人魚と人間
「はぁ、やっぱり人魚っていいわね……」
ある夏の夕方、自分の部屋でため息をつきながらそんなことを呟く高校二年生が1人いた。彼女の名前は夢見音姫。彼女は今の発言の通り、昔から人魚に憧れていた。人魚と言うのは、誰もが良く知っている通り、海中に住む伝説上の生物である。海中を優雅に泳ぐ姿は、彼女でなくとも一度は憧れた女性もいるはずだ。ちなみに人魚には様々な逸話が残されており、例えば八百比丘尼と言えば、人魚の肉を捨てずに持って帰った男性の娘がそれを食べてしまったことにより長生きしてしまう話、と言ったようなものがある。夢見はそんな人魚の不思議な力や悲劇的な最後にロマンチックな部分を感じていたのだ。
「あ、そろそろかしら」
彼女はそう言うと、手早く準備を済ませて外に出た。
「んーっ、やっぱり気持ちいいわぁ」
彼女は家から30分ほどの距離にある近くの海岸に来た。最近の彼女の日課は夕方にこの海岸に沈んでいく夕日を眺めることなのだ。だが、いつもならだれもいないこの海岸に、今日は珍しく野良犬までもいる。それほど今日の気温が高かったということだろう。傷だらけの体でふらふら歩いているのが気になったが、もうそんなことを気にしている場合ではない。彼女の目的である海は目の前だった。彼女は砂に足を取られながらしっかりと大地を踏みしめる。
「……この夕日を、人魚みたいに海に潜った状態で見られたら、きっと気持ちいいんだろうなぁ……」
「その願い、お叶えいたしましょうか?」
夢見が呟いたその時、その後ろから突然声がした。夢見がびっくりして振り向くと、そこにいたのは黒いコートに白いワンピース姿の小学生くらいの女の子だった。
「な、何なのあなた……?」
「私ですか? 私の名前は淡口美月、あなたの変身願望を現実に、っていうキャッチコピーの元に皆さんのお願いを叶えているただのしがない子供ですよ」
そう言って彼女は名刺を取り出す。とりあえず名刺を受け取る夢見。そこには淡口の連絡先と先ほど彼女が言ったようにこんな言葉が書かれていた
(あなたの変身願望を現実に 淡口美月)
「……で、私に何か用かしら?」
やや体を固くして聞く夢見。
「先ほどあなた自身がおっしゃっていたではありませんか。人魚みたいに海に潜りたい、って。それをお叶えして差し上げようと思っただけです」
「あなたみたいな子供にそんなことができるわけないじゃない。冗談もほどほどにしてよねまったく……」
馬鹿らしい、と言った様子で夢見は返す。
「そこまでおっしゃるのなら、ちょっと待っててくださいね」
信用されていないと分かった女の子は、ポケットの中から貝殻を取り出した。
「なぁにそれ? 貝殻?」
「ええ。今からこの貝殻をイヤリングにしてみせましょう」
女の子は自信満々に言う。
「……あなた、からかってるの?」
夢見はもちろん取り合わない。
「まあまあ、騙されたと思って見ていてくださいよ。せーのっ、えいっ!」
女の子が指を天に向かって上げ、そのまま貝殻を指差すと、それはみるみるうちに貝殻のイヤリングになった。
「え、何今の?」
「私の能力ですよ。さっき言ったじゃないですか」
「え、いやいや当然みたいな顔して言われても」
今度は夢見が焦る番だった。
「詳しく説明しても仕方ないので、私には何かを何かに変身させる能力がある、っていうことだけ知っておいていただければ万事OKです。で、あなたは人魚になりたい、ってことでいいのでしょうか?」
「う、うん。できるの?」
戸惑いながら聞く。先ほどの例があるので疑っても仕方ないのだが、そうは言っても見ず知らずの人(ましては相手は子供である)を信用できないのは当然と言えば当然だ。
「ええ、もちろんです。何なら今すぐにでもできますよ?」
「え、じゃ、じゃあやってもらえる?」
夢見は興奮と緊張が入り混じったような声で聞く。
「いいですけど……。あなたには今の生活をすべて捨てるだけの覚悟がおありですか?」
「もちろんよ! 人魚になれるのならすべての生活を捨てても構わないわ!」
即答だった。それはそうだ、人魚になるのは彼女の一番の夢だったのだから。
「わかりました。じゃあですね、そこの海水に足を触れておいていただけますか?」
女の子はすぐそばの海水を指差してこう言った。
「う、うん。……何で?」
「人魚と言うのは水に絡むものなので、水に触れておいていただける方が成功率が上がるのですよ。失敗することはありえないのですが、より優れた人魚の方がなれるとしたらあなたも嬉しいでしょう?」
「うーん、確かにそうね。それじゃあ……」
夢見は海水に足を浸した。
「これでいいの?」
「ええ、バッチリです。それじゃあいきますね。せーのっ、えいっ!」
すると、夢見の足には途端に魚のようなひれが付き、足の代わりとなった。胸には貝殻のようなものが付き、彼女の着ていた服はその場に解けるようにして消えて行った。さらに、先ほど女の子が変身させたイヤリングもその耳につけて、彼女の変身は完了となった。彼女のロングヘアーは水に映え、その輝きを増していた。
「わぁ、すっごーい!」
「さて、これで一応変身は完了したのですが、あなたに一つ忠告をしなければならないことがあります」
女の子は夢見を変身させると、厳しい口調でこんなことを言った。
「人魚と言うのは、決して幸せにはなれない伝説上の生き物とされています。あなたに幸運が訪れることは、おそらくないと言ってもいいでしょう。それはずっと決まってきた人魚の運命ですから」
「は、はぁ……。忠告ってそれだけ?」
もっと重い話が来ると思っていた夢見は拍子抜けする。
「はい。それだけは、頭の片隅にしっかりと置いておいてくださいね」
「OK。了解したわ」
夢見は頷いた。
「それでは、私にできるのはここまでです。あなたのセカンドライフがより良いものになるように、応援しています」
そう言って女の子は消えてしまった。
「不思議な雰囲気の女の子だったわね……」
夢見はそう言うと、海に潜ってみることにした。
「えっ、すごい……」
そこから見えた景色は格別だった。夕日を反射した水面、水中をゆったりと泳ぐ魚、地上とはまた違った自然、すべてが彼女の想像の遥か上をいっていた。
(こんなすごいのに幸せになれないだなんて、あの子もおかしなことを言うものね)
夢見はそう思いながら、優雅に水中を泳ぐ。それはまさに伝説上の生き物である人魚そのものだった。
それから数か月の時が過ぎた。夢見はすでに人魚の生活にも慣れ、多少なりとも深い海の方まで潜れるほどの立派な人魚に成長した。そんなある日、ふと陸上が懐かしくなった彼女は久しぶりに陸地の方へと行ってみることにした。
「んーっ、気持ちいい風!」
これはこれでやはり気持ちいい。なんだか久しぶりに普通の人間に戻った感じがする。もちろんそんなことはなく、事実足のひれはそのままで、彼女が人魚ということに違いはなかった。もっとも、最近の人魚は足のひれも人間のようにきちんと二つに分かれている者もいるらしく、夢見もその例に含まれていた。なので姿形はほぼ人間といってもよく、実際近くで見ないと見わけはつかなかった。
「そういえば、私の家はどうなったのかしら」
陸地に上がってみると彼女はふとこんなことが気になった。きちんと後処理はしておきますから、とあの女の子が言っていたのは覚えているが、どうも信用していいものか……。
「そうだ、久しぶりに帰ってみよ!」
動かしにくい足のひれを動かして体を前進させながら、夢見は昔懐かしい彼女の家へと足を踏み入れることにした。
「留守みたいね」
こんなことを言っていると空き巣のようだが、それは彼女もよく分かっていることだった。とはいえ、ここは以前の彼女の家なのだ。彼女の親がこの時間パートで働きに出ていて誰も家にいないことは明白だったから見に来たわけであり、留守でなければ逆に困る。そして、家の鍵はかかっていたが、おそらく、と思い夢見は郵便受けの中を見る。
「あ、あったあった」
しめしめと彼女は鍵を取り出した。どうやら鍵の置き場所は同じらしい。しかし、なぜ鍵がここにあるのだろう。夢見は一人っ子だったので、彼女がいなくなればこの家に子供はいないはずなのだが……。
「考えてても仕方ないし、とりあえず部屋に入ってみるか」
彼女は二階に上がると、部屋のドアを開けた。すると、そこには恐ろしい光景が広がっていた。
「な、何これ……」
確かにそこは彼女の部屋だった。だが、中にあったのは明らかに彼女のものではなかった。なぜかといえば、彼女は部屋に有名アイドルのポスターなど貼ってはいなかったし、友人と撮ったプリクラなど一枚もなかったからである。
「どうなってるのよこれ!」
何かがおかしい。彼女がこの家にいなかったこの数か月の間に、この家には何かが起きていたらしい。夢見はあわてて部屋を出た。
(何、これ? あたしがいなくなった代わりに、誰かがあたしになってあたしの家に住んでたってこと?)
普通では考えられない話だが、彼女はその信じられないような出来事を以前に一度経験している。
(淡口美月……)
そうだ、夢見を人魚に変身させることのできた彼女なら、ひょっとしたらこんな不可能なことすら可能かもしれない。そして、夢見の予想は不幸にも的中することとなる。
(嘘! あれって、あたしじゃない……)
そこには、クラスの人気者の男子と楽しそうに談笑する彼女の姿があった。それは、彼女の憧れていた人であり、彼女が唯一恋をした人物であった。
(あれが夢見音姫だっていうなら、じゃああたしは誰だっていうのよ……)
そのままその男子と別れた彼女は、ふと視線を前に移し、人魚になった夢見の姿を見つけると、気づいたように走って近寄ってきた。
「こんにちは。夢見音姫さんですね?」
「あ、あなた誰なの……?」
夢見は驚愕したように聞く。その女の子はニコッと微笑みながら答えるが、その答えは彼女が想像した答えの斜め上をいっていた。
「あたしですか? あたしは夢見音姫です。少し前までは人間に憧れていたただの犬でしたけど」
「い、犬……?」
つまり、夢見は犬に存在自体を乗っ取られたことになる。
「ちょ、ちょっと待ってよ! なんであなたはあたしのふりして生活してるの?」
すると、その女の子は首をかしげる。
「あなたのふり? 違いますよ? さっきも言った通り、あたしが今は夢見音姫なんです。むしろあなたのほうが今となっては偽物ですよ。あなたは自分という存在をすべて捨てて人魚になったんですから」
「そ、それってどういう……、いや、まさか」
だが、気づいてしまった。夢見は人魚になる際、こんな契約を交わしていたことに。
「いいですけど……。あなたには今の生活をすべて捨てるだけの覚悟がおありですか?」
「もちろんよ! 人魚になれるのならすべての生活を捨てても構わないわ!」
てっきり言葉のあや程度だと思っていたが、まさかここまでとは思っていなかった。
「それに、あの淡口美月さんって方だって言ってたじゃないですか、人魚は決して幸せにはなれない生き物だって」
「ちょっと待って、なんであなたがそれを……」
言いかけた夢見は気付く。
「まさか、あなた……」
「ええ、あの時海にいた野良犬ですよ」
「ど、どうして……」
すると、彼女は語り始める。
「あたしはですね、昔飼い主にひどい仕打ちを受けました。それはもう、人間でいうDVみたいな感じです。それでしばらくは耐えていたんですが、さすがに我慢できなくなって、そこから命からがら逃げてきたんです」
あの時の傷だらけの体はそのせいだったのだろう。
「で、もう意識もほとんどないようなふらつき方で、頑張ってあの海岸まで歩いてきたんです。そしたら、あなたが歩いてきて、その後ろから淡口美月さんが突然現れて、あなたは人魚になった」
「……」
夢見は考える。それはよく覚えていた。
「そしたら、あなたが海に潜って行ったあと、彼女はあたしにも声をかけてくださったんです。もしあなたが今の生活を脱したいというなら、一度だけあなたの望むものに変身させてあげられますよ、って」
「それで、人間に……?」
夢見はもう確認事項のように聞くしかなかった。
「はい。まあ、あたし雄犬だったので、女性みたいな考えに慣れるのには少し時間がかかりましたけど。でも、最近ようやくかわいい仕草とかもできるようになって、おかげで彼氏もできて、毎日楽しいんですよ。あ、さっきの男の子なんですけどね」
彼女は顔を赤らめながらそう言う。その表情は完全に恥じらった彼女そのものだった。
「そ、そんな……」
その一方、夢見は言葉を失うしかなかった。確かに夢見は自分という存在を放棄した。だが、それはあくまで人魚になりたかったからであり、他人に体を明け渡すことまで許可したわけではない。
「なので、あなたに会うようなことがあったら一度お礼を言いたかったんです。本当に、ありがとうございました。では、あたしは明日の授業の予習があるので、この辺で失礼しますね。あなたも、新しい人魚としての生活、頑張ってくださいね」
彼女、いや、新しい夢見音姫はそう一方的に言って歩き出す。しかし、もちろん夢見はそんな説明で納得できるはずもない。
「ちょっと待って、じゃああたしは、あたしは……」
ただ海を泳げるだけの伝説の生き物になってしまった彼女は、そんなことを言われて思考がまとまるはずもなく、ただその場に崩れ落ちるだけだった。
私は最初に幸せにはなれない、って言ったんですけどね。それに、あなたの生活をすべて捨てるだけの覚悟がありますか? とも聞いたんですけど。どうやらあの女性の方には届いていなかったようですね……。まあ、彼女はずっと憧れていた人魚姫になることもできたわけですし、私が文句を言われる筋合いもないわけですが。あっ、この辺りでお時間のようなので、今日はここでおしまいにしておきますね。それでは、また会う日まで。