2.
けれど連日のように遅い帰宅は、当然母の逆鱗に触れた。
「帰りが遅いのは帰りたくないっていう当て付けかい」
詰られて、頬を張られた。俺は黙って下を向く。母の怒気は持続しない。経験からそう知っている。彼女の事を母に話したくはなかったし、だからこのまま俯いてやり過ごしてしまおうと思った。
でも、母は知っていたのだった。
「お前、最近公園で誰かと話し込んでいるそうじゃないか。まさか私の悪口を言って回ってるんじゃないだろうね?」
違う、という否定の言葉は用を為さなかった。母にとっては自身の想像だけが真実だった。
「いいか、お前によくしてくれる人間なんて腹に一物ある奴だけだよ。お前みたいな穀潰しの話し相手ってだけでも慈善事業なんだ。そうだ、その女は誘拐犯に違いない。じゃなければ鬼だよ、鬼。お前を一口に食っちまいたいのさ。ああ早く攫われるか食われるかしてしまえばいいのに。なんでいるんだよお前。なんでまだ生きてるんだ。役立たず。流石はあいつの息子だよ」
罵倒と共に投げられたコップが額にぶつかった。まだ残っていたビールが床を濡らした。
いつもなら目を伏せて部屋に逃げ込んでいるところだ。負けを認めてしまうところだ。さもなければまた煙草の火を押し当てられたりするだろうから。
でもその夜の俺は顔を下げなかった。
父を軽侮された。それが許せなかった
彼女を侮辱された。それが堪らなかった。
母の顔をじっと睨んだ。
目が吊り上がり、口角に泡がたまっている。酒に焼けた赤い顔。この女の方こそが鬼だと思った。
「なんだその目はッ!」
母が立ち上がるよりも早く、俺は靴下のまま家を飛び出した。
行き先はあの公園しかなかった。
桜の下しかなかった。
もう夜も更けていたのに、そのひとはやはりそこに居た。
俺を見て驚いたようだったけれど、追い返したりはしなかった。泣きじゃくる俺を抱きしめて、「何があったの?」と尋ねてくれた。
行きつ戻りつする子供の話を最後まできちんと聞いて、それから頑張ったねと言ってくれた。
母の事を誰かに話すのはこれが初めてだったけれど、その一言で救われたような気がした。父の為に怒ったのも、彼女の為に怒ったのも、そしてそれだけではなかったのも、全部を解ってもらえたような気がした。
そしてその夜は、「もう帰った方がいいよ」とは言われなかった。
薄明るい街灯とそれ自体がほのかに光るような桜の下、俺は長い事そのひとと話をした。
気持ちを落ち着かせるように、そのひとの細い指はずっと俺を撫でてくれて、俺はいつまでも話をしていたいように思った。
けれど、所詮は子供だ。
いつの間にか俺は寝入ってしまって、次に目を覚ましたのは自分の部屋の布団の上でだった。
揺り起こしたのは警官で、俺が母の死を聞かされたのは彼からだった。




