ep.2
「……ゔぉえっ」
路地裏に展開されたその光景を見て、若い捜査員は反射的に嘔吐してしまった。
ネクタイを汚すまいと必死に口を覆ったが、防ぎきれずに自身のスーツを汚してしまう。矜持か、それとも職業意識か。懸命に平静を取り繕おうとする彼の脳裏を、怒りとも戸惑いともつかない感情が往来していた。
職業柄、いわゆる「仏様」になった人間を見たことは幾度となくある。暴力団の抗争、通り魔、凄惨な事故。
だが、そんな彼でさえ耐え難いほどに、目の前の光景は常軌を逸していた。
主要な臓器を一突きで穿たれた遺体。首と胴を切り離された遺体。そして……鈍色の銃を握りしめたまま斬り落とされ、アスファルトの上に散乱している無数の腕。
壁面には激しい打撃によって生じたひび割れと、血の飛沫が前衛芸術のようにぶちまけられている。狭い路地裏の奥、およそ数十人にも及ぶ黒スーツの男たちが、文字通り「解体」されていた。
この国はいつから戦国時代に巻き戻ったのか。仮初めなれど、平和な法治国家ではなかったのか。
ただ一つだけ救いがあるとするならば、転がっている被害者のいずれもが、どう見ても堅気の人間ではなかったことだろう。彼らの懐からは違法な銃器が多数見つかっているし、何よりその身なりは半グレやヤクザというより、どこかのカルト教団の武装部隊のような不気味さがあった。
当然、だからといってこの大量殺戮が正当化されるわけではないのだが。
「新入り、きつかったら離れてていいぞ」
後から現場に入ってきた、白髪混じりの壮年の刑事がそう声をかけた。
「もう五年目……ですよ。いい加減、新入り扱い……やめて下さい」
若い捜査員は長々と続く新入り扱いに反抗の意思を見せるが、かろうじて口だけが動いているような状態だった。顔面は蒼白で、今にも再び胃液を吐き出しそうになっている。
「無理せず離れとけ。こいつは俺たちの手には負えん。通常事件の枠組みを越えてる」
壮年の刑事は、震えの収まらない部下の肩を掴んで反転させ、表通りの方へと追いやった。
事件現場は入り組んだ裏通りの最奥であり、何も知らない一般人がこの惨状を見る可能性は低い。だが、情報統制を完璧にするためには速やかに停止線を構築し、通常警察の手から事件を切り離す必要があった。
「停止線の構築を急げ。それから——『黒峰』に連絡だ。特務案件として事態を引き継ぐ」
「黒峰、ですか。了解しました」
裏社会のトラブル、あるいは魔術や非科学的な事象が絡む事件に対処する、歴史ある一族。彼らに引き継ぐまでの辛抱だ。
壮年の刑事は、眉間を揉みながらもう一度周囲の惨状を見回した。
遺体の損壊状況から見て、犯人は凶器を持っていない。切断面は刃物によるものではなく、圧倒的な膂力によって引き千切られた痕跡だ。臓器を穿った穴は、魔術によって生み出された『槍』のようなもので刺し貫かれたもののように見える。
こんなモノが、ただの「人」の仕業であってたまるものか。
暗闇に潜む化け物の存在を肌で感じながら、刑事は重くため息をついた。
一方その頃。
「……あれ?」
黒崎美遊は、他でもない彼女自身が置かれている状況に激しく困惑していた。
つい先程まで。袋小路で、黒スーツの男たちに追い詰められて。
無数の銃口が私に狙いを定め、万策尽きて両手を挙げたはずだ。
ではなぜ、私は今、見慣れた自宅の門の前に立っているのか。
周囲を見回しても、血眼になって私を追っていた黒服の連中は一人として見当たらない。空にはすっかり夜の帳が下りており、近所の家々からは夕飯の匂いが漂ってきている。
どうやって私はあの状況を切り抜けたのか? 逃げ出した記憶も、誰かに助けられた記憶もない。意識が途切れて、次にまばたきをしたらここにいた、という感覚だ。
「……まさか、取られた?」
瞬間、脳裏に最悪の想像がよぎる。慌てて制服の胸元に手を突っ込むと、心配していたそれはあっさりと指先に触れた。
私の安寧な日常をぶち壊した元凶。母親から『肌身離さず持っているように』と言われた、あのアンティーク調のペンダント。
プラチナの装飾も、中央の石も、無傷のままでそこにあった。
「……じゃあ、どうして?」
腑に落ちない疑問を抱えながら、私は首を傾げて自宅の庭に続く門を開ける。
「ただいまー……」
帰宅を告げるその言葉は、私の心境を映すようにどんよりと曇っていた。
黒崎家は、東京都心の閑静な住宅街にある庭付き一戸建てだ。
私と両親、三人暮らしにはちょっと広すぎる4LDK。高給取りでもないサラリーマンの父と、専業主婦の母。どう考えてもこんな都内の一等地に立派な家を持てるような家族構成ではないのだが、聞くところによると、母・夢花の実家が用立ててくれたらしい。驚きの家賃ゼロ円生活である。
そんな余裕たっぷりの生活を送っているものだから、帰宅した私の様子が浮かないことを、リビングにいた母・夢花はすぐに察した。
「おかえり、美遊。どうしたの、難しい顔して。ひょっとして、美遊があまりに可愛いから学校の男の子たちに群がられて、身動き取れなくて困ってるとか?」
心配してくれるのはありがたいのだが、相変わらず発想の斜め上を行く母親である。
母自身、経産婦でありながら街を歩けば周囲の視線を釘付けにしてやまないほどの美貌の持ち主だ。そんな彼女が『可愛い』と称するだけあって、私も自分の容姿にはそれなりの自負がある。だが、いくらなんでもその想像はラブコメ漫画の読みすぎだ。
まあ、先程まで『黒スーツの男たち』に群がられていたという意味では、あながち間違いでもないのだが。ジャンルがラブコメではなくサスペンスホラーだっただけで。
「ただいま。私も美人だっていう自覚はあるけど、流石にその想像は無茶苦茶じゃない?」
「あら、根拠がないわけじゃないのよ。美遊から、たくさんの男の人の匂いがするもの」
母の指摘に、思わずギクッとして自分の制服の袖の匂いを嗅ぐ。
……大丈夫、たくさん走ったから汗はかいたけど、加齢臭やポマードの匂いは染み付いていない、はず。
「ひょっとして汗臭い?」
「そういう匂いじゃなくて。なんていうか、血の匂いというか、闘争の匂いというか……あ、でもやっぱり『オス』の匂いが混ざってるわね。美遊のことだから心配はしてないけど、そういうのはまだ早いとお母さんは思うな」
堪えきれずに吹き出した。
母親は完全に何かを誤解している。年頃の高校生だし、そういうことに興味がないとは言わない。けれど、さすがに学校の帰り道で、しかも数十人の男たち相手にそんなデカダンな真似をするほど私はふしだらではない。
「……違うから! まだ未開通だから!」
「大丈夫よ、お父さんには内緒にしておくから。でも、念のためおばあちゃんには相談しておきましょ。避妊の魔法とか、色々と教えてくれるはずだし」
必死になって否定するのが逆効果になっているらしい。母はどんどんと明後日の方向に話を進め、すでに孫の顔を見るシミュレーションまで始めていそうな勢いだ。
その、分かっているようで一切分かっていない態度に、私はつい語気が強くなってしまう。
「だから違うって言ってるでしょ! 私は純潔です!」
「……本当に違うの? 若いんだし、お腹空いて我慢できずに食べちゃった、とかでも大丈夫よ。お母さんは美遊のすべてを受け入れる準備ができてるわ」
ああ、本当にこの母親は。
母は、自分の娘が自分よりも『色濃く』その血を継いでいることを、彼女なりに心配しているのだ。私の変化を恐れず、どうにかして飲み込もうと努力してくれている。
その気持ちは痛いほど分かる。けれど、善意だからといって見当外れのアドバイスをされても困るのだ。
「それ以上言うと、さすがに怒るよ?」
百聞は一見に如かず。分かってもらえないならば、見せるしかない。
私は小さく息を吐き、普段は魔法で隠している自分の『本来の姿』を露わにした。
頭の側頭部から伸びる、滑らかなカーブを描く二本の羊角。
背中の肩甲骨の下あたりから生える、小ぶりなコウモリの翼。
そして、制服のスカートの隙間から伸びる、先端がスペードの形をした細い尻尾。
人間と夢魔のクォーターである私の証。
「うーん、立派な角ね。最近お肉食べてないのに、ツヤツヤしてる」
母は特に驚く様子もなく、私の角をやさしく撫でた。
これらが生えてきたのは中学生の頃だ。朝起きたら突然、自分の容姿がファンタジーRPGのモンスターのようになっていて、私は文字通り絶望した。
だが、私以上に驚いたのは母だった。『あらあら、私よりおばあちゃんに似ちゃったのね』と、平然と受け入れてしまったのだ。
聞いたところによると、母の母——つまり私の祖母にあたる人物は、サーシャ・クローディアという純血のサキュバスらしい。ハーフである母の夢花には角も翼も生えなかったが、クォーターである私に隔世遺伝的にその特徴が強く発現してしまったのだという。
さすがに当時は『こんな姿で外には出られない』と学校を登校拒否になりかけた。その様子を心配した母が祖母に連絡を取り、ビデオ通話越しに角や翼の隠し方(認識阻害の魔法)を教えてくれたのだ。
ああ、素晴らしきかな文明社会。インターネットは種族の壁すら越える。
ただ、画面越しに現れた祖母・サーシャが、三十代半ばの母と大して変わらない——どころか、下手すれば母より若く見えるほどの絶世の美女だったことには、正直少しだけ引いた。サキュバスのアンチエイジング力、恐るべしである。
『もしこちらで生活するのが難しければ、私の家——クローディア家で面倒を見てもいいのよ』
魔法を教わった後、祖母は優しくそう言ってくれた。
あの時は『まだよく分からないから』と回答を保留にした。人間の社会で生きていく未練があったからだ。
だが、黒スーツの集団に命を狙われ、記憶を飛ばし、見知らぬ力が働いて生還した今の状況を考えると——ひょっとすると、大人しく祖母の家に身を寄せた方が安全だったのかもしれない。
「……で、本当に何も食べてないのね?」
母が念を押すように聞いてきた。
「食べてないってば。今日は疲れたから、先にお風呂入るね」
私はため息をつきながら、角と翼を再び魔法で隠し、洗面所へと向かった。
とりあえず、今日の不可解な出来事は寝て忘れるに限る。
そう思っていた私は、まだ事態の深刻さを——私を無事に家まで送り届けた『謎の力』の正体を、まったく理解していなかったのだ。




