3、 3月10日(3日目)・恐怖! 時速70kmの男!
その日起きたのは朝7時過ぎ。外を見てみると、いまだ若干の雲は広がっているものの、雨が降っている気配はない。予報ではこれから晴れるらしいので、当たることを祈るばかりだ。
くらうが起きた気配を察してかモゲも目を覚ました。さすがに昨日あれだけ寝たのだから、今日も1日寝ているつもりではないようだ。
朝食を提供してくれると言うモゲは台所へと向かいながら、ニヤリと笑顔を向けてくる。
「朝ごはん‥‥食うかい?」
「その必要はないわ」
「え、どうすん、食べんの?」
「あ、食べる。食べます。ごめん」
変なノリをしてきたので変なノリで返したらちょっと戸惑われた。
納豆ごはんをありがたくいただき、すぐに出発の準備をする。
「じゃあ、ありがとな」
「いいよー。またなんかあったら遊ぼうや」
簡単な別れを済ませてくらうはモゲの家を後にし、1日ぶりの自転車の旅を再開した。
「なんか1日しか空いてないのに、久々な感じするなー」
きょーこが頭の上で風を受けながら、少し機嫌良さげな声をあげている。確かに、昨日何もしていないこともあってかそんな感じはする。
「だけどさっそく晴れてきて良かったな。やっぱ天気いい方が気持ちいいもんなー」
などと言いながら何かをもぐもぐしているきょーこ。見ると、小脇に抱えた袋に入ったたい焼きを笑顔で貪っている。
「‥‥食うなとは言わないけどさ、少しは遠慮して食えよ?」
やや呆れ顔で注意すると、しかしきょーこはふっふっふ、となぜか誇らしげに笑いを漏らした。
「甘いなくらう。そのあたり、あたしに抜かりはないよ。このおやつはモゲの家にあったものを拝借してきたのさ!」
なるほど、昨日本を読んでいる間大人しくしていると思ったら、食べ物を探してごそごそしていたようだ。
「あんまり食ってると、いつか怒られそうだしな」
しかも理由が何気にかわいい。
「しかも見ろ! たい焼きだけじゃねえぞ! いくらでも食えるように、いっぱい作っといたんだ!」
自慢げにきょーこが掲げる袋の中には大量のポッ○ーとリンゴ、そしてもう一袋たい焼きが詰まっていた。そしてその袋は頭に刺さったストラップの金具に引っかけられている。
「なあ、そんなもん引っかけてて、頭の金具もげないのか?」
「モゲだけに!」
「全然上手くねえよ」
「まあ、これ案外頑丈だから大丈夫だよ。それにもしもげても、いざとなったら痛みなんて消しちゃえるのさ!」
「あれ、それキャラが違わないか?」
「共通のキャラ設定じゃなかったっけ」
「そうだったっけ」
相変わらずの下らない話をしながら快調に自転車を走らせ、徳島市を抜けてからしばらく経った時のことである。
くらうの後ろから1台の自転車が、徐々に間隔を狭めてきていた。そしてぴたり、とくらうの背後につけ、そして――と、ちょっと緊迫した展開を煽ってみたが、別にどうということもない。普通に通りすがりの人に追いつかれただけである。折りたたみ自転車になど誰でも追いつけるだろう。昨日だって何台の自転車にもすいすいと追い抜かれていっているし。
が、今回は少し違ったようだ。後ろからくらうに追いついたその人は、それまでのようにただ横を通り過ぎていくだけではなかった。
「こんにちはー」
急に声をかけられ、若干面喰らいながらもくらうは笑顔で挨拶を返す。
声をかけてきたのはクロスバイクかロードバイク(当時は違いが全く分からなかったのでどっちかわからない)に乗った、髭濃い目のおっちゃんだった。背中には大きなデイバッグを背負っており、服装や装備を見たところ、おそらく同じように自転車旅行をしているのだろう。
おっちゃんはくらうの横に並ぶと、親しげに声をかけてくる。
「自転車旅行中ですか?」
「はい、四国一周しようと思ってるんです」
「そうなんですか。ちなみに僕も四国回ろうと思ってまして。これからどこまで行くつもりなんですか?」
「今日は室戸岬まで行けたらいいなー、って感じですね」
「あっ、そうなんですか! 実は僕もこれから室戸岬に行くつもりなんです。よかったら一緒に行きませんか?」
「あー、構わないですよ」
思わぬお誘いに少し驚くが、これはこれで楽しいかもしれない。くらうはさして迷うことなくOKを出していた。
「じゃあ、実はもう1人偶然会った連れがいるんで、その人と合流しましょう。もう少し先で待ってると思うんで」
1人旅をしていたら2人旅になるかと思ったらどうやら3人旅らしい。
少し先にあったの橋の途中には、そこで足を止めている1人の自転車乗りの後ろ姿。どうやらその人がもう1人の旅の連れであるようだ。
彼はこちらを振り向き新たな旅の連れに一瞬驚いていたが、しかし特に難色を示すこともなく快く迎え入れてくれた。こちらはまだ若い、くらうと同じくらいだろうかというニーチャンだった。
まずは簡単に自己紹介。とはいっても教え合うのは名前や連絡先などではなく、どこから出発してどこへ行くのか、という程度のひどく簡素なものだ。偶然にも皆香川を出発点としているらしかった。
3人揃って共通の目的地も確認したところでさて出発、の前になにやらおっちゃんが写真を撮ってくれるというので、まあせっかくだからニーチャンとツーショット写真を撮ってもらうことに。これがこの旅唯一となる、くらう自身が写っている写真となる。もともと自分なんぞ撮る気はなかったのだけど。
と、写真を撮るために自転車を降りてようやく気づいたのだろう、ニーチャンはくらうの自転車をものすごい目で凝視していた。
「‥‥え、これで走ってるんですか?」
「そうですよー。どうせだったら変わったことがしたいと思って」
「‥‥すごいですね。僕には絶対無理ですよ」
モゲに引き続き、今のところ出会う人全て(2人)に欲しかったリアクションをもらえている。やっぱり、エミリアで挑戦してよかった。
そのような成り行きに近い形で、一時の3人旅が始まった。
走り出してまずは先頭がおっちゃん、続いてニーチャン、しんがりをくらうが務める形に。
「‥‥なあくらう。なんかあたしたち浮いてる気がしないか」
「気がするんじゃない。浮いてるんだ」
襟元に隠れるきょーこの呟きに、くらうは確信を持って答える。
ロードバイクの旅行者の後ろを、折りたたみ自転車が近い速度で追いかけていっているのだ。周りからの執拗な視線を感じることは今のところあまりないが、ほぼ間違いなく自分は場違いだろうという自信がある。
「ていうか、2人とも速いな」
「そりゃそうだろ。ていうかエミリアが遅すぎんだよ。いや、エミリアをバカにしてるわけじゃなくてさ、普通に考えてこのチャリはおかしいだろ。今更だけどさー」
「まあ、その通りなんだけどな」
必死に2人についていっていると、不意に道の途中で先頭のおっちゃんが自転車を止め、カメラを取り出した。なんだろうかと視線を向けてみると、どうやらお寺のようだ。おっちゃんの動きを見て、ニーチャンもつられて寺を写真に収めていた。
「くらうは撮らないのか?」
「うん、風景だけ撮ってもなー。せっかくだからきょーこかモアイヌもフレームに収めたい」
「撮る間くらいじっとしてるよ。撮ればいいじゃんか」
「じゃなくて、突然アニメ然とした女の子のストラップなんかとり出したら、さすがによろしくないだろ。オレならドン引く」
「恥ずかしがってんのか」
「自重してるだけだ。大事なことだよ」
あとせっかく撮るなら色んな角度で色んな工夫をしたいということもあり、こんな突発的にチャリの上から適当に撮っても仕方ない、とも思う。別に写真を撮ること自体が目的なのではなく、『いい雰囲気の』写真を撮りたいというのが大きいし。
普段は特に写真なんて撮ることもないので、確固としたこだわりを持っているというわけでもないのだが、変なところで凝り性なのだ。
とはいえそんなこだわりを他人に押し付けるつもりもないので、ちょうどいい息抜きだと思って静かに待つ。
と思ったら数秒で終了してしまった。まあ、そりゃそうか。
再び走り出す一行。しばらくは平坦な道を進んでいたが、やがて坂にさしかかった。やや標高が高いところにいたのか、珍しく下り坂から始まる。
「うおお‥‥やべえ、やべえ。めちゃくちゃ差つけられてる‥‥」
気づくとロードバイクのお2人は、はるか前方を進んでいた。タイヤの大きさも全然違うわけだし、当然の結果だがさすがにちょっと焦る。
そしてそのあとには上り坂が待ち受けている。くらうはギアを変えて軽い負荷でくるくると急いで上り坂を上り始めると、意外や意外、少しずつ2人に追い付きはじめ、すぐに後ろまで追い付いてしまった。
「なるほど、タイヤが小さいから、上り坂ではこっちのほうがよっぽど楽なのかな。思わぬ発見だな」
それに気づいてからは下り坂で少々離されようがあまり気にしない。そのあとの上り坂ですぐに追いつけばよいだけだから。
そうして上ったり下りたりを繰り返しながら、2、3時間ほど走った頃だったろうか、上り坂の途中でおっちゃんが音をあげた。
‥‥いや、身も蓋もない言い方で申し訳ないが、その通りだったんだから仕方ない。
どうやら走り続けてだいぶ脚が参っていたらしく、不意に自転車を降りると押して歩きはじめ、山中の休憩所、というよりは一時的避難地のような、とりあえずガードレールがのけられ、たいして整備もされていないただの空間で3人は一度足を休めた。
くらう自身もおっちゃんほどではないにしろ、かなりの疲労がたまっている。タイミングとしては悪くはない。
「いやー、さすがに疲れましたねー。ん、ちょっと用を足させてもらっていいですか」
と、おっちゃんは道路に背を向けると山の斜面、崖側に向かってじょぼぢょぼと湿った音色を奏ではじめた。完全に山中なので向こうから見られることはないとはいえ、なかなかフリーダムなお方だ。
「‥‥えらく自由なオヤジだな」
きょーこもやや反応に困っているらしく、いつもほど言葉に覇気やトゲがない。
「ここから室戸岬まであとどれくらいありますかね」
おっちゃんの言葉にくらうは地図を見、ニーチャンはケータイをかちかちと調べはじめおおよその場所と距離を調べる。
「んー、ここからだと、だいたい70kmくらいですね」
そしてそれを聞いたおっちゃんは、とんでもないことを言ってのけたのだった。
「ああ、じゃああと1時間くらいで着きますかね」
「‥‥‥‥っ!?」
その言葉を聞いて、くらうは息をのんだ。襟元できょーこもびくりと体を震わせたのがくらうにも伝わった。
何気ない言葉だが、それはつまり、この男は自転車で時速70kmを叩き出すということだ。どう考えても、人間業ではない。
「‥‥く、くらう、こいつやべえぞ! 絶対人間じゃねえ、魔物の類だ! 今すぐここから離れよう!」
きょーこが恐怖をあらわにして声を抑えて叫ぶ。ぜひそうしたいところだが、くらうは逃げ出したい足をぐっとこらえる。
「だ、大丈夫だ、まだ勘違いの可能性もある。それにもし本当に時速70kmで走行できるなら、逃げたところで一瞬で追いつかれる‥‥!」
きょーこは焦りに焦り、くらうの襟をぐいぐいと引っ張って急かしていたが、その言葉を聞いてどうにか冷静さを取り戻したようだ。
「‥‥た、確かにそうだな。でも、気をつけろよ。気を抜いたら一瞬でヤられるぞ」
「ヤをカタカナで言うなよ。前を行くのが怖くなるじゃんか」
「は? 前でイッたらヤられるのか?」
「やめろやめろ! オレにそんな趣味はないっ」
どうやらニーチャンも何と言ったらいいか、かなり困っているようだ。
「いやまあ、さすがに1時間は無理じゃないですか‥‥?」
魔物を刺激しないよう、少し控え目にくらうが進言すると、おっちゃんはややきょとんとした表情をする。
「そうですかねー。じゃあ、2時間くらいですか?」
「ほらくらう、こいつやべえって! 妥協して時速30km超えるんだぞ! 世界選手並みじゃねえか!」
「‥‥ああ、ギリギリ人間レベルになったけど、常軌を逸してるのは間違いないな‥‥」
さらにおっちゃんは追い打ちをかけるようにこんなことまで言い始める。
「今日中に高知市まで行けますかねー」
「い、いやさすがにそれは‥‥」
高知市までは室戸岬からさらに100km以上先。くらうなら今から10時間近くはかかるだろうという距離だ。なにより1日で200km近い距離の走行など、よほど走り慣れている人でないと無理なのではないだろうか。
「できれば足摺岬まで行けたらいいですけどねー」
足摺岬までは高知市からさらに100km以上(ry
いい加減、くらうの精神も限界が近づいてきている。確かにこの男の発言は尋常ではない。魔物の類だ。
「ほらくらう! 手遅れにならないうちに早く逃げるぞ! そんな人外のヤツがこんな中途半端な上り坂程度で音をあげるわけがねえだろ! どう考えてもこれはあたしたちの足を止めるためのワナだっ!」
「そんなに時間かかるんですかね。僕は別に夜の10時とか11時になっちゃっても構いませんけど」
「いや、それはさすがに‥‥」
「高知市に行けばネットカフェとかありますよね。そこに泊まれたらいいと思って」
「いやまあ、あるとは思いますがさすがに‥‥」
なんだかやたらと高知市まで行きたがっている。野宿を避けたいのはわかるが、あまりに無茶苦茶だ。なにより夜の走行は危険なので可能な限り避けたい。夜になっても構わないとか言われても、こっちが構う。
「こいつ、暗くなったところを襲ってくる気だぞ! 多分こいつは夜目も効くんだ! 視界が悪くなって不利なのはあたし達だけだぞ! もうダメだ、勝てるわけがない‥‥っ」
「いや、何で急にサイヤ人の王子になってんだよ」
しかし冷静に考えてみると、ここで焦って逃げるよりは刺激しないよう大人しくしておき、機を見計らってさりげなく離脱した方がいいのではないだろうか。
3人で少し話し合っている合間に、きょーことぼそぼそと作戦を練り、とりあえずはこのまま魔物と同行することに。
覚悟を決めて再び出発。特に話しあったわけでもないが、なんとなくここからはニーチャンが先頭になっていた。
「なあ‥‥」
「なんだよ」
くらうは最後尾を走りながら、きょーこに声をかける。
「今更だけどさ、あのおっちゃん、ただすっとぼけてるだけって可能性はないのかな」
しかしきょーこは声を硬くしたまま、
「んなわけねーって。あいつは間違いない、魔女だ」
「いやいや、女じゃねーだろ」
「じゃあ‥‥魔男だ」
「はじめて聞いたよそんな人種。ていうかそれも音だけ聞くと女の子っぽいな」
「じゃあなんだってんだよ。マゾか?」
「魔物から一瞬にして変態になり下がった!? いやまあ、普通のおっさんという可能性は」
「おいバカ! 常識で考えろよ!」
「‥‥もうなんでもいいけどさ」
昨日に引き続きストラップに常識を問われてしまった。そろそろ生きる自信をなくしてしまいそうだ。
くらうはさすがに若干気を抜きながら、きょーこは相変わらず警戒心全開で、2人のロードバイクの後ろを走り続ける。
そこからさらに走り続けることしばらく、前方に左右の分かれ道が現れた。右は生い茂った峠道、左は整備の行き届いた真っ直ぐな道。それだけを見るなら間違いなく左の道を選ぶが、一行がどちらに行くかを迷っているのには理由があった。
左の道は、見た感じ自動車専用道路なのだ。というか実際、自動車以外通行禁止の看板も立っている。
とはいえできることなら峠道は避けたいので、どうにか通行できるのであれば左を進みたいところではある。
見ると、どうやらニーチャンはケータイで右の峠道の険しさを調べようとしているようだ。くらうもネットを繋ぎその道を調べてみようとするも、さすがに詳しいことはわからない。だがやはり楽な道ではないようだ、という程度のことはわかった。おっちゃんは素直に右の峠を通った方が良さげだと進言している。
しばらく3人んで協議した結果、とりあえず左の道を行けるところまで進み、料金所等が見えてきて完全に自転車が阻まれてしまうまでは進んでみよう、という結論に至った。
ニーチャンを先頭に、くらうがその次、おっちゃんがしんがりを務める形で走り始める。
緩やかな下りから始まった道は今までのどの道よりもキレイに整備されており、走りやすいことこの上ない。
しかし数分も走らないうちに、くらうは違和感を覚え始めた。
「なあ、そこの標識、制限速度が70kmになってるんだけど」
くらうが声をかけると、爽快感に浸っていたらしいきょーこはそこで初めて気づいたようにその標識を見上げた。
「ほんとだ。ここ、後ろのオヤジが本気を出せる道なんだな」
「いや、それはオレもちょっと思ったけど、そうじゃなくて、すでに通っちゃいけない道に入ってる気がする」
しかしきょーこは首を傾げ、よく意味を理解できていないようだ。
「なんで。さっき料金所とか、そういうとこまで行ってみようって言ってたじゃんか」
「まあ、そうなんだけど、オレ免許持ってないからわかんないけど、自動車専用道路って高速みたいに絶対有料だと勝手に思い込んでたけど、無料の自動車用の道路もあるんじゃないかな、って」
「そーなのか?」
「いや、だからよくわからんけど、ここがまさにそうな気がする‥‥。できるだけ早めに抜けたほうがいいかもな」
自転車用の路側帯も無くなってしまっているし、横を通り過ぎていく車も明らかに不思議そうな、不審そうな目でちらちらとこちらをみている。
やや不安に感じ始めたくらうの後ろから、こちらに呼びかる声が聞こえた。
「ちょっとー、やっぱりここヤバいですよー! 引き返した方がいいですってー!」
どうやらおっちゃんもくらうと同じ考えらしい。しかし前を見ると、ニーチャンはすでにかなり先まで走って行ってしまっている。
「‥‥どうする?」
「そうだな、これもさっきと同じ、あたし達を油断させるワナに違いないよ」
「そっちじゃなくて、引き返すべきかな」
いまだに警戒を解かないきょーこに軽くツッコんでから、くらうは少しだけ速度を緩める。
「うーん、よくわかんないけど、もうかなり進んじまってるじゃんか。今から引き返すったって、逆走することになるしその方が危ない気がするけどね」
確かにその通りだ。警告してくれているおっちゃんには申し訳ないが、ここは無視してさらに先へと進ませてもらうことにする。
そうしてそのまま走り続けることおよそ数分。頻繁に行き来しているのか、運が悪かっただけかくらうはついに――ヤツに見つかってしまった。
『そこの自転車、止まってくださーい』
スピーカー越しの、明らかに自分たちに向けられている声。振り向かずとも、それが誰から発せられているのかはすぐにわかった。
「‥‥‥‥やっちゃった」
自転車を止めて振り向くと、赤いパトランプを光らせる車がゆっくりとこちらに向かってきていた。
あっさりと警察に止められた3人だったが、しばらく話をした結果、ここはすでに道路の中ほどということで、引き返すよりはこのまま最後まで進んでしまおうということになり、前後を2台のパトカーに挟まれて連行されることとなった。
自転車に合わせているのだから当然パトカーも速度は出せない。2・3台後ろに車が詰まってくると、一旦左脇に避けて車を先に行かせる、という行為を何度か続け、数十分後、3人と2台はようやく道路を抜け、終点すぐ脇の少し開けた場所で1人ずつ詰問を受けることに。
色々と聞かれながら、他の2人の話にも耳を傾けていると、どうやらニーチャンはくらうの1つ年下の大学生だということがわかった。そしておっちゃんについている警察はかなり厳しい人だった。くらうとニーチャンに比べ、かなりこってりと叱られている。一番強く警告してくれていたのに、さすがに申し訳ない。
一通り話を終え、厳重注意を受けてから、3人はようやく解放されることとなる。
「‥‥やっちゃいましたねー」
「‥‥ですねー」
しかし正直なところ、くらうはここまで連行されながら思っていることがあった。
「‥‥でも、注意を受けただけで峠を避けられたなら、むしろラッキーだと思いませんか?」
くらうがぽつりと言うと、それを聞いてニーチャンはふと笑顔になった。
「ですよね! 実は僕も思いました!」
「あ、やっぱそうですか! いやー、だってこの道路、なにげにけっこうな距離ありましたしね。きれいな道だったから全然苦じゃなかったですけど」
「ホントそうですよ。もし峠通ってたら、まだまだここまでたどり着いてないですよ!」
警察がいなくなるや否や盛り上がる2人を、ただ1人おっちゃんは苦い表情で眺めていた。
すまんなおっちゃん。こういう発想できちゃうことが、若者の特権なんだ。
同意してくれているのかはたまた呆れているのか、ぬお、と久々に鳴き声を発するモアイヌの声を聞きながら、しばらくニーチャンと悪い顔で盛り上がるくらうであった。
気づくと時刻はお昼時。3人はちょうど見つけた山中の中華料理屋で昼食をとった。
くらうが注文したのは天津ソバ。ラーメンの上に薄い玉子が乗った、天津飯のご飯がラーメンになっているものだ。
ご飯を食べながら話を聞いていると、どうやらおっちゃんは以前九州一周を果たしているらしく、かなりのベテランであるようだ。絶対ウソだろ、とツッコミたくなる衝動を必死に抑え聞き役に徹する。
その時も自動車専用道路通りそうになっちゃって、という話をしていたが、まさかその時は時速70kmで切り抜けたのだろうか。
一方ニーチャンはくらう同様、初めてのロングライドらしく、やはり色々とわからないことや戸惑うことも多いようだ。年も近いし、なんだか親近感。
ご飯も食べ終わりさてお会計というところで、しかしおっちゃんは2人の前に進み出る。
「あ、ここは僕が全部払うからいいですよ」
「‥‥‥‥!」
実はおっちゃん、すごくいい人だった! 魔物とか言ってゴメンネ!
ありがとうございます! と全霊を込めてお礼を言い、店を出る。
くらうはあらかじめ道を調べてきているのでこのまま進もうと思うが、ニーチャンは今から経路を調べているのか、ケータイをかちかちといじっていた。おっちゃんはそれを待っているようだ。
くらうも気になっていたことを1つだけ調べてみると、どうやら朝からこの時間までにすでに60km近く進んでいるようだった。当初の1日の走行目標は80km~90km。いくらなんでも、オーバーペースすぎる。
「あのー‥‥」
ということで、切り出すなら今しかないと思い、くらうは店に入る段階で言おうと思っていたことを少し控え目に申しでる。
「すいませんが、僕はここで離脱させてもらっていいですか? さすがにロードバイクのペースについていくのはキツすぎるんで‥‥」
ニーチャンは一応は残念そうにそうですか、と言ってくれるが、しかしそれはそうだろう、という雰囲気も醸し出していた。むしろこのチャリでここまでついてこれたことのほうがよほど異常だと思っているのかもしれない。
「そうですかー。でも、室戸岬でまた合流しましょう!」
が、おっちゃんはそうではなかった。くらうとしてはここでお別れして、お互い頑張りましょう的な雰囲気を出していたのに、おっちゃんはやたら再合流を嘱望しているようだ。
「あ、まあ、もし会えたら‥‥」
くらうは言葉を濁し、2人が出発するのを少し待つ。くらうが先に出発すれば、どう考えてもすぐに追いつかれ、また一緒に行きましょうという流れになりそうだからだ。明日以降のことを考えると、さすがにこれ以上このペースを維持するには無理がありすぎる。
が、ニーチャンはどうやら道の検索にやや手間取っているようで、なかなか出発する気配がない。ニーチャンが出発しないのだから、おっちゃんも動く気配がない。
「‥‥あ、あの、じゃあすいませんが僕もう先に行きますね。それじゃあお互い、頑張りましょう」
そう言うとニーチャンは笑顔で手を振ってくれ、
「室戸岬で待っててくださいね~!」
そして遠ざかるくらうに声を投げるおっちゃんに曖昧な笑みを返し、前を向いてため息をついた。
待たねーよ。