9、 3月14日(7日目)・坂、そして坂。そして――坂
朝、目覚めたのは5時前だった。目覚ましの奏でる豪快なデスメタルによってくらうは爽快な目覚めを得る。
「んー‥‥なんでこんな朝早くに鳴らしてんのさ。まだ外は暗いだろぉ‥‥?」
同じく目覚ましで起きてしまったらしいきょーこが、眠そうに頭を揺らしながら尋ねた。
そう、現在の夜明けの時刻はおおよそ6時である。ならばこんなに早起きしても、まだ行動はできない。ならばなぜこんなに早起きしたのかというと
理由は1つしかない。
「‥‥ってなんでいきなり曲入れてんのさ! 朝からまた歌うつもり!? 真性のアホだろ!」
くらうはくるりときょーこに振り向き、にやりと口元を笑みの形に歪めた。
「褒め言葉」
今朝はアニソン祭りだった。
「‥‥さすがにここまでくると、呆れるのも通り越して感心するよ」
カラオケボックスを後にしたのは7時前。荷物をチャリに詰め込んだら、朝日と一緒に出発だ♪ をするつもりだったので、早速予定が遅れてしまった。
「朝から元気すぎでしょ。あたしは早く出ようって言ったのにさ」
「若さゆえの過ちだな」
「むしろ頭が腐りかけてんじゃないの」
そしてくらうが朝食のために立ち寄った店を見て、きょーこはぎろりと小さいくせにやたら威圧的な瞳でくらうを睨みつけた。
「ちょっと、昨日の約束はどうなったんだよ」
場所は昨日晩ご飯を食べたのと同じ、某ハンバーガー屋だった。が、こればっかりは別にケチったわけではない。
「朝だけは我慢しろ。この時間だと店が開いてない」
これは事実だ。もう少し待てば開く店も出てくるだろうが、そんな時間まで時間を潰すわけにはいかないし、この先都合よくごはん処を見つけられるとも限らない。
「‥‥ちぇっ、まあそういうことなら仕方ないね」
嘘を言っているわけではないらしいとわかったきょーこはしぶしぶ納得してくれたようだった。これで昼食をパンとかで済ませようとしたら本気ぶん殴られそうだ。ちょっと真面目に考えておこう。
遅くなってしまったこともあり手早く朝食を済ませると、くらうはさっそく自転車をこぎだした。
「うぷ‥‥朝からマフィン3つはさすがに食い過ぎかな‥‥」
「そんくらいどーせすぐに消化されるよ。で、今日の目的地はどこなの?」
「今日は松山市まで行くつもり。道後温泉があるあたりな」
「おっ、今日も温泉に入るんだな。じゃあ今日も屋内の寝床探せるといいな」
きょーこがそう言うと、くらうは突如ふふふ、と気味の悪い声をあげて笑いだす。
「なんだよ気持ち悪りいな」
「寝る場所に関しては今日は悩む必要はない。もう確保してるからな」
「おっ、マジか。よく知った公園がある、とかじゃねえよな」
「違う違う。今日はたっちーの家に泊めてもらうんだ」
「たっち、たっち、ここに」「たっちー」
相変わらず息もばっちりである。
「愛媛大学に通ってる高校の時の同級生だよ。もう連絡もしてある」
市街地の半ばで、くらうは地図を広げて道を確認する。
「この辺りでいったんメインの国道を外れて、海沿いの378号を進もうと思う。やっぱ四国一周っていったら海沿いのほうがそれっぽいし」
「ふうん‥‥ていうかなにさ、その情けない補足は」
きょーこが地図上の【死にそうな時はそのまま国道56号】というくらうの書き足したカッコ書きを見て呆れた声を漏らす。
「まあどう考えても56号のほうが短いし道もいいし。昨日までの状態を考えたら、賢明な考え方だろ」
「まあそうだけどさ‥‥。その死にそうな時は、って書き方がアホっぽいんだよ」
くらうは道をはずれて海沿いの道へ。道を外れると、市街地から急に田舎道へと移り変わっていった。そして今日も今日とてさっそく、坂道が快適な進行を阻みにやってきたようだ。
「‥‥ヤバいな。どうにかなりそうと思ったけど、早くも脚がピクピクし始めた‥‥」
坂を上りながら、くらうはさすがに焦りをにじませた呟きを漏らした。メインストリートを外れた以上楽な道ではないとは思っていたが、まさかいきなりとは。
「そんな状態で大丈夫か?」
「大丈夫だ、もんd‥‥ってだから今は止めろって!」
坂を上ると、下り坂が現れる。しかしその後にまた上り坂が待ち受けている、といった風に、延々と坂が続いている。下り坂は確かに気持ちいいが、ここまで頻繁に上り下りが繰り返されるとさすがに素直に楽しむことはできない。
目の前に広がるのは左手に海、右手に山、とすでに何度も通ってきたのと同じような景色。しかしここには今までにはなかったものが山側を中心に広がっていた。
「なあなあ、その辺に生えてるみかんって食べちゃダメなのか?」
「ダメだろ。普通に人のもんだぞ」
きょーこがきょろきょろともの欲しそうに眺めながら尋ねるが、そう言いたくなるのもわからないでもない。
さすが愛媛というべきだろうか、右手の山の斜面には、大量のみかんの木が植えられていた。
みかんばかりではないだろうし、それ以外がどのような品種なのかはわからないが、かんきつ類であることは間違いない。何度か木の世話をしている人ともすれ違い、かくいうくらうも食べてもいいよ、と差し出してくれないだろうかと期待したりもしたが、さすがに走っている最中では無理だろう。誠に遺憾である。
「ふう‥‥」
賢者モードに突入したわけではない。自転車を止めて足を休めているだけである。
坂が多いせいか、疲れが溜まるのもやはり早い。時刻を確認するとまだまだ午前中。やけに疲れているのは坂のせいか、昨日までの疲労のせいか。‥‥両方だろう。
「なあくらう、このレールみたいなのなんだ?」
きょーこが興味を示したのは、手すりの下に取り付けられているレールというか、滑車というか、よくわからないが何かを転がして運べそうな物。見るとここだけではなく、広範囲にわたって取り付けられているようだ。そのレールは畑に向かって伸びているようだが、最終的にどこへ向かっているのかはよくわからない。
「んー、よくわからんが、収穫したものをどっかに運ぶためのもんかな」
「あたしが乗ったらどっか行けるかな」
「少なくとも下の畑に突っ込んでいくことはできると思うぞ」
みかん畑はかなりの広範囲にわたって形成されている。いったいどのくらいの人数で一帯を管理しているのかは知らないが、日々の世話は決して楽ではないだろう。
再び自転車を進め始めたくらうは、しばらくもしないうちに視界に広がり始めた光景に、思わず顔をほころばせてきょーこに突然の振りを仕掛ける。
「きょーこ! あそこ、見てみろよ!」
「ん? なにが‥‥」
気の抜けた返事を返しかけたきょーこだったが、しかしくらうと同じものを目にしてすぐにくらうの求めていることに気がついたようだった。
『海岸だあ!』
2人の声が見事にハモった。さすがは相棒を名乗るだけのことはある、素晴らしいノリだ。
ミカン畑の向こうに現れたのは、正確には海岸というより砂浜だった。看板を見たところここは【明浜】というらしい。読み方は知らないが、多分アケハマだろう。
こっち端から向こう端までそう遠くない、かなり小さな砂浜だ。ここだとキャッキャうふふな追いかけっこをしようと思っても、数秒で終わってしまうことだろう。季節と時間帯のせいもあるだろうが、くらう以外には誰もいない。
「しかし小さいところだね。これじゃビーチバレーも難しそうだな」
「確かになー‥‥ん、ちょっと待てよ」
くらうはふと何かを思いつき、砂浜の海岸際にエミリアを置いた。
「錯覚っていうとちょっと違う気がするけど、この一部だけ切り取ると‥‥」
くらうは砂浜の一部を写真に収め、きょーこに見せる。
「うおっ、なんかすげえ広い砂浜に見える!」
あら不思議、小さい砂浜がとても広大な景色になりました。
要するに、ドラマの舞台セットみたいなものである。そこだけ見ると普通の住宅であったりに見えるけど、もっと引いてみると実はほんの一部分だけしかないという。
「オレが自転車好きになるきっかけになった奴がいるんだけど、そいつが鳥取砂丘のすげえいい雰囲気の写真を見せてくれたことがあったんだよ。これでオレも自慢できるぜ」
「確かに写真だけで見ると鳥取砂丘くらいはありそうだな」
こういった遊びも兼ねた小休憩が今のくらうには不可欠だった。体力と共に精神的にも癒しを求めていかなければ、くらうはそろそろ死ぬ(直球)。
そうした息抜きを終え、進み始めたその先の道は相変わらずの坂道だったが、景色の中からいったん海が消え、右手に山、左手に山が広がる完全な山中へと移り変わった。
その道の途中、左手になにか大きな看板が立っていた。そこにはでかでかと【大崎鼻】と書かれている。よくはわからないが、どうやら岬か何かのようだ。その看板の横からは山の中へと続く1本の道が伸びている。
「‥‥気になるけど、行ってみるべきかな」
「さあ、ずいぶん怪しい感じはするけど、せっかくだし行ってみれば? ま、どーせ先には海しかないだろうけどね」
「それはオレもそう思う。けどせっかくだし行ってみるか。さっきまで海沿いにいたんだから、何があるにせよそう遠くはないだろ」
よくわからないが、なんとなく気になるのでちょっと寄り道。くらうは道路を外れて山道へと突っ込んでいった。
路面が土なので少々走り心地がよろしくないが、やや下り気味のため楽ではある。
楽ではあるのだが、
「‥‥なんか、長くね?」
さっきまで海沿いの道を走っており、今から海の方向へ向かっているはずなのに、なかなか山道を抜けだせる気配がない。これはいったいどういうことか。‥‥どういうことなんだろう。
「うわ、この道かなり長いよ」
いつの間にかくらうのケータイを操作し地図を調べていたきょーこに見せてもらうと、確かに大崎鼻というところまで思った以上に距離がある。ずいぶん海から離れたな、と思ったが、こちらが離れたのではなく、陸地が突出しているという感じの地形だった。
「マジかー‥‥。こりゃあさすがに引き返そうかな」
「そうだなー、あたしもそうした方がいいと思うよ。どうせ海が見えるだけなのはわかってんだし」
どうせなら行ってみたいが、海だあ! をやるためだけにこれ以上体力を消耗する余裕はない。諦めて引き返し始めるくらうだったが、突如がさがさと道端の茂みが揺れたかと思うと、何かが目の前を素早く通り過ぎていった。
「‥‥え、え? 今の何? なんか、すげえ色鮮やかな鳥みたいなのが見えたんだけど」
何か。本当に突然の出来事だったので認識が追い付かなかったが、確かに鳥のように見えた。大きさはそれなりにでかく、腰くらいの高さはあったのではないだろうか。野生でその辺をうろうろしているとも思えないが、クジャクのような、そんな雰囲気の鳥だった。
「あたしも見えたけど、さすがに一瞬すぎてわかんなかったなー」
これが創作物語だったら、間違いなく今の生き物はこの後の出来事の伏線となるのだろうが、そうでないからタチが悪い。わからないものはわからないままという、過酷な現実を突きつけられたようだ。モヤっとボールを投げつける先もない。
「参ったな、わからないままというのもスッキリしないから、とりあえずここは野生のクジャクだったということで結論付けておこうか」
「いや絶対違うと思うよ‥‥?」
突如くらうの目の前を、野生のクジャクが凄まじいスピードで駆け抜けていった。
ということになった。
「‥‥いやなんでスピード感まで付け足す必要があるんだよ」
「だってその方が迫力でるじゃないか! ていうか地の文にツッコむなよ」
偶然にもクジャクに出会った(ことになった)くらうは来た道を引き返すが、地味に奥深くまで入り込んでしまっていたうえ、行きが下りだったのだから帰りは当然上り気味。元の道にたどり着いたとき、くらうはやたらと無駄な体力を消耗してしまっていた。
「‥‥くそ、なんかすげえだまされた気分」
何も得られないまま疲労だけを溜めてしまった。いや、野生のクジャクを見られたのは幸運だったかもしれない。
くらうの脳内ではあの謎怪な生物は完全にクジャクとなってしまっていた。
そこからおよそ1時間ほど足を進め続けただろうか。くらうはようやく、本日最初の休憩場所である【海の駅】なる場所へ辿り着いた。
「よーしくらう、ちゃんと美味いもん食わせろよ!」
「いいだろう! 見ろ、ここ愛媛名物のじゃこ天売ってるらしいぞ! みかんジュースもあるかもしれない!」
「いよっしゃあー!」
そんな2人の前に突如として立ちはだかったのは――【定休日】という名の全てを拒む悪魔の言葉だった。
ざしゅ、とくらうはその場にひざから崩れ落ちる。
アゲて、サゲる、というのは単純ながら最も効果的な戦略だろう。美味しいものでも食べてささやかな癒しを得ようとしていたくらうには、効果てきめんだった。
「いいんだ‥‥いいんだ。無駄遣いしないですんだと思えば、むしろラッキーさ‥‥」
「おお‥‥貧乏性を認めて利用し始めやがった‥‥恐ろしい子っ」
どうにか精神崩壊を耐えたくらうは、とりあえずイスに座って休憩し、あるものを発見する。
「なあなあきょーこ、これなんて読むかわかるか?」
と、くらうは空中に淡く光る文字で【翻車魚】と書いた。
「うおおっ、くらうホントに魔法使えたんだな!」
「ああ、なんたってここは二次元だからな。で、わかるか?」「わかんねえ」
「即答だな!?」
「あったりまえだろ? あ、今あたしのことバカだと思ったろ。残念だけど、むしろあたしにそんな問題を出したあんたのほうがよっぽどのバカだからな」
「‥‥お前すげえな」
胸を張ってくらうをバカにしているのか自分をバカにしているのかよくわからないことを堂々と述べるきょーこを、くらうはちょっと可哀想な目で見る。
「‥‥じゃあ正解は【まんぼう】でしたー。ほら、あそこのタイルに書いてある」
くらうが示した先には、店の石壁に取り付けられた数枚の白いタイル。そこには様々な魚の名前がイラストと共に漢字で書かれており、そのうちの1枚にこの翻車魚も書かれているのだ。
「まあ限りなく当て字みたいなもんだろうけどな。やったな、1つ賢くなったぞ」
「はっ、そんなもん覚えたところで今後役に立つことなんてないよ。それよりも早くこんな何もないところ出て、血肉になって役に立つ美味いもんを食おうよ!」
「‥‥お前ホントすげえな」
色々と堂々とし過ぎなきょーこにもはや感心のため息を漏らしながら、くらうは美味いもんを求めてひた走る。
「‥‥どうしよう、いい加減活動限界が近づいてきた」
「落ち着きなよ。そんな時は慌てず騒がず、アンビリカルケーブルを繋ぐんだ」
さっそくだが、くらうは弱音を吐いていた。
いやもう弱音っていうか、ホントヤヴぁい。
くらうが現在自転車を走らせているのは、再び海沿いの道。そして――坂。
相変わらず、坂しかない。大げさな表現ではない。再び言うが右手に山、左手に海、そして正面は坂。そんな道がひたすらに続いている。この辺りの右手は山というか、切り立った崖に近い。それ以外には本当に何もないのだ。時折ちょっとした漁村のようなものが現れたりもするが、それだけだ。
何もないせいで静かでのんびりしているといえばそうなのだが、極度の疲労と坂のせいであまりのどかな気持ちにはなりきれない。
「ほらほら、これ見てみろよくらう。【子供多し注意】って書いてあるぞ。くらうの大好きな幼女もいるかもしれないな」
「なにっ!? ‥‥って、いやいや、さっきから子供どころか人間の姿すらまともに見かけてないんだけど」
「いや、自然に幼女を受け入れんなよ」
見かけたのは船と倉庫と日焼けしたジジイばかりだ。子供の姿などちらりとも見ていない。
「しかし参るな‥‥ホントに何もない‥‥」
海と山しかないということはつまり、ご飯を食べるところすらないということだ。もはや名物云々という問題ですらなくなってきた。さっきの海の駅が空いていればまだ少しはマシだったかもしれないが、時刻はすでに昼に近く、消耗が激しかったせいかやや腹もすき始めている。今はまだどうにかなりそうだが、このままこんな道が続くなら体力的にだけでなく、空腹感にもさいなまれることになる。
「朝マフィン3つ食ったのは正解だったな。むしろ足りないくらいだ。マジで誰かみかん分けてくれないかなあ‥‥」
低テンションを維持したまましばらく走ると、やはり店ではないが、やがて場に似つかわしくない大きな公園のようなものが見えてきた。よくわからないが机とイスも設置されている。腹は依然空き気味ではあるが、なんにせよ待望のイスがようやく見つかったのだ。ここで休まない手はない。
イスに座って辺りを見回してみる。周りには相変わらず何もないが、この部分だけはやけにきれいに整備されているような感じがする。足下はきれいに均されているし、石の風車のようなものがあったり、新しくてさっぱりしている。近くにはこちらも小ぎれいな建物があり、どうやら公園ではなく何かの施設の敷地内であるようだ。入っても良かっただろうか、と一瞬考えたが、休むだけだしまあ許してもらえるだろう。
それにしても、この場所は周りの風景からひどく浮いているような感じがした。周りが海と山の大自然なのに対し、ここだけあまりにきれいすぎる。きれいすぎて、不自然だ。静かすぎて人の気配も感じられない。
不気味だ、というのとは少し違う。なんだかよくわからないけれど、ひどく落ち着かない感じ。何に対して自分が何を感じているのかもよくわからなかったが、なんとなくこの場所はそんな感じがした。疲労で精神がやや参っているのも原因かもしれないが、とにかく落ち着かない。
とはいえ疲れ切っているのもまた事実。しばらくその場でゆっくりと休ませてもらってから、ここからがラストスパートであることを信じて、くらうはまだまだ坂を上り下りし続けるのだった。
「うあー、やっと市街地着いたー」
山・海・坂の景色からようやく、平坦な道に多くの店が立ち並ぶ場所へとたどり着いた。最後の最後まで坂が続きやがり、喜ぶ気力も残っていない。
「さてさて、やっと昼メシにありつけるな」
「くらう、わかってんだろうな」
「わかってるよ。さすがのオレも今はマトモなもん食いたい」
ざっとこの辺りのことを調べてみると、どうやらここ八幡浜市はちゃんぽんが有名のようだ。ならばとちゃんぽんで検索をかけ、この辺りのちゃんぽん屋で人気の高い店に行ってみることに。
「すぐ近くにも何軒かあるな。とりあえず一番人気のとこ行ってみるか」
「よっしゃ! 並んでなきゃいいけどな」
「そうだなー」
地図を見ながら細かい道を進み、ようやく見つけた店は見た感じ混み合っている様子はない。良かった、と思って店に入ろうとすると――本日2度目になる全てを拒む悪魔の言葉。
店の入り口には【定休日】が掲げられていた。
「なん‥‥だと‥‥」
「おいおい、幸先悪りいなあ。ほら、次んとこ行ってみようよ」
きょーこにいそいそと急かされ、落ち込む間もなく次の店を検索。すぐ近くにもう1軒人気の高い店がある。
「しゃーない。こっちに行ってみるか」
「やっほーう! はやく食べようよー!」
そして、
「なん‥‥だと‥‥」
くらうは2軒目の店の前で、先程と全く同じ言葉を漏らした。
その店の前にも掲げられる【定休日】という悪魔の3文字。なんだろう、今日のラッキーワードは定休日なのだろうか。ラッキーワードを得るために不幸を抱えなければならないという、大きな矛盾を含んでいる気がするのだが。
「諦めねえ、あたしは諦めねえぞ! くらう、次の店だ!」
「どんな執着心だよ」
さらにもう一度検索をかけ、近くの他の店を探す。
3軒目に訪れた【清家食堂】というお店にて、ようやくくらうは定休日ラッシュから解放された。3度目の正直というヤツだ。
店内は木造りでやや暗めの和風な内装だった。大繁盛しているわけではなさそうだが、のんびり食べられるならその方がありがたい。
くらうはちゃんぽんを注文し、席について体を休める。すぐにちゃんぽんが机に運ばれ、くらうはいただきます! と勢いよく食事を開始した。
「‥‥んー、まあ普通だな。ていうか若干野菜の味つけ濃くないか? 塩コショウが辛い」
「ああ、確かにな。でも悪くないと思うよ」
「まあそうだな。最近ほとんど野菜食ってないし、野菜たっぷり食えるのはありがたい」
色々と体内の成分が不足していそうな今なら、濃い味付けのほうがいいかもしれない。それになにより、空腹という名の最高のスパイスがあったおかげで、あっさりと完食してしまった。
「ふいー、やっとお腹も落ち着いたなー」
「そうだな。あたしはようやくマトモにメシが食えて感動だよ!」
「そ、そこまでか‥‥。徳島ラーメンとか食ったろ」
「そんだけじゃねえか! おやつみたいなの別にしたら、ラーメン以外マトモなもん食ってねえじゃんか!」
言われてみれば、確かにそうだ。何度か飲食店で食べはしたが、その地方ならではの料理を食べたのは徳島以降になる。
「じゃあまあ、こっからはもう少し色々食いながら行くか」
「当たり前だろ! あたしが何のためについて来てると思ってんだよ!」
「ええっ、メシのためかよ!?」
「当然! なんたってあたしは、魔法ストラップ少女きょーこちゃんだからね!」
きゃるーん☆と謎のポーズを決めるきょーこ。いや、なんたってとか言われても知らんけど。
「はあ、もうちょっと休みたいけど、とっとと行こうか。今日中に松山まで行かなきゃいけないし」
今日中に着きたいというのは、もちろんたっちーの家という寝床を確保できるから、というのもあるが、久し振りに高校の同級生に会うのはなんだかんだで楽しみなものだ。夜ならゆっくり話もできるので、晩ご飯でも食いながらというのが理想だ。酒はもう飲みたくないが。
「脚の調子は?」
「最悪」
くらうは迷いなく即答する。実際かなりヤバいと思う。
旅行の予定は元々は2週間くらいのつもりだったが、このペースならばあと1、2日で終えられるだろう。
今ですら限りなく限界に近い。これ以上はどう考えても無理だ。できることなら明日中に終わらせたいといったところである。
「さあて、それじゃあもうちょい頑張ろうかね。目指すは」「みかんジュース!」
八幡浜市以降はようやく坂ばかりの道から解放され、平坦で比較的整備のされた道が続いていた。平坦な道がこれほどまでに走りやすかったのかということを実感させられる。まあ、そんなもの実感したくもなかったが。
そんな道の途中、ふと小さな露店のようなものを発見した。見るとそこには【じゃこ天】という文字が見て取れる。
「おいくらう! 見ろ、あれ見ろ! じゃこ天って書いてあるぞ! ほら、あそこ!」
「わかってるって見えてるって」
くらうと同時に発見したらしいきょーこは、頭をペシペシと叩きながら全力で訴えてきた。
言われるまでもなくくらうはその店へと立ち寄り、若干ワクワクしながらじゃこ天を注文する。
が、しかし。
「あーごめんね、今じゃこ天はできないんですよ」
「なん‥‥だと‥‥」
怒涛の定休日が終了したかと思えば、今度はまさかの品切れである。何と不運なことか、と今にも血の涙を流しながら怨嗟の叫びをあげそうになったくらうに、今回はなんと救いの手が差し伸べられた。
「でもじゃこカツだったらできますよ」
しかし、口惜しことにちょっとよくわからない。
「じゃあ、それでお願いします」
よくわからないが、わからないならば食ってみればいいだけの話である。それに名前から判断するにじゃこが天ではなくカツになっているだけでたいした違いもないだろう。ところで『じゃこ』ってなんでしたっけ?
店の前に据えられたイスに座って待つこと数分、ようやくじゃこカツなるものができあがったようだった。アツアツのそれを受け取り、1口かじる。
「美味っ!」
懐疑的だった気持ちが食った瞬間吹っ飛んだ。揚げたて補正もあるだろうが、それにしても美味い。じゃこ天がどの程度かはわからないが、これは無くなっててむしろラッキーだったのではないだろうか。
「すげえ、サクサクだな! じゃこ天はもっともにょもにょなのにな」
もにょもにょという擬音はよくわからないが、これは確かにサクサクアツアツでジューシィ。偶然の出会いに感謝である。焼きなすアイスといいじゃこカツといい、道端のお店には恵まれているくらうであった。
少しずつ空も茜色に染まり始める、夕方5時ごろ。到着したのは道の駅【ふたみ】。砂浜に面した道の駅で、休憩場所ゆえに人の出入りが多いせいか、限りなくまっさらだった明浜の砂浜にくらべ足跡が多く、見た目はきれいとは言い難い。
店で買ったじゃこ天と坊ちゃん団子、そしてこれも名物だという魚肉ソーセージをかじりながらイスに座って休憩中である。
「じゃこ天より、じゃこカツのほうが美味かったな。揚げたてってのも大きかったろうけど」
「そうだなー。でも何より店のババアの態度が悪いよ。あんなじゃ美味いもんも美味くなくなるね」
「はっきり言いすぎだろ」
まあ確かに、態度悪かったんだけど。
知っている人も多いだろうが、坊ちゃん団子というのは夏目漱石の『坊ちゃん』にちなんだお菓子である。それ以上の詳しいことは知らないが、有名であるということだけは知っていたので買ってみたわけだが、まあ言ってしまえば普通の3色団子だった。ちなみにくらうは『坊ちゃん』は未読。一度読んでみてもいいとは思うが、正直古典文学は苦手だ。
もう1つの魚肉ソーセージは、もうそのまんま魚肉ソーセージだった。いやなんというか、美味しくないわけじゃないんだけど、普通すぎてコメントが難しい。
それでも色々な物が食べれて、きょーこも満足そうである。
「だいぶ松山市に近づいてきたな。日が落ちるまでに間に合えばいいけど」
「途中で夜になったらどーすんだ?」
「今日ばっかりは強行だな。松山まで着けばメシ・風呂・寝床の3つがそろってる」
「イイネ! 晩メシは何食うんだ?」
「着いてから考えよう。たっちーに聞けば美味い店も知ってると思うし」
近いとは言っても、ここからだとあと2時間はかかるだろうか。少し無理をすることになるかもしれない。まあそもそも、今すでに無理してるんだけど。
松山市に到着したときには、すでに日は暮れてしまっていた。ギリギリ間に合ったというべきか間に合わなかったというべきか。山道を通っている間に日が落ちることはなかったので、どうにか及第点といったところか。しかし暗くなってからは市街地とはいえ動きづらい。
話は少しさかのぼり、ここに来る途中に見つけた畑田本舗でくらうは愛媛の名菓一六タルトを購入していた。店舗自体は愛媛以外の県でもよく見かけるが、中に入るのは初めてだった。疲れている時の甘いお菓子は最高だ、と思いさっそくきょーこと共にかぶりついたくらうだったが、なんと思いもよらぬ弊害が待ち受けていたのである。
「うおぉおぉ‥‥口の中がすっげーぱさぱさしてきた‥‥」
口内の水分が急激にタルトに吸い取られていく。普段ならタルトでここまでなることもないだろうが、今はただでさえ水分が不足しがちなのだ。
「水分とかあって大変だなー」
「くっそー、人外が羨ましくなってきた‥‥」
仕方なく貴重なスポーツドリンクで口内を潤す羽目になってしまったのであった。
そんな一幕もありつつ、現在は松山市街地である。たっちーに到着連絡を出し、ごちゃごちゃとした駅前のビル群に若干迷いながらも、どうにか合流を果たす。
「やっほー久しぶりー」
「ひさしぶりー。え、マジでこのチャリで来たん?」
「おふこーす」
「すげえな(苦笑い)」
相変わらずいい反応をしてくれるみなさん(3人目)である。やはりエミリアのインパクトは絶大のようだ。大満足。
とりあえずたっちーの家まで行って一休憩させてもらうと、その後はとりあえず道後温泉へと向かうことにした。ここからすぐ近くだということでたっちーに案内してもらう。
近況や高校時代の話などをしながら、商店街の道を歩く。そうこうしているうちに、くらうたちは道後温泉に辿り着いた。確かに近い。
くらうが温泉を見て感心していると、しかしたっちーは温泉より奥の道をにやりと笑みを浮かべて指差した。
「あっちの道、この辺じゃ有名なソープ街。エロい店いっぱいあるよ」
「なにっ、じゃあ今すぐ行こう」
などと男の子らしく健全な話をしてから、くらうは1人温泉へと向かった。たっちーは少し寄りたい場所があるというので、いったんたっちーとは別れることに。
近くのいやらしいロードは実際有名な場所らしく、旅行後色んな人に話したところ、結構な割合で知られていた。
「どうすんの、温泉なんかよりあっち行きたいんじゃないの?」
きょーこはにやにやと笑いながら奥の道を指さす。しかしくらうはそちらに冷たい視線をむけ、きっぱりと言い放った。
「バカを言え。さっきはノリであんなこと言ったが、オレは妹系幼女にしか興味がない。あんな場所BBAしかいないだろ。だからオレはあんないかがわしい店には興味はない!」
「最後だけ聞いたらすげえ誠実なのにな。前の一言のせいでむしろ最低だよ」
はあ、とため息を吐くきょーこの言葉を褒め言葉として受け取り、道後温泉の入り口まで行くと料金表を見上げる。
「えー、なんか色々オプションみたいなのがあるんだな」
温泉は当然1階にあるが、その他の施設が上階にあるため上に行こうと思うとその施設の利用料として追加料金が必要らしい。
温泉以外には特に興味がないので一番安い料金で、と思っていると、その料金表の中になにかおかしな表記を発見した。
「‥‥なあきょーこ、なんか変なのが混じってるんだけど」
「‥‥あ、ああ。あたしも気づいたよ」
くらうときょーこはそれを見て、共に言葉に詰まる。
その料金表を見ると、どうやらここには天皇が入る専用の温泉というものがあるようだ。それだけならまだいい。しかしその天皇専用温泉が料金表に載っており、そこにはこう書かれていた。
【見学料 300円】
「‥‥‥‥いやいやいや、すげえ高いとかならまだしも、なんで見るだけで金とられるんだよ。ていうかそんなもん見てどうすんだよ」
「‥‥‥‥よっぽどすんげえ風呂なんじゃないの? 周りに宝石が敷き詰まってるとか」
「なんだよその無駄遣い」
「もしくは、天皇が入ってる姿を想像して、今夜のオカズにするんじゃないの」
「お前もうオレのこと最低とか言えんぞ」
残念ながらくらうは天皇萌えではないので、普通に一般の温泉料金を支払って店内へ。建物の中はずいぶんと広く、和風の落ち着いた造りとなっている。
てくてくと廊下を歩いて男湯へと向かい脱衣所の手前までやってきたとき、ちょうど今温泉から出てきたらしい人と、目があった。
偶然の、あまりに偶然すぎる奇跡的な出会いだった。
そこにいたのは、先程大崎鼻から引き返す時に出会ったクジャク――ではない! やはりあの謎怪な生き物は伏線でも何でもなかった!
「こんばんは! すごい、偶然ですね。まさかまた会えるとは思いませんでした」
「こんばんは。本当ですね、僕も驚きましたよ」
そこにいたのは、徳島で出会い、一時期一緒に自転車を走らせた――ロードバイクのニーチャンだった。
本当に奇跡に近いような再会だった。名前すら知らないのだから当然連絡先も交換していなかったので、互いに今どうなっているのかなど全く分からなかったのだが、本当に驚いた。
「もしかして、もう1人の方もいるんですか?」
ニーチャンがいるのだから、おっちゃんもいるかもしれないと思いくらうが尋ねると、頭の上に隠れるきょーこがびくりと震えた。いや、どんだけ恐れてんだよ。
ここからはくらうとニーチャンの会話の、おおよその再現である。さすがに正確にはほど遠いが、それでも会話の主旨はだいたいこんな感じだ。
「いえ、僕もあの人とはあの後すぐに別れたんで、今は1人ですよ」
「ああ、そうだったんですね。ちなみにここまでは、国道できたんですか?」
「はい。まっすぐ56号です」
「そうなんですね。実は僕56号を外れて海沿いの道で来たんですけど、その道がひたすら坂続きで、参りましたよ」
「はは、そうだったんですか。そういえば、足摺岬には寄りましたか?」
「いえ、来る前にあそこは道が悪くて危険だと色んな人から聞いていたので、寄ってません」
「ああ、僕もなんですよ。でも、あのオジサンは行ってそうですよね。なんていうか、すごく元気でしたし」
「はは、そうですね。確かに行ってそうです」
「そういえば四万十川に行く手前の峠、キツかったですよねー」
「ああ、ナナツ峠ですよね」
「え、あれってナナツって読むんですか? あの、数時の7に子供って書いて」
「ああ、なんかそうみたいです」
「へえ、それは知りませんでした。普通にななこって読んでましたよ」
補足―当時くらうは読み方を勘違いしていた。あとで気づいてすげえ恥ずかしかった。
「正直僕はあの峠は楽に感じました。その前にもっとすごい坂道を上ってたせいで」
「ホントですか? すごいですね」
「明日の予定はどうなんですか? もう高松に向かうんですか?」
「はい、そのつもりです。ここからどのくらいの距離があるんでしょうね」
「さっき調べてみたら、ここから高松駅まではだいたい180kmみたいですよ。2日に分けちゃうとかなり中途半端になりそうなんで、僕はもう明日で終わらせるつもりです」
「180kmですか‥‥。さすがに僕は無理ですね。もう1泊することにしますよ」
「まあ、それが賢明だと思います。でももう1日でも早く帰りたくて。脚がパンパンでもちそうにないんですよ」
「ああ、ほんとにしんどいですよね。僕もだいぶ参ってます」
「それじゃあ、お互い頑張りましょうね。まさか会えると思ってなかったので、話ができて嬉しかったです」
「そうですね、僕もですよ。じゃあ、頑張りましょうね」
そうしてくらうはニーチャンと別れ、ニーチャンは外へ、くらうは脱衣所へと向かった。
「すげえな。偶然って、本当にあるんだな」
「な。オレもかなりびっくりしてる」
「ていうか今ふと思ったんだけどさあ‥‥」
きょーこはそこで言葉をとめ、苦笑いを浮かべてくらうを見た。
「くらう、ロードバイクと同じペースで走ってたのか?」
「‥‥‥‥‥‥ホントだ」
偶然の出会いに驚いていたせいでそんなこと考えもしなかったが、言われてみれば確かにそうだ。
「いや、ニーチャンはまっすぐ国道って言ってたろ。てことは、より長い距離走ってるんだから、オレの方が速いんじゃないか?」
「うわ、ホントだよ。くらう、あんたどんな無茶苦茶な走りしてんのさ」
「そんな自覚ないんだけどなあ‥‥」
気を取り直し、くらうは脱衣所の扉をがらりと開けた。そこは入口を中心にほぼ左右対称に大きく広がっており、真ん中あたりには長いすが置かれている。昨日の小さな銭湯とは比べ物にならないくらい、広い空間だった。
大きな荷物はたっちーの家に置かせてもらっているので、くらうは小さくまとまった荷物からタオルを引っ張り出す。昨日はそうだったのだが、荷物がでかいと風呂に入る準備にも一苦労である。丁寧に入れ直さないと入りきらないし。
準備が整い、頭の上にタオルの代わり(?)にきょーことモアを乗っけてがらりと風呂場のドアを開けた。
「おお、これがかの有名な道後温泉か」
正面にはドン、と石造りの温泉が1つ堂々と鎮座しており、壁際にはシャワーが取り付けられている。‥‥以上。
「なんか、思ってたより普通だな」
「まあ、オレも正直そう思った」
もうちょっと豪華な風呂を想像していたが、意外とシンプルだった。まあ、昔からずっとある伝統的な温泉なのだから、こんなものなのかもしれない。確かに変に奇をてらわないこれぞ温泉、という感じではある。
ささっと体を洗ってから、ゆっくりと湯船につかる。それなりに人は多いが、十分にゆったりできるほどに湯船は大きい。全身に溜まる疲れを流すようにくらうは体の力を抜いた。
「あー‥‥やっぱ温泉気持ちええわあー‥‥」
「おっさん臭せえな。ああー‥‥沁みるー‥‥」
きょーこも十分おっさん臭い。
湯の温度は比較的高めに設定されているらしい。設定というか、源泉が熱いのか。ともかく全身使っているとすぐに体が火照り、のぼせそうになる。
「んー‥‥江戸っ子仕様だな。ずっと浸かってるのはキツイ‥‥」
くらうは湯船から体を引き上げて縁に座り、足だけを湯の中に浸す。
「おいおい、堂々としてんな。ご子息が丸見えだぞ」
「男湯なんだから、んなこと気にするかよ。ていうかまじまじと見んな」
しかし足だけつけていてもやはり熱い。今時の銭湯なら色々と種類があるので、他の浴槽でいったん火照りを鎮めたりもできるが、ここには水風呂もねえ、サウナもねえ、オヤジの裸がぐーるぐる。オラこんな風呂いやだ、とは言わないが、江戸っ子ではなく岡山っ子なくらうには少々キツイものがある。ゆっくり浸かっていたいが、のぼせてしまう。
とりあえず無駄にもう一度体を洗い、体の火照りを少し落ち着けてから入ってみるが、やはり数分ともたない。
疲れを取りに来たのに倒れてしまっては本末転倒だ。さすがに諦め、くらうは浴場を後にした。
「ふいー‥‥あっついけど、気持ちいいな」
熱い風呂の後の脱衣所は、やはりものすごく気持ちいい。かなり体の火照っている今ならなおさらだ。
しばらくイスに座って体を落ち着けると、服を着替えてもう一度座ってのんびりし、少しだけ名残惜しみながら道後温泉を後にした。
出る前に連絡していたので、外で少し待っているとたっちーが迎えに来てくれた。そして話題はさっそくご飯の話である。
「晩メシ、どっか食べ行く?」
「行く行く。この辺で美味い名物料理が食える店とかある?」
「あるけど、よかったら焼肉でも食い行かん? おごるよ」
「行く!」
即答。
どんな名物料理だろうと、焼肉という究極の料理の放つ黄金の魔力を前にしては太刀打ちなどできようはずもない。しかもおごりときた。たっちーはいい奴だ。
「おい、くらう!」
と、たっちーがいるのとは反対側にいるきょーこがぺし、とくらうの首筋を叩く。
「へへ、いい判断してるじゃねーか。じゅるり‥‥」
きょーこも満足そうでなによりだ。
2人が向かったのは牛の角のような焼肉屋。なんと食べ放題で食わせてくれるらしい。最高だ。
「塩タン! ごはんの大! そしてトントロは外せない!」
「んー、なんでも食って」
「ありがとおうあー!」
まともなご飯をこんなにがっつりと食べるのは久々な気がする。びんb‥‥質素倹約を心がけているくらうは、日々のご飯も細々としているのだ。
ご飯の丼の裏に隠れるきょーこも今はご満悦の様子だ。モアイヌも嬉しすぎるからか、身動きひとつとることなくじっとしている。
がつがつと肉を食いながら、再び昔の話や近況で盛り上がる。たっちーは高校時代最もよくつるんでいたグループのメンバーなので、アホな過去話はいくらでもある。
当時は遊びすぎて、メリハリのつけられないくらうはだいたいこいつらのせいで一浪したほどである。なんたって高3の夏休み、受験シーズン真っただ中にみんなで海に遊びに行ったりしたほどだから。ただまあ、反省も後悔もしていない。あの時は最高に楽しかった。くらうも昔はリア充だったのだ。そして昔の自分は爆発し、今に至る。
一心不乱に肉を貪り、いい加減お腹いっぱいになってきたくらうだったが、目の前にはいまだ、たくさんの肉とご飯が残っていた。
「‥‥しまった。調子に乗ってごはん大のおかわりなんかするんじゃなかった」
食べ放題や飲み放題になると、いつも気持ち悪くなる限界まで頼んでしまうくらうである。いや、ちょっと限界突破する。どうせ同じ値段だからと思ってついつい大量に食ってしまうのだが‥‥どうしよう、貧乏性って否定できない。
そして今回もそれである。しかも今回ばかりはどう見ても食いきれない。いつもは無理して全部食いきるが、今の状態と目の前に残る肉・ご飯の量を見ると、いくらなんでも無茶な気がする。
「‥‥残すことなんて滅多にないんだけどなあ」
小さい頃からご飯を残してはいけないと言われ続けてきたので、いまだに残すことにはかなり強い抵抗がある。が、今回ばかりは本当に食べきれない。
机の上に並ぶ累々たる残飯を前にし、くらうはがくりとうなだれた。
「‥‥ごめん、ちょっと残します」
せっかくおごってくれたたっちーと、あとお米を作ってくれた農家とお肉になってくれた牛に謝りながら、くらうは食事終了宣言をした。せっかくの美味しいご飯だったのにすごく後味が悪い。やはりご飯は残すべきではないということを改めて実感させられた。
そしてたっちーの家に帰った直後、くらうはお腹いっぱいでぶっ倒れた。まさに飽食の時代。こんな贅沢が許される国と時代に生まれてきて自分は幸せなんだろうと思う。苦しいけど。
「苦しいからオレもうこのまま寝るわ‥‥」
「そんなに?」
「そんなに」
対するたっちーはまだ余裕そうだ。くらうもちゃんと加減ができる大人になりたい。
「明日は6時過ぎくらいには起きるつもりだから、早く起こしてしまうと思うけどごめんな」
「別にいーよー。んじゃお休みー」
「おやすみー」
そうしてくらうは目を閉じ、この日1日に終わりを告げるのだった。
眠りながら思うことはただ1つ。
やっぱり屋内って、いいなあ。




