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4、 3月10日(3日目)・室戸岬に降臨した菩薩達 ~It’s Japanese BOSATSU!!~

「確かに、旅は道連れってのはいいと思う。その場で会った人と今日まで何があったかとか話し合えば意外な発見もあるだろうし、これからの予定を聞けば知らなかったことが聞けて思わぬ目的地が生まれるかもしれないし。それにひたすら1人でい続けるよりは、ちょっとしたアクセントになって楽しいしな。でも、やっぱり旅行の途中なんだから、それぞれの予定とかペースとか、そういうのがあるわけよ。だからこういうのは拒まず追わず、偶然予定があったようだからしばらく一緒に行きましょう、程度がいいと思うんだよな。というかむしろそうじゃないとダメだろ」

「あー確かになー。それはわかる気がするよ」

 2人と別れてようやく自分のペースに戻せたくらうは、とりあえずきょーこに愚痴っていた。

「ま、だいぶ変なおっさんだったし、早めに別れて正解だったね」

「ご飯おごってくれた良いおじさんだったろ! 悪口言うな!」

「てめぇが先に言ってたんじゃねえかよ!」

 まあ、変な人だったのは確かだが、なかなか面白い経験になったことも確かだ。話題(ネタ)としては、すごくいい出会いだったといってもいい。

「お、なんか海岸があるじゃん。ちょっと写真撮ってこーぜ」

「別にいいけどー」

 先ほどまでは全然写真が撮れていなかったので、くらうは適当な海岸を発見し、海を背景にエミリアを撮ったり、不意に太陽エネルギーを吸収し始めたモアイヌを撮ってみたりしてから、再び自転車をこぎ始める。

「おいきょーこ、あそこ見ろよ!」

「なんだ!?」

「海岸だ!」

 止まりこそしないが、海岸を見つけてはしゃぐ2人。

「おいくらう、あそこ見てみなよ!」

「どうした!?」

「海岸だあ!」

 はしゃぐ2人。

「おいきょーこ、そこ見ろよ!」

「どこだ!?」

「海岸があるぜ!」

 はしゃぐ(略)。

「きょーこ!」

「海岸だあ!」

 はしゃ(ry

「きょー‥」「‥ってさっきから海岸しかねえじゃねーか!」

 スパーン! ときょーこの容赦ない、しかしベストなタイミングのツッコミが入った。

 いやまあ、海沿いの道を進んでいるうえ、ここはなんてことない郊外の道。よほど変わった風景も、目を引く観光地もない。となると自然とあるのは小さな海岸ばかりになってしまうのは仕方のないことだ。

「ったくさー。はしゃぎたくなんのもわかるけど、少しは落ち着きなよ」

「はーい‥‥ん、きょーこ、あそこ見てみろよ!」

「海岸だあ!」

「お前ノリいいな、ありがとう! でも今回はさすがに違うんだー」

 思わぬ付き合いの良さを見せてくれるきょーこにくらうが示したのは、道路と垂直に海に向かって伸びる1本の石の道か、桟橋のようなものだった。

「んー、なんだろうな。港ってわけでもなさそうだし」

 よくわからないので、とりあえず行ってみる。気ままな旅の基本である。

 その道は人2人がギリギリ並んで歩ける程度の幅と、数十mの長さで、海に向かって真っすぐ伸びている。周りに船が停まっている様子もなく、道の先がどこかにつながっている風でもない。その場に立ってみてもなお、それがなんなのかはわからなかった。

「なんなんだろうな、これ」

「うーん、よくわからんが、とりあえずいい感じの場所だ!」

「あー、そういう結論になるのか」

「よっしゃー、ちょっと休憩!」

 くらうはそう宣言し、慎重に自転車のスタンドを立てると、ごろりと足を海に投げ出す形で仰向けに寝転がった。

「なにやってんだよ」

「日光浴。天気もいいしさー」

「まあ、確かにね。んじゃあたしもー」

 そう言ってきょーこもくらうの横でころりと横になる。

 くらうはモアイヌを見習って太陽エネルギーを吸収。こういうことはやはり、1人でないとできないことだ。さっきまでは景色を見る余裕すらあまりなかったし。

 謎の満足感を得ると、慎重に歩いて道路に戻り自転車にまたがる。

 その先の道の途中、温泉のある道の駅を見つけくらうはふと声をあげた。

「ん、この温泉‥‥」

「ここがどうかしたの」

「いや、この宍喰(ししくい)温泉ってところ、元々の予定では入っていこうかなって思ってたんだよ」

「へー、そうなんだ。寄ってけばいいじゃん」

 しかしくらうは現時刻を確認し、首をひねる。

「いや、予定通りのペースだったら、ここに着くのは夕方かもっと遅い時間になると思ってたんだけど、今から温泉なんて入っても寝るには早すぎるし、入ってからまた走ってたんじゃ汗かいて意味なくなるから、もうスルーさせてもらおう」

 時刻は夕方というには早すぎる時間。太陽もまだまだ高く、寝床を確保するにはあまりにも早すぎる。

「そっか。じゃあしょうがないな。あたしは汗かかないからいいけどさ」

「お前時々全力で自分が人間であることを否定するよな」

 そしてくらうは視線を前方へ向け、にやりと笑みを浮かべた。

「あとな、この温泉はちょっとした目印でもあるんだ」

「へえ、なにがあるんだ?」

「この温泉な、限りなく徳島県の端っこにあるんだよ」

「ふうん、それが‥‥あっ、てことは!」

 きょーこがその意味に気づいて、くらうと同じく視線を前に向けた。その先には、2人の気分を高揚させるのに十分な標識が掲げられていた。その標識を越えればそこから先は――

「っしゃー! 高知県突入だー!」

「いやっほーう!」

 3日目、走行日数では2日目にして、ついにくらうは高知県に突入した。高知県は他の3県に比べて海沿いの距離が極端に長く、今のところ1日1県制覇しているが、さすがにここからはそうもいかないだろう。

「事前に調べた感じだと、高知県は道が狭くて整備されてないうえトラックなんかが多いらしいから、事故には十分注意しないとな」

「そうなのか。そんなで断念させられたら、浮かばれないな」

「死ぬ前提で言うなや」

 走っているうちに、道は完全に市街地を抜け、右手は山・断崖絶壁。左手は海・曇天荒模様。といった風になっていった。ついさっきまで晴れ渡っていたはずの空は、再び少しずつ雲が出始めている。今すぐ雨が降りそうというほどではないが、少し心配ではある。

 片側1車線の細い道路。道は整備が行き届いているとは言い難く、歩道を走るのは少し危険だ。ここまでは事前に聞いていた通り、しかし、

「‥‥車、全然いないな」

「だな。ありがたいけど」

 交通量は、驚くほど少なかった。海沿いの国道に出てから、まだ数台としかすれ違ってはいない。

「防波堤みたいな道だから、海岸だあ! もできないしな‥‥」

「え、気に入ってたのか‥‥?」

 しかしくらうはこの景色を見て思う。やや荒れた海、空は曇り辺りはどこか薄暗い。波は岩礁にぶつかって高く跳ね上がっている。そんな光景を、見たことがある。

「なあ、この光景さ、ちょっと東○の映画が始まる前のアレみたいじゃないか」

「○映? あー、あれな。確かに言われてみればそれっぽいな」

「話を振っておいてなんだが、きょーこが映画を知ってることに驚きなんだけど」

「ああ、でもそのシーン見たくらいですぐ寝ちまうから、そっから先はよく知らないけどな」

「ええっ!? あれ序盤とかいう以前にまだ映画始まってもねえじゃんか!」

「暗くなったら眠くなるんだよ‥‥ん、そこ、なんかあるよ」

 不意にきょーこが何かを見つけ、やむなくツッコミを中断してそちらに目を向けてみると、道のわきになにやら立ち寄れるスペースがあるようだ。近づいてみるとやや奥まった場所まで道が続いているようだった。

 その場所の手前には鎖が張ってあり、車は通行できなくなっている。とはいっても向こうまでほんの十数m。くらうは自転車を停め、鎖をまたいでそちらへと向かってみる。

「なんだこれ。えーっと‥‥夫婦岩、だってさ」

 目の前にあるのは左手にはやや大きめの岩、右手にはやや小さめの岩がもっさりと生えており、その2つが太いしめ縄で繋がれているものだった。夫婦岩といわれてなるほど、と思ったが、こんなのどこにでもありそうだ、というのも正直な感想だ。

 と、肩の上で大気に溶け込んでいたモアイヌがぬお、ぬお、と何かを訴え始めた。

「な、なんだ!? モアイヌが大暴れしている!(当社比)」

「本当だ! モアが大声で叫びながら荒れ狂ってる!(当社比)」

 珍しいことだったのでとりあえず、きょーこと謎の盛り上がりを見せる。

「で、なんだろうな。仲間意識だろうか」

「いやー、きっと仲間に加わりたいんだよ」

「これにモアイヌが加わったら、夫婦岩じゃなくて家族岩になるのかな」

「いや、きっと核家族岩だな」

「‥‥なんかすげえ嫌な名前だな」

 当のモアイヌは一通りぬおぬおと盛り上がると、またすぐに落ち着いて動きを停止させてしまった。何かに納得したのか、はたまた活動限界だったのか。

 くらうも岩を眺めるのに満足すると、再び鎖をまたいで車道に復帰。再出発。

「また岩だ! 今度はじじいの岩だ!」

「どう見ても銅像だろ」

 進み始めてすぐ、右手に坊主のようないでたちの大きな銅像を見つけ、きょーこがアホなことをわめきはじめた。

「なんの銅像だろうな。‥‥空海、だってさ」

 でかでかと書かれたその名前を読み上げ、ヤバいと思ったくらうが何か言う前に、きょーこはそのセリフを言ってしまった。

「くらう、くらう‥‥食うかい?」

 なぜかすごくワクワクしながらくらうに向かって○ッキーの箱を差し出すきょーこ。

「だから、そういう際どい発言やめろって。エライ人に怒られるぞ。ていうか自分ネタを自分でするなよ」

「なんだよ、リンゴのほうが良かったか?」

「そーいう問題じゃなくて」

 そんな調子で海沿いを走り続けること1時間強くらいだろうか、次にくらうの前に姿を現したのは、岩でも銅像でもなく、1本の木の看板。

「あ、あの看板は‥‥!」

「看板だあ!」

「お前ホントに気に入ってたんだな‥‥」

 すかさず叫ぶきょーこに呆れてから、再びくらうは前方に視線を戻す。そこに立っている看板は間違いなく、目的地である室戸岬を示すもの。くらうは自然と顔がほころぶのを感じた。元々の予定では明日になるはずだった室戸岬に今日中にたどり着けることになるとは――

「‥‥‥‥んん?」

 くらうはしかし、その木の立て看板の前までたどり着いて、首をひねった。

「どーしたんだよ」

「‥‥オレの知ってる室戸岬と違う」

 今回の旅行をするにあたって、事前に経路の確認は当然、どこに行ってどんなものを見ようか、というのも色々と調べていた。その際に実際に回った人がサイトに挙げていた室戸岬の写真を見ていたのだが、看板自体はほぼ同じなのだが、場所がどう考えても違う。

「どういうことだおい‥‥」

「時間帯とか、角度とか‥‥? それにしても違いすぎる‥‥」

「これは幻覚か何かか!?」

「いやだから、そのセリフも危ないから」

 そのサイトで見た室戸岬の写真は確か、看板があり、それに手をかけるオジサンとその背後から後光の如く射す夕日、という構図だった。さっきも言ったが看板自体はほぼ同じ、しかしここでは後光もクソも、目の前に巨大な岩が厳然と構えているため、この位置からでは太平洋を拝むことすらかなわない。

「別の場所なんじゃないの?」

「いや、室戸岬だし‥‥あ、いや、それもあり得るかも‥‥」

 よく見ると、まあよく見なくてもでかでかと書いてあるが、その看板の室戸岬という文字の後ろには、【ビシャゴ岩】という副題のようなものが付けられている。ということは、ここ以外にも【室戸岬】はあるのではないか、という可能性が浮上してきた。別に室戸岬というのはこのポイントのみをさ指すわけではないだろうし、となればキレイな景色が見える場所それぞれにこのように看板が立っているのかもしれない。それならばサイトで見たオジサンの写真が全然違う場所なのもうなずける。

「こっちにもなんかあるよ。これは石碑みたいだね」

「本当だ。名称及天然記念物‥‥室戸岬って天然記念物なのか」

「てことは、イリオモテヤマネコの仲間なのか!」

「あー‥‥まあ、うん‥‥そうなのかな」

 そうっちゃそうだが、非常に頷きがたい。

「じゃあもっと先に行ってみるか」

「うん。‥‥あ、でもちょっとここの景色も見てから」

 よくわからないが、日本の名勝(超きれいな景色が見れるところ)にもなっているわけだし、せっかくなので岩を渡り歩いて海を眺める。

「‥‥海だ!」

「‥‥海だな!」

「‥‥太平洋だ!」

「‥‥太平洋だな!」

「‥‥さっきから、ずっと見てたよな!」

「‥‥そうだな! 次行こう!」

 くらうは颯爽と自転車にまたがると、室戸岬のさらなる深部へと向かってペダルをこぎ始めた!

 次にくらうが辿り着いたのは、先ほどとは別の室戸岬――ではなかった。

 海側ではなく陸地側。ずっと山の斜面が続いていたが、そこだけぽっかりと大きなスペースができており、そのスペースの前に何やらたくさんの人が集まっている。近くにバスが停まっているところを見ると、観光ツアーか何かの途中なのだろう。あと年齢層がかなり高い。

「こんにちはー。あの、ここって何があるんですか?」

 何かあるのならばせっかくなので見ていきたい。そう思ってくらうは一番近くにいたおばさんに声をかけてみる。

「こんにちは。ここはね、空海が修行をした場所らしいわよ」

 ぴくりと後ろ襟あたりに隠れたきょーこが反応したが、くらうはすかさずその付近の肩を叩いて威圧。

「お遍路中ですか?」

「いえ、自転車で四国一周してるんです」

 なにやらその場所はパワースポットになっているらしく、おばさんと軽く雑談をしてから、観光客にまぎれてくらうも奥へ行ってみる。そこには左右1つずつ、2つの空洞というか、洞穴のような場所が。その穴の奥には何かが祀られているようだが、柵が張ってありあまり奥には行くことができない。

「ふーん、まあこんな場所か、って感じだな。どうだ、なんかパワーを得られたか?」

「今ならバハムートとか召喚できそうだ」

 なんというか、まあその程度の場所だ。神社仏閣等にそれほど興味がないので、この場にもさして興味を抱くことなく去ろうとしたくらうに、先ほどのおばさんが声をかけてきた。

「ちょっと待って。ここで会ったのも何かの縁でしょ。よかったらこれ、食べて」

 そういって渡される黄色い球体。何だろうと思ってみると、それはドラゴンb‥‥ではなくポンカンかなにか、柑橘系の果実だった。みかん以外は違いがよくわからないので詳細はわからなかったが、とりあえず7つ集めても願いはかないそうにない。

「ありがとうございます!」

 くらうはぱっと表情を明るくして受け取り、おばさんに礼を言ってその場を立ち去った。

「なんかさ、こういうの良いよな。旅の醍醐味の1つな気がするよ」

「そうだなー、いい感じのおばちゃんでよかったな。あ、あそこにもさっきと同じ看板が立ってるよ。あれも室戸岬なんじゃないか?」

 かなり上機嫌になったくらうは、きょーこの言う場所の前で自転車を停める。そこに立つ看板には【室戸岬 月見ヶ浜】と書かれていた。やはり、室戸岬はいくつかに分類されているようだ。

「写真の場所ってここ?」

「どうだったかな。正直、何個もあるなんて思ってなかったから、正確に覚えてないんだよな」

 名前の通り、そこはちょっとした浜のような場所だった。先程と違いここなら確かに夕日を背景に写真が撮れそうだが、一致しているかどうかは正直自信がない。

「なんか、ぱっと見のイメージだと、丘か崖かそういう類の高い場所だったと思うんだけど」

「まあ、なんでもいいじゃん。別にここだけが目的じゃないんだろ」

「んー、まあそうだな」

 そう言われると、確かにそんなことは些事である気がする。そしてきょーこは気を取り直してくらうに尋ねる。

「で、今日はどこで寝るんだ? もう夕方近いけど、また誰かの家に泊めさせてもらうのか?」

「いや、この辺に知り合いはいないよ。今日泊まる場所は‥‥そこだあ!」

 ビシィ! と無駄に勢いよく示したのは、月見ヶ浜からほど近い場所にある――坂。

「‥‥は? この坂のどこで寝るんだよ」

「この坂の上にキャンプ場があるらしいんだ。そこで寝ようと思って」

「キャンプ場って、寝袋しか持ってきてねーじゃんか」

「まあそうだけど、場所が確保できるのと、施設だったらシャワーも含め水もあるだろ。ちょっとさっぱりできる」

「なるほど。まあそれはいいんだけどさあ‥‥」

 きょーこはその坂を見上げて呟く。

「‥‥ほんとにこの坂上るのか?」

 きょーこの表情が苦くなるのも無理はない。目の前にそびえるのは、鳴門海峡への坂もかくやという急勾配の坂だった。

「‥‥うんまあ、正直オレも実際に見てちょっとビビってる」

 午前中は予想を超えるハイペースで走り続けたこともあり、疲労もかなり溜まっている。その状況でのこの坂は、かなり厳しいものがある。

「どうする? もうこの辺で適当な場所探して寝るか?」

「いや、せっかく調べてきたし、行く」

 くらうは最初の数秒は自転車に乗ったまま進もうと思ったが、即座にこの傾斜では無理がありすぎると気づき、押して歩く。

「あーあ、自転車の尊厳がー。エミリア泣いてるぞー」

「エミリアの身を案じてのことだよ。不可抗力」

 坂を上り、180度Uターンしている道をくるりと回り、変わらない勾配を上り続ける。再び180度のUターンをしてさらに上り続ける。3度ほどくるりくるりと回り、やたら長くやたら急な坂をようやく上り終えたと思うと、目の前に現れたのはお遍路さん用と思われる宿か何か。駐車場にはバスが停まっており、ちょうどこの日も団体のツアー客かお遍路さんがそこに泊まっていくようである。

 この坂の上にキャンプ場があるとは調べてきたが、どれほど上らなければならないのかはわからない。見ると、宿屋の向こうにまだ坂が続いている。傾斜はやや緩くなっているようではあったが、まだ上り続けなければならないのかと思うと気が滅入る。

「なんか、向こうにも道があるっぽいよ」

 坂を見上げていたくらうはきょーこの示す方向を見てみると、宿のような建物の奥、確かにそこにはさらに先へと進めそうな道があった。

 とりあえず行ってみようということで進んだその先にはお寺があり、さらに先へと進むと見えてきたのは、小さな灯台だった。

「室戸岬灯台‥‥だってよ。なんかひねりのねー名前だな」

「一応名物らしいけど‥‥普通だな」

 確かに中央の光を発する球のようなものは変わった形をしている。しかしそれ以外は何の変哲もない、ただのちっこい灯台にしか見えない。

「‥‥よしっ、上行くか」

 細かいことを考えるのをやめ、くらうは坂の上を目指して自転車をこぎ始めた。


「‥‥どこにあるんだろう」

 坂を上り始めることしばらく。

 疲れているうえに上り坂。かなり長いこと進み続けているような気はするが、正確な時間はよくわからない。現在時刻はわかるが出発時刻は覚えてないし。

「ほんとにこんなとこにあんのかな」

 道は整備されているものの、それを囲むのは大自然の木々岩々である。そんな疑いが生まれてしまうのも当然と言える。

「ここで諦めたら、旅行終了ですよ?」

「言われなくても頑張るよー」

 きょーこに煽られながら、くらうはさらに坂を上り続ける。


「‥‥なあくらう、ホントに大丈夫か?」

「‥‥‥‥‥‥だいじょう、ぶ」

 坂を上り始めて、さらにしばらく。

 くらうは完全にへばっていた。

 どこまで上っても目的地は見当たらず、終わりも見えない。状況はあまりに過酷だ。

 頻繁に足を止めながらも、それでも少しずつ坂を上っていくと、ようやく山と坂以外のものがくらうの視界に飛び込んできた。それは坂の途中に建てられた1本の小さな看板。そこ書かれているのは、

【展望台まで2km】

「‥‥‥‥」

 くらうはそれを見て呆然とする。

「展望台なんか‥‥! ‥‥‥‥目指してねえよ‥‥」

 勢いよくツッコもうと思ったが、残念ながら体力が足りず結局は尻すぼみに。

「なあ、もう引き返してさっきの宿みたいなところ行ってみないか?」

 きょーこの少なからずの心配を含んだ言葉に、くらうはしばし考える。

 キャンプ場は未だ見つからないが、ここまでの道は1本道だったように見えた。もしかしたら見逃していただけかもしれないが、出発の時点で道を間違えていたのかもしれない。こんな展望台の看板が現れた以上、ここよりも上にあるとも思い難い。ならばやはり引き返してもう一度道を探すか、きょーこの言うとおり先程の宿でいくらで泊まれるのか尋ねてみるのが、最も無難な選択肢かもしれない。

 が、しかし。

「行く」

「はあ!? 展望台なんか行ってどうすんだよ!」

「せっかくここまで来たし、行く」

「なあ、くらう疲れてんだろ。くだらねー意地張ってないでさ‥‥」

「行く」

「‥‥もう好きにしろよ。でもホント、無茶はすんなよ」

「行く」

 ここで引き返してしまえば、ここまで必死に上ってきたことが無意味になってしまう。

 ――とかそんなことよりも、とりあえずなんか悔しいから、という小学生並の意地を発揮し、展望台目指してさらに自転車をこぎ始めた。

 不意に感じる、耳たぶに触れる柔らかく濡れた感触。見るとモアイヌが気遣わしげに、くらうの耳を舐めていた。こんな見てくれのくせに、行動は犬っぽい。

「‥‥ありがとな」

 自分の顔は見えないのでよくわからないが、どうやらよほど疲れた顔をしているらしい。モアイヌが気を遣うほどなのだから、よっぽどだ。

 とりあえずくらうは軽く頭を撫でてやってから、残り2kmだという道をさらに上り始める。終点が全くわからない状況よりは、幾分かマシになったような気がしないでもない。

 体力はほぼ使い果たした。残っているのは、どーでもいい意地だけである。



「‥‥着いた」

 辿り着いたのはやや広めの駐車場。曜日のせいか時間帯のせいか、車はほとんど停まっていない。駐車場の奥には小さな階段が設けられており、そこから展望台へと上がることができるようだ。

 くらうは極度の疲労で半ばふらふらしながら適当な場所に自転車を停め、階段を上がる。そして――

「‥‥うわあ」

 目の前に広がる景色に、思わず感嘆の呟きを漏らした。

 かなり標高が高い位置まできているらしく、その展望台からは眼下に広がる景色が一望できる。目の前に広がるのは太平洋。多くの島が点在する瀬戸内海とは違い、水平線のかなたを見渡せるほどにその眺めは果てなく広大だ。時はすでに夕刻。空は茜色に染まり、それを受けて太平洋も淡くオレンジ色に光り輝いているようである。昨日の雨の名残か、空にはやや雲が広がっているが、しかしその影響で景色に陰影ができ、赤と藍のコントラストがより一層その景色の美しさを引き立てているようだ。おそらく日が沈む直前の、今だからこそのこの絶景なのだろう。もう少しここに来る時間が前後していれば、この景色は見られなかったはずだ。

 くらうはしばし疲れも忘れ、その景色に見入っていた。

「‥‥ふう」

 しかし疲労が尋常でないこともまた事実。すぐに我に返ると、備え付けられているベンチに腰を下ろし、ようやく一息ついた。

「こんにちは。旅行、されてるんですか?」

 不意に声をかけられそちらに目を向けると、そこにいたのは同じく展望台で景色を見ていた老夫婦だった。

「ええ、そうです。自転車で四国一周しようと思ってるんです」

「自転車で! すごいですねえ」

 その相棒のエミリアは今は展望台の下である。その自転車を見たらもっと驚いてくれるだろうか。まあ、わざわざ見せびらかして自慢するつもりもないけれど。疲れてるし。

「好きなんですよ。頑張ってこの坂を上ってきましたけど、ここまで来てよかったです」

「ですねえ。今が多分、一番きれいな時間帯ですよね」

 そう言って、くらうと老夫婦は再び景色に見入る。

「では、私たちはお先に失礼しますね。頑張ってください」

「ありがとうございます」

 そう言って老夫婦は展望台を降り、くらうは1人その場でもう一度息をついた。

「で、これからどうすんだ?」

「そうなんだよなあ‥‥」

 1人きりになった途端きょーこが現実を突きつけてきやがり、くらうは再び暗澹とする。

 確かにこの景色は疲れ切っているという補正を抜きにしても絶景だと思うし、おかげで幾分か気も和らいだ。が、かといって寝場所がないという現状は何も変わらない。

「ちょっとゆっくりしてから、とりあえず下りよう。途中でキャンプ場が見つかるかもしれないし、戻ったら別の道があるかもしれないし」

 くらうはもうしばらくその場で体を休め、とはいえあまりゆっくりしすぎると日が沈んでしまうのでそこそこで展望台を降りる。

「っしゃあー! じゃあ下りるかー!」

「行け行けー!」

 そしてきょーこと共にテンション高め。ここま上りり続けてきたのだから、ここからは下り続けである。下り坂といえばつまり、パラダイス!

「ひゃっほー!」「ひゃっはー!」

 きょーこと奇声を発しながら足を動かすことなく坂を下っていくくらう。下り坂がここまで楽で気持ちいいものだとは思わなかった。

 つい先ほどまではくらうに絶望しか与えなかったはずの道がぐんぐん後ろに流れてゆく。

 と、その景色の中にくらうは先程は気づかなかったものを発見した。坂で急ブレーキをかけると死んでしまうので(ノンフィクション)、ゆっくりとブレーキをかけてその前で停車。

「おいおいくらう、何で止まってんだよ!」

 文句を垂れるきょーこは無視してくらうは今しがた発見したもの、看板を見て、その矢印が指す先を見た。

【夕陽ヶ丘キャンプ場】と書かれた看板の矢印の先には、先ほどは見えなかった横道があるではないか!

「ん、もしかして探してたキャンプ場ってここか!」

 きょーこも看板と道の存在に気づいたらしく、頭の上で弾んだ声をあげる。

「うん、そうみたいだ。上ってるときは全然気づかなかったな」

「まあ疲れてたし必死だったしな」

「それにしても‥‥」

 道の先は、今いる場所よりもさらに鬱蒼とした山の中へと続いているようだ。本当にこの先にキャンプ場があるのか心配になる。

 とはいえここまで来ているし、もともとここで寝る予定だったのだから行くべきなのだろうと思い、意を決してその道を進み始める。

 左右だけでなく頭上の多くの部分も木々に覆われ始めた道に入ってゆき、そのまま進むとやがて柵のようなものに看板が取り付けられているのが目についた。そこには確かにキャンプ場が存在していることが示されている。

 が、なんだか古ぼけた看板は草に浸食され始めているし、日が沈みかけている今の時間ではただでさえ薄暗い山の中に届く光は少なく、不気味さすら感じてしまう。日中かつ、もう少しひとけのある時に来ていればもっと普通に見えていたのかもしれないが、暗くシンとしたこの状況では、正直恐怖しか感じない。

 山中のキャンプ場なのだから、どうしても自然に浸食されやすくはなるのだろう。もう少し進めば整備された道が見え、きれいな芝生が生え小屋なんかが見え始める場所にたどり着くという可能性は十分にある。そしてくらうがためらう理由がもう1つ。

「‥‥場所借りるだけで、1000円もいるのか」

「はあっ!? この状況でそんなことで渋ってんのかよ!」

「いやだって寝袋は自賛だし、シャワー浴びて寝るだけのつもりなのにそんなにいるのか‥‥。それだったら別に公園とかで寝ればいい気がするんだけど」

「いや、こんくらいは必要経費ってヤツなんじゃないの‥‥?」

 きょーこがやや呆れた口調でそう言うが、くらうは苦い表情を崩せない。

 まあ、普通に考えればその程度の金が必要なのは当然なのだろうが、色々と甘く見まくっていたくらうにとっては、寝るだけで1000円など痛すぎる出費だ。しかしここに行かなければ寝場所がないというのも事実で、とはいっても金額はさておきなんだか不気味であることもまた、事実。

「‥‥‥‥他のところ探そうか」

「おいおい、別に好きにすればいいと思うけど、でもそれでどーすんのさ。もう1000円くらい出しちゃえばいいじゃん」

「うーん、確かにそれもあるんだけど、でもやっぱ、ここはちょっと怖い。今もかなり腰が引けてる」

「‥‥情けないことはっきり言うなよ」

 再び呆れたため息をつくきょーこだったが、特に反対する気もないらしく、モアイヌはもともと意見など持っていないようなのでくらうはそのまま坂を下ることに。

 上るのにかかった何分の一かの時間で坂の下の駐車場に戻り、くらうはしばらく迷ってから、そこにある宿のような建物を見た。

 あとはもう、頼れそうな場所といえばここしかない。しかし正直なところ、ここにはあまり頼りたくはなかった。

 最初に見た時から、だからこそ立ち寄らなかったわけだが、くらうがここを避けようとしていた理由はキャンプ場をためらった理由の1つでもあった、値段のことだ。

 貧乏性、ときょーこにまたバカにされてしまいそうだが、しかしこんなちゃんとした民宿のような場所なのだ。宿には【宿坊】と書かれており、その字面からも、お遍路さん用の宿と見て間違いはなさそうだ。となれば、当然1000円や2000円程度ではとてもじゃないが泊まれないだろう。

 とりあえず駐車場の隅に自転車を停め、少し考える。

「どーすんだよくらう。考えたって仕方ないよ。早くしないとホントに真っ暗になっちゃうよ」

 確かにきょーこの言う通りだ。完全に日が沈んでしまえば動きづらくなり、ここ以外に泊まれる場所を見つけるにせよ、探しづらくもなる。

「だな。聞くだけ聞いてみよう」

 上限は2000円くらいだろうか。まあ、ありえないのだけれど。

 ダメだったら、近くに寝られそうな場所がないかどうかだけでも聞いてみよう、程度の気持ちでとりあえず宿へと入館した。

 宿内は入って左手に受付、その奥は食堂になっており、長机が数列並べられていて、かなりの大人数でも食事ができるようだ。右手には机とソファが置いてあり、正面のスペースにはお土産が置いてある。さらにその奥は客間か別館にでも行けるらしき通路が続いている。

 なかなか立派な建物だ。駐車場にバスが停まっていたが、どうやら1組か2組かほどのお遍路さんの集団が宿泊するらしく、幾人かが宿内でくつろいだり見回ったりと各々自由に行動をとっている。

「あの、すいません、ここって1泊いくらで泊まらせていただけますか?」

 かなり唐突ではあったが、くらうはとりあえず受付へと進むと、最も大事なことを受付にいたおばちゃんに尋ねる。

 少し不思議そうなおばちゃんの視線の向こう、受付の後ろの壁には【1泊5000円から】と書かれた紙が張ってあった。

 はい、終了。

 と思っていたくらうだったが、おばちゃんはくらうのどう見ても旅行をしているであろう装いを見て何か思ったのだろう、質問には答えず逆に質問をされる。

「お遍路されてる方ですか?」

「‥‥いえ、自転車で四国一周をしていて、その途中なんですが泊まる場所が見当たらず、ちょっと訪ねさせてもらったんです」

 何と答えるか少しだけ迷ったが、中途半端に嘘をついたところですぐばれるし、大した意味もないだろうと思い正直に答えると、受付のおばちゃんは何かを考えているようだった。

 なんにせよ、5000円以上もかかってしまうのだったらどうしようもない。ありえない話だが、同情して半額にしてくれたところで2500円。今後を考えるとそれでも少々厳しいものがある。なんと懐のさみしいことよ。

 べ、別に、貧乏性なんかじゃないんだからねっ!

 諦めて近くで寝られそうな場所を尋ねようとしたくらうに、しかしおばちゃんは何かを悩んだ末、聞き慣れない単語を投げかけた。

「‥‥じゃあ、お接待してあげます」

「‥‥オセッタイ?」

 首を傾げるくらうだったが、ちょうどそこへお遍路さんであるらしい2人組がやってきて、なにやら長い紙をおばちゃんに差し出した。どうやらお遍路をしながら各場所で書いてもらうお経かなにかのようで、おばちゃんはその人たちがいると詳しく説明しづらそうだった。

 ちょっと待ってて、と言われ、なにがなにやらわからないまま、くらうは後ろのソファに腰を降ろしておばちゃんの用事が終わるのを待つ。

 ようやく何かを書き終わり受付を離れていく2人組と入れ替わりに、くらうは再び受付のおばちゃんのもとへ。おばちゃんは少し困ったような言いづらそうな感じだったが、くらうが全く何もわかっていないらしいと見てとったのだろう。本当に簡潔にわかりやすく、オセッタイについての説明をしてくれた。

「要するに、タダで泊まらせてあげるってことです」

 ‥‥‥‥

 一瞬、くらうの思考が止まった。

「‥‥え、ええっ、いいんですか!?」

「はい、どうぞ。部屋のカギがこれ。部屋は‥階にあるから、奥の階段で上がってください。少ししたらお布団敷きに行きますから」

 そう言われてカギを渡され、くらうは言われたとおり階段を上ってカギに書かれた番号の部屋へ。戸を開けると小ぢんまりとした玄関があり、右手にはトイレだろう、扉が見える。電気をつけて部屋に入ると、そこは畳が敷かれた8畳から10畳ほどはありそうな広々とした和室だった。左手には押し入れと床の間。正面には長い机が設置され、大きな障子窓がある。

 よいしょ、と荷物を置いて部屋の真ん中にちょこんと座ると、今まで大人しかったきょーこが正面に下り立ち、2人はしばし無言で顔を見合わせる。そして、

「いやいやいやいや、何この好待遇! ホントに大丈夫なのかな!?」

「すっげえじゃんくらう! タダでこんな良いトコで寝られるなんて、あたしたちそーとーラッキーだよ!」

 不安と歓喜、異なる感情を全力でぶつけあった。

 などといいつつ、くらうもかなり顔がにやけてしまっているのだけれど。

「いや、でもホントにびっくりしたな。お接待ってのがどういうことなのかはよくわからんが、それでもめちゃくちゃありがたいことには変わりないぞ」

 これは旅から帰った後に聞いた話だが、四国ではお遍路さんに対して『お接待』と呼ばれる行為が様々な場所で行われているらしい。このような宿の提供であったり、食事をふるまってくれたり等々。だが基本的にはそれはお遍路をしている人にのみ与えられるものであり、今回のようにただの旅行者であるくらうに振舞われるのはかなりイレギュラーだと思われる。

 今回くらうがお接待を受けられたのはおそらく、もう夜も更けかけていることと、お遍路でなくとも長期の旅行をしているらしいこと。そしてなにより、自分ではわからなかったがおそらくひどく疲れた顔をしており、半ばかじりつくように値段のことを尋ねてきた若者ということから、困っているらしいくらうに手を差し伸べてくれたということではないだろうか。

 しばらくきょーことわいわいと盛り上がっていたが、やがて部屋の扉がノックされ、やってきたのは受付にいたのとはまた別のおばちゃん。先程言っていた通り、布団を敷きに来てくれたらしい。

「すいません、ありがとうございます」

 布団に対しても、泊めてもらえたことに対しても、くらうは深くお礼を述べる。

「お接待してもらったんだってねえ。お遍路してるの?」

「いえ、お遍路ではないんですけど、自転車で四国を一周してるんです」

「ああ、そうなの。じゃあ今日はゆっくりしていってね。このあとご飯があるから、少ししたら下の食堂まで降りて来て」

「ご飯までいただけるんですか!?」

「ええ。あと1階の奥に行ったところにお風呂があるから、好きな時に入ってね」

 そう言っておばちゃんは布団を整え、部屋を後にした。

「‥‥すげえな。お接待」

「‥‥うん。これが破格の待遇ってやつか」

 しばらくきょーことともに呆然としてから、荷物を整え汗だくの服を着替え、1階の食堂へ。

 見ると団体のお遍路客とは少し離れた場所にぽつんと1人分の食事が用意されていた。席に着いて見ると、ご飯は非常に簡素なものではあるが、今のくらうにはこれ以上ないほどの恵みである。

 離れた場所で1人食事をとっている異質な人物はやはり浮いているのだろう。団体のお遍路客からちらちらと視線を浴びるのを感じながら、くらうはさっと晩ご飯を済ませた。

 食べ終わるとすぐに部屋には戻らず、調理場なのだろうのれんの向こうへ顔を出すと、宿のおばちゃん達が机を囲んで同じように食事をとっていた。

「すいません、ごちそうさまです。食器は机に置いたままで構いませんか?」

 突然のくらうの登場にちょっと驚いた表情をしたおばちゃんたちだったが、すぐに笑顔になって構わないよ、と柔らかく返してくれた。

「本当に今日はありがとうございます。ごちそうさまでした」

 もう一度お礼を述べてから、くらうはその場を後にして部屋へ戻った。

 そしてくらうがいそいそと向かったのはお風呂。別館、というほどでもないが、いったん外に出て数歩歩くとお風呂場に辿り着いた。今は誰も入っていないらしくシンとしている。

 お風呂はそこそこの旅館の、大浴場程度の広さだった。シャワーは10個ほど設置されており、湯船は1つ、20人程度なら優に入れるのではないだろうか、というくらい。

 しっかりと体を流してから、くらうはざばりと湯船に身を沈めた。

「あ~、生き返るー‥‥」

 おっさん臭いセリフを吐きながら、くらうは全身の力を抜く。シャワーはモゲの家でも浴びさせてもらったので数日ぶりの風呂というわけでもないが、現在の住まいもシャワーのため、こうして湯船につかるのは本当に久しぶりだ。実家の風呂とかでもなく、ゆったりと温泉につかるのなんて、どれくらいぶりかわからない。しかも今は疲れ切った状態だ。これ以上気持ちのいい風呂なんて他にないだろう。

「いやあ、いい湯だな」

 と、気の抜けた声をあげているのはくらうの横で同じく身を浸しているきょーこである。女性っぽい姿をしているのに男湯に入っていていいのだろうかという気もするが、まあ性別うんぬん以前に人ですらないので構わないだろう。方位磁石は一応外しているが、服は着たままである。多分服と体は一体なので、服が濡れるとかそういう概念がそもそもないのだと思う。いい加減細かいことにいちいちツッコむのも面倒になってきたし、そういうものなんだろうと気にせず流しておくことにする。ついでに湯船の底に沈んでいるモアイヌはもう見なかったことにする。

 1時間近くは浸かっていたのではないだろうか。体の汚れをたまった疲れごとしっかりと洗い流し、再び部屋へと戻る。早く寝たい気持ちはあるが、とりあえず今日の出来事をノートにメモしなければならない。

「マメなやつだなあ」

 呆れと感心が半々くらいに呟くきょーこは、道中でもらった柑橘類を勝手に剥いて食っていた。せっかくなのでくらうもそれをつまみながらメモ。

「まあ、何もなしよりこういうのがあれば後から詳しく思い出しやすいしな。実際、2年ほど後にこうして役に立つことになるわけだし」

 しれっとメタ発言。当時はこんなもの書こうとはまだ思っていなかったけど。

 メモを終えると次は地図を開いて明日の経路確認。今日は確かにオーバーペースだったが、おかげでかなり距離は進めている。少しペースを落としたとしても、明日は高知市街辺りまではいけそうだ。今朝70kmのおっちゃんが行きたがっていたあたりである。

「そういや結局あの2人会わなかったな。今日はどの辺で休んでんだろ」

「さあ。男の子はともかく、おっさんはまだ走ってんじゃないの? 70kmで」

「てことはもう高知市にいるのかなあ‥‥」

 あながちありえない話でもないのが恐ろしい。

 続いてスマートフォンで高知市周辺の地図検索。部屋にはコンセントもついていたので、ありがたく充電させてもらっている。

「んー、ネットカフェはないなー。あ、でもちょっと離れた場所に何個か公園があるな」

 実際に行ってうろうろしてみれば店もあったのかもしれないが、軽く検索してみただけではヒットせず。その代わりいくつかの公園を発見した。明日にはついに寝袋が役立ちそうだ。距離もここから約100kmほど。おそらくちょうど良い時間にその辺りに着くことになるのではないだろうか。ちなみに今日の走行距離はおよそ130km。どう考えてもオーバーペースだ。

 一通り準備も終わり、そろそろ寝ようかという時になりふと気づく。

「そういえばさ、風呂場の洗面所で服洗えないかな」

 今着ているのは全て吸汗速乾素材の服である。洗濯機のように脱水はできなくとも、1日干しておけば十分に乾いてくれるように思える。

 自らの服をくんかくんかしてみると、汗臭くはあるが常軌を逸しているわけではない。しかしこのまま数日経てば徐々に発酵してゆくことは間違いない。そうならないための対策は少しでも早くとっておくに越したことはないだろう。

「んー、まあできるんじゃないの?」

 かなりどうでもよさそうなきょーこを置いて、くらうはシャツとハーフパンツ、靴下とタオルを持って1階の風呂場へ向かう。洗面所を借りてざぶざぶと服を洗い、できる限り水を絞って持って上がろうとするが、

「‥‥びっちょびちょだな」

 全然水が絞れない。いくら速乾性が高いとはいえ、本当に大丈夫なのだろうかと今更になって不安になってきた。洗濯機って偉大なんだなあ。

 とりあえず滴らない程度にまでは水を切って部屋へ帰る。押入れにはハンガーも入っていたのでシャツとハーフパンツをそれにかけ、窓枠に引っかける。靴下とタオルは部屋の隅に置いてあった小さな物干しにかけておく。

 これで大丈夫かな、と思いながら部屋の中を見ていると、ふと机の下にドライヤーが置かれているという世紀の大発見をした。これがRPGなら盛大なファンファーレが鳴っている。

 服はともかく、靴下くいならドライヤーで今すぐ乾かすこともできそうだ。さっそくドライヤーの送風口を靴下に突っ込み、スイッチオン。ヴおおおー、とひどくこもった音と臭いをまき散らしながらドライヤーが温風を発する。

「うーん、激臭とまではいかないけど、やっぱ水だけだと、そこまではきれいにできないなー」

 適当な手洗いなのも問題なのかもしれないけど。

「まあどうせまた臭くなるんだし、応急処置としてはいいんじゃないの?」

「処置できてんのかな‥‥」

 やっぱり水で手洗いというのは無理があるみたいだ。もともと途中で洗うつもりはなかったので、1着を2、3日着る予定で、服とズボンは4,5着ずつ持ってきている。失敗したところで大打撃ではないが、今後旅行する機会があったらこの方法は望ましくないと思っておこう。

 そのまま数分間臭いと戯れてどうにか靴下だけは乾かし、一応もう少しだけ干しておく。

 ふと気づくと、しっかり絞ったはずの服から水が滴っていた。やべえ、と思いつつトイレでもう一回絞って再度ハンガー。やっぱり厳しいなこの方法。

 そんなことをしている間に夜もすっかり更けてしまった。早く寝なければ明日早く起きられない。

「明日の朝ごはんも頂けるみたいだし、ホントにここを訪ねてよかったよ」

「あたしの日ごろの行いが良いからだろうな。良かったな、あたしを連れて来て」

「うん、そうだな」

「ちゃんとツッコめよ!」

 ツッコミ待ちだったらしい。そこにツッコミたいが、もう疲れたので早く寝たい。くらうはそのままきょーこを放置してもぞもぞと布団にもぐりこんだ。

 ったく、とやや憤慨気味にきょーこも机の上で横になる。モアイヌはずいぶん前から床の間のつぼの横でぴくりともしていない。もう寝てしまっているのかもしれない。まあ、普段から起きているのか寝ているのかよくわからないが。

「じゃあ、お休み。明日も頑張ろうな」

「んがー」

 返ってきたのはいびきだった。寝るの早えな。

 そうして思いもよらぬ幸運と厚意をかみしめながら、くらうは静かに眠りについたのだった。


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