピーカーから流れだしている。
「‥‥ってなんで朝からデスメタルなんだよ!」
爽やかな様子のくらうとは対照的に、きょーこが噛みつくように机の上から抗議の声をあげた。
「いや、目、覚めるじゃん」
「覚めた! 確かに覚めたよ! でもどー考えても朝の音楽じゃねえだろ!」
そう言われても、くらうは頻繁にデスメタルを朝の目覚ましにしているので文句を言われても困る。
ったくもー、と文句を言いつつ机の上でストレッチをするきょーこを横目に、くらうはトイレの洗面所でざぶざぶと顔を洗った。
心配だった服だが、触ってみるとまだ少し湿ってはいるものの、どうにか着られそうなまでには乾いている。この程度なら着ているうちにすぐ乾くだろう。
簡単に荷物を整え、1階の食堂へ。そこではすでに団体客がわいわいと集まっており、昨日と同じように少し離れた場所に1人分の食事を用意してくれていた。
「ぽつんとしててなんかさみしいな」
「まあそうだけど、あの団体に放り込まれるのはさすがにツライだろ」
「確かにな」
席について、いただきます、と食事を始めようとするが、くらうは机に並べられる食事を見て、動きを止めた。
「‥‥‥‥」
用意された朝食はご飯、味噌汁、生卵。大根おろしと数種類の漬け物と味付けのり。
そして――しょう油が見当たらない。
「ご飯1対おかず5くらいだな」
きょーこが言うとおり、おかずの配分が異様に高い。ご飯はお代わり自由なのかもしれないし、多分しょうゆは忘れているだけなのだろう。だがさすがにご飯をお代わりするのはずうずうしすぎる気がする。きょろきょろと横の空いた机の上を見てもしょう油が見当たらないあたり、もしかするとお遍路さんのご飯は味付けなしのシンプルなものである可能性が微レ存。
いや、さすがにしょう油無しはないと思うけど‥‥。
しかし泊めさせてもらっているくらうとしてはあれがないこれがないと言いに行くのもなんとなく申し訳なく、なによりご飯を出してもらっているだけでも十分すぎる恩恵なのだ。
とりあえず漬け物でご飯を食べ、プレーン大根おろしを味噌汁でかき込み、生卵は溶いてそのまますする。そして味付けのりは単品でもしゃもしゃと食べた。
「ごちそうさま」
「‥‥すげえな。無理するところ間違ってる気はするけど」
「いいんだよ。少しでも煩わせたくないし。それに栄養的にはすごく体に良さそうだ。むしろしょう油なんていらない。あんなものは邪道だ」
「そ、そうか‥‥」
ご飯を終え、今日ものれんの奥にごちそうさまでしたと言いに行くと、振り向いたおばちゃんたちは笑顔でほほ笑んでくれた。
「そーいや坊さんの説法ってのは聞きに行くのか?」
きょーこの言葉でそういえば昨日、おばちゃんの1人が教えてくれたことを思い出す。
なんでも朝から坊さんが説法を説いてくれるらしく、団体のお遍路さんたちはみんなそれに参加するそうだ。遍路はしていなくても、よかったらそれに参加してみてはどうかとくらうも勧められていたのだった。
「そうだな、せっかくだしちょっと顔覗かせてみるのもいいかもしれないかも」
別に説法に興味があるわけではない。むしろ法事なんかは面倒だと思ってしまうタチだし、好きか嫌いかと言われたら嫌いだと答える。しかしまあ、せっかくのこんな機会だし、勧めてくれたし、という程度の軽いノリで参加してみることに。
どこの部屋だったかな、と探し回る必要もなく、その部屋から漏れ聞こえるお経の声で場所はすぐにわかった。すでに始まっているようだ。
こっそりと部屋の中を窺うと、広々とは言い難い部屋の奥にはこちらに背を向け経を唱えている坊さんの姿。その後ろにずらりと3列ほどに並び、一緒に経を読んでいるのかどうかはわからないが、一生懸命(正面に回れば2、3人くらいは寝ている人もいそうだが、後ろから見る限りは一生懸命)経に耳を傾けているお遍路さんたち。くらうはそれを後ろからしばらく眺め――引き返した。
「あれ、出ないのか?」
「いやいや、あれは飛び入りできる雰囲気じゃないだろ」
ご飯を食べているだけでもくらうは浮いているのだ。あんなとこにぶっ込んでいけば、浮きすぎてもう1回山頂まで登れる。
勧めてくれたおばちゃんには悪いがくらうは足早にそこから離れ、部屋へと戻る。わずかな湿り気でひんやりとした服に着替え、荷物をまとめれば、あとはこれ以上のんびりしている理由もない。これがただの観光旅行なら朝風呂にでも浸かりに行くところだが、さすがに我慢。くらうはバッグを背負ってフロントへと向かった。
「それでは、もう出発させていただきます。本当にありがとうございました」
カギを返し、受付のおばちゃんに深くお礼を述べると、気をつけてね、とおばちゃんは柔らかくくらうを送り出してくれた。
時刻は8時。日が昇ってまだ間もない、少しひんやりとした空気のなか、壁のような坂の上から眼下を見下ろし、くらうは驚きの声をあげる。
「うおお、ここってこんな標高高かったのか」
確かにかなりの傾斜だとは思っていたが、上った距離と高さがおかしい。もうちょっと距離を伸ばして傾斜を緩めてくれてもいい気がする。
「が、しかし!」
「ここからは下り坂だもんな!」
そして、朝一からきょーこと2人でハイテンション。しかしこれは不可抗力。いち自転車乗りとして、下り坂を前にして平常心でなどいられるはずもない。
勢いよく坂を下り、爽快感に浸りながらくらうは一路高知市に向けて自転車を走らせるのだった。
宿を出て2時間ほどは走っただろうか、くらうは本日最初の道の駅で小休憩をとっていた。
お土産屋さんの試食をぱくつき(酒粕の味がするお菓子が何気にすごく美味しかった。荷物を増やせないので買うつもりなんてないけど)、ベンチに座って一息入れる。。
「なんか、街ん中入ってからサカモトってやつをよく見かけるんだけど」
「は? ああ、リョーマな。高知生まれの歴史上の人物だよ。そんくらい知ってろよ」
「食えねえ人は、ただの人だ(渋い声で)」
「‥‥じゃあ食える人はなんだよ」
昨日は山道や海沿いを走っていたせいでほとんど見かけなかったが、少し街の中に入ってから竜馬の名前をしばしば見かけるようになってきた。さすが高知といったところだろうか。
「でもオレとしては、竜馬よりも馬路村が気になるな」
「なんだそれ」
「高知にある、ゆずが有名なところなんだ。『ごっくん馬路村』っていうゆずジュースがあってな、ちっさい頃何度か飲んだことがあったんだけど、それがおいしくてさ。せっかく高知まで来たから本場でゆずジュースを飲んでみたい、って今不意に思った」
そういえばそんなものもあったと、店でゆずのジュースを見つけて思い出したのだった。
おおよその位置を把握するために地図を広げ――
「‥‥めっちゃ内陸だった」
挫けた。
地図を見る限り、位置としてはここからちょうど北に位置しており、気づいた場所としては悪くないのだろうが、北上ということはおそらくもう一度山登りをしなければならず、大雑把な距離だけで見ても少なくとも片道2時間はかかりそうだ。別に急ぐ旅ではないとはいえ、ちょっとした寄り道というにはさすがに遠すぎるだろう。
「しゃーないか。でもごっくん馬路村は探そう」
「そんなに美味いんならあたしにも分けてくれよ」
「ああ、いいよ」
ちょっとした目的が生まれ、再び自転車を走らせること約1時間。次なる道の駅を発見し、馬路村を求めて停車。
「うーん、ここにもないなあ」
店の中をぐるりと回ってみるも目当てのものは見つからず。仕方ないので外のベンチで一休憩。やはりこのくらいのペースがちょうどいいような気がする。
「あ、ドゥトゥールのココアがある。飲んでみよう」
目の前に設置された自販機でココアを発見し、くらうは衝動的にココアを購入。
「なんでいきなりココアなんだよ。ゆず関係ねえし」
「いや、好きなんだよココア。高校の頃は自販機で見たことないココアを発見するたび飲んで試してたな。一番美味かったのは○Tのアイスのクリーミーココアで、変わり種で感心したのは伊○園の黒ゴマココア。あとコ○コーラのはちょっと小さいけど、どれも味が安定しててハズレがない。安定して美味しくないメーカーもあるけど、まあそれは伏せておくよ」
「‥‥ホント好きなんだな」
淀みなく様々な種類を挙げていくくらうに、きょーこはさすがに感心した呟きを漏らした。
「でも最近はココアよりも、チノちゃんが好きだな!」
「待て! その最近は執筆時の最近だぞ! あたしたちの時間軸じゃまだ放映されてねえ!」
「はっ、しまった! チノちゃんへの愛があふれて心がぴょんぴょんしてしまった!」
「ったく、メメタァな発言もほどほどにしておけよ」
これがいわゆるツッコミ不在の恐怖である。
ぴょんぴょんした心を落ち着けるため、くらうはゆっくりとココア(飲料)の飲み口に口づけをする。
「で、このココアはどうなんだよ。そのへんと比べて美味いのか?」
そういうきょーこの手には、いつの間にかココアの缶が握られていた。
「普通。可もなく不可もなく」
「勢い込んで買ったわりには冷めた感想だな」
ココアを飲み終えると、くらうはすっくと立ち上がる。
「よし、じゃあ行くかー!」
「なんか今日は調子いいな」
「ああ、今ならどこまででも行ける気分だ! もう何も怖くない! さあ出発だ!」
「‥‥風、強すぎないか?」
そしてくらうは即行でフラグを回収した。
先ほどまではそれほど感じなかったが、どんどん風が強くなっている。そして風は当然向かい風。平坦な道もちょっとした坂くらいのつもりでいないとなかなか進まない。
さっきまでの勢いはどこへいってしまったのか、くらうは疲れ気味の表情でゆるゆると自転車を走らせていた。
「ったく、調子に乗ってるからだぞ」
「そうか、調子に乗ると風が強くなるのか。覚えておこう‥‥」
一気に消沈したくらうがキコキコとペダルを回していると、前方の道の途中になにやらのぼりが立っている。どうやらそこには小さな店が建っており、見るとそののぼりには【焼きなすアイス】と書かれている。
「‥‥なんだこのトリッキーなアイスは。すげえ気になる」
「よし、食っていこう」
食べ物のことになるときょーこはノリノリだ。
しかしくらうとしても食べていくことに異存はない。疲れてもいるし、こんな気になるもの無視して通り過ぎることはできない。
市街地から大きく離れたこの場所に、その店はぽつんと建てられていた。建物はそう大きくはなく、入ってすぐカウンターがあり、アイスケースの中に十数種類のアイスが色とりどり並べられている。店内にそれ以外には何もなく、おそらく個人経営なのだろうといった風の小ぢんまりとしたお店だった。
ここに来て知ったことだが、どうやら焼きなすも高知の名産であるらしい。アイスは2個で1セットらしく、好きな味を選べるということで1つは当然焼きなす味。そしてもう1つはゆず味を選択した。ザ・ご当地アイスといった雰囲気だ。
カップに入れられたアイスを見て、くらうは少し考える。
「‥‥買っておいてなんだけどさ、コレ、かなりハズレな予感がするんだよな」
「そうか?」
そう言うきょーこの手にもコーンに入った焼きなすアイスがしっかりと握られている。
「だって、なす味のアイスだろ? さすがにどうなんだろうって気がしないか?」
「どうだろうな、食ってみなきゃわかんねーだろ」
「いや、美味いはずがないって。なすとアイスとか完全にミスマッチだろ。絶対美味しくない。こんなアイスが美味しいわけ――」
パクリと一口。
「――美味い」
と、せっかくなのでお約束をやってみたわけだが、実際この焼きなすアイスなるものはすごく美味しかった。確かになすの味がする。しかしほんのりとした甘味がなすと上手くマッチしており、今までに味わったことのない類の味を演出している。
「ホントだ。こりゃ美味いな」
がつがつときょーこも上機嫌でアイスを頬張り、ぺろりと平らげると2つ目のアイスをくらうのアイスから精製する。
「あっこら、あんまり食うんじゃねえ!」
「へへ、食ったもん勝ちだろ」
きょーこに食われる前にアイスを平らげ、そして次にゆずアイスに手をつける。これは食べる前からわかる。美味しい。
「うん、ゆずはやっぱり美味しいな」
「ああ、確かに美味いな」
ぱくりとアイスを一口頬張り、きょーことうんうんと頷いて確認し合う。
そして一拍。
「‥‥でもまあ、組み合わせは間違ったな」
「‥‥そうだな」
ゆずアイスは確かに美味しいのだが、いかんせん先程食べた焼きなすアイスと、絶妙なミスマッチを引き起こしていた。先程の焼きなすが意外と甘かったため、ゆずの甘味がほとんど感じられなくなってしまい、美味しいのは確かに美味しいのだが、なんともいえない残念な味の移行がある。特にアイスが重なって味が混ざっている部分は形容しがたいものがあった。
「無難にバニラとかにしておけばよかったかな」
「もういっそ焼きなす2つでもよかったんじゃねえか?」
「さすがにそれは面白くないだろ」
美味しいものを食べたのにちょっと残念な気分になるという希少な体験をしつつ、くらうはさらに自転車を進める。
相変わらず風は強く、普段の1.5倍のペースで体力ゲージが減っている。特にそんな状態で傾斜のキツイ坂などに差し掛かってしまうとたまったものではない。
「なあなあ、なんかさっきからサーフィンしてる人多くねえか?」
「はあ? なんだよ急に。まあ、確かに目につくな」
橋のようにもこりと膨れた道を必死に上りきり、少し落ち着いていたところで急にきょーこが道沿いの海を見ながら呟いた。
今は3月。日中は確かに暖かくなってきているが、海水浴にはまだまだ早すぎる時期だ。にもかかわらず、先ほどから海岸でサーファーを何組も見かけていた。
「寒くねえのかな」
「さあ、サーフィンはしたことないからよくわからんが、もしかしたらこのくらいの時期がいいのかもな」
「でもサーフィンっつったら、夏の海岸で真っ黒に日焼けしたニーチャンがガンガン日差し浴びながらビッグウェーブを乗りこなしてる感じしねえか?」
「あー‥‥確かにそんなイメージはあるな」
などと言っている間に道は少し海を離れて内陸寄りに。海が見えなくなったのでサーファーの姿も一旦見えなくなる。
「この先の海にもいんのかなー‥‥うおっ!? ちょ、くらう! なんか、アレ、見てみろよ!」
と、ぽけっと海側を眺めていたきょーこが、何かを見つけ急に騒ぎ始めた。
「何だよアレ! なんか、道路が地面に突き刺さってるんだけど!」
「はあ? なんだよそれ、どんな大怪獣が暴れた後だよ‥‥ってマジか!?」
半信半疑できょーこの視線を追うと――本当に道路が地面に突き刺さっていた。
突き刺さっていた、というのはもちろんここから見える範囲での表現である。それは少し離れた場所にあり、この場所からでは地面の部分は手前の民家に隠れてしまっているため確認することができない。しかし道路が空に向かって伸びているというのは確かだった。これまでまるで壁のような坂には直面してきたが、その道路は本当の意味で壁。地面に対してほぼ垂直に生えているのだ。もちろん道はどこまでも続いているわけではなく途中で途切れているが、それでも尋常ならざる事態に変わりはない。
「なあ、近くまで行ってみよう!」
「ああ、さすがにあれは無視できないな」
くらうはとっさに進路変更し、その道路に向かって進んでゆく。住宅街の間を抜け、細い道に入ってゆくが目印は大きく見失ってしまうことはなかった。
目の前までたどり着くと、見上げるほどの高さの、道路。直前まで普通に真っすぐ伸びている道路が、そこで突然跳ね上がり、空に向かって伸びていた。
なんだろう、銀河鉄道にでも続いているんだろうか。
「ここ、なんか書いてあるよ。テユイガワ、の、カドーキョーだってさ。どういうことだ?」
きょーこが読む説明を聞いて、くらうはなるほどと、ようやく納得した。
「そういうことか。【手結川の可動橋】、つまりこれは道路じゃなくて、橋みたいだな。だけどこれが掛ってる川は船の通り道でもあるから、通行の間だけこうして上に跳ね上がって船が通れるようにしてるってことだよ。いや、今は船が通ってるようにも見えないし、もしかしたら車が通るときだけ下がる、かもしれないな」
よく見ると道路の側面には【桁下2.0m】と書かれている。可動橋と言われれば納得だが、見た目は普通に道路なので、遠くから見た時のインパクトは絶大だ。
そしてきょーこは天を見上げ、雲の上を指さした。
「じゃあ行こうか、あの空の向こう側へ!」
「行かねえよ」
「やっと見つけたー! 馬路村っ!」
くらうが辿り着いたのは上空1万mの空島‥‥ではなく、道の駅【やす】。犯人が潜んでいそうなここに来てついに、くらうは目的のブツを発見することが叶ったのだった。
ごっくん馬路村。ビン入りのゆずジュースであり、知名度はそれなりにあるはずなので知っている人も少なくないと思う。以前経営者が高知出身の居酒屋で、『馬路村割り』という酒を見かけたこともあるほどだ。
きょーこにも1口分ほどくれてやり、さっそくぐいっと中身をあおる。
「くあーっ! やっぱ美味いなこれは!」
「へえ、ほんとだ。確かにこれは美味い」
飲む前にさんざんハードルを上げていたにもかかわらず、落胆させない美味さ。小さい頃美味しかったと思っていた記憶はやはり間違いなかったようだ。
「甘すぎず、酸っぱすぎず、って感じだな。優しい味わいとでも言えばいいのか?」
時間がたつにつれ風も強くなってきているが、しかしくらうは一気に上機嫌。美味しいものは心を豊かにしてくれるのです。
「小さい頃は何も思わなかったけどさ、ごっくん、ってちょっといやらしいよな」
「この後の予定はどんな感じなんだ?」
くらうの至極当然な発想をきょーこは華麗にスルーし、どこか遠くを見つめながらいつも通りの会話を続けた。くらうは少し涙目になりながらしぶしぶ会話を元に戻す。
「高知県での目的地は、次は四万十川だな。でもここからかなり遠いから、到着は明日になると思う」
「そっかあ。じゃあ今日中に少しでも近づいておきたいところだな」
「そういうこと。ってなわけで出発しましょー」
久々に馬路村も飲めて元気を取り戻したくらうは、揚々と進撃を再開した。
――本当の闘いがここからであることなど、知る由もなく。
「‥‥‥‥」
「おいおいくらう、まだ昼だぞ?」
「‥‥‥‥‥‥」
「もうへばっちまったのかー? そんなんじゃ四国一周なんてできねえぞー」
高知市へ向かう道の途中。
――向かい風が、尋常ではなかった。
漕いでも漕いでも全然前に進まない、ひたすら坂を上り続けているような感覚。無風の時に比べ、疲労のたまり具合は軽く倍近いのではないだろうか。そして疲労とともに溜まってゆくのは、ストレス。急いでいるわけでないとはいえ、ここまで進まないとさすがにイライラは募ってゆく。
「くらうー、聞いてんのかー?」
「きょーこ‥‥」
頭の上で茶化してくるきょーこに、くらうはずっしりとトーンを落とした声をかける。
「八つ当たりなのはわかってる。誰が悪いわけでもないし、腹を立てるのは筋違いだとは、わかってるんだ。でもな、マジでやめろ」
「‥‥あ、ああ。ごめん。調子に乗りすぎたよ」
完全に目の据わったくらうに、きょーこはさすがにこれ以上の悪ふざけはまずいと感じたようだ。
イライラすることに意味はない。しかしこの状況で笑ってなどいられない。そんな矛盾にさいなまれながら、くらうが無言で進んでいると。
「な、なあくらう。あたしの勘違いだったらいいんだけどさ」
不意にきょーこがどこか遠慮気味に声をあげた。
「なんか道、おかしくないか? 方角は‥‥あってるみたいだけど、国道を進んでるんだよな。なんかここ、違う気がするんだけど」
「え、でもずっと道なりに進んでたはずなんだけど‥‥あれっ!?」
道路にはその途中途中に、そこが国道、もしくは県道の何号線であるのかを示す標識が数や間隔に差はあれど、立っていることが多い。それを探していたくらうが見つけたのは、【県道14号】を示す標識だった。
「マジで!? いつの間に‥‥」
くらうは慌てて自転車を止め、マップで現在地を検索する。現在地の矢印が示すアイコンは、確かに県道14号の上に乗っていた。道をさかのぼって確かめてみると、どうやら道なりの曲がり道をそのまま進んでしまったらしい。よほどイライラしていたためか、全く気がつかなかった。
「参ったな‥‥。引き返すには、ちょっと遠いな。しゃーない、こっから国道に戻る道探すか」
少し細く入り組んだ道を通ることにはなりそうだが、取り返しのつかないミスではないようだ。
「めんどくせえな‥‥くそっ」
悪態をつきながら向かい風に逆らい、どうにか再び国道に戻る。
「くらう、あそこにメシ屋があるよ。もう昼過ぎだし、あそこで食っていこうよ。さすがにいらだち過ぎだよ。ちょっと座って、落ち着きな」
「‥‥‥‥正論だな。そうしよう」
やや大きめのスーパーの中にある、小さな定食屋のようなお店。カウンター席について唐揚げ定食を頼み、ようやく少しだけ気持ちを落ち着ける。
「‥‥はあ、さすがにこの風はキツイな」
ぱくぱくとご飯をつまみながら、くらうはため息をついた。走行距離はここまでおそらく70~80kmといったところだと思うが、疲れのたまり具合はそんなものではない。
「まあ、のんびり行こうよ。休み休み行っても、十分高知市にはつけるっしょ」
唐揚げ丼となっているお茶碗片手に、きょーこがどこか気の抜けた感じで言った。多少は気を使ってくれているのだろうが、そこまで深く考えているようではない。まあ実際きょーこは頭に乗っかってるだけだしなあ。
食べ終わってからも少しだけ休憩。水も好きなだけ飲めるし、飲食店内はけっこういい休憩場所だ。もちろん混んでさえなければだけど。
「さて、大分落ち着いたし、そろそろ行こうか」
「無理スンナヨー」
店を出て再び走り出したくらう。強風は相変わらずだが、一休憩入れたことで少しは心にも余裕ができた。
――と、思っていたのも束の間、変わらない向かい風にくらうの怒りは有頂天になった。
このままではストレスで寿命がマッハだ。風の破壊力がばつ牛ンすぎて、100とか普通に出すくらうが足を止めると自転車がカカッとバックステッポを踏んでしまいそうになる。これでは勝つれない。しんどいなさすが向かい風しんどい。
謙虚なくらうが想像を絶する怒りに襲われ頭がおかしくなって死にそうになっていると、道路の脇の景色は山の代わりに建物が目立つようになってきた。どうやらようやく、高知市街に入ったようだ。くらうは足を止め、キング地図んもスを広げる。
「この辺から道がわかりづらくなるから、慎重に行かないと‥‥」
このまま市街地を突っ切って道沿いに走ると、地図によると内陸の山中に入っていってしまうらしいので、ここらで県道に逸れつつ経路を海沿いに修正していかなければならない。
これが創作の物語なら『入り組んだ道』=『迷うフラグ』なのだが、現実では、特にこんな旅行中では本当に迷ってしまうと、正直笑えない。進行が遅れる程度ならまだしも、今は疲労もたまってきている。何もない山中で体力が尽きるようなことがあれば、比喩でも言い過ぎでもなく命の危機なのだ。
というわけでケータイの電池を惜しんでいる状況でもなく、マップで確認しながら道を進んでゆく。
「えーっと、あの駅が見えたら左折して、いったん国道逸れてすぐ右折して国道に戻って‥‥」
標識や建物を注意深く見ながら、目印を見つけては道を曲がり、経路をたどってゆく。
「そこの道は国道沿いより、そのまままっすぐ県道39号を進んだ方が早いんじゃないか」
「そうだな。しんどいし、その道で行こうか」
標識で道を確認し、左折していったん県道39号へと入る。
道を曲がった途端、なんだか周りが急速に山道になり寂れてきた。
「なんか、これ道合ってんのかな‥‥」
「でも今、間違いなく県道39号だったろ」
「それもそうだ」
まあ実際、国道から県道に逸れた途端に田舎になることは珍しいことでもない。
しかし、
「‥‥なあ、なんか、これ山に向かってるよな」
「確かにな‥‥」
道が完全に山中へと向かっている。これはさすがにいぶかしむべきだろう。それでも道は間違っていないはずなのは確認済みなのだ。
「‥‥ちょっと待て、今オレ西に向かって進んでるはずだよな。なのになんで、太陽が端の山に隠れてるんだ?」
時刻は夕方。ならば本来ならば、正面から西日に向かっていなければならないはずなのだ。
「そういえば‥‥あっ! くらう、ごめん!」
と、何かに気づいたきょーこが慌てた声をあげ、突然謝罪を述べた。
「全然方向見てなかった! なんでかは知んないけど、今南に向かって進んでる!」
「おいィ!?」
進路が間違っているというなら、再びちゃんと確認しなければならない。ケータイを取り出し場所を確認すると、
「‥‥なんで、全然違う道進んでる。ちゃんと標識で確認してたのに‥‥ああっ!?」
マップを見て、くらうは驚愕の事実を知ることとなる。
この道を進む前に確認したように、くらうは確かに県道39号を進んでいた。今現在いる場所も、間違いなくそこである。しかし――
「‥‥この39号に入る前に曲がった場所があったろ? あそこの先に、もう1本別の39号線があるみたいだ‥‥」
国道から分岐して南と西。39号線は別々の方向に2本伸びていたのだった。
なんというトラップ‥‥。
くらうはがっくりと肩を落とし、頭を抱えた。まさか本当に先程のあれがフラグだったとは。
時刻は4時を大きく過ぎており、日が沈むにはさすがに少し早いが、のんびりと何もない山道を走るにはやや危険な時間帯である。もう少し気づくのが、もしくはここへ辿り着いているのが遅かったらと考えると――
「‥‥ホントに笑えねえよ‥‥」
くらうは大きなため息をついて、今来た道をすごすごと引き返す羽目になるのだった。
すぐに国道に引き返し、すぐに見つかったMのハンバーガーショップでとりあえず足を休めることに。もう一度細道の県道に入る気にはなれず、39号よりはわずかに遠まわりになるが、諦めて今は国道を走っていた。
100円のハンバーガー1つと水だけを注文し店内の席へ。典型的な鬱陶しい客である。
「さすがに疲れた‥‥。そろそろ寝る場所探さないと」
ハンバーガー片手に近辺のマップ検索。昨日のうちに目をつけておいた公園で、一番近い場所を探す。
「ここからだったら、一番無難そうなのはこの土佐公園ってところかな」
手早く食べ終えると暗くなる前に店を後にして寝床探し。こうなると距離を進む必要がなくなるので、少々向かい風がきつくとも日中のようにイライラすることもない。地図で場所を確認しつつ、まさにザ・高知といった名前の公園を目指してのんびりと探索。しばらくもしないうちに、田舎道の奥に目当ての公園は見つかった。
見つかった、のだが。
「あー、公園っていうか‥‥」
「球場だよな」
段々のカラフルなベンチがぐるりと金網の向こうの広々としたグラウンドを囲い、客席の後ろ半分ほどを覆う屋根。そしてグラウンドを見下ろすような大きな照明。その場所はどこからどう見ても、野球の球場だった。しかし場所は間違っていない。土佐公園というのはここで間違いないようだ。
「んー、見た感じ夜でも閉まることはなさそうだな」
公園だろうが球場だろうが、寝られるのであればどこでもいい。むしろ屋根があって人目にもつかず、公園よりずいぶんいい場所なのではないだろうか。
ただ閉め出されたり閉じ込められてしまっては困ると思い、ざっくりと調べてみたものの、開放的な場所で開閉用の扉や柵のようなものは見当たらず、時間を気にせず出入りはできそうだ。
トイレもあるし水道もある。すぐそばにスーパーもあったし、公園というイメージとは大きく離れているものの、決して悪くない場所のようだ。
「よし、じゃあ今日の寝床はここで決定かな」
観客席に上がり、隅っこの柱の影を見て少し嬉しそうに頷くくらう。
「なんでそんな嬉しそうなんだよ」
「いや、初めての野宿だし、なんかワクワクする」
場所の確認が終わるとスーパーで晩ご飯と明日の朝ご飯用のパンを買い、観客席に座りもそもそと食べる。
そうこうしているうちに日も落ち、辺りはすっかり薄暗くなってきた。水道を借りて歯磨きと洗顔をすると、外で広げるのは今日が初となる寝袋を敷き、自転車には3重ロック。そしてバッグにもロックをかける。バッグにロックというのは、ファスナーの取っ手部分の穴を2つ同時に南京錠やダイヤルロックで閉め、開けられないようにしているということだ。別に錠着きの高級バッグを使っているというわけではない。取っ手が1つしかなく鍵をかけようのない部分にはどうでもいいものだけを入れておく。このあたりの防犯対策も抜かりはない。
「よし、準備も整ったし、それじゃあ寝ようかな!」
「‥‥どれだけワクワクしてんだよ」
そうして強風やら道間違いやらで色々あったが、どうにか無事平穏に1日を終え、くらうは静かに眠りに落ちてゆくのであった。
――と、きれいに終わることができたらどれだけ良かったことだろう。
「‥‥なんか、全然寝付けない」
横になったはいいものの、慣れない環境に対する興奮と不安が原因か、全く寝付くことができなかった。横ではきょーこののんきな寝息がすやすやと聞こえてくる。コレは寝ることに関しては得意であるらしく、いつも寝つきは異常にいい。というか毎日寝ているようだが、睡眠をとる必要などあるのだろうか。明日覚えていたら聞いてやろうと思ったが、しかし多分聞いたところで「別に寝なくても問題ないけど、寝るの好きだから」とかあっけらかんと答えそうだ。いやきっと答える。
などと寝られないせいで思考が脱線していた時、にわかに公園に騒がしい声が響き始めた。
何だろうかと思っていると、どうやら若者の集団が遊びに来たらしい。なんとか眠ろうとつむっていた目を開けると、球場の照明が煌々と灯っている。自由に点けられるのか許可を得ているのかは知らないが、まぶしいと感じるほどにはここまで明かりは届いていない。
時間を見ると午後11時頃。すっかり夜型の若者のようだ。声を聞く限り男ばかりで3、4人といったところだろうか。さすがにナイターを始めるわけではないだろう。声を聞いていると、どうやら話をしながらキャッチボールをしているらしい。別にうるさいとは思わないが、1つものすごく気になることがある。
「‥‥すげえ訛ってるなあ」
話し声を聞いていると「ぜよ」は使っていないようだけれど、高知ならではの訛りがすごい。こんなところで高知に来たことを実感することになるとは。まあ方言の強さに関しては、くらうもあまり人のことは言えないくらい、日常会話では強く訛っているんだけど。
いやしかし、方言に感心している場合ではない。早く寝なければ。明日もあるのだからできる限り疲れはとっておきたい。
彼らも大騒ぎしているわけではなく、普通のトーンでのんびり会話しているからか、うるさくはなくむしろラジオを聞きながら寝ているくらいの感覚であまり気にならない。
くらうは目をつむって、再び眠ることに集中した。
目が覚めた。
時間を確認すると、深夜1時。
少し眠っている間に若者たちは帰ったらしく、照明は消え声も聞こえなくなっている。
辺りはシンとしているにもかかわらず、こんな中途半端な時間に目が覚めた理由は1つ。
――寒い。
すっぽりと寝袋に体を収めているが、それでも外気の寒さを遮りきることができていない。
寝袋の中で、無理やりに体を丸める。寝袋からぎゅっと素材の音がして破れやしないかと一瞬ひやりとしたが、どうにか耐えてくれたようだ。
そしてその体勢になることで、ほんの少しだけ落ち着いたような気がする。
再び目をつむり、無理やりに就寝の態勢に持っていく。
‥‥‥‥‥‥
‥‥‥‥‥
‥‥‥‥
‥‥‥
ほんの少しだけ眠ったようだが、やはり寒くて1時間と経たないうちに目が覚めた。
‥‥なんだか少し、ヤバいかもしれない。
寝袋の中でわずかに体が震えている。今すぐ凍死しそうだ、というほどではないが、明らかに少しずつ体温を奪われているし、夜明けまではまだまだ何時間もある。今だけはどうにか耐えているが、このまま朝までこの状態でいるのはさすがに無理がある。
もう一度寝ようと目をつむり――すぐに開ける。やっぱり無理だ。
くらうはごそごそとケータイを取り出して、周辺地図検索。このままでは本当に凍えてしまうと危機を感じ、このあたりで24時間営業の店を探すことにした。
今からのんびり宿を探すことはできない。ならばもう、半徹夜となってでも店内で寒さをしのぐことが現状で最善だという判断だ。
とりあえず一番に思いついた、ここに着く少し前にも寄ったハンバーガーショップを検索。
「‥‥あった」
名前を入れて検索すると、すぐにこのあたりで一番近い店が表示された。一番近い――20km先の店が。
「‥‥うわあ、どうしようこれ」
おそらくこの時は寒さと眠気、そして疲れで思考が鈍っていたのだと思う。少し引き返すという選択肢は、なぜかこの時のくらうにはなかったのだった。確かに引き返すにしてもやや距離はあったが、それでも進んだ道を戻るという行為を考えることがどうしてもできなかった。もしかしたら自転車を押して歩かない、という縛りと似たような意地が無意識にあったのかもしれないが、とにかくこの時のくらうには、文字通り命の危機に陥っているにもかかわらず、進む以外の選択肢はなかったのだった。
一応、同じく24時間の店である牛丼屋も検索してみたが、近くにはないらしくヒットせず。もしかしたらコンビニくらいはあったかもしれないが、それもこの時のくらうには無い発想だった。多分だけれど、座って休みたかったんだと思う。
なんにせよ現状を保つのは限界だ。なんでもいいから早く屋内に逃げ込まないと、死ぬ。
冗談でも何でもなく、死ぬ。
「‥‥んー、くらう? 何してんだ‥‥ぁ?」
ゴソゴソと動いていたくらうに気がつき、きょーこも目を覚ましたようだ。焦点の合わない目でしばらくくらうを見あげ、
「‥‥って寒っ! 寝てて気づかなかったけど、さすがに寒すぎだろっ」
「気づけよ」
「いや、あたしは別に寒くてもどうってことないんだけど、でも人間としちゃあこの寒さはちょっとけっこうかなりヤバいんじゃないの?」
気温を感じ取ることはできるが、その暑さ寒さでどうにかなることはないということか。便利な体だ。というか相変わらず時折自分が人間であることを全力で否定するヤツだ。いや、今はそれどころではない。
「そう。寒くて寝られなくてさ。このままじゃ本当に凍えそうだから、一番近くの店に避難することにするよ」
「そっか、その店ってどこにあるんだ?」
「20km先」
「アホだろ!?」
「オレに言うなよ。とにかく、すぐ出発だ。マジで死ぬ」
そう言ってくらうは寝袋を抜けだし、
「――――っ!?」
抜け出した途端に、寒さで全身が異様なまでに震えだして止まらなくなった。しかも震え方が尋常ではない。本当にマンガのようにガタガタと震えている。こんな震え、生まれて初めてだ。ぞくりと背筋が寒くなるほど、死を身近に感じた。
「これ‥‥マジでヤバいぞ‥‥。急ごう‥‥」
「あ、ああ‥‥。くらう、頼むからこんなところで死んでくれるなよ」
「できればオレも死にたくはないよ」
全身が震えているせいで簡単な寝袋をたたむ行為でさえまともにできない。それでもゆっくりなどしていられず、無理やりに手を動かしてどうにか荷台にくくりつけると、すぐに自転車を走らせた。
自転車をこいでいるうちに、少しは体が温まってきた。
とはいえ本当に少しは、でしかない。体の震えは収まったものの、外が異様に寒いことには変わりない。
そして、問題はもう1つあった。ここは近くに店がないことからもわかるとおり、それなりに田舎かつ、今進んでいるのは山道である。
とにかく暗いのだ。街灯などはほとんどなく、目の前でさえほとんど見えない。そしてこれは後になって気づいたことなのだが、なぜそこまでの暗闇になっていたかというと、自転車のライトの電球が切れていたのだ。そんなことにすら気づくことができないほどこの時のくらうの状態は最悪だった。
寒い。しんどい。眠い。そしてついでに暗い。ヤバい。
なんかヤバそうな形容詞3役そろい踏みかと思ったら、なんと5役もいた。四天王をも数で圧倒する、まさに極限状態だ。
幸いにというべきか、こんな時間にこんな道というだけあって、車はほとんど通っていない。時折通る車のヘッドライトを唯一の光源として、必死に自転車をこぎ続ける。
と、不意にガシャン、という音と共に視界がぐるりと回転した。何が起こったのか一瞬理解できなかったが、すぐにやってきた衝撃とちくちくと刺さる小枝の痛みに、転んでしまったのだと気づかされる。
真っ暗で何も見えなかったせいで、どうやら歩道の途中に設置されていた植え込みに激突して突っ込んでしまったようだ。幸い怪我はなかったが、こんな状況でもさすがに恥ずかしい。ちょっと精神的にキツイものがある。交通量は限りなく0のくせに、こういう時に限って車が横を通り過ぎていくのだ。しかもトラックですらなく乗用車。
「おいっ、くらう、あたしはここだぞ!」
真っ暗な茂みの中からきょーこの声が響く。倒れた拍子に放り出されてしまったらしい。声を頼りに助け出し、モアイヌの安否を確認してみると、いつの間にかちゃっかりポケットの中に潜り込んでいた。どうやら危機回避能力は高いようだ。
「ちょっとホント、大丈夫? さすがにこんなじゃ危ないよ?」
「わかってるけど、今は本当に進む以外にどうしようもない」
今いる場所は、山以外に本当に何もないのだ。しんどいからといって、立ち止まるわけにはいかない。
「ならせめて、車道を走りなよ。今だったらほとんど車もいないし、どう考えてもそっちのが安全だよ」
「‥‥確かに、そうだな」
歩道は狭いうえにあまり整備が行き届いていないので、この状況では危険極まりないのは事実。歩道を通っていたがためにこうして転んでしまっているのが何よりの証拠だ。
くらうはすぐに起き上がり、前後に車がいないことを確認してから、車道に出る。
どうしてわざわざ前後両方を確認しなければならなかったのか。
そんなもん、車道のど真ん中を走りたいからに決まっている。
「あんたホントに今の状況わかってんのか‥‥?」
「せめて、爽快感を味わいたい」
呆れるきょーこに、くらうは弾んだ声、はさすがに出せないが、少しだけ元気を取り戻してそう返す。
「‥‥はは、見ろよきょーこ」
真っ暗な道を走りながら、その途中に何かを見つけたくらうがどこか投げやり気味の笑いを浮かべる。
「どうした? ‥‥ってうわ、そりゃ凍えもするわ」
道路の途中に【ただいまの気温】という看板が時々あるのを見たことがある人は多いと思う。それが今このタイミングで、本当に都合よくたまたま設置されていたわけだが。
そこに示されていたのは【0℃】という容赦ない数字。ホント、なんでさっきまで外で寝ようとしていたんでしょうね。ちなみにくらうの持っている寝袋の耐寒温度は5℃。どう考えても耐えられるわけがない。
予定を考えている時、出発の時期は春休みの間と考えていた。4月になってしまうとマズイので3月中に行こうと思い、少しでも暖かくなるのを待ってできるだけ遅めにと思っていたが、3月終盤に予定ができてしまったことと、ここのところだいぶ暖かくなってきていたという理由で3月上旬という今この時期に出発することを決めたわけだが。
まあこれもちょっと頭を使っていればわかったこと。この時期の気温は三寒四温という四字熟語がある通り、同じ週でも暖かい日と寒い日とが入り混じる季節なのだ。ちょっと暖かくなったからといって、そのままどんどん暖かくなるなんて、どうして思っていたんだろう。
などと自分の考えの浅はかさを悔やんだところで現状は変わらない。
今度こそこんな真夜中の山中で迷ってしまっては、「やっちゃった☆」なんて言葉では済まない。マップで慎重に居場所を確認しながら、暖かな店内を目指して進む。安かったからといって深く考えず機種変更してしまったのだったが、この時ばかりはスマートフォンにしておいて本当に良かったと思った。
普通の状態であれば20kmという距離などたいしたものではなく、1時間もあれば十分走れる距離だったのだが、目的の場所に着いたのは公園を出ておよそ2時間ほどが経った時だった。
くらうはようやく、マップが示す場所へとたどり着いた。
そう、マップが示しているのは、ここで間違いないはずなのだ。
間違いない、はずなのに。
「‥‥何もない」
そこにはハンバーガー屋どころか、相変わらず真っ暗で明かりすらどこにも見当たらない。
もう一度地図で自分の居場所と、店の場所を確認。だが今いる場所はやはり間違いなく、マップに示されている場所なのだ。
「‥‥なんで」
もしかしてもう潰れてしまった店がいまだに表示されているだけなのだろうか。見ると、店があるはずの場所にはやや大きめのスーパーのような店があるだけ。
「もしかして、あの店の中にあるってことなのかな‥‥」
店内にあるのだとしたら、その店の閉店時間に合わせて中の店も閉まるだろう。24時間が当然だと思っていたが、確かに必ずしも全てがそうではないということを思い知らされた。だが今は、そんな教訓を学んでいる場合ではない。
店があるはずの場所を呆然と見つめ、くらうは地面にへたり込みそうになる。もう、体力も精神も限界が近かった。
「くらう、ツラいのはわかるけど、突っ立っててもどうしようもないよ。とりあえず、なんか探そう。なにがあるのかはわかんないけどさ、とにかく歩いて探そう」
きょーこが珍しく真剣な表情でそう促した。いつの間にか肩まで這いあがってきていたモアイヌも、とんとんと足踏みをしている。元気づけようとしてくれているのかもしれない。それでもくらうの心中は乱れっぱなしだった。
うん、と半ば放心したまま頷き、中空を見上げながら歩きはじめる。常に乗って走る、などという縛りは、さすがにこの時ばかりは完全に失念していた。
どうしよう、どうしようと、ただただ焦りを募らせながらとぼとぼと自転車を押し歩く。まさに呆然自失、失意のどん底といった状態だった。もはや本当になにかを探しているのかどうかさえ、自分でもよくわからない。
と、不意にきょーこがバシバシとくらうの頭をいつもより強めにたたきながら叫んだ。
「おいくらう! あっち、見てみろ!」
くらうは緩慢な動きでそちらに顔を向ける。
ぽつぽつと並ぶ建物の向こう側。そこにぼんやりと浮かび上がるあの光は――
「あれ、ファミレスじゃないか!?」
見間違いなどではなく、そこに見えたのは同じく24時間営業のファミレス、ジョ○フルだった。
ためらう必要などあるはずもない。くらうは大急ぎでその光を目指して走ると、そこには確かに1軒のファミレスが店内に明かりを煌々と灯し、こんな時間にもかかわらず営業を続けていた。
「‥‥‥‥良かった」
気を抜けば泣き崩れてしまいそうなほどの安堵感。くらうは一気に全身の緊張を解き、自転車を停めて入店する。
「いらっしゃいませ。お1人様ですか?」
「はい。あの、すみませんが温かいお茶をいただけますか?」
「かしこまりました。では空いているお席へどうぞ」
深夜にもかかわらず愛想のいい店員さんにとりあえずそれを注文し、席に着く。晩ご飯は食べたが、疲れと焦りでそれなりにお腹は空いている。なにより店に入っておいて何も注文しないのは、いくらなんでもありえない。
とにかく元気が出るものが欲しいと思い、スタミナ豚丼を注文。少し待つとお茶と一緒に丼が運ばれてきたのですぐさまいただきます、とご飯を頬張る。
「いや、ホントに偶然見つかってよかった」
「マンガみたいなシチュエーションだよな」
やはり店内は暖かい。お茶をすすって冷めた体もほぐれ、ようやく一息つけたといった感じだ。
まったりとする気にもなれず、くらうはご飯を食べ終わると少しだけ店員の目を気にしながらその場に突っ伏した。
不可能ではないと思うが、このまま朝まで起きておくのは少しといわずツライものがある。
「いいのか? 店ん中で寝ても」
「いや、よくないと思う。怒られたら謝ろう。でも、怒られるまで寝させてもらおう」
そう言っておでこのところにタオルを敷いて、着席したまま机に向かって深く礼。多くの中高生が授業中、知らぬ間に意識を飛ばしている時の体勢である。さすがにソファに寝転がるまではしないが、どこからどう見ても寝る体勢だ。
何度か店員がくらうの横を通り、文句を言われるかと少し身構えていたが、しかし店員はそんなくらうの姿を見ても特に何も言ってくることはなかった。
深夜4時という時間に、疲れ果てた顔で飛び込んできた旅行者。しかも何より先に温かいお茶を求めてきたあたりから、事情をくみ取ってくれたのかもしれない。
そんな気遣いを見せてくれる店員に感謝しながら仮眠のような睡眠をとり、その日1日をようやく終えることができたのだった。