決意
「……結局、あいつについて分かったことはほとんどなかったか」
生井海人はため息をつく。海まで行ったというのに、収穫はほとんどなしだ。結局公園に戻ってきたわけだが、この後行く当てもない。
「そう落ち込むなよ。結局、彼女が何かの目的で君の姿を変えたかもしれないってことだけは分かったんだからさ」
黒猫の姿にされている犬飼望が励ましはするものの、生井の気分は晴れなかった。そもそも、あれからまだ数時間しか経っていない。生井の時間間隔からすればもう三日は経っていてもおかしくないくらいの疲れなのだが、まだ夕日が沈んだ頃である。
「そんなの、俺は最初から考えてたっての。忘れてただけでな」
「結局忘れてたならおんなじじゃないか」
「……それもそうか」
まだ6時くらいだが、割と彼の睡魔は限界に来ていた。どうも体が幼児化したせいか、睡眠時間までもが子供のようになってしまったらしい。さらに今日の疲れは尋常ではない。ここは素直に寝ておくのが賢明だろう。
「犬飼。俺は寝ようと思う。猫は夜行性の生き物だったから夜でも動けるはずだ。見張り番を頼みたいんだがいいか?」
ところが、犬飼は首を横に振った。
「動けないことはないんだけど、猫っていうのは一日の大半を寝て過ごす生き物なんだ。なってみて分かったけど、僕も結構寝てる時のが多いんだよ。現にそろそろ眠くなってきたし……」
犬飼によると、確かに猫の目は夜でもわずかな光で物を見ることができるようになってはいるが、睡眠時間も長く、一日の半分以上を寝て過ごすこともよくあることらしい。
「……じゃあしょうがないな。こっちに来いよ。一緒に寝てればまだ安全だろ」
仕方ないので生井は犬飼を呼び寄せる。一時的に彼の姿を元に戻すことも考えはしたが、それではそのまま彼が逃げてしまう可能性もあるからである。
「分かった。物音には敏感になってるはずだから、何かあったらすぐに起こすよ」
猫の耳は猫の持つ五感の中で最も優れていると言われている。飼い主の足音くらいなら余裕で判別できるとまで言われているほどなので、犬飼の自信は本物だろう。
「それじゃあよろしく頼む。おやすみ」
「うん、おやすみ」
そのまま二人はベンチで眠りについた。
だが、その数時間後、
「起きて、起きてよ生井君。誰かが来る」
「……何だよこんな時間に」
生井は犬飼に強制的に起こされることとなった。時刻は夜の九時、子供が睡眠をとるなら今からという時間である。
「ほら、あそこ。こっちに向かってきてるでしょ」
犬飼の声の先には確かに誰かがいて、しかもこちらへ向かって歩いてくるように見えた。
「おい、そこは俺の特等席だぞ! とっととどきな。そもそもガキがこんなとこにいるんじゃねーよ。とっととおうちに帰んな」
その男は犬飼たちの前に来ると、そう言ってきた。
(ここに住んでるホームレスかよめんどくせえ……)
「先に寝てたのは俺達だろ。お前こそどっか行けよ」
「ああん、ガキのくせに生意気だなてめぇ……ん? お前、どこかで俺と……」
ところが、口論になるかと思われたその時、男は何かを思い出したかのように考え込む。
「何だよ。俺はホームレスの知り合いなんか持った覚えはねーぞ」
「……いや、人違いだな。そもそも性別が違う。とにかくどいたどいた。ここは俺の寝どこなんだよ」
そう言って男は無理やり生井たちをどかした。仕方ないので生井は別の場所を探すことにする。
「まったく、何だっていうんだか。子供を無理やりどかすことはないと思うんだけどなぁ……」
犬飼はこう呟くが、生井は黙ってうつむいたままだった。
次の日、
「おはよう生井く……あれ?」
目覚めた犬飼は生井の姿を探すが見当たらない。この公園にある時計を見てもまだ朝の八時、起きるには決して遅くない時間だった。
「どこに行ったんだろ?」
犬飼は少し周りを見渡す。
「あ、いた。おーい、生井く……ん?」
だが、犬飼は叫ぶのを途中でやめてしまう。というのも、そこにいたのは生井だけではなくもう一人、
「あれは……昨日のホームレス?」
昨日無理やりに生井たちをどかしたホームレスの男も一緒だったからである。何やら二人で話し込んでいるように見えた。
(まさか、昨日の一件で何かもめてるんじゃ……)
昨日あの男とは軽い口論になったばかりだ。もし向こうが根に持つ正確ならば、昨日の一件から揉め事になる可能性は決してないとは言えない。
「とは言っても、僕が仲裁する訳にもいかないしな……」
現在の犬飼の姿は小さな黒猫だ。人間の頃なら止めに入っていたかもしれないが、今の姿で喋るのはあまりにおかしすぎる。ここは様子見で近づいてみることにした。
「……んで、本題に入りたい」
慎重に木の枝に飛び乗って近づくとそんな声が聞こえてきた。生井の声だ。
(本題?)
一体何を話そうというのだろう。
「本題ねぇ。って言っても俺の知ってることなんかお前らの知ってることに比べれば大したことないと思うが」
「今は少しでも多くの情報が欲しいんだ。あんたがあいつの被害者だっていうなら、俺に協力してくれたっていいだろ?」
「被害者だって⁉」
そこで犬飼は思わず声を上げてしまった。
「ん? 今どこかから声が……」
「えっ? い、いや、気のせいじゃないのか?」
あからさまに焦りながら、生井は犬飼の姿を見つけると、男にばれないように睨んだ。犬飼は慌ててばれないような場所に避難した。
「……まあいいや。俺に分かることなら聞いてくれ。あんまり当てになるとも思えないが、できる限りの協力はしてやるよ」
「助かる。じゃあ、いろいろ聞くからできる限り思い出してくれ」
「それより、情報料って言うのは本当なんだろうな?」
どうやら生井は情報料を払うことと引き換えに淡口美月の情報を得ようとしているようだ。男の目の色が昨日とは明らかに違っていた。
「全くがめつい協力者だぜ。あんたの情報の信憑性と有用性を審議したうえで総合的に判断するってことを忘れんなよ」
「分かってるよ。んで、何から話せばいい?」
「そうだなぁ、それじゃ……」
「ありがとよ。これで数日は生活できる。じゃな」
男は生井の質問に答えると、颯爽と公園を後にした。彼によると、今日もまたこの後また就活があるらしい。
「もういいかい?」
犬飼は木の枝から飛び降りる。そのしなやかな体は木の枝から様子を見るにはうってつけだった。
「ああ。しかし、お前思った以上に起きるの早かったな。もっと寝てるもんかと思ってたよ」
「何だか早く目覚めちゃってね」
そうは言っても彼が昨日寝たのは6時、一度起こされたことを考えても13時間は寝ている計算になる。
「で、どんな話が聞けたの?」
遠くに離れてしまったせいで話が細かく聞けなかったので、犬飼はそう聞く。だが、生井は浮かない顔をする。
「大体同じような話だった。結局、収穫らしい収穫はなかったな」
「ふーん……」
犬飼は残念そうに呟いた。その後、
「そういやあいつは淡口美月に一体何の願いを叶えてもらおうと思ったの?」
先ほどからずっと気になっていたことを聞くことにした。すると、生井は突然笑い出した。
「ど、どうしたのさ?」
「いや、思い出したらおかしくなっちまってさ」
「そんなに?」
犬飼は不思議そうな顔をする。
「ああ。何なら今から話してやるよ」
そう言って生井は思い出すようにして話し始めた。
「えっ、何それ?」
犬飼は思わずそう声を上げていた。
「だから、強風の日に硬貨を紙幣に変えてくれって言ったんだよ。そしたらそのなけなしの財産がみんな飛ばされちまったんだとさ」
「……笑い話にしても笑えないな」
「でも皮肉な話、そのおかげであいつは前よりもまじめに働く気になったらしいぜ。おかげで今じゃ生活にも多少の余裕ができてきたらしい。もっとも相変わらずホームレス生活なのは変わらないらしいけどな」
「……ふーん」
犬飼は何だか納得がいっていないようにそう返した。結局、彼にとっては淡口美月との出会いは不幸と呼べるものかどうかは微妙な所だったらしい。
「……なあ犬飼」
「何?」
それから数十分後、生井は犬飼に声をかけてきた。
「淡口美月に会った奴って、不幸になった奴ばっかりなのか?」
「……どういうことさ」
犬飼は不満そうな顔をする。彼からすれば淡口美月は憎悪の対象ではあるものの、お世辞にも恩人と呼べる対象ではない。
「……いや、まあ考えてもみろよ。俺たちが出会った奴って、みんなどこかは何かしら変わってるだろ?」
「まあね。それは否定しないよ。人魚になったり、猫になったり……」
犬飼の言葉に生井は首を振った。
「そうじゃない。外見じゃなくて、中身だよ」
「中身?」
犬飼は首を傾げる。
「ああ。こないだの人魚にしろ、今のホームレスにしろ、みんな与えられた環境でそれを何とかしようと努力してるだろ?」
「……それは、そうかもしれない。確かに、みんな前向きに生きてるって言えないこともないからね。でも、それとこれとは……」
「分かってる。あいつを許そうって気持ちは微塵もない。そうじゃなくて、もしかしてあいつが俺をこの姿にしたのには何か訳があるんじゃないかと思ってさ」
「理由? どうしてさ?」
犬飼は普段の生井らしくないその考えに疑問を投げかけた。
「お前たちと違って、俺のは望んだ変身じゃないからだよ。あいつが勝手に変身させただけだ。それってつまり、あいつにとって俺は勝手に変身させられるような何かを持ってた、ってことだろ?」
「まあ、そう考えられないこともないかもしれないけど」
「ってことは、俺がこの姿になったことであいつに何かの利点がなきゃおかしい訳だよな?」
「……確かに。それがこないだあの人魚の言ってた企みってことか」
「ああ。俺がこの姿になって動くことであいつに何かメリットがあるっていうんなら、俺はあいつの企みを全力で止めなきゃいけない」
そこまで言った生井は立ち上がった。
「俺は、これからしばらくいろんな場所を旅してみようと思う。その途中であいつの被害者かあいつに会った人がいたら話を聞いてみるつもりだ。お前はどうする? もう俺のすることは決まったからお前を元に戻してもいいんだが」
すると、犬飼はやっぱりか、という顔をする。
「君も僕を利用してただけだったんだね」
「ばれてたのか?」
生井は意外そうな顔をする。
「よく考えてみたら、もし僕が彼女についてかぎまわってるのが面倒なんだったらとうの昔に消されててもおかしくないはずだからね。それが僕も含めて他の人にもなかったってことは、つまり彼女は一回変身させた人のその後には興味を持たないってことだ。多分君は僕と最初に会った時にそこまで見抜いてたんだろ? 僕が気付いたのはずいぶん後だったけどね」
「そこまで分かってて、それでも俺についてきた理由は何だ? 元の姿にいつまでかかってもいいから元に戻してもらうためか?」
すると、犬飼は違うよ、と言ってから話し始めた。
「単純に君に興味があったのさ。元に戻れる保証がないんだとしたら、面白そうな方に動いた方が人生楽しめるだろ?」
「……お前の方がよっぽど肝が据わってるよまったく」
そのまま歩き出そうとした生井の肩に犬飼は飛び乗った。
「いいんだな?」
「ああ。その代わり、僕と君とはもうただの主従関係だけじゃない。これからもよろしく頼むよ?」
「ああ、分かってるよ相棒」
そのまま2人は公園を後にする。いつ彼女に会えるかも分からない絶望的な状況ではあったが、その目には確かに希望が宿り続けていた。