1.
そのひとは、いつも桜の下に居た。
彼女が実際にどのくらいの年齢だったのか、俺はよく覚えていない。小学校に入りたての子供からしてみれば、中学生も高校生も大学生も社会人も、皆ひっくるめて大人という区分に分類される。
どんな面立ちであったかも、どんな装いをしていたかも、俺を見つめてくれたその瞳さえも、遠い時間の皮膜に遮られてもう朧だ。
だから彼女について言えるのはひとつだけ。
それはそのひとが、とても綺麗だったという事だ。
彼女がいる風景は、空気までもが美しいようだった。ただ立っているだけで、世界が凛と張り詰めるようだった。
純白の桜の下。
彼女の佇むその場所は、つまり異界であったのだ。
* * *
当時の俺は、家にあまり帰りたくなかった。母とふたりの暮らしに息が詰まっていた。
「おかあさんのご飯の方が好きよね?」
そう問われて、意味も判らずただ頷いた俺。顔はもうろくに思い出せないのに、その瞬間の肩を落とした父の姿は、やけにはっきりと思い出せる。
それで俺は母と暮らす事に決まった。けれどおかあさんのご飯が作られたのは、最初の数ヶ月だけだった。
父と別れてから母は酒に溺れ、言葉よりも暴力を恃むようになった。当然それは一番身近な弱い者へ、つまりは俺へ最も多く被害を及ぼした。
家に帰るのが嫌で嫌で、それでも誰にも言えなくて、俺はよく近所の公園で時間を潰した。遅くなれば、それを理由に平手が飛んでくるのは判っていた。それでも帰りたくなかったのだ。
彼女に出会ったのは、そんな桜の頃だった。
声をかけたのは俺からだった。眺めるでもなくただぼんやりと桜の下に佇むそのひとを見て、家に帰りたくない同類だと考えたのだ。
彼女は戸惑ったようだったけれど、子供と軽く扱う事なしに、他愛ない俺の話に付き合ってくれた。
やがて夕暮れが過ぎる頃になると、
「遅いからもう帰った方がいいよ」
そう微笑まれてしまえば逆らいようがなくて、俺はすごすごと家路につく。
そんなふうにして、そのひととの日々は数日続いた。
俺は学校から一目散に公園を目指すようになり、彼女はそんな俺を見ると少しの困り顔で、それでもそっと手を振ってくれた。