ヴァンパイア(前編)
今宵は月の満ちた夜。そんな日に、一人の少年はこんなことを呟いていた。
「血が、血が恋しい……。ああ、あなたは今いずこにいるのだ……。しかし、彼女の血を吸ってしまっては彼女が吸血鬼になってしまう……。私はどうすればいいのだ……」
彼の名前は番場伊亜。高校三年生である。彼のこの異常とも呼べる呟きは、彼らが今やろうとしている劇が原因だ。彼は演劇部の部長を務めている。今回の劇の名前はヴァンパイアの恋。タイトルから推測できる通り、一人の女性に恋してしまったヴァンパイアが自分の命を取るか、女性を愛する道を取り死を選ぶか、という究極の選択を迫られてしまう話である。ヴァンパイアは女性に最後まで秘密を明かすことなくこの世を去るのだが、死後に彼の正体を知った女性も結局後追い自殺をしてしまうという悲劇の物語である。
「……うーん、何か違うんだよなぁ」
演じた後に番場は首を傾げる。どうも彼が演じようとしているイメージとは合わないらしい。
「やっぱり実際なってみないと無理、かぁ……。でもなぁ、さすがにヴァンパイアにはなれっこないもんなぁ……。役柄的にも今回の役は俺じゃ再現しきれないしなぁ……」
彼の持論として、役になりきるためにまずその役を現実生活でもある程度再現する、というものがある。例えば貧乏学生が主人公なら一日三食を抜き、ボロボロの制服を着て学校に行ったりもした。今回の場合もそのようにしてみようとしたのだが、問題点が二つ生じてしまった。
一つ目が、先ほど彼自身が言っていたように、彼がヴァンパイアにはなれないことである。ヴァンパイアとは詰まる所吸血鬼であり、血を吸って生きることを定められた想像上の生き物である。その起源には生前に犯罪を犯す、事故死する、自殺するなど諸説あるとされるが、いずれの方法を取ろうとしたとしても、彼がヴァンパイアになることはどう考えても不可能である。まずなれる保証がないという点で現実的ではない。そしてもう一つ、彼にはある決定的な欠陥があった。
「そもそも、恋って何なんだぁ……?」
彼は人に恋をしたことがない。好きという感情も、人を愛おしいと思う感情も感じたことがないのだ。好意こそあれ、彼が人に惚れるなどということはまずありえなかった。
「まったく、あいつら絶対名前が似てるからって理由で俺のこと選んだだろぉ……」
この劇は番場達三年生にとって最後の演劇である。だが、劇の内容や配役は引き継ぎの意味も兼ねてすべて次期部長に任せていた。別に彼がいつものように配役を決めても良かったのだが、せっかくなら自分が選んだ次の部長の力量を測ってみたいと思ったのだ。だが、これが完全に裏目に出る形となってしまった。そしてもっと謎なのは相手の女性の配役だった。
「……こんな人うちの部にいたっけかなぁ?」
台詞の確認の意味も込めて台本を確認する。そこに書かれていた名前は、河合ひとみというものだった。だが、彼女は番場達三年生でもなければ、配役を任せた次期部長のいる二年生でもない。気になったのでその次期部長に聞いたところ、今年入ってきた一年生だという。それなら仕方ないかと最初は納得したものの、後になってみると余計に不思議に思えてきた。そんなに実力があったのなら番場の目に留まってもおかしくないはずだし、そもそも今年の新入生に期待の新人なるポジションの奴などいなかったはずだ。
「いやいや、他人のことより自分の劇に集中しなきゃなぁ!」
考え始めるとなかなかその問題から抜け出せないのは番場の悪い癖だ。彼は頭を切り替えて劇の練習を再開することにした。初めての合同練習は明日だ。
次の日の夕方、
「……やっぱり見たことなかったなぁ」
番場は道路でため息をついていた。もう薄暗い空が彼の気持ちを代弁してくれているかのようだった。今日は初めての共同練習の日だった。二週間の暗記を経て、番場は久しぶりに部室を覗いたのだ。だが、そこにいたのはほとんど台詞のないモブキャラ数人役の番場の同級生と次期部長、そしてその一年生の河合ひとみだけだった。
「しかもあの演技力で何で主役になれたんだぁ……」
その上演技をさせてみれば棒立ち棒読み、台詞はとちるし正直に言うならとても主役の器ではない。強いて言うなら演劇部の誰よりも美人な点くらいだろう。
「こんなんで本番大丈夫なのかぁ……」
そんな風に愚痴をこぼしている時だった。
「おにーさん、こんばんは」
目の前から突然小さな女の子の声がした。黒いコートに白いワンピース姿の彼女は番場をまっすぐ見据えて立っていた。
「……小学生が俺に何の用だぁ?」
番場は警戒心をあらわにする。
「そ、そんなに怖い顔しなくてもいいじゃないですか……」
「うるさい。今俺はそれどころじゃないんだよぉ!」
その凄い怒気に気圧されて黙るかと思われた女の子は、しかし番場の問いに答えるようにこう言った。
「劇……ですね?」
「……何で知ってる? お前と俺は今会ったばかりの初対面だよなぁ。それとも何か、お前は俺のことをつけてたのかぁ? ストーカーかぁ?」
とたんに番場の顔は尚のこと険しくなった。女の子は途端に慌てる。
「ち、違いますよ人聞きの悪いこと言わないでください! 今あなたが演技力とか何とか言ってたのを聞いてカマをかけてみただけです!」
「……立派な盗み聞きじゃねぇかぁ」
「え、ええまあ……」
否定できない女の子はばつの悪そうな顔をする。
「……んで、何の用なんだよぉ?」
女の子はそれを聞いてぱあっと顔を輝かせる。
「あなたのお悩み、解決させて頂くお手伝いができないかと思いまして」
名刺を取り出し番場に渡す女の子。番場も聞いてしまった都合上それを受け取る。そこにはこう印刷されていた。
(あなたの変身願望を現実に 淡口美月)
「……どこのインチキ商法だよぉ」
ぼそっと呟く番場。
「失礼な! だったら見ててくださいよ!」
今度は女の子が声を荒らげる番だった。そのままブランコを指差す。
「あの電柱を消して見せますから見ててくださいよ!」
「はいはい分かったから、早くやって見せろよぉ」
番場は取り合わない。頬を膨らませながら女の子はこう呟く。
「こんな屈辱初めてです……!」
そのまま電柱を指差す。
「せーのっ、えいっ!」
「んで、電柱は消せましたかぁお嬢さ……え?」
適当に流すつもりだった番場は、その光景を見て絶句する。確かに電柱一本が丸々消え、その電柱に乗せられていた余りの電線が彼の頭上に落ちてきた。
「お、おい早く何とかしろぉ!」
番場は叫ぶ。このままでは二人とも感電死がオチだ。
「……自分勝手ですよね人間って。バカにしたり文句言ったり。せーのっ、えいっ!」
すると、先ほどまでの惨劇は嘘のように元に戻っていた。
「分かりましたか? これはインチキでも何でもないんですよ?」
「わ、分かった。分かったから二度とやらないでくれぇ」
番場はへなへなとその場に座り込みながらもそう懇願した。
「分かればいいんですよ分かれば」
女の子は満足そうだ。
「で、今のは何だったんだよぉ?」
番場はふらふらする足で立ち上がりながら尋ねる。
「簡単に言うならあの電柱を空気に変化させたんです。空気は目には見えない、だから実際消滅したようなものですね。で、元に戻したのはそれと同じ仕組みで、空気から電柱を再度作り直しただけのことです」
「ないものから物を作り出すってって錬金術かよぉ……」
番場はまだ女の子に恐怖していた。
「まあ仕組みは似たようなものですかね。私の場合は人の性格とか人の状態にも関与できたりするのでその点では上ですけど。確か少し前には人魚になりたいって言ってた方を人魚にしたこともありましたね」
「……ん? 人魚?」
番場はあることを思いついた。
「そういやお前、今さっき俺自身のことも変身させることができるとか言ってたよなぁ? それも外見も内面も両方とも」
「ええ、確かに言いましたけど……」
女の子はやや考え気味に答える。
「だったら……、俺のことをヴァンパイアに変えることは可能かぁ? それも恋をするヴァンパイアに」
番場は少し渋った上でこう聞く。
「ええ、もちろん可能ですよ。何せ私は人魚に人を変えることもできるくらいですからね。ただ……」
「……ただ?」
女の子は軽くできると言った上で、言葉を濁す。番場はどうしたのかと聞き返した。
「私があなたの願いを叶えるのはたったの一度だけです。もしそれがあなたの本当に叶えたい願いだというのなら、私は喜んであなたをヴァンパイアにして差し上げますけど……。もう少しよく考えた方がよろしいのではないでしょうか?」
「……分かった。確かにお前の言うとおりだなぁ。まだ劇までは時間がある。一週間後にもう一回ここに来るから、その時にもう一度ここに来てくれないかぁ?」
「はい。それでは、また一週間後、でよろしいのですね?」
「ああ。よろしく頼む」
女の子の確認にそのまま返す番場。
「了解しました。では、また後日、お会いしましょう」
女の子はそれを聞くと、そのまま姿を消した。
「……俺はどうしたらいいのか、少し考える必要がありそうだなぁ」
番場も家に向かって歩き出した。さっきの出来事は、まだ頭の中にフラッシュバックしていた。
「……さて、私は顧客に対する忠告はどんなに気に食わない対応を取られたとしても平等にする方ですけど……」
その場から姿を消したはずの淡口美月は、彼女が先ほどまでいた場所のすぐ真上の電柱から、番場の様子を見てこう呟く。
「はたしてあの河合ひとみさんの思い通りに事は運ぶのでしょうかね?」
今回の顧客は努力家さんのようですね。でも、こんなに頑張っていて何一つ不満のなさそうな彼に、なぜ私が彼の劇のためだけに彼に話しかけたのか、それは次回で明らかとなります。今回出てきた河合ひとみさん、彼女が物語のカギを握っているのですが……おっと、今回はこの辺りでお時間のようです。それでは、また会う日まで。