疑問
「……んで、ここはどこなんだ犬飼?」
訳あって黒猫の姿にされている犬飼望を連れた生井海人が連れてこられたのは、海だった。
「だから、さっきから言ってるだろ。淡口美月についての情報をもらえる場所だって」
「何でここにあいつの情報があるんだよ? どこからどう見ても普通の海じゃねーか」
犬飼もこうとしか答えない。だから余計に生井はいらだつのだ。
「そうイライラしてると長生きできないよ。もっと気長に……ほら、いたいた」
そう言った犬飼の目線が前に向く。つられて生井がその方向を向くと、そこにいたのは意外な、というよりも驚くべきものだった。
「あれは、人魚? 実在したのか……?」
そこに座っていたのは美しい人魚だった。人魚姫という童話はあるが、彼女ほど人魚姫という言葉がしっくりくる人魚も珍しいだろう、というくらいの美貌だった。だが、その様子はどこか物憂げで、表情には陰りが見えるようだった。
「どなた? 私に何か用かし……あら、どこかで見たような服装の坊やね。少し前のことを思い出してイライラ……ごめんなさい、あなたには関係なかったわね」
生井たちが近づくと、人魚は振り返り、そう言いかける。だが、その言葉は途中で遮られ、代わりに生井の方を見てこう漏らした。どうも嫌な何かを思い出してしまったらしい。黒猫はその様子を見て黄色い目をさらにギラッと光らせる。
「やっぱりこの服装に見覚えがあるんですね? 人魚さん、よろしければ私たちに少しお時間をいただけませんか?」
黙っている生井に代わって犬飼が声をかける。
「嘘、黒猫が喋った……?」
人魚は心底驚いた様子で黒猫を見た。
「あなた、元は人間だったんでしょう? それを淡口美月と名乗る女の子に人魚に変えられてしまった、違いますか?」
「何でただの黒猫のあなたがそれを……まさか」
黒猫の説明を聞いていた人魚は、何かに気付いたかのように黒猫の方を見た。
「お察しの通り。僕もあなたと同じ彼女の被害者です。で、この生井海人君も同じ彼女の被害者なんです。もっとも、彼の場合は僕たちとは多少事情が違いますけどね」
「良ければ、あんたがその人魚になっちまった時の情報を聞かせてほしい。俺が元に戻るのに必要なんだ」
ようやく生井はそこで口を開いた。
「……分かった。すべてを話すわ」
人魚も状況が飲み込めたのか、最初のような不機嫌そうな顔はもう影を潜めていた。
「それで、人魚に?」
「ええ。元々人魚には強い憧れがあってね。あの子が来たとき、これはチャンスだって思ったわ。それで彼女に頼んだ結果、私は人魚になることができたの」
生井が彼女の生い立ちについて聞くと、彼女は自分の人魚への憧れを語り、それが原因で人魚になることを願ったのだと言った。
「でも、あなたはいつも寂しそうな顔をしてますよね。ずっとなりたかったはずの人魚になれたのになぜ……」
犬飼は不思議そうに聞く。ずっとなりたかったものへの憧れ、それが叶った時の嬉しさを考えれば、彼女はもっと生き生きとしていてもいいはずだ。だが、彼女の様子はお世辞にも明るい感じには見えなかった。
「人魚になった後にね、私一回だけこっそり自宅に戻ったの。私がいなくなった後、私の家がどうなってるのか気になって」
人魚はポツリポツリとその理由を語り始めた。
「家に戻れたのか、それでどうなってたんだ?」
そのひれのまま戻れたのか、などいろいろな疑問が頭の中にはあったが、ここで話の腰を折っても仕方ないので、生井はそのまま質問を続けることにした。
「そしたらね、いたのよ、私が。って言っても、まだその時は部屋に上がり込んだだけで別に直接会った訳じゃなかったんだけど」
だが、彼女は驚くべきことを言い出した。
「えっ、それってどういう……」
黒猫は首を傾げる。
「まず私が部屋に入ったら、何だか知らない男性アイドルのポスターが一杯貼られてたわ。撮った覚えのないプリクラだってあった。普通だったらホラーでしょ?」
笑い話のように言うが、彼女の顔は笑ってなどいなかった。
「つまり、存在するはずのない時間にあんた以外の何物かがあんたに成りすましてあんたとして過ごしてたってことか?」
「……ええ。あなた、頭が切れるのね。説明が少なくて助かるわ」
人魚は首を傾げる黒猫と生井を交互に見ながらこう呟いた。
「で、あんたの代わりをしてたやつ、そいつはやっぱり……」
すると、人魚はため息をつきながらこう答えた。
「ええ、淡口美月の仕業よ。あの子、私の代わりになる人を用意して、私のダミーとして生活させてたの。この分だと多分私以外にも被害者がいるんじゃないかしら」
自分の知らない人が自分として生活している……。それは一体どれほど薄気味悪く、信じられない光景なのだろうか。そもそも、自分の身の回りでそんなことが起きていたとしたら……。考えるだけで鳥肌が立つ。自分の友人が知らない人にすり替わって自分と接しているかもしれない恐怖。淡口美月という人物は一体どれだけの不幸を生んで歩いているのだろうか。
「まあ、それだけだったらまだ良かったんだけどね」
ところが、彼女はさらにそう言ってため息をついた。
「まだ何かあったのか?」
「私じゃないわ。私のダミーのことよ」
「あんたのダミー? 別に他の人がなったなら問題ないんじゃないのか?」
倫理上問題はあるだろうが、人から人へのシフトならまだ諦めもつくはずだ。
「ええ、私のダミーが人だったらね。まだ多少の諦めもついたわ」
「……どういうことだ?」
すると、人魚は黒猫を指差した。
「この子、人から動物に変身させられたのよね?」
「ああ。そうだけど、それが何か……」
言いかけて、生井も気付いた。
「まさか、あんたのダミーに動物がなったっていうのか?」
そうだ、人から動物へのシフトがあるのならば、動物から人へのシフトがあったところでまた不思議でもない。人魚は頷いてこう言った。
「その通り。私のダミーはね、傷だらけの犬だったわ」
「犬……?」
「ええ。笑っちゃうわよね。私の人生は確かに私が捨てた。でも、その人生は人にすら受け継がれなかった。私の人生は犬なんかに乗っ取られたのよ!」
吐き捨てるように言う彼女の表情は、やはりどこか寂しそうだった。
「これで私の話は終わり。どう、少しは参考になったかしら?」
「ああ、かなり参考になったよ、ありがとう。ところで、一つだけ聞きたいことがあるんだが、いいか?」
だが、すべて聞き終わったはずの生井は、人魚に向き直ってこう聞いた。
「……? いいけど、何かしら?」
「あんた、それだけの仕打ちを受けたんだろ? 淡口美月に恨みとかあったりしないのか? 元に戻りたいとは思わないのか?」
すると、人魚はこう答えた。
「最初は後悔もしたし、あの子を怨もうと思ったり、自分自身を呪ってやりたいと思ったこともあったけどね。でも、よく考えたらそれって人間だった時の生活とそんなに変わらなかった。だったら、なりたい姿に慣れた今の自分の方が、よっぽど素晴らしいことだって、そう思えるようになったの。だから、今はあの子を怨みもしてないし、元に戻りたいとも思ってないわ。たまに人肌が恋しくなることはあるけどね」
そう茶目っ気たっぷりに笑った彼女は、何だか過去を語っていた先ほどよりも輝いて見えた。
「で、あなたは何も聞かれずに淡口美月にその姿にされたんだったわよね?」
「ああ。あんたと違って俺は望んでこの姿になった訳じゃない。俺は、必ず元の姿に戻って見せる」
だが、その決意とは裏腹に、人魚は不思議そうな顔をする。
「でも、何であなただけ勝手に変身させられたのかしらね?」
「言われてみるとそうですね……」
犬飼も同じく生井を見る。
「そういや、俺だけ勝手にあいつに変身させられたんだったな。その理由は一体何なんだか……」
よく考えてみると、生井だけ変身した理由が他の二人とは異なっていた。2人とは違って彼だけが望んだ変身ではない。
「もしかしたら、あの子、何か考えがあったのかもしれないわよ?」
「考え? どういうことだよ?」
すると、人魚は意外なことを言った。
「あなたがただの気まぐれだと考えているのならそれでもいいけど。私にはなんかあの子があなたに対して何かをたくらんでいるような、そんな気がするのよね」
「……確かに」
もし彼女がただ考えなしに慈善事業で行動しているようなら、彼女にとって人を変身させることには何の意味もない。だが、彼女はセールスマンだ。その行動に何かメリットがなくてはおかしい。無銭報酬で行動しているのなら尚更だ。つまり、そこには何か目的が存在しているということになる。生井も最初に一度は考えた事だったが、色々あってすっかり忘れていた。
「俺を変身させたことに対する意味、か……」
「ええ。よく考えて行動するといいわ。私とかそこの黒猫君みたいにならないためにもね」
生井は今一度、考えなくてはならなくなった。淡口美月の行動の意味、そしてその目的を。
一方の淡口美月はというと、何故かお墓の前にいた。普段はあまり見せない寂しそうな顔で墓前に祈りをささげる。数秒目を瞑って祈ると、彼女は立ち上がった。
「まあ、慰安旅行的なのも済んだことですし、とりあえず仕事を再開しなくてはいけませんね。ついでに森の中でずいぶんとリフレッシュしてしまいましたし」
彼女は顧客に多くを語らない。つまり、それは裏を返せば彼女について深く知る者はごくわずかということになる。彼女が今手を合わせたこのお墓の中にいるのは、その数少ない一人だった。
「私は絶対、あなたの二の舞を踏みません。必ず、元の姿に戻って見せます。もっとも、あなたが本当に死んだかどうか、私も直接見た訳ではないので分かりませんけど。目の前にいたはずなのに、突然消えてしまいましたからね」
彼女はそうつぶやく。今この場にいるのは彼女だけ。仮に人が通っても、彼女が呟いた言葉の意味を知る者はいない。
「さて、では行きますか。お仕事再開です」
彼女の顔はもうすっかりいつも通りに戻っていた。そして一瞬のうちにそこに静寂が戻るのだった。