ペット
「はぁ、どうしたらいいんだろう」
校門の前でそんなため息をつく高校2年生、犬飼望。彼は今大きな悩み事を抱えていた。しかし、こんなこと人に相談できるはずもない。何しろ絶対に不可能な悩み事だからだ。だが、そんな時だった。
「どうしました? 何かお困りのようですね?」
彼の目の前に、横ハネのショートヘアの一人の女の子が現れた。黒いコートを羽織り、白いワンピースを身にまとった彼女は見るからにまだ小学校低学年くらいの年齢と身長だ。いくら困っているとはいえ、彼女に相談するのは藁にすらすがれないだろう。犬飼は彼女をスルーして歩き出した。
「ちょ、ちょっと待ってください! あなた、今恋愛ごとで大きな悩みを抱えているんじゃないですか?」
ところが彼女は犬飼についてくると、いきなり彼が悩んでいる問題の核心をつくような質問をしてきた。
「……何で分かった?」
「いえいえ、商売上大体顔を見ただけで分かってしまうのですよ。あ、私こういう者です」
そして彼女はそう言って名刺を差し出してきた。なぜこんなに幼い年齢の子供が名刺を持っているかは分からないが、渡されてしまってはもらうしかなかったので、とりあえず手を伸ばす犬飼。すると、そこにはこう書かれていた。
(あなたの変身願望を現実に 淡口美月)
「変身願望……? 何だそれ?」
「読んで字の如し、あなたがなりたいものに一度だけあなたを変身させることができるのです。それが私のお仕事なんですよ。ただし、一度変身したら二度と元には戻れませんので、よく考えて決めてくださいね。ああ、私が必要になったら、その名刺の裏の電話番号に連絡してください」
そのまま立ち去ろうとする女の子に、犬飼は慌てて声をかけた。
「ちょ、ちょっと待った! お前、一体いくら取る気だよ? そんな大がかりな整形手術代、僕は払う気ねーぞ!」
「ああ、ご安心ください。私が必要としているのはお金ではなく、あなたが変身するときに生まれるトランス・エネルギーです。なので、お金は必要ありません」
「何だそのよく分からない名前……」
疑問を投げかけようとする犬飼に代わって、女の子はやや険しい顔つきで犬飼に続けて言う。
「それと、勘違いしているようなので言っておきますけど、私はどこぞの整形外科のようにあなたの顔を変えるのではなく、世界が認知するあなたの存在自体を変化させるのです。だから、あなたの姿はあなたが望んだ通りに変わりますし、あなたも他の人やものなどあらゆる物からそのように認知されます。お望みならあなたの姿をノミやダニに変えることだって可能ですよ?」
「ノミやダニって……」
さすがに絶句する犬飼。
「そんな訳で、私が必要になったらその番号に電話してください、では!」
そのまま女の子は走り去ってしまった。
「あ、おい、ちょ……行っちゃった」
名刺を持ったまま立ち尽くす犬飼。ふと、彼女からもらった名刺を見て呟く。
「淡口美月、か……」
犬飼はその名刺をポケットにしまうと、帰路につくことにした。
家に着いた犬飼は、ご飯を食べて部屋に戻ると、今日あった出来事を思い出していた。それは、今日の放課後、まだ彼が校門の前で立ち尽くす前の事だ。
「僕と、付き合ってください!」
犬飼は、今日一大決心して、校門の前で好きな女の子に告白をしたのだ。彼女の名前は呉沢澪、呉沢財閥のお嬢様である。自分とは住む世界が違うのは分かっていたが、それでも自分の気持ちをはっきりさせておきたかったのである。だが、彼女は水色のロングヘアーを細い指で掻き揚げると、こう言った。
「ごめんなさい。私、人間そのものにあまり興味がありませんの。だから、あなたとは付き合えませんわ。あなたが私のペットにでもなって奴隷として仕えてくださるのなら考えてあげてもよろしいですけど、そうでもなければ執事もメイドも間に合ってますので必要ありませんわ」
「えっ……」
「お話がそれだけなら、私は失礼させていただきますわ。これ以上こんなところで話し込んでいても時間の無駄ですので」
まさにあっという間の出来事、反論する隙すら与えない呉沢の発言は完璧だった。ここでもし犬飼が普通の少年だったなら、失恋の悲しみに心を痛め、カラオケなり何なりしてストレス発散としゃれ込んだだろう。だが、ここで犬飼は思ってしまったのである。なら、彼女のペットになればいい、と。そうすれば彼女のそばにいられると、彼は考えてしまったのだ。だが、彼女は一度会話をして気に入らなかった人間とは二度と口をきかない、という噂があった。事実、呉沢と会話した人間の大半はその後ほとんど彼女と口をきいていないし、話しかけても無視されることが大半であった。それをどう解決すればいいか考えて、彼は校門の前で立ちすくんでいたのである。
(もし、あの女の子の言うことが本当なら……)
犬飼は少し考えて思う。
(僕は、呉沢さんのペットになれる!)
そして、暴走した彼の思考の先にあったのは、携帯電話だった。彼は名刺の裏の番号にかける。あんな小さな女の子に頼るのはバカバカしいとは心のどこかで思いながらも、彼にできることは今これしかなかったのである。ところが、
(かけろって言ってたよな、何で出ない?)
彼女は電話に出なかった。何回かけても、おかけになった電話は電波の届かないところにいるか、電源が入っていないため、かかりませんの一点張りだ。
(やっぱり、ただの子供の戯言だったのか……?)
仕方ないので、犬飼はそのまま寝ることにした。夜の11時だった。
その頃、呉沢家では。
「あの犬飼って人、まっすぐな目でしたわね……」
呉沢澪がそんなことを呟きながら自分の机に頬杖をつく。今まで数多の男に言い寄られてきては断っていた呉沢だったが、今回は少し考えるところがあった。
「少し、かわいそうでしたかしら……」
「お嬢様、お食事の準備ができましてございます」
部屋の外からノックが聞こえる。彼女の執事が呼びに来たのだ。
「分かったわ」
彼女は優雅な物腰で立ち上がると、明かりを消して部屋を出た。
次の日、
「起きてください! あなたのお願いを叶えに来ましたよ!」
犬飼はこんな声で目が覚めた。
「何だこんな朝っぱらから一体……うわぁ!」
眠い目をこすりながらゆっくり開くと、そこにいたのは昨日の女の子だった。
「何でお前がここにいるんだよ!」
驚いて叫ぶ犬飼。
「だって昨日電話くださったじゃないですか」
「昨日出なかったじゃねーか!」
「夜の11時ってあの時間の子供は普通寝てますって。ちなみに私の就寝時間は9時です」
「お前のプライバシーなんか知らねーよ! つーか答えになってねー!」
淡々と答える女の子にツッコミを入れまくる犬飼。
「はい、何がです?」
「僕が聞きたいのは、どうして人の家に勝手に上がり込んでるかってことだよ!」
寝てたことからも分かるが、ここは犬飼の部屋だ。普通に考えれば女の子が人の家に上り込んでくることなどあり得る状況ではない。
「ああ、そのことですか。チャイムを鳴らして反応がなかったのでこそっと……」
「窃盗犯かお前は!」
靴を持って入るような仕草を見せる女の子に叫ぶ犬飼。
「冗談ですよ。でも、侵入経路は秘密ってことでお願いします。これがばれるといろいろ上がうるさいんですよー」
今度は人差し指を口に当てるような仕草をしてごまかす女の子。どうも知られたくないらしい。
「やっぱり不法侵入じゃねーか!」
「まあ私に上司なんていないんですけどね♪」
「何なんだよお前は!」
すると、悪戯っぽい笑みを浮かべて女の子は言う。
「まあまあ、女の子には少しくらい秘密があった方が魅力的なのですよ?」
「こんなところで正論言われても困るわ! どこで覚えた!」
「えっとですねー、週刊誌で連載されてる某推理漫画で……」
「本気で答えようとすんな! それ以上言わなくていい!」
慌てて口止めに入る犬飼。このままでは埒が明かないので、彼の方から話を戻すことにした。
「……んで、本当にどんなものにでもしてくれるのか?」
「ええ、それはもうノミやダニまで幅広く」
「それはもういい。でも、本当にできるのかまだ信じられないところがある。良ければ何か他の物を変身させてみてくれないか?」
「そうですねー、じゃあちょっとそこの鉛筆を取ってください」
犬飼の要望に、女の子は机の上の鉛筆を指差した。犬飼もそれに応じて鉛筆を手渡す。
「せーのっ、えいっ!」
すると人差し指を出した彼女は大きく振りかぶって鉛筆を指差した。すると、鉛筆が見る見るうちに消しゴムに変化した。
「お、おお、な、何だこれ!」
「昨日言った通り、世界が認知するこの鉛筆の存在を消しゴムに変化させたのですよ。どうです、これで信じていただけました?」
「……ああ、疑う余地もない。ところで、これはちゃんと消しゴムとして使えるのか?」
「ええ。私がやったのは世界の改変に近いですからね。この鉛筆はこれから消しゴムとしてこの世界に存在していくことになります。何なら試してみますか?」
そう言った彼女は懐から鉛筆で文字の書かれた紙を取り出した。
「気持ち悪いくらい準備がいいな……」
「まあ、大体の人がこんなこと言うと疑ってかかりますからね。常に証明するためのものをあらゆる状況に合わせて50パターン用意済みです」
「ご苦労なこった」
そう言って紙を受け取った犬飼は、さっきの消しゴムで消しにかかる。するとみるみるうちに鉛筆の線は消えていった。消し具合としても申し分ない。
「おお、すげー!」
「さて、これで私の能力については信用していただけたと思いますけど、それで、一体あなたは何になりたいんですか?」
女の子も本題に入る。そもそも彼女は仕事をしにここに来ているのだ。
「実は、呉沢澪って言う財閥の女の子のペットにしてほしいんだ」
「ペット……ですか?」
女の子は首を傾げる。
「ああ、彼女は一度嫌った人には絶対話しかけないって言う噂がある。僕は嫌われてしまったみたいだが、彼女とどうしても一緒にいたい。彼女は僕がペットなら一緒にいてくれると言っていた。だから、僕をペットにしてほしいんだ」
「そうですか、うーん……」
何でもできると言ったはずの女の子はしかし、犬飼のお願いを聞いて悩み始めた。
「どうした、できないのか?」
「……さすがに私でもペットの既成事実を作るのは無理ですね。代わりにあなたがこれから呉沢澪のペットになるという将来づくりをすることならできますけど、それでどうでしょう?」
「何でもいい、とりあえずそれで頼む!」
「分かりました。せーのっ、えいっ!」
その瞬間、犬飼の意識は地の底へと落ちて行った。
(うう、ここは……)
次に犬飼が気付いたとき、彼は段ボールの中に入っていた。
(何で段ボールなんかに……?)
しかし、どうも様子がおかしい。何というか変だ。視界はコンクリートの壁のかなり下の部分を見つめているし、自分の体自体が縮んだような気もする。何より、ついさっきまで二本足で立てていたはずなのに、どうあがいても今の彼は4本足でしか地面に立てなかった。
「み、みゃぁ……ふぎゃっ?」
しかも日本語で話せない。これはどう考えてもおかしい。そこに一台の車が通りかかるが、少し先まで行って止まると、犬飼の方に近寄ってきた。
「あら、かわいいネコ」
それは呉沢澪だった。あろうことか、彼女は犬飼のすぐそばまでかがんでこう言ったのである。
(ま、まさか、僕がペットになりたいって言ったから、あいつ本当に俺をペットにしちまったのか?)
どうもそれ以外に考えられない。どうやら彼女は犬飼のペットになりたい発言を受けて、それなら猫がぴったりだ、と判断したのだろう。犬飼としては、人間のまま一生こき使われる奴隷を想像していたのだが、呉沢に抱かれた瞬間、
(こ、これはこれでアリかも……)
と言う邪な考えを浮かべていた。ところが、
「クシュン!」
呉沢は急にくしゃみをし始めた。慌てて一緒に車に乗っていた執事のような人物が近寄ってくる。
「お嬢様、猫アレルギーなのにむやみにそのような野良猫に近寄ってはなりません」
「ごめんなさい、どうしてもかわいかったものだから」
(ね、猫アレルギーだと!? そ、そんな……)
「みゃあ、みゃあ、みゃおん!」
「ほら、お嬢様が不用意に近寄るから、この黒猫も悲しそうに泣き叫んでいるではありませんか」
「ゴメンね、私猫アレルギーだから、あなたのこと飼ってあげられないの。他の人を探してちょうだい」
そう言って呉沢は立ち去ってしまう。
(あなたが僕を飼ってくれなかったら、僕は一体どうなってしまうんだ! 何のためにこの姿になったんだよ!)
みゃあみゃあと叫ぶが、もちろん人間にネコの言葉は伝わらない。これで済めばまだ良かったのだろうが、さらに追い打ちをかけるような一言が犬飼を襲う。
「そういえば、昨日犬飼君って方に告白されたの。昨日はああ言って突き放したけど、あの人ならお友達になってあげてもいいかもしれないわ」
「さようにございますか。お嬢様が気に入ったのですから素敵な方なのでしょうね」
「素敵なんてそんな。ただ、あの人の目がまっすぐだっただけよ」
そう言いながら車に乗り込んで走り去っていく二人。
(そんな、そんな! 僕はどうしたらいいんだ! 僕を誰か、元の姿に戻してくれぇ!)
狭い路地に、一匹の捨て猫の声がこだました。
あらあら、どうやらダメだったみたいですねえ。だからしっかり考えてからって言ったのに……。振られても諦めないで逃げに走ったこの人は、生涯一度のチャンスを棒に振ることになりました。これから彼は、猫としての人生を歩んでいくことでしょう。でも、これはあくまで一つのケースにすぎません。あなたがもし、何かに変身したいと思ったら、ぜひ私を必要としてくださいね。その時は私があなたを理想の姿に変身させてあげましょう。それでは、また会う日まで。




